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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
79/205

春は等しく訪れる(5)

 その日は午後九時近くまで残業した。

 さすがに休み明け直後のこの時期、こんなに遅くまで残りたがる奴は少ない。人事課は人事考課や採用に携わるからこの時期も忙しいが、他に居残っているのはよほど仕事を溜め込んでいる奴か、そうでなければ内示を申し渡されて引き継ぎの準備を始める者くらいだろう。


 一月十日も残り三時間か。

 結局、今日はずっと人事課に詰めっ放しで、あれから園田の姿を見かけることはなかった。五分でも話せたらおめでとうが言えるのに、それすら叶わないまま今日が終わろうとしている。今日は彼女の誕生日、まさか園田も自分の誕生日まで残業はしないだろう。

 そういえば園田、普段とは違う格好をしてたな。あれもよく似合っていたが、めかし込んで見えたのは気のせいか。まさか仕事の後、誰かと約束しているなんてことは――まさかな。あれはどう見てもデート向けの服装ではないし、違うだろう。違うと思っておく方が精神衛生上いい。


 ロッカールームでコートを羽織り、エレベーターホールまで歩く。

 エレベーターが上がってくるのを待っていると、かつかつと高い足音が聞こえてきた。

 俺の他にも居残っていた奴がまだいたらしい。うちの課は全員帰っているからよその課の人間だろう。休み明け早々ご愁傷様だ。次第に近づいてくる足音に、俺は振り向いて挨拶をする用意ができていた。

「安井さん、お疲れ様です」

 だが俺が振り向くよりも、先方が声をかけてくるのが早かった。

 耳に馴染んだその声の主を疲れた頭で検索しつつ、

「ああ、お疲れ様――」

 振り向いた瞬間、園田の顔が目に飛び込んで驚いた。

 彼女は朝会った時と全く同じ、モッズコートに細身のパンツに膝下丈のブーツという格好で俺の後ろに立っていた。疲れているのか、浮かべた笑みは弱々しかった。

 でも、会いたい顔だった。

「園田? まだ帰ってなかったのか?」

 俺はとっさに尋ねた。

 あまりにも唐突に彼女が現れたから、会えて嬉しいという気持ちとは別に、顔を合わせる心の準備ができていなかった。

 何だってこんな日に残業なんかしたのだろう。たとえ仕事が忙しくったって、今日くらいは早く帰るだろうと思っていた。まさか、今日のうちにまた会えるなんて。

「何で? 私が残業してちゃおかしい?」

 園田は訝しそうに聞き返してくる。俺の疑問がかえって不審だと言いたげだった。

「おかしくはない、随分遅いなと思っただけだよ」

 動揺を悟られないよう答えれば、彼女は肩を竦めてみせる。

「知ってると思うけど、私、春から異動だから。引き継ぎの資料作ってたんだ」

「ああ、知ってる」

 園田に人事異動の内示があったことは知っていた。人手の足りない広報課が即戦力になる社員を欲していて、抜擢されたのが事務処理能力に長け、DTPの資格を取得している園田だった。広報の小野口課長は園田の能力を高く買っていて、今回の異動も課長が是非にと推し進めて実現したものだった。

 園田はくたびれた顔つきで続ける。

「だから遅くなるのも仕方ないの。別に残業大好き! 残業したくてしょうがない! って気持ちでしてるわけじゃないんだよ」


 それはわかっている。俺だって三年前に内示を受けた直後はうんざりするほど忙しくて、遅くまで残業するのが当たり前だった。

 だが今日は一月十日だ。

 誕生日なのにこんな時間まで残業して、疲れた顔で帰ろうとしているなんて――俺も今の彼女みたいな顔をしていたのだろうか。ふと、そんなことを思った。


 そのタイミングでエレベーターが到着したので、俺達は揃って乗り込んだ。

 俺はパネルの前に立ち、園田は距離を保つようにエレベーターの奥に、壁を背にして立っている。

 ドアが閉まり、エレベーターが下降し始めたところで、今しかないとばかりに切り出した。

「今日、誕生日だろ」

 せっかく二人きりだ。今言わずしていつ言うのか。

「なのにこんな遅くまで残ってて、いいのかと思ったんだよ」

 そう告げながら振り返ると、園田は目をまんまるくしてこっちを見ていた。

 心底驚いたことを『魂消た』なんて言うものだが、今の園田はまさにぽっかり開いた口から魂が抜け出していってしまったような、虚を突かれたあまり瞬きすらできないという顔をしていた。

