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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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春は等しく訪れる(3)

 俺の時間が止まったままでも、世界中の時が止まるわけではない。

 三十の誕生日を迎えた年明け以降、俺の周りでは様々な変化があった。


 正月休みが明けた仕事始め直後、俺は石田、霧島と三人で飲みに出かけた。

 俺達がつるんで酒を飲んだり飯を食ったりするのはもう何年も続く恒例行事だったが、そこに長谷さんが加わり出したのはもう随分前からのことだ。更に最近では石田が小坂さんを連れてくるようになり、そのうち五人で集まることが当たり前になるのかもしれないと思っていた。

 だが今日は、誰も女性陣には声をかけなかった。

 たまには男だけで飲みたいこともある――女性がいるとしづらい話もあるからだ。


 連れ立って入った居酒屋の小上がりは壁で仕切られていたが、キッチンに近い席で少し煙たかった。

 酔っ払いの陽気な声があちらこちらで上がる店内に、ここでもまた声を上げる奴が一人。

「遂に俺、可愛い彼女とお付き合いすることになっちゃいましたー!」

 石田である。

 とりあえず頼んだ一杯目のビールで乾杯した直後だから、奴が酔っ払っているはずはない。素面でこのテンションだ。

 俺と霧島はビールを啜ってから応じた。

「知ってた」

「知ってました」

 ほぼ声も揃ったせいか、石田はいくらか鼻白んだ。

「何だよお前ら反応薄いな! 苦節数ヶ月を乗り越え遂に彼女をゲットした俺にかける言葉がそれか!」

「いや、メールでも聞いてたし」

 俺のところに石田から報告メールが届いたのは一月三日のことだ。

 その日は霧島の部屋で俺達三人プラス長谷さん、小坂さんと食事会をしたのだが、要はその帰りに何かあったらしい。浮かれ調子でお付き合い始めちゃいましたメールを送りつけてくる石田に祝意よりも嫉妬よりも、呆れる気持ちが湧き起こった。今もそうだ。

 そもそも『お付き合いすることになっちゃいましたー』とかそれ三十男の台詞か! 男子高校生かお前は!

「と言うか石田先輩は何かとあからさまなんですよ」

 霧島が深刻そうに溜息をつく。

「先輩と小坂さんが営業課にいる時の空気があんなにおかしけりゃ、誰だって言われなくても気づきますし。仕事に差し障るんでちょっと自重してもらえません?」

 どうやらこのくっつきたてカップルは職場でも誰も立ち入れないような甘い空気を発しているらしい。もし俺が今も営業課にいたら、やはり仕事に差し障っていたのかもしれない。異動しといてよかった。

「何言ってんだ、俺達はちゃんと自重してるだろ」

 石田は顔を顰めて霧島に食ってかかる。

 霧島も熱々の油そばに息を吹きかけ、眼鏡を曇らせてやり返す。

「ちっともですよ。何ですか隙あらば視線交わしてお互い赤くなったりして!」

「別に目合わすくらいいいじゃねえか。ずっと目逸らてる方が不自然だ」

「そこに生じるラブコメオーラをどうにかして欲しいって言ってるんです!」

「知らねーよそんなの俺には見えねえし。お前こそ観察しすぎじゃね?」

「観察してるんじゃなくて見えるんです! 同じ職場ですから! 必然的に!」

「見んなよいちいち。やだねー澄ました顔して霧島くんったらむっつりなんだから」

「はあっ!? 何言ってんですか、先輩に言われたくないです!」

「そこまで他人の一挙一動をしげしげ見ちゃう方がやらしいぞ、自重しろ」

 石田のその一撃に自覚でもあったのか、霧島がうっと言葉に詰まった。とっさに反論が思い浮かばなかったか、霧島は悔しそうにそっぽを向き、石田は勝ち誇った顔でビールを飲む。


