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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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Try,try,try again.(2)

 小野口課長に連れて行かれたのは、よくあるタイプのイタリアン居酒屋だった。

 居酒屋と言ってもドリンクメニューにひけを取らずフードメニューが充実している類の店で、ことデザートのラインナップは大したものだ。そのせいか客層は女性がかなり多めで、三十、四十過ぎの男が二人連れで入るにはいささか抵抗があった。


 もっとも抵抗を感じているのは俺だけで、小野口課長は何ら気にするそぶりもない。

「こういう店、妻が好きでねえ。よく来るんだよ」

 上機嫌でメニューを開き、ピッツァマルゲリータとシャンディガフを頼んだ。

 どういう店へ来ても真っ先に豆腐メニューを探す俺は、ここにも豆腐サラダがあることに胸を撫で下ろす。ビールと一緒に注文すると、小野口課長が目を丸くした。

「あれ、安井くん健康志向? もう気にする歳だったっけ?」

 小野口課長は社内でこそ俺を『安井課長』と呼ぶが、一度会社を離れると『安井くん』と呼んでくる。この人は俺が人事に来た当時からずっと広報課長を務めているので、俺としても敬語を使われるよりよほど気が楽だった。この辺りの印象は人によってまちまちだろうが、俺は社外でまで会社の中の人間関係を引きずりたくはない方だ。だからこそ石田や霧島みたいなのと一緒にいるのが心地いい。

 社内恋愛も同じように上手くやれればよかったのだが。

「豆腐が好きなんです。もう飲む時には必ず注文するくらい」

 俺はそう答えたが、好きなのが豆腐だけでないことは言うまでもない。


 注文した飲み物がまず届いたところで、小野口課長が切り出した。

「安井くんは、園田さんとは同期だったっけ」

 いきなり告げられた名前に、俺は危うくビールでむせるところだった。

「あれ、違ったかな。ええと、君は確か……何年入社だっけ?」

「いえ、合ってます。園田とは同期ですよ」

 気を落ち着けながら肯定する。

 何だって急に園田の話を、と思いたくもなったが、この人は現在彼女の上司でもある。俺と彼女が同期だとわかれば掴みの話題として彼女の名前を挙げるのも当然かもしれない。

 こちらとしては心臓に悪い。改めてビールを飲み直すと、小野口課長は穏やかに笑んで続けた。

「やっぱりそうだったか。じゃあ石田くんとも一緒だね?」

「ええ。早々と三十の俺達とは違って、園田はまだ二十代ですけどね」

 俺は自虐を込めて応じたが、四十代の小野口課長はあっさり一笑に付した。

「何言ってるの。三十なんてまだまだ若いよ」

 それはある意味事実だ。仕事の上では俺も石田も未だ若造に過ぎない。それでいて世間的には三十過ぎれば立派なおっさんの扱いなのだから、何となく理不尽だと思う。

「でも園田さんも若いよねえ。まだフレッシュな感じさえするしね」

 小野口課長がまた園田に話を戻す。

 彼女のことを話したがっているそぶりにも見え、まさか『元カノの話はしづらいです』とも言えず、俺は戸惑いつつも話に乗った。

「そうですね。彼女は入社当時からあまり変わってないと言うか、ずっとあのままですから」

「ああ、やっぱりそうか。昔からあんなふうに可愛かったの?」

 次の質問には浮かべた作り笑いが消えかけた。

 小野口課長は俺の反応に気づかない。ようやく運ばれてきたピッツァマルゲリータを、付属のピザカッターでうきうきと切り分けている。

「あの子はいいよね、園田さん。笑顔がチャーミングだ」

「……そうですね」

「ああいう子が一人いると課内が明るくなっていいよ。引き抜いてきてよかった」

「はあ……それで広報に園田を呼んだんですか?」

 俺は慎重に聞き返す。

 社内でもきっての愛妻家と評判の小野口課長だが、今の誉め方は正直引っかかるものを感じた。

 嫁のいる人間がそんなふうによその女の子を誉めていいのか。事と次第によっては奥さんにチクってやろうか。やっかみ半分で思う。

「もちろん、貴重な資格持ちだったっていうのもあるさ」

 小野口課長はピザを一切れ取り上げて、ふうふう言いながら食べ始める。

「でも最後の決め手はやっぱり笑顔かな。園田さんのあの笑い方見たら何かこう、元気出るよね」

 彼女の笑顔を、俺以外にそう評価する人間がいるとは思わなかった。

 いや、よく考えればいない方がおかしいのだろう。彼女だって一人きりで働いているわけではないのだし、彼女に関わる人達が同じように感じても何らおかしいことがない。俺がこれまでそういう話を、俺の周囲の人間とはしてこなかったというだけだ。

