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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
7/205

ここは道のはじまり(1)

 四月になり、入社九年目の春が来た。


 春は好きな季節だ。風が温むし爽やかで、自転車通勤にはもってこいだから。

 特に四月の景色はいい。

 桜の並木がだんだんと色づき、咲いて、散っていくまでを日々眺めることができるし、真新しい制服に身を包んだ学生さん達を見かけると微笑ましい気持ちになる。通勤路の途中にある川沿いの道も草木が青々と茂っていて、傍を駆け抜けると緑の匂いがたっぷりと味わえる。


 運動不足解消の為に始めた自転車通勤だったけど、これが噛めば噛むほど味が出てくるスルメのような趣味だった。

 せっかくだから休日にも乗れてどこへでも行けるやつにしようと、軽い気持ちで購入したロードバイクがものすごく乗り心地よくて、すっかりハマってしまった。休みの日となると買い物のついでにサイクルショップに立ち寄っては、サドルだのグローブだのバーテープだのを細々と買い揃えているし、そういう時のお供もやはり我が愛車だ。さすがに一からのカスタムには手を出せていないけど、完成品からちょこちょこと手を入れて自分好みの姿にしていくのが堪らない。

 ちなみに現在の愛車は真っ白いカーボンフレームにオレンジのホイール、サドルはちょっと暗めのオレンジにした。ペダルはトゥークリップなんだけど、ビンディングペダルにも興味があって調べているところだ。

 もちろんサイクルウェアだって抜かりない。ヘルメットは日替わりで変えられるだけの数を揃えたし、いかにもって感じのサイクルジャージからちょっとその辺まで買い物に出られそうなカジュアル系ウェアまでいろいろ持ってる。ちなみに本日の服装は上がオレンジのぴたっとしたジップシャツ、下は黒のスパッツに白いギャザースカートを合わせている。愛車に合わせたコーディネートはそれだけで気分が弾むからいい。


 会社までの距離は十キロ超、特に問題なければ四十分で行ける。

 毎朝六時過ぎには家を出て自転車通勤を楽しみ、職場に着いたら汗を拭いて着替えもして、また帰りには自転車かっ飛ばして帰るのが私の趣味と実益を兼ねた黄金パターンだ。天候に左右されがちな趣味だけど、電車なら退屈極まりない通勤時間を好きなことに費やせるのはいい。

 今朝も私はアパート二階の自室から愛車を引っ張り出し、担いで階段を下りる。

 そして朝日が照らす道で愛車に跨り、ハンドルを握って、深呼吸を一つ。

 さあ、今日も張り切っていきますか。

 午前六時二十分。道の始まりから、まずはゆっくりと漕ぎ出す。風が真正面から吹いてきて、ヘルメットからはみ出た私の髪がぱたぱたと揺れ始めた。自転車は滑るような軽やかさで、ぐんぐんスピードを上げていく。


 道が空いていたおかげで、会社にはいつもよりいいタイムで到着した。

 私は愛車を地下の駐車場に入れ、厳重に鍵をかける。

 我が社には駐輪場がなく、かと言って六桁の投資をした私の可愛い可愛い自転車を野ざらしにしておくなんて耐えられないから、許可を貰って駐車場に置かせてもらっているのだ。社内にもチャリ通仲間は十人ほどいるようで、駐車場の隅にできた駐輪スペースにはいつも数台の先客がいた。

 それからエレベーターに乗り込み、ロッカールームを目指して上の階へ。


 エレベーター内でヘルメットを外し、扉が開いたところでグローブを脱ぎながら廊下へ出ると、前方に安井さんの後ろ姿が見えた。

「おはようございます」

 後ろから声をかけると、安井さんはさっと振り返った。

 すぐに私を認めて軽く笑う。

「おはよう、園田。今朝も早いな」

「それを言うなら安井さんの方こそ、じゃない? まだ七時だよ」

 私は通勤時のサイクルウェアで、このまま職場へ出向ける格好では全然ないけど、安井さんはもうぱりっとスーツを着込んでいるし、ヘアセットもばっちりだ。手には何かのファイルを持っていて、既に仕事モードに入ってさえいるようだった。

「新人研修の時期だからな。いろいろと準備がある」

「ああ、そっか。大変だね」

 四月はいい季節だけど、何かと慌しい季節でもある。


 特に新年度となれば新入社員は入ってくるし、人事異動だってあるし、年度始めならではの忙しさっていうのもある。今年度は私も異動をしたので何かと気忙しい。新しい環境に早く慣れないといけないし、かといって全くの新人ではないどころか入社九年目、まっさらな状態から仕事を教わる状況ではないだけに、なかなかにプレッシャーだった。