 俺は湯豆腐をつつきつつ、そんな二人を眺めてよくわからない感慨に耽る。

 営業から人事に異動が決まった時はこいつらとの縁もここまでかと思ったが、何だかんだで切れずに続いてしまっている。石田の言うこともたまには当てになるものだ。


「ですから、見たくなくても見えるんですってば。俺だって勤務中まであてられたくないです」

 まだ諦めきれないのか、霧島はぶつぶつ呟いている。

 その後で俺に顔を向け、加勢を頼むように言ってきた。

「どう思います、安井先輩! 想像くらいはつくでしょう、この二人が職場でどんなもんか!」

「まあ、おおよそはな……。石田なんて自分から小坂さん構いに行ってるだろうし」

 奴の言う『自重』なんて怪しいものだ。そのくらいの想像はつく。

 すると石田は焼き魚の骨をきれいに剥ぎ取りながら、

「そりゃちょっとはあるな。あたふたする藍子が可愛いからつい、な」

 しれっと白状したのでまた霧島が声を上げた。

「ほらやっぱり! この人わざといちゃいちゃしてるんですよ職場で!」

「ばれちゃしょうがねえな。でも業務には差し障ってないし問題ないだろ」

「差し障ってますよ俺は! お二人以外の営業課一同、胸焼け起こしてます!」

「だから見んなってこのむっつり野郎。あんまりよそ見してると奥さんに言いつけんぞ」

 今のところは独身のはずの霧島は、石田のその言葉でわかりやすくうろたえ、視線を泳がせた。

「ま、まだ籍入れてませんから。と言うか、よそ見もしてませんし!」

「何慌ててんだよ霧島。式まであと一ヶ月だってのに心構えもできてねえのか」

「そんなことないです! ああもう、先輩の本性を小坂さんに教えてやりたい!」

「藍子はこういう俺も好きだって言うぜ。俺は日頃から装わない男だからな」

「職場ではむしろ装ってください、そして慎んでください!」

「そんなの俺らしくねえだろ。男は包み隠さない方が格好いいんだよ」

 一月だというのに二人ともすっかりヒートアップして、ビールの減りも早い早い。俺は二人のグラスが空きそうなのを見て、卓上のメニューに手を伸ばす。

 そしてずらりと並んだアルコールメニューを検めながら、ふと現実にぶち当たる。


 霧島の結婚式が一ヵ月後に迫り、奴の独身生活も残りわずかだった。

 石田はめでたく可愛い彼女を作り、仲間内の集まりにも連れてくるようになった。

 俺としては美人が酒の席に居合わせるのは歓迎だし賑やかなのも好きだ。霧島が長谷さんの前で、石田が小坂さんの前で、それぞれ男だらけの時には見せない顔を晒すのも面白いと思っている。だから霧島夫妻とも石田と小坂さんとも、今後もつるんでいく覚悟はできている。

 だが一方で、やり場のないもやもやが立ち込めてくるのは防ぎようがない。

 俺に彼女がいたら、こんなふうに二人から冷やかされたり、からかわれたりしたのだろうか。

 その時俺はどんな態度でいるのだろう。石田のように開き直って堂々としてるか、霧島みたいにうろたえるのか、自分のことなのに想像もつかない。と言うより、そんな想像をするのすら空しくて耐えられない。

 もし俺に、今でも彼女がいたら。


「おい安井、何メニューを熱く見つめちゃってんだ」

 石田の声で我に返る。

 顔を上げると、石田も霧島も訝しそうに俺を注視していた。

「ああ……そんなに熱く見てたか?」

 聞き返せば二人とも示し合わせたような速度で頷く。

「してたしてた。そのままメニューに求婚しそうな顔つきだったぜ」

「先輩は飲みすぎちゃ駄目ですよ。お酒とは程よいお付き合いに留めてください」

 幸せいっぱいの二人が口々に言ってくるものだから、俺もつい口が滑る。

「お前らがあんまり幸せそうだから、俺も幸せになりたいなと思っちゃってさ」

 重くならないように言うのが精一杯だった。

 それが功を奏したか、石田も霧島も俺の言葉をさして深刻なものだとは思わなかったようだ。

「安井こそ誰かいい子でもいないのかよ。当てくらいあるだろ、お前なら」

「先輩に彼女がいないなんて、よほど選り好みしてるんだろうなって思っちゃいますね」

 選り好みか。ある意味、しているのかもしれない。

 誰かいい子がいないかって考えてみる時、いつも真っ先に思い浮かぶのは彼女の姿だ。笑ったり照れたり泣いたりする園田が俺の中に、まるで『理想の彼女像』みたいに居座って、俺はそれを書き換えることができなくなっていた。

