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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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春は等しく訪れる(4)

 その最初の一歩を踏み出すのに、迷わなかったわけではない。

 いくらかは考えた。三年間、ずっと考え続けてきたことを改めて考え直した。


 三年前の三月、俺達はお互いに好きだと言い合って、それでも別れた。

 流れてしまった年月とその過ごし方を振り返れば、当時の気持ちがそのまま残っているはずもない。

 園田は今、俺のことをどう思っているだろう。ただの元カレか、いい思い出くらいには捉えてくれているのか、あいつのせいで散々泣いて悩んで酷い目に遭ったと振り返られているか、それとも既に忘却の彼方か。今の、同僚らしくほんの少しの世間話に付き合ってくれる彼女からそういった深い胸中を読み取ることはできない。ただ、昔のようにではなくても話をしてくれることは確かだ。

 俺は今、彼女のことをどう思っているだろう。

 何年経っても記憶から、意識から出ていこうとしない理想の彼女。園田がいれば、いてくれたらいいのにと何度思ったかわからない。だが一方で、俺は恋愛における最も根本的な事実確認から目を逸らし続けてきた。

 俺はまだ、彼女のことが好きなのだろうか。

 三年経っても何も変わらない気持ちなんてあるはずがない。俺が園田にこだわり忘れられない理由が真っ当な恋愛感情か、人恋しさから甘くて優しい記憶に縋っているだけか、三年の間に執着心を拗らせすぎてどうにもならなくなっているだけか、自分でもわからなくなっていた。

 だが、これはもしかしたら最後かもしれないチャンスだ。

 どうしてかはわからない。でも俺は、園田と話がしたい。

 後輩の結婚式というめでたくも寂しいイベントの後で、二人で思い出を振り返ることができたら、今のこの鬱屈とした日々が、変われる気がする。


 最終的に背中を押してくれたのは、ただの偶然だった。

 運命だと言えたら格好いいのだろうが、多分、本当に偶然だ。

 その日は前の晩から降り続けていた雪が程よく積もり、朝から一面の銀世界だった。俺は天気予報をうっかり見逃し、普段通りに起床して支度をして部屋を出た。外へ出てから電車遅延の可能性に気づいて急いでももう遅く、せめて寒さに震えないようにしようと去年買ったばかりのチェスターコートを着て、マフラーもしっかり巻いて、観念した上で普段よりも遅めの電車に乗った。

 会社の最寄り駅で電車を降り、人波に押し流されるようにして駅を出た。いつもより遅くなったから少し急ぐ必要があった。まだ雪がちらつく中を早足になって歩き出すと、通い慣れたオフィス街の雪景色に同じくらい早足の後ろ姿が現れた。

 まるでいきなり出現したみたいに目に留まったその背中を、俺は二回、三回と瞬きをして確かめた。

 髪の短いその女性は、間違いなく彼女だった。

 見慣れない格好だった。ファー付きのモッズコートはカーキよりも深いグリーンで、白い細身のパンツをはいた脚は遠目に見ても実にきれいなラインをしていた。膝下丈のブーツをかつかつ言わせて歩いていたが、彼女がブーツを履いているところは初めて見た。普段ならスニーカーだからだ。きっと雪が積もって自転車に乗れなかったのだろう。それでも、普段と雰囲気の違う服装だったとしても、そのさらさらの髪と歩き方、きれいな脚だけでわかった。

 全ては偶然だった。その日、雪が降った。お蔭で俺が乗る電車は遅れ、彼女は自転車に乗らなかった。そして俺達の出勤時間が重なり、俺はこうして彼女を見つけた。社内ではないところで会えたというのも大きい。いつもとは違う話ができるかもしれない。

 それらの偶然の連なりを締めくくるように、この日は、一月十日だった。


 俺は追い着く前に声をかけようとした。

 だが足音で気づいたのか、先に園田が振り向いた。短い髪がふわっと広がり、怪訝そうな顔が俺を捉えて一瞬静止する。少し遅れて、奥二重の瞳が素早く瞬きをした。

「園田、おはよう」

 俺が声をかけると、丸顔の彼女は造作もなく軽く笑った。

「あ、安井さん! おはよう、偶然だね」

 作ったような笑みではなかったが、彼女らしい明るくて気取りのない笑い方だった。笑ってくれたことに安堵しつつ、かつてとは違う笑顔が向けられていることに少しだけ落胆する。かつては俺の前で、恥ずかしそうに、照れ笑いを浮かべてみせることもあったのに。