 久々に見た、彼女の素の表情だ。

 懐かしさよりもおかしさが込み上げてきて、俺はつい吹き出してしまった。

「園田、何その顔! 魂抜けたような顔してる」

「だって、覚えてると思ってなかったから」

 彼女は慌てて取り繕うように笑う。

「忘れようにも忘れられないよ。名前で全力アピールしてるんだから」

 一月十日生まれだから、園田伊都。ちなみにお姉さんは三月二十三日生まれで、実摘さんというそうだ。園田のご両親は同じテーマで姉妹の名づけをしたのだという。

 彼女はこの自己紹介を飲み会などの持ちネタにしていて、お蔭で俺は彼女を好きになるよりも随分前から彼女の誕生日を知っていた。まともに祝えたことは、一度としてなかった。

 今日はどうだろう。三年前はまともに告げられなかった祝福の言葉を、今年こそ言えるだろうか。

「誕生日に残業なんてするなよ。かわいそうに」

 エレベーターが一階に着きそうだったので、俺はそんな言葉で間を繋いだ。

 やがて箱が停まり、再び扉が開く。園田を先に降ろすと、彼女は俺が後から降りるのを待っていてくれて、それから答えた。

「誕生日だからって仕事が減るわけじゃないからね。仕方ないよ」

「どこか出かける用事とかなかったのか?」

「ないよ。帰ってお風呂入って寝るだけだよ。明日も早いしね」

 園田はあっさり答えると、一足先に通用口から外へ出る。

 予定なしか。俺は胸を撫で下ろし、彼女の後を追った。


 通用口をくぐった途端、冷え込んだ夜の風が剥き出しの耳や頬を容赦なくなぶった。

 寒さのあまり俺は呻く。

「寒っ。これは堪えるな」

「本当だね。カイロでも買っておくんだった」

 園田は相槌の後、周囲を気にするように早口になって、言った。

「じゃあ私、今日は電車で帰るから、ここで――」

 その別れの言葉を、俺は大急ぎで遮る。

「俺も今日は電車だよ。駅まで一緒に行こう」

「え、安井さんと?」

 彼女は戸惑ったようだ。ストレートに聞き返されて、当然のこととは言え多少へこんだ。

「駄目? 都合が悪いならまたにするけど」

「都合は悪くないけどさ……。人に見られたらあらぬ噂を立てられそうじゃない?」

 園田は声を潜める。

 付き合っていた頃ならともかく、今の俺達に立つ噂なんてどうせ事実にはなり得ない。これから事実にする気がないと言えば嘘になるが、そんなものを今から案じたって仕方のないことだ。俺にとっては不確かな噂よりも確かな事実だけが重要だった。