 そして考え始めるとますますそこから抜け出せなくなり、俺は頭ごとぶん投げるくらいの勢いで考え事を放棄する。

「あー、空から俺好みの女の子でも降ってこないかなあ……」

 盛大な溜息と共にぼやけば、石田も霧島も気の毒そうに俺を見る。

「それはかなり駄目な部類の逃避だぞ、戻ってこい安井!」

「そうですよ、そんな都合のいい妄想に耽るのは危険です!」

 いや、いっそ都合のいい妄想でいい。

 逃げ込みたい。更誰かと真剣な恋愛なんてできる気がしない。


 だって考えてもみろ。

 女の子に好きですと言われて、じゃあ付き合おうかって言って、二人でデートして食事して夜の公園歩いたりして、その先で彼女の部屋にも呼ばれたりして――そういうありふれた過程でいちいち園田のことを思い出しそうな気がしてならなくて、とてもじゃないが改めて別の子と一から、なんて気持ちにはなれない。

 彼女のことを忘れられない限りは同じような恋はできないだろう。

 もっとイージーな、非現実的な恋に逃避したくなっても致し方あるまい。


「口開けてりゃ黙って降ってくるような女なんていねえよ。自分で動け」

 石田は発破をかけるように俺の肩を叩いた。

「妄想だけして手に入るものなんかねえぞ。もっと前向きにならなきゃな」

「でも妄想はいいよ。傷つかないし終わりもない」

 俺が続けると石田は引き気味に苦笑する。

「何だよお前。何だってそんなネガティブなんだよ」

「石田と霧島の幸せっぷりにあてられた。そりゃ後ろ向きにもなる」

「暗く沈んでちゃ女の子どころか運だって寄ってきませんよ、先輩」

 今度は霧島が俺の肩にぽんを手を置き、励ますように言った。

「もっと明るい話しましょう。そうだ、先輩は具体的にどんな子がいいんですか?」

「どんな、って……。それ言ったら女の子が寄ってくるのか?」

「要は引き寄せの法則ってやつだろ。言ってみろ、心当たりがあるかもしれん」

 そんな法則なんぞ石田からして信じてなさそうに見えたが、まあいい。考えてみる。

 俺が女の子について考えて、真っ先に思い浮かぶのは――。

「脚がきれいな子かな」

 俺がまず挙げた条件に、石田と霧島は顔を見合わせてから、腑に落ちた顔で頷いた。

「それは知ってた。お前、女見る時はまず脚から見るもんな」

「さりげないながらもかなりしっかりチェックしますよね、脚」

「しょうがないだろ、目が行くんだから」

 と言ってもただ細いだけの脚は俺的には違う。それなりに鍛えててちゃんと筋肉もついている、引き締まった脚がいい。そういう女の子がスパッツなんてはいてたら即落ちる自信がある。