 でも、いい。こうして会えただけでいい。俺は彼女に駆け寄った。

「園田が自転車乗ってないのが珍しいんだよ。今日は電車?」

「うん。こんな天気じゃ危ないからね」

 彼女は素直に答える。

 案の定、園田は雪のせいで自転車に乗れなかったようだ。


 俺はいそいそと彼女の隣に並んだ。

 避けられるか、そこまでいかなくとも戸惑われるのではないかと思ったが、意外にも彼女は俺が並んで歩くことに抵抗を示さなかった。むしろ意識もしない様子で歩調を合わせてくれた。

 そして同じペースで歩きながら、園田が顔をくいっと上げて俺を見る。

 そうだ、こうやって見上げられるくらいの身長差があった。それはブーツのヒールの高さを加えても埋められるものではなく、こちらをじっと見上げる仕種の彼女に、たちまち懐かしさが去来した。


 打ち震える感情を抑え込みながら、俺は平静を装って天気の話を続ける。

「思ったより降ったからな。おまけに寒いし、出勤するのが億劫だよ」

「そうだね。自転車だったらあっという間だったのに」

 残念そうに語る園田は、相変わらず自転車がとても好きなようだった。会社の地下駐車場には園田のような自転車通勤の社員用に駐輪スペースが設けられており、そこに彼女の愛車が停まっているのをよく見かけていた。彼女は愛車のカラーリングを替えて楽しむのも好きらしく、去年あたりからはずっと白いフレームとオレンジのサドル、ホイールという取り合わせをしていた。

 あの自転車が部屋の壁にかけてあるところも、俺は見たことがある。忘れていない。

 ともすれば蘇りそうになる思い出を今はあえて引っ込めて、俺は園田に視線を下ろす。

 せっかくすぐ隣にいるのだ。

 じっくりと彼女を見ておきたかったし、話もしたかった。

「にしても、今日は珍しい格好してるな」

 俺が切り出すと、彼女は黙って瞬きをする。俺の話を聞こうとしている態度が、それだけで胸に来た。

「そのコート、園田にすごく似合ってる」

 見ない格好だから新鮮だったというのもあるかもしれない。しかしそれを差し引いても、モッズコートに細身のパンツにブーツという組み合わせはスタイルのいい彼女にとてもよく似合っていた。

 園田は俺の誉め言葉をどう思ったのだろう。嫌がるそぶりはなかったが、だからと言って喜んでいる様子もなかった。恥じ入ることもなくさらりと応じた。

「ありがとう。安井さんも格好いいよ、今日の服装」

 どう考えてもそれは俺が誉めたお返しという風体の誉め言葉だった。格好いい、なんて言葉に喜んではいけない。

 昔は、もっと誉めてくれたのにな。俺が髪を切った時なんて、こちらが面食らうくらいの誉めちぎりようだった。彼女の誉め言葉はストレートでわかりやすく、俺も悪い気はしないどころか浮かれてしまったものだった。

 もうそれも過去の話だ。お世辞すら言われたのは久し振りだった。

「園田が普通に誉めてくれるなんて、だから雪がこれだけ降ったのかもな」

 俺が調子に乗って憎まれ口を叩くと、園田は拗ねたように口を尖らせた。

「どう考えても雪の方が先に降ってたよ。私のせいじゃありません」

 二十七歳――いや、今日で二十八歳になったはずの園田は、三年前とあまり変わっていなかった。顔立ちも、こういった時の何気ない表情も。いくつ歳を重ねてもあまり変わらないのかもしれない。

「そのくらい天気の神様はお見通しなんだよ」

「私が安井さんを誉めるかも、って雪降らせたって言うの? あり得ないね」

「雪を降らされたくなかったらいつも誉めとけ、って言ってるんだよ」

 こんな軽口の叩き合いも今は貴重だった。会話が弾んでいるように思えて、嬉しかった。内容は色気も何もあったものではなかったが、園田と並んで歩いてくだらない話をしている。そのことだけで駆け出したくなるくらい幸せだった。

