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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
67/205

ふたりの幸せな日に(5)

「ごめん、押し倒しちゃった」

 俺は少しだけ笑って、彼女に告げた。

 こういう時、完全に退路を断つのは逆効果だ。半分冗談みたいな雰囲気を匂わせつつ、彼女に選択の余地を残しておく。

 ただ体勢はもう逃げ場もなく、磔のように床に倒された園田はわなわなと唇を震わせた。

「ごめんって言われても、な、何でこんなこと……」

 怒っているのだろうか。俺がその顔を上から覗き込むと、彼女は愕然と目を見開く。ひゅっと息を呑む音が聞こえた。

 まるでこれから酷いことでもされるみたいな怯え方だった。

「何でって、気持ちが募って衝動的に、ってことあるだろ?」

 彼女の疑問に答えつつ、俺は彼女の前髪を手のひらでかき上げ、露わになった額にキスをする。

 園田は嫌がらなかったが、かといって怯えきった表情が和らぐこともなかった。

「で、でも、だからって不意打ちみたいにしなくたって……」

「不意打ちじゃなかったらよかった?」

 唇の位置をずらして、彼女のなめらかなこめかみに押し当てる。

 うう、と園田が困り果てたように唸った。

「そういう、ことじゃなくて」

「嫌ならそう言ってくれてもいいよ。俺は、無理強いはしない」

 こめかみから頬までを唇で触れながら辿る。彼女の頬は火がついたように熱い。

 見下ろしてみるとわかる。園田はすっかり真っ赤な顔になり、瞳を潤ませ俺を見ている。

「い、嫌とか、そういうのでもなくて」

「嫌じゃないのか。嬉しいな」

「あっ、えっと、やっぱり……嫌じゃないけど困るって言うか、こういうのまだ早いんじゃないかなって言うか」

 あたふたとまくし立てた後、彼女は不意に俺を睨む。

「安井さんの馬鹿! ばかばかばか!」

「そんなに罵らなくてもいいだろ」

 こんな状況で、赤い顔して罵られたってむしろ可愛いくらいだった。俺が笑いを堪えつつたしなめると、園田は俺の下でじたばたもがき始める。

「馬鹿だから馬鹿って言ったの! 笑わないでよ!」

「ごめん。わかったから、あんまり暴れるなよ」

「やだやだ! 安井さんってば本当に手が早いんだから!」

「まだ手は出してないだろ。ほら、少し落ち着け」

 彼女が俺の下から抜け出そうともがくので、軽く体重をかけて押さえ込むように抱きとめる。

 それでもしばらくの間、逃げ出そうと暴れていたけど、抱き締め続けていたらやがておとなしくなった。


 とは言え、観念したというわけでもないのだろう。

 俺の腕の中に収まっても、園田は低く唸り続けていた。

「私、こんなことになるなんて思ってなかった」

 思ってなかったのか。

 俺は拍子抜けしつつ、彼女を抱き締めたままそのさらさらした髪を撫でた。さてどうしたものかと考える。

 カーテンの隙間明かりが作るうっすらとした闇の中、俺達は床の上に転がって抱き合っている。

 傍らのテレビでは映画がつけっ放しになっており、早口気味の英語の台詞が流れるように聞こえてくる。こういう局面でのBGMとしてはいささか騒々しかったが、園田は再生を止める様子もなく、かといってそちらに意識を引かれるそぶりもなかった。俺に抱き締められながら、ぽつりと言った。

「本気、なの?」

 確かめるような問いかけだった。

 俺は彼女の髪を撫でながら答える。

「当たり前だろ。いい加減な気持ちでこんなことしない」

 園田の髪は触り心地がよかった。さらさらと指先でとろけるようだった。ずっと触っていたくなる。

「好きだから、抱きたいって思ったんだよ」

 更にそう続けると、俺の腕の中で彼女が軽く身動ぎをした。

 それで腕の力を緩め、その顔が見えるように少しだけ身を離す。園田は目尻に涙を滲ませつつも、こわごわと顔を上げ、俺を見た。

「そう、なんだ……」

 まるでそんなこと考えもしなかったというような、驚きに満ちた呟きだった。

 そしてしばらく俺を見つめた後、言いにくそうに言葉を継いだ。

「あ、あのね、安井さん。私……」

「何?」

 急かさないよう、なるべく柔らかく聞き返す。

 園田が深呼吸をする。視線を逸らし、何だか自信なさげな顔つきになる。

「私、今まで、そういうふうに思ったことなくて」

「そういうふうにって?」

 大体予想はついたが、肝心なことは聞いておかなければならない。

 彼女は頭から煙が噴き出すのではと思うほど、顔も耳も首筋も赤く火照っていた。

「だからその、好きな人とそういう……したい、みたいなの」

 振り絞る声で言った後、縋る目を向けてくる。

「ご、ごめんね、いい歳してこんなんで。子供っぽいよね」


 もしかしたら、とは思っていた。

 俺に対する彼女の反応はいつもとても初々しかった。今日この部屋へ俺を招いた彼女が、こうなることを想定していなかったと言ったのも聞いた。十分納得がいった。

 子供っぽいとは思わないが、そういうことなら俺もここは考え直さなければならないだろう。

 今ならまだやめることができる。身を起こし、彼女も抱き起こして、なるべく優しい言葉をかけながらキスだけで終わらせる。期待通りに行かなくて残念だという気持ちはあるが、だからといって怯える彼女を説き伏せてまでとは思っていない。彼女が慣れるまでじっくりと時間をかけてもいい。

 彼女を好きだからこそだ。


「そんなふうには思わないよ」

 俺は彼女の背に手を差し入れ、そっと抱き起こした。

 されるがままの園田が、身を起こされたことにきょとんとする。