 だが何となく、少しだけ悔しい。

「ああいう子に広報にも新風を吹き込んでもらいたい。うちの課には明るい笑顔で乗り切れる若手が必要だって、彼女を見て思ったんだ」

 小野口課長はそういうふうに園田のことを語ってみせた。

「大絶賛ですね」

 言葉に棘を潜めたつもりはなかったが、俺が笑うと小野口課長はきょとんとした。

「そうかな。まあ、僕にもあんな娘がいたらいいなと思うからかもしれないね」

 社内結婚がそれなりに多い我が社において、小野口課長もまた社内結婚をした一人だそうだ。結婚当時は美男美女カップルとして社内の話題を大いに攫ったそうだし、仲睦まじいまま既に結婚十五年目を過ぎたとのことだが、お二人の間にはまだお子さんがいなかった。

「妻も同じように言うんじゃないかな、園田さんに会わせたら」

 そう続けられた言葉に、俺は相槌を打つべきか迷った。

 何となく触れがたい話題だったお蔭で、募った嫉妬心もあっさりと打ち消されてしまった。


 仕切り直すつもりでビールをもう一口飲むと、やっと豆腐サラダが運ばれてくる。

 俺が早速それに手をつけ始めたタイミングで、小野口課長が微笑んだ。

「で、安井くんは最近どう?」

「仕事なら、ぼちぼちですかね」

「いや仕事もそうだけど。ほら、最近も我が社で結婚式があっただろう?」

「ええ、出席しました。営業課時代の後輩でしたから。幸せそうでしたよ」

 園田の話ばかりすると思ったら、今度はその話か。

 ようやく本題に入ったというところだろうが、彼女のことを話した後では空しくてならない。

「ああそうか、霧島くんは君の後輩だったね」

 小野口課長は探るような目を向けてくる。

「で、君は後輩の後に続く予定はないのかな。彼のように、それは美しい奥さんを貰う予定は?」

 ここからの受け答えは慎重にしなくてはならない。

 俺は一呼吸置いてから、まずは控えめに答える。

「いえ、ないですね。仕事が忙しいせいか、あいにくご縁もないですし」

 すると小野口課長の目が輝いた。

「そうか! じゃあどうかな、お見合いでもしてみる気はないかな!?」

 ものすごい直球で食いつかれて、俺は苦笑するより他ない。

「お見合いですか……。いや、俺はそういうのは」

「興味ない? お薦めのいい話があるのに」

「今のところは……。やっぱり仕事、忙しいですからね」

「そういうのに理解持ってくれるのは、やっぱり同じ社内の子だと思うけどね」

 やはり社内から誰かを見繕って俺に紹介する気らしい。

 これは断固として遠慮しなければ、ややこしいことになる。

「まあ、小野口課長のところはそれで上手くいっていらっしゃるんでしょうけど」

 話を逸らすつもりで持ち上げると、小野口課長は目論見通りまんまと照れ笑いを浮かべた。

「ははは……いや、だからというわけじゃないけどね。君もそろそろ周りに急かされる頃だろう?」


 そろそろどころか、大分前からそうだ。

 身を固めていないと出世に響くという噂もなくはない我が社において、独身の三十代はそれだけで肩身の狭い存在である。何かあるごとに彼女の有無を遠慮会釈もなしに尋ねられるし、いないと答えれば次の問いは『誰かいい人いないの?』である。掛け値なしに余計なお世話でしかない話なのだが、それを苦笑いでかわすスキルもぼちぼち身につけつつあった。

 だが自分でも考えなくはないのだ。このまま独り身で生涯を過ごすのは確かに寂しいことだろう。霧島が結婚し、石田もそう遠くないうちに結婚すると言い出しそうな今、取り残されるのは嫌だった。まして今、明らかに気になる相手がいるとなっては――なるべくなら彼女といる未来を想像したいところだが、楽観視できる状況ではないのも痛感していた。