「それから、料理が上手い子」

 次の条件には石田も霧島も目を瞬かせた。

「へえ、家庭的な女が好きなのか。安定志向とは意外だな」

「胃袋掴まれたい系なんですね。俺も好きです、そういう子」

 もっとも、料理が上手い奴なんて男女問わず喜ばれるに決まっている。俺にとって大事なのはそれだけではない。

 俺が女の子に求める一番大事なことは、

「それと――俺が何やっても、最後には笑って許してくれる子がいい」

 そう口にした時、石田と霧島は揃って妙な顔をした。嫌なことでも想像するみたいに視線をさまよわせてから鼻の頭に皺を寄せる。

「安井……お前の変態プレイに付き合ってくれる奇特な子なんて、そうそういねえぞ」

「そういうことばかりしてるからご縁がないんじゃないですか? もしかして」

「おい何だお前ら、俺について一体どんな想像した?」

 どうも石田も霧島も、俺のことを変態性欲の持ち主だと思っている節がある。

 はっきり言うが俺なんてこの二人に比べたらまだまだノーマルだ。むしろこいつらにだけは言われたくない。


 肝心なのはそういうことではない。

 もっと根本的に、俺を許してくれる子を欲しているのだ。罪だけじゃなく、それに伴う罪悪感も物悲しさも何もかも吹き飛ばしてくれるようなあの笑顔を。

 結局、思い浮かぶのはたった一人だけだ。


「まあ最後の条件はともかく、他二つなら割といそうだよな、近くにも」

 石田はそう言うと、残りわずかだったビールを一気に飲み干し、グラスを空にした。

 気づいて俺がメニューを差し出そうとすると、それをスルーして奴はにんまりと笑う。

「例えば結婚式の二次会とかな。ちょうどあるだろ、近々結婚式が」

「ああ、あるけど……」

 俺はちらりと霧島を見る。霧島はきょとんとして、石田に聞き返す。

「結婚式があると、何かあるんですか?」

「『きれいな花嫁さん見てたら私も結婚したくなっちゃったー』みたいに思う子が出てくるだろ。いやいるんだよ、結婚式を新たな出会いの場として考える人間ってのも、それなりにな」

 どことなく偉そうに語る石田は、俺の手から卓上メニューを攫い、次に何を飲むか考え始めたようだ。並ぶ文字を目で追いながらも話を続けた。

「しかも今回の結婚式には長谷さんの同僚が大勢出席するんだろ? 秘書課だぜ、女の園だぜ安井。よりどりみどりだろ」

「そういえばそうですね。皆さんに招待状出して、出席の返事貰ったって言ってました」

 霧島が顎を引く。

 秘書課、と言われて思い浮かぶのも、やはり――。

「こんなとこでくだ巻いて空から女の子がーとか言ってる暇があったら、結婚式の後にでも誰か捕まえて飲みに誘え。それが一番手っ取り早い」

 無責任に言い放った石田は、その後ですみませんと手を挙げて居酒屋の店員を呼ぶ。霧島が慌てて自分のグラスを空にする。

 俺も湯豆腐を食べ終えていて、次は何を頼もうかと考える。豆腐サラダにでもしようか。

 いや、考えるべきはそれじゃない。もっと他にあるだろう。

「二次会か……」

 俺は声に出して呟き、それから石田に視線を戻す。

 店員に注文を終えた石田もまた俺を見返し、吊り上がった目で少し笑った。

「どうせ結婚式でお前が歌えば、見てくれに釣られる女の子の一人や二人出てくるって」

「遠回しに俺の内面を否定されてるような気がするけど、どうかな」

「気のせいだ。幸い霧島夫妻は親族で二次会やるそうだし、うちの営業課でもそういうのはやらねえって。自由に口説いて歩けるぞ」

 霧島達の結婚式に、人事から呼ばれたのは俺だけだ。営業課はもちろん全員呼ばれているらしく、俺の席も古巣たる営業課に交ざって用意されていた。

 しかし、営業課で二次会をしないとなると。

「お前はどうするんだ、石田。式の後、真っ直ぐ帰るのか?」

 俺は石田に尋ねた。俺としては石田に用がなければ、二人でふらっと飲みに出かけてもいいと思っていた。女の子を誘うのもいいが、思い出深い後輩の結婚式の後は先を越された先輩同士、二人で感傷に浸るのも悪くはない。

 が、そこで石田は鋭かった表情を緩く崩して笑った。

「いや、俺は藍子と二人で飲みに行こうかと」

 あっさりと宣言されて目の前が真っ暗になった。

「う、裏切り者! お前、男の友情より女を取るのか!」

 思わず糾弾する俺に、それでも石田はいい笑顔で片手を挙げる。

「そりゃそうだろ。悪いな安井!」

「言い切ったな! こいつ爽やかに言い切りやがった!」

「まあまあ先輩、大体予想がつくじゃないですか。石田先輩は小坂さんしか見えてないんです」

 霧島に宥められても収まらなかった。

 それにしたって随分な切り捨てようじゃないか。友情なんて所詮儚いまやかしか。

 もしくは、あるいはそれさえも、密かに足踏みだけを続ける俺への、奴なりの発破だということは――さすがに好意的に取りすぎか。俺が振られたことさえ知らない石田がそこまで気遣ってくれるはずもない。

 ただ俺も、後ろ向きに考えているばかりではどうにもならない。それだけはわかる。


 秘書課は全員出席となると、間違いなく彼女も出るのだろう。

 これが最後のチャンスになるかもしれない。こんな機会はもう二度とない。恐らくは、そう思う。

 俺は――。

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