「安井さんなら人から誉められ慣れてるでしょ? わざわざ私が言及するまでもないと思っていつもは言わないんだよ」

 とは言え園田が冷たいことを言い出せば、それなりに寂しく思ったりもする。

 俺は園田にこそ言って欲しいのに。もっと普段から、そういうふうに言ってくれてもいいのに。

「普段から言えよ。減るもんじゃないんだから」

「減るよ。気力と体力が」

「人をちょっと誉めるだけでどれだけ磨り減らしてるんだよ」

 思わず笑う俺を、園田は笑わずに目の端で見た。

 それから視線を道の前方へと向ける。


 白い息とちらつく雪の向こうに、微かに我が社の社屋が見えていた。

 割と無骨な造りの五階建て。すぐ隣のビルが新しくて立派なので並ぶと多少見劣りするが、業務には支障ないし、何より訪問客に説明する時は非常に便利だ。

 タイムリミットはあと十分、というところか。園田があちらを見たのも、会社まで並んで歩くことを警戒したからかもしれない。


 少し急いだ方がいいと思い、俺は来月の話に触れた。

「霧島と長谷さんの結婚式、園田も出るんだろ?」

 園田がまた俺を見る。

 めでたい話だからか、瞬時に柔らかい表情になって頷いた。

「うちの課は全員招待されてるからね。もちろん出席するよ」

 霧島から聞いていた通りだ。秘書課は全員出席、その中にはもちろんまだ秘書課に在籍している園田も含まれている。

「いいな、人事からは俺一人だけだよ」

「でも営業の人達も全員出席なんじゃないの?」

 彼女が聞き返してきたので、俺は少しだけ笑っておく。

「俺なんてもう営業の人間じゃないからな。疎外感が半端ない」

「何言ってんの。石田さんと未だにマーベラス仲良しだって社内で噂になってるよ」

 園田が恐ろしいことを言い出したので、俺は溜息をつく。

 あの頃、園田は俺と噂が立つことをあんなに警戒していて、お蔭で俺達のことを知っている人間は社内に誰もいない。俺はそれを後悔していて、付き合っていた頃のうちに石田にでも打ち明けておけばよかったと何度となく思った。

 そういうある意味有用にもなり得る噂ならともかく、どうして俺が石田なんかと気色悪い噂にならなければいけないのか。不本意だ。

「噂って何だよ……。そのちょっと意味深な言い方やめろよ」

 俺が抗議すると園田はおかしそうに破顔した。

「気のせい気のせい。と言うか、疎外感っていうのもそうだよ、多分」

 古巣の連中と同じテーブルだという事実に、実際に疎外感を覚えているわけではない。ただ園田にはっきり言われると、魂胆を見透かされているようでどきっとした。彼女の励ますような、笑い飛ばすような言い方も昔とちっとも変わっていない。だからどうせなら本当に必要な時にそれを言ってもらいたかった。もったいないことをしたと思う。

 俺は話題を少しだけ変える。

「式の話聞いたか? レストランウェディングだそうだ」

 じりじりと詰め寄るみたいに本題へ近づいていく。

「うん、お料理はかなりいいって聞いたよ。楽しみだね」

 園田が寒さで赤くなった頬を緩めた。

 新郎新婦の意向で、あまり大仰な披露宴はしないように決めたのだそうだ。代わりに美味しい料理を楽しんでもらいたいと会場を決めたらしい。もてなし好きの長谷さんらしい選択だと思う。霧島は長谷さんの決めたことには文句なんて言わないだろうし、二人の間の話し合いは実にスムーズに行われたであろうことが想像できた。あの二人はこちらが心配するまでもなく、いい夫婦になるだろう。