「ないよ。中高生じゃあるまいし、同期の奴と一緒に帰ってたくらいでうるさく言われないだろ」

 俺は眉を顰めて彼女の懸念を一蹴した。

「大体、何だよあらぬ噂って」

 返す刀で問い返せば、園田は急に口が重くなったように黙り込んだ。

 その後しばらく思案に暮れていたが、俺がじっと見つめていればやがて吹っ切れたのか、視線を上げて笑ってみせた。

「安井さんが気にしないって言うなら、いいよ。駅まで一緒でも」

「気にしないよ」

 俺が気にするはずもない。答えてすぐ、俺は彼女を促した。

「とりあえず、行こう。ここに突っ立ってると喋れなくなりそうだ」

 寒さのせいにしたが、本心はもっと別のところにあった。

 彼女の気が変わる前にと思っていたのだ。


「話したいことがあったんだよ。結婚式のことで」

 冬の夜道を歩き出しながら、俺はまず切り出した。

 話したいことは山ほどあった。何から話していいのかわからないくらいだった。

 だが朝の二の轍は踏まない。偶然が背を押してくれるのもこれが最後かもしれない。今日言うべきことは全て言おうと決めていた。

「あ、そうだったんだ。最初からそう言ってくれればよかったのに」

 園田はそこで笑った。

 昔から変わらない、あっけらかんとした明るい笑顔だった。俺が相談を持ちかけるといつもこうやって笑ってくれた。

 俺は過去にどれほど、その笑顔を踏みにじってきたのだろう。

「用件の方を先に言ったら、ダシにしてるみたいだろ」

「そう? 私はそうは思わないけど」

 朝と同じように、横に並んで二人で歩く。

 園田は歩調を合わせてくれていたが、俺からは距離を取っていた。軽く手を伸ばしても届かないくらいの隙間が俺達の間にはあった。そこに夜風が吹き抜けていくと酷く寒かった。

「今年は特に、寒さが身に堪えるな」

 彼女から目を逸らし、空を見上げながら呟いた。夜空には小さな星が浮かんでいて、冬らしい冷たい光を放っていた。


 以前もこんなふうに、夜空の下を二人で歩いた。

 夜も更けたオフィス街には人通りなんてほとんどなかったのに、園田は一度として手を繋がせてはくれなかった。俺はそれを寂しく思いつつも彼女の望むようにさせてやっていたが、あの頃、無理やり手を繋ぎ続けていたらどうなっただろうと思う。

 俺がかつて離した彼女の手が、今は俺の手の数十センチ先で揺れていた。

 秋のうちでさえ氷のように冷たかったその手は、今もまだ冷たいままだろうか。確かめてみたかったが、触れられる距離ではなかった。


 空を見ながら黙っていると、園田がこちらを向いたのが視界の隅の動きでわかった。

 彼女は気遣わしげに、歩きながら尋ねてきた。

「話って何? 相談事?」

 俺はあえて彼女を見ずに答える。 

「そんなとこ。――園田」

「何?」

「霧島達の結婚式の後、何か予定あるのか?」

「二次会やろうかって、課の皆で話してはいたんだけどね」

 そこで園田はくすくす笑った。

「でも主役不在で集まってもどうかって話になって、今のところ白紙。披露宴の後だと遅くなるし、もしかしたら何にもしないかも」

 どうやら彼女の予定は何もないらしい。ありがたいくらいに好都合だ。

「安井さんはどうするの? 営業課の皆さんと二次会やったりする?」

 おまけに彼女の方から聞き返してくれたので、俺は内心嬉々としてそれに乗っかった。

「こっちもそういう話にはなってない」

 それからわざと顔を顰め、いかにも悲嘆に暮れたように切り出した。

「それより石田だよ。あいつが俺を裏切りやがった」

「石田さんが? どういうこと?」

「石田に彼女ができたって話、聞いてるだろ?」

 小坂さんに対する石田の入れ込みよう惚れ込みようは社内で噂になっていた。本人は『俺が小坂を骨抜きにしてるんだ』などとのたまっていたが、俺含む社内の認識は正反対のところにあった。

 そして、園田もやはり同じ認識のようだ。

「彼女ができたとは聞いてないけど、何か、新人さんにぞっこんだって噂にはなってたね」

「そう。それだよ」

 俺は頷き、日頃の鬱憤を晴らすつもりで続けた。

「あいつ、自分で仕事教えたルーキーに手を出したんだ。社会人としてあるまじき行為だ」

「じゃあ噂通り、付き合うことになったんだ?」

「ああ。もう石田の浮かれっぷりと言ったら酷すぎだ。事あるごとに惚気るし、あの子にすっかり骨抜きにされてるし」


 奴の惚気を一身に浴びる俺にとって、石田の幸せぶりは羨ましくもあるし、面白くもあるし、寂しくもある。未だ独り身の心にぐさぐさ突き刺さってくることもある。だが石田が振られて落ち込む顔を見るよりはという思いもあって、結局好きなように惚気させていた。

 これで俺に彼女がいたら、もっと違う心境でいられたのかもしれない。


「へえ、何か微笑ましくていいね」

 園田は妙に好意的な感想を漏らした。

 彼女にとっても石田は同期だし、三年前の奴の失恋も知るところではある。だが園田が石田の幸せを喜んでいるのは少しばかり複雑だった。あいつに肩入れしているように聞こえたからだろうか。