 一つだけはっきりと言えるのは、俺は彼女以外の相手との未来を想像したくなかった。

 できないのではなく、したくない。


「心配はされてますけどね、さすがに皆さんの手は煩わせたくないです」

 俺は笑みを作って答えた。

「そのうち自力で捕まえますよ、可愛い奥さんを」

 もう見つけてはいるから、探す必要はない。

 捕まえられるかはまた別の話だが――いや、必ず捕まえてみせる。

「確かに君なら引く手数多だろうし、難なく捕まえられそうだけどね」

 小野口課長は残念そうに眉尻を下げた。

「でもそういう君だからこそ是非、紹介したい子がいたんだけどなあ……」

「随分と推すんですね、その縁談。何なら誰か、独身の後輩でも見繕いましょうか」

 誰かに押しつけてやろうかと切り出せば、小野口課長は困ったようにかぶりを振る。

「君がいいんだよ」

「そうでしたか。いいお返事ができず、すみません」

「いや残念だなあ……」

 ぼやいた後、それでも諦められない様子の小野口課長はシャンディガフをぐいっと呷る。

 それからグラスを置いて息をつき、

「安井くんは、園田さんとはいくらか親しいのかな?」

 再び園田の話を始めた。

 なぜ彼女についてこうも繰り返すのか。まさか俺達の関係について何か知っているわけではないだろうが、ここで過剰反応してもいいことはない。適当に答えておくべきだろう。

「同期ですからね。昔は皆でよく飲みに行ったりしましたよ」

「おお、そうか。なら今でも結構話したりするのかな」

「そうですね、社内で立ち話くらいは。ちょうど園田もそちらに異動したばかりですし」

 俺は至って無難に答えたつもりだった。

 が、そこで小野口課長は嬉しそうに顔をほころばせた。

「じゃあ下地はあるわけか……。どうかな、君。園田さんのことは」

「……え?」

 豆腐サラダを食べようとしていた俺の口から、すっぽ抜けたような声が出た。

 どう、と言われても。彼女は元カノだ。あの笑顔は俺も気に入っているし、好きだと思っている。正直に言えば目下唯一の気になる異性であり、俺が見合いの話を蹴りたい唯一無二の理由でもある。

「一席設けるから、彼女とお見合いをしてみる気はないかな」

 小野口課長は穏やかなトーンを崩さずに言った。

 その穏やかさとは裏腹に、言葉自体にはTNT並みの爆発力があった。


 豆腐サラダに添えられていた小洒落た木のスプーンを、俺は口に入れずに器の上に置いた。

 スプーンに掬われた豆腐が滑り落ちるように器へと帰っていったが、それをどうにかする余裕はなかった。

 むしろ好物の豆腐さえ一気に関心の外へとすっ飛んでいってしまった。そのくらい、今の言葉は衝撃的だった。なぜそんなことを小野口課長が言い出したのかわからなかったし、園田にお見合いが必要な理由もわからなかった。何よりその話が俺に来たという経緯すら上手く考えられないほど、先の言葉は俺の思考力をめちゃくちゃに焼きつくしてしまっていた。

 と言うか、お見合いって何だ。

 どうして園田が見合いなんかするんだ。


「え……ええと、何ですか、それ」

 俺は顔が引きつるのを自覚しながら問い返した。

 対照的に、小野口課長はにこにこしている。

「だって園田さんと安井くんは同期だし、話が合うかと思ってね」

「そ、それはまあ、そうですけど」

「それに紹介するとなったら、やっぱりちゃんとした相手を紹介してやりたいからね」

 小野口課長はそう言って、俺を指し示すように手のひらをこちらへ向けてきた。

「その点、安井くんなら真面目だし、美男子だし、出世頭だし、言うことなしだよ。きっと園田さんも喜んでくれるんじゃないかな、君とお見合いができるって言ったら」

 喜んでくれるだろうか。園田が。

 どう考えても困惑される顔しか思い浮かばないのだが。

 いや、問題はそこではない。俺達が見合いをすることの是非はこの際脇に置いておくべきだ。

 そもそもなぜ小野口課長が、園田に縁談を用意しようとしているのか――重要なのはそこだろう。

 俺は咳払いをして、

「園田が見合いをしたいって言ってるんですか? 意外ですね」

 と矛先を変えると、小野口課長は途端に怪訝そうになる。

「意外? そう言うけど彼女だってもう二十七……いや八だったかな」

「二十八ですね」

「あ、そうそう、そうだった。結婚を意識する適齢期だと思うよ」

「いや年齢的にはそうでしょうけど、園田が見合いをしたいって言いますかね」

 彼女が自分の口から見合いがしたいなどと言い出すとは、とてもじゃないが思えない。いかに上司の勧めと言えど、彼女らしくはにかみながら謹んで辞退するのが関の山ではないか。