 心配事があるとすれば、霧島が本番であがらないかどうか、その程度だ。

「まあな。でも俺は、新郎の緊張ぶりの方が楽しみだよ」

 俺がわざとそう言えば、園田は目を瞬かせた。

「緊張しちゃう人なの? 霧島さんって」

「最近はそうでもないけどな。何せ人生の晴れ舞台だから、どうだか」

「ふうん……。でも長谷さんはしっかりしてるから、大丈夫じゃない?」

 園田と長谷さんは同僚だからよく見知った間柄だが、園田と霧島にはあまり接点がないらしい。知らない人を語るような口調に彼女との距離を感じてしまう。あのまま付き合っていたら霧島に彼女を紹介する機会もあっただろうにな。霧島の部屋に連れて行って長谷さんと顔を合わせてお互いびっくり、なんてこともあったかもしれない。

 しかし現実にそうはならず、俺はわずかに残った縁を手繰り寄せるが如く続ける。

「式場遠いけど、何で行く?」

「うちの課の皆でタクシー乗り合い。安井さんは?」

「石田と一緒に行くことになってる。あいつ、カメラ係やるから少し早めに行くって言ってたな」

 行きは石田と約束をしていた。

 石田は小坂さんも誘っていて、三人で一足早く会場入りする予定だった。疎外感というならあの付き合いたてカップルと同乗する方がより強く感じられる気がするが、その分思いっきりあの二人をからかってやろうと企んでいる。もちろん当日の主役、新郎新婦もだ。


 そうしてカップル共を腹いっぱいからかい倒した後は空しくもなるだろう。

 そんな結婚式帰りに、こうして軽口くらいは叩き合えるようになった園田と一緒に過ごせたら――俺は遂にその話題を、帰りはどうするのかということを彼女へ切り出そうとした。


 ところが、

「ごめん。私、コンビニ寄ってくからここで」

 不意に園田は足を止め、道の脇に立つコンビニの看板を手で指し示した。

 会社近くのコンビニは当然社内の利用者も多く、昼休みだけでなく朝立ち寄って買い物をする者もいれば、残業中に一服がてら買い物に出る者もいる。園田が立ち寄りたいと言ったのも不自然なことではない。

 だが俺からすればあまりに唐突な打ち切りだった。もっと話したいことがあったのに、むしろ肝心なことが何も言えなかったのに。だからと言って、じゃあ俺も一緒に、などと食い下がる気にはなれなかった。

「ああ。じゃ、また後で」

 諦めて頷いた。

 この『また後で』にどんな気持ちを込めたかなんて、彼女は知らないだろう。

「うん、またね」

 軽く手を挙げた後、園田はブーツの足音をかつかつ鳴らして駐車場を突っ切り、店の入り口へと足早に向かう。当たり前がが、こちらを振り向くことはなかった。

 いつまでも見送っているわけにもいかず、俺は名残惜しさを引きずりながら再び歩き出した。

 隣が空っぽになった途端、粉雪混じりの風が妙に肌寒く感じられた。


 逃げられたかな。

 確証はなかったが、何となくそう思った。

 園田との会話は無難に終始しており、弾んだというほどではなかった。昔のように仲良く話せるなんて思っていたわけではないが、過去を忘れられない身としては甘い記憶との落差が痛かった。

 だが、話はできた。肩を並べて歩くこともできた。少しも笑ってくれなかったわけではないし、一緒に歩くのを嫌がられたわけでもない、と思う。だから決して悪い流れではない、そう捉えたかった。

 程度の低い満足だ。自分自身に呆れつつ、それでもまだ諦めてはいなかった。

 むしろ今朝、こうして少し話をしたことで、余計に気持ちが膨らんでしまったように思う。

 結婚式の後の夜を、彼女と二人で過ごしたい。

 園田とはもっとたくさん、こんな短い時間だけでは足りないくらい話したいことがあった。だから、また話しかけよう。次こそは誘ってみよう。ここまで来て諦めることはできない。俺はもう背中を押されてしまった。当日にぎりぎり滑り込みだっていい、どうにかして彼女と話をする一夜の権利を勝ち取りたい。


 ただ一つだけ、これだけはしくじったと思ったことがある。

 誕生日おめでとうって、どうせなら真っ先に告げておくんだったな。

 せっかく一月十日に会えたのに、言う機会を逃してしまった。いくら同じ社内に勤めているとは言え、出勤後にもう一度顔を合わせる機会が、確実にあるとも限らないのに。

 今でもおめでとうを言ったら、園田は喜んでくれるだろうか。

 もう一度、起きないかな。偶然。

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