 安井さんも毎日忙しいのか、朝だというのにいくらか疲れた顔をしていた。先々月に話していたまた飲みに行くという約束も、まだ予定を詰めるところにすら至っていない。それでも三月頃に二度ほどメールをくれて、異動についての励ましの言葉をもらっていたりはしていた。

 異動しても平社員の私とは違い、この人は課長さんだ。役付だとより重責を担うことになるのだろうし、新年度なんて私なんか比べものにならないほど忙しいに違いない。


「新年度だからな。しばらくはこんな調子だよ」

 安井さんは肩を落としたけど、すぐに私に目を向けて表情を和らげる。

「でも、たった今ちょっと元気出た」

「そう? 何で?」

 まさか『君の顔を見られたからだよ』なんてベタなことを言う気じゃあるまいな。私が怪しみながら聞き返すと、安井さんははぐらかすような調子で答える。

「何でだろうな。園田がいつもの格好してるからかもしれない」

「何それ。私がチャリ通だと安井さんにいいことあるの?」

「天気がいいってわかるだろ。天気予報でも、夜まで降らないと言われたんだろうなって」

 そういうことか。まさか私がお天気の目安になっているとは思わなかった。

「言われてみればそうだね。雨になるかもって日は乗ってこないから」

 私が納得していると、安井さんはなぜかおかしそうに笑った。

「随分と簡単に納得したな。他に理由があるって思わないのか?」

「他に、何かあるの?」

「いや別に? 強いて言うなら、園田にスパッツって似合うなと思ってるだけだよ」

 安井さんがちらりと私の脚に視線をやる。予想外の答えに私が思わずぽかんとすると、嬉しそうに続けた。

「いいよな、女の子のスパッツって。可愛いよな」

 私はもう女の子って歳じゃない。

 いやそれ以前の話だ。この人はこんな朝早くから何を馬鹿みたいなこと言ってるのか。仕事忙しいんだろうなとほんのちょっとでも心配した私は、非常にがっかりした。

「セクハラだー。人事課長が率先してセクハラを働いてるー」

「人聞きの悪いこと言うなよ。可愛いって誉めただけだろ」

「安井さん、新人研修の時期なんでしょ? そういう発言は夢や希望に溢れた新入社員に悪影響を及ぼすよ」

 私が顔を顰めようと、人事課長殿はどこ吹く風だ。

「俺だってTPOは弁えるよ。新入社員の前でこんなことは言わない」

「そういうのって顔から滲み出るんだよ。上辺だけ取り繕っても駄目だよ」

「わかった。じゃあ園田にしかしない。これでいいだろ?」

 なぜそれで許されると思うのか。

 と言うか上辺取り繕ってるのは同じだ。私は呆れたけど、安井さんはああ言えばこう言う人だ。これ以上の抵抗は無意味だ。

 そう思い、わざとらしく溜息をつきながらその横を追い抜いてやった。

「とっとと着替えてくる」

「行ってらっしゃい」

 安井さんは軽い口調で言い、ロッカールームへと向かう私を見送っていたようだ。ふと気づいて後ろを見たら目が合って、やっぱりおかしそうに笑われた。

 何だ、新年度でもめちゃくちゃ元気じゃないの。


 ロッカールームで汗を拭き、スーツに着替えて、髪型や化粧を直した。

 十五分もあれば準備はできる。ちょっと時間にゆとりを持たせて、水分もきちんと取ってから、私はロッカールームを出た。


 そうしたらドアの真正面、廊下の壁際にまだ安井さんがいた。

 開けた途端にその姿が見えて、まだいたのか、忙しかったんじゃないのかと私は思う。

 ただ安井さんは手にしていたファイルを真剣な顔で読み耽っていて、さっきまでのふざけた調子はどこかへ消えてしまったようだ。そうなるとこっちも嫌味は言いづらく、とりあえず会釈だけして通りすぎようとした。