 だがそこで、

「それがね、結婚したいって言ってるんだよ、彼女」

 小野口課長は笑みを取り戻して言い添えた。

「だから僕がご縁を取り持ってあげようかと思っててね。せっかくだし、幸せになって欲しいじゃない」


 園田が、結婚したいって――俺は愕然としたが、すぐに思い直した。

 なぜなら俺にも心当たりがあったからだ。

 先々月、霧島の結婚式の後に二人で飲んだ時、園田は確かに言っていた。

『……私も、結婚しようかな』

 ただの思いつきみたいに、あっさりと。


「それで、園田に見合いを? 俺が相手でいいって、本人が言ってたんですか?」

 俺の問いに、小野口課長は首を振る。

「いや、変に期待持たせちゃ悪いからね。まだ君の名前すら出してないよ」

 それからすいっと視線を動かし、何かを見定めるような目で俺を見る。

「君がどう答えるかもわからなかったし……やっぱりお見合い、気乗りしないかい?」

 俺は答えに窮した。

 もちろん見合いなんて面倒くさい。普通なら検討すらしたくない。

 だが相手が園田となれば、これはある種逆転のチャンスではないかとさえ思える。よりを戻したいと密かに思う俺に、彼女とのやり直しを期待させてくれる千載一遇のチャンスだ。園田は見合いの相手が俺だと知れば当然困惑するだろうし、喜んで出たがるとも思えないが、そこを説き伏せて見合いの席に着かせることができれば風向きが変わるのは間違いない。


 ただ、問題もある。

 見合いとなれば仲人、立会人を置くのは確実で、この場合それは小野口課長ということになるだろう。照れ屋の園田が直属の上司の前で見合いをしたがるとは思えないし、まして元カレに復縁を迫られていい返事をする可能性は極めて低いだろう。

 何より俺自身、園田のことは慎重にやりたいという思いがあった。たとえ悪意からではなくても誰かに踏み込まれて荒らされたくない。ただでさえデリケートで慎重にならざるを得ない案件だ、自分のペースで事を運びたかった。


「気が乗らないというわけではないんですが……」

 結論が出ないまま口を開くと、小野口課長は目を瞠った。

「初めてじゃないかな、君が即答しないで迷うなんて。やっぱり園田さんが相手だから?」

「いえ別に、園田だからというわけでもないんですが!」

 言い当てられてとっさに否定すれば、今度はいたく残念そうにされた。

「そうか……まあ無理強いはしないよ。君なら園田さんも喜ぶだろうと思ったんだけどね」

 そうだ。肝心なのはそこだ。

 彼女がこの件をどう思っているのか、先に聞き出しておいた方がいい。

 見合いをする気でいるのか、結婚したいという気持ちはどこまで本気なのか、もし本気のつもりでいるなら、見合いの相手が俺でも構わないと思ってくれるか――事前確認が必要だ。

 となるとこの場で断るわけにもいかず、俺は苦し紛れにこう言った。

「スケジュールの見通しを立ててからお返事しても構いませんか」

 俺の手のひら返しっぷりは全く隠せていなかったはずだ。

 それでも小野口課長はにこにこと、愛想よく応じてくれた。

「無論、構わないよ。安井くんも何かと忙しいだろうしね」

「ありがとうございます。後日改めて連絡いたしますので」

「待ってるよ。君が乗り気になってくれる機会はもうないかもしれないしね」

 小野口課長は、いやに嬉しそうに俺を見ている。

 その視線に押し切られ、俺は今更ながら白状した。

「……確かに、園田の笑顔はいいですよね」

「だよねえ。奥さんにしたらきっと、毎日明るくなると思うよ」

 気づいているのかいないのか、そんなふうに言われてしまった。

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