「微笑ましいもんか。あいつに惚気られて見せつけられてあてられる俺の身にもなってくれ」

 俺が抗議すると、園田はそれがおかしいというように目を見開く。

「友達の幸せでしょ? 素直に喜んであげればいいのに」

「嫌だ。そりゃ俺だって破局を望んでいたわけではないよ。けどな」

 一呼吸置いて、俺は更に語気を強める。

「あいつ、霧島の結婚式に出た後は彼女と二人で飲みに行くって言うんだよ」

「駄目なの?」

「むかつくだろ! 後輩に先を越されて、同期の奴も彼女と一緒で、俺だけが寂しい独り身だ。華やかな披露宴の後、寒空の下を背中を丸めてとぼとぼ歩く自分の姿が思い浮かぶようだ!」

 誇張でも何でもなく、このままでは現実になりそうな状況を訴えると、園田は笑いを堪えるみたいに口元を手のひらで押さえた。数秒間肩を震わせた後、ちらりと俺を見てから手を外し、ようやく言った。

「そっか。石田さんに振られちゃったんだね」

 彼女の目は完全に笑っていて、後の言葉は慰めみたいに続いた。

「じゃあ安井さんも、誰か可愛い女の子を誘って飲みに行けばいいじゃない」

 はっとさせられる発言だった。

 こちらの魂胆を見抜いたようでも、全くの他人事のようでもあった。自分はその『誰か可愛い女の子』に含まれていないと断じてもいるような――そんなはずはない。

 この会話の流れ、真っ先に式の後の予定を尋ねたあたりでわからないものかな。

 石田への妬みも怒りもすっかり鎮火して、俺は冷静な気分で言った。

「園田も結構残酷なこと言うよな」 

「残酷かな? それが一番手っ取り早い解決法だと思うんだけど」

 彼女は小首を傾げている。なぜそうしないのか不思議だと言いたげだった。

 なぜかなんて、俺にだってよくわからない。

 でも俺はどうしても、お前がよかった。

「と言うか、そんなこと言われたらこっちが切り出しにくくなるだろ」

 感傷を振り切り、俺は足を止める。


 道の先には闇に浮かんだ光る駅舎が見えていて、タイムリミットが迫っていた。

 ここで言おう。そう決意した。

 彼女は俺より二歩ほど先を行き、俺が立ち止まったのに気づいて振り返る。怪訝そうな顔は駅からの光を背負って青白く見えた。柔らかいことを知っている頬に、寒風に吹かれたさらさらの髪が張りついて、唇にもかかる。その顔がきれいだった。


 重なる偶然に背中を蹴飛ばされ、自分の感情にさえ振り回されてようやくここへ辿り着いた俺は、まるでつんのめるような勢いで口を開く。

「園田」

「何?」

「来月の結婚式の後、俺と一緒に、飲みに行ってくれないか?」

 三年間続けた足踏みから、ようやく踏み出した最初の一歩は、一体どこへ着地するだろう。

 園田はエレベーター内で誕生日に言及された時よりも驚いたようだった。目を瞠り、薄く唇を開き、その状態で何度か深呼吸を繰り返した。そしてじれったい思いで返事を待つ俺に、眉根を寄せてこう言った。

「何で私と?」

「……お前、その素っ気ない答え方はないだろ」

 即座に断られるよりはまし、という程度の返答だった。俺は落胆の息をつく。

「いや、だってどう考えてもそうじゃない。誘う相手を間違ってるよ」

「他に誘える相手もいないんだよ」

「いないって断言するのどうかと思うよ。安井さんなら頑張れば結果はついてくるって」

「そんなに俺と飲みに行くのが嫌か」

 やんわりと断ろうとする空気を感じ取り、俺は彼女を睨んだ。

 すると園田は困ったように、寒さのせいか唇を震わせながら言い返してきた。

「あのさ、嫌か嫌じゃないかって問題じゃなくて――」

「わかってるよ。どうかと思うって言いたいんだろ」

 三年間も距離を置いておいて、今更だと言われても仕方がない。


 俺はずっと園田に避けられ続けていて、それを自力で引っくり返すことができなかった。

 ようやくまともに話ができるようになった途端、こうして誘うのは現金だと自分でも思う。

 だが俺にとっては千載一遇のチャンスだ。こんな機会はこれを逃したらもう二度とない。鬱屈としたまま過ごした三年間に、たとえどういう形であっても答えを出さなくてはならない。