 すると、安井さんがファイルから顔を上げる。

「あれ、行っちゃうのか。せっかく待ってたのに」

「……忙しいんじゃないの?」

 私の着替えを待っていられるほどの余裕はあるのか。私が苦笑すると、安井さんはもっともらしい顔で応じた。

「忙しいから朝のうちに仕事するんだろ。歩きながら話そう」

「仕事って?」

 私にも仕事で用があるということだろうか。聞き返しながら隣に並ぶと、安井さんが廊下を歩き出す。私もついていく。


 総務部のオフィスはどれも二階に入っている。

 つまり私も安井さんも行き先はほぼ同じだ。下りは階段を利用することにして、一緒に歩きながら安井さんが言った。

「異動した社員の動向調査をしようと思ってな」

「へえ。そういう仕事もあるんだ、人事って」

 初耳だ、私は驚いた。

 異動なんて入社以来初めてのことだから、わからないことだらけだった。する前は単に業務内容と勤務先が変わるだけだと思ってたくらいだ。

「そりゃ異動があればヒアリングはするよ。引き継ぎが上手くいってるか、ちゃんと人員を組み込めた上で仕事が回ってるか、程度はな」

 安井さんは私の顔を見ながら目を細める。

「でもそういうのは四月末辺りにやる。だからこれは個人的な調査だ」

「ふうん……。こうやって聞いて回るのって、大変なお仕事だよね」

 課ごとの調査の他に各人の調査もするってことか。激務なんだなあ、人事って。

 私が感心していると、安井さんがまたおかしそうに笑い出した。

「ちょっとは勘繰れよ。俺が個人的に気にしてるって言ってるのに」

「ええ? 仕事でやってるんじゃないの?」

 さっき自分で仕事って言ったくせに。私は眉を顰めたけど、安井さんはげらげら声を上げて笑っている。

 何なんだこの人は。新年度早々、疲れてるどころかめちゃくちゃご機嫌だ。

 私が向けた眼差しに、彼はまだ収めきれてない笑いを顔に残したまま口を開いた。

「そんな目するなよ。で、どうなんだ」

「何が?」

「広報課。もう馴染めたか? 皆、いい人ばかりだろ」

 安井さんに言ってやりたいことはまだあったけど、その問いには真面目に答えようと思った。

 実際、その通りだったからだ。

「うん、すごくいい人ばかりだよ」

 私は思いきり頷いて答える。

「小野口課長は優しい方だしね。何かものすごく愛妻家だって聞いたし」

 広報課の課長は見るからに人のよさそうなナイスミドルだ。

 本当に優しい人で、異動したての私を何かと気にかけてくれてる。広報の仕事に長く携わっているそうで、わからないことがあったら気軽に聞いて、と言ってもらった。

「まあな。休日は奥様の店を手伝ってるって話もあるしな」

 安井さんがそう言ったので、私は目を瞬かせた。

「お店をされてる方なの? 課長の奥様って」

「ああ。俺も行ったことはないんだけど、ハーブティーの店だって」

「へえ、何か格好いい」

 そういうのは全く詳しくないけど、すごく上品な感じがする。ちょっと行ってみたいけど、上司の奥様のお店だと気を遣うかなあ。

 あの人は行ったことあるんだろうか――不意に、広報の先輩の顔が脳裏に浮かんだ。

「あ、そうだ。あとね、東間さんがすっごく親切!」

 私が挙げたのはその先輩の名前だ。

 東間さんは勤続十三年目のベテラン社員で、眼鏡美人のお姉さん。この人がまたすごくいい人で、異動初日からいろいろ丁寧に教えてもらっている。

 こっちとしても仕事は早く覚えたいから、そういう先輩の存在はとてもありがたい。ご恩に報いるべく、今は必死になって仕事を学びつつ、できることからこなしているところだった。

「九年目の異動も大変だよねって気遣ってくれるし、仕事の教え方も上手いし、いい先輩なんだよ」

 私はルーキーじゃない。もう九年目の社会人だから、一を聞いたら十を知ってるくらいじゃないといけない。プレッシャーもあるけど、多少無理してでも波に乗ってかないといけない時期だ。

 でもここでなら頑張れそうだって、今は思ってる。

「確かに東間さんはいい人だよな。話してて感じもいいし」

 同意するように安井さんが言った。

「そうだね。東間さんと初めて挨拶した時、私、何かここでもやってけそうって思ったくらいだからね」

 私が力を込めて語ると、安井さんは心なしかほっとしたように微笑んだ。

「そうか。園田がそう思ってるんなら、よかった」

 心配してくれたみたいだ。私も少し温かい気持ちになって、お礼を言った。

「ありがとう、気にかけてくれて」

 安井さんは照れ隠しみたいに肩を竦める。

「人事として当然のことをしたまでだよ」

 結局、仕事としての聞き取りなのかそうでないのか、どっちなんだ。

 安井さんの若干捻くれた性格なら、『どちらなのかはっきりさせたくない』ってところなんだろうけど。


 そうして話をしているうち、階段を二階まで下りて廊下へ出ていた。

 安井さんが私に向かって軽く手を挙げる。

「じゃあ、またな。仕事頑張れよ、園田」

「うん。安井さんもね」

 私も会釈で応じて、それから広報課のオフィスへと向かう。秘書課と同じ室内にある、場所だけなら通い慣れた職場。

 でも私の席はパーテーションを乗り越えた向こうへ移ってしまった。新しい環境、覚え始めた業務内容、ようやく慣れてきた上司や先輩がたとの関係――全部どうにか乗り切ってやろう。


 お忙しい人事課長殿にこれ以上心配かけるのも悪いしね。

 次に聞かれた時、ちゃんとやれてるよって報告できるようになってないと。

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