 その為に、俺には園田が必要だった。


「結婚式の後は感傷的な気分になる気がするんだ。きっと、思い出話をしたくなる」

 俺はつれない態度の彼女に打ち明けた。

「園田には思い出話に付き合って欲しい。そういう話ができる相手は、俺にはお前しかいないんだよ」

 彼女はそんな俺を真っ直ぐに見つめてきた。

 ためらっている理由はわからないが、彼女の方にも過ぎ去った三年間には思うところがあるのだろう。その思うところを俺は是非知りたい。

 やがて探るように尋ねてきた。

「同期のよしみで誘ってくれた、ってとこ?」

 どうも釘を刺されたような問いかけだ。

 まあ、今回はそれでもいいか。断られるよりはいいと、俺もいくらかの妥協を見せておく。

「もちろん。下心があって誘ってるわけじゃない」

 嘘ではない。今のところは。

 それで園田は意を決したように小さく頷き、言ってくれた。

「そういうことならいいよ、付き合う」

 了承を貰った瞬間、俺の身体から力が抜け、口元が自然と緩んだ。

「ありがとう、園田。正直言うと寂しくてたまらなかった」

 お礼を言うと、彼女はいつものように衒いなく笑んだ。

「ううん。こちらこそ、誘ってくれてありがとう」

 いい笑顔だった。

「迷惑だったんじゃないのか」

「迷惑じゃないよ。言ったけど、嫌かどうかが問題だったわけじゃないから」

「そうか。本当にありがとう」

 実際、ほっとしていた。


 結婚式の後に一人で帰らなくても済む――というのは建前で、俺は園田と話ができるのが何よりも嬉しかった。

 彼女が俺と二人で会うのを嫌がっていない事実も大きな収穫だった。全く現金なものだが、俺は一気に来月の結婚式が楽しみになってしまった。

 これで俺達は何か変わるだろうか。ぽっかり開いてしまった距離をどうにかすることができるだろうか。この三年間ずっと考え、引きずり続けてきたことに、何か答えが出せるだろうか。

 全ては当日の過ごし方次第だ。

 ともあれ少しは肩の荷が下りた。安堵するついでに俺は、もう一つ、どうしても言わなくてはならないことがあったのを思い出す。


 冷え込む中で立ち止まっていた俺達は、話が済むと大急ぎで駅舎へ飛び込んだ。

 二人で改札をくぐり、ホームへ出る階段の手前で園田がこちらを向く。

「じゃあまた会社で。ばいばい」

 彼女が可愛く手を振ってくれたので、俺も手を挙げてから告げた。

「園田。誕生日おめでとう」

 それを受けて一瞬、彼女が動揺するのが表情からわかった。言われるとは思ってもみなかったという顔だ。

 もっともすぐに微笑み、照れたような口調で言う。

「……あ、ありがとう。覚えててくれて」

「忘れないよ。名前を見ればわかるんだからな」

 園田伊都。

 彼女の名前を忘れない限り、忘れることはない。だが、おめでとうと伝えられたのは三年ぶりだった。彼女が驚くのも無理はない。

 三年前は泣かれてばかりだったことを思うと、笑ってもらえただけ、よかった。


 たった一人でホームへ上がると、反対側のホームにコートを羽織った園田が見えた。

 最後にもう一度振り向いてくれないかなと思っていたら、彼女は本当にこちらを向いた。俺が笑いかけたタイミングでこちらに電車が到着してしまって、彼女の反応は見られなかったが――振り向いてくれただけでも嬉しかった。ほんのり温かい気分になる。

 冬来たりなば春遠からじ、なんて言葉もあるが、俺にもいつかは春が来るだろうか。霧島のところにも石田のところにも既に春が訪れてしまったが、俺だけずっと冬のままなんてことはあるまい。


 まだ長い冬の中にいる俺は、電車に揺られながら彼女のことを考える。

 一ヶ月先でどんな話をしようか、今からじっくり考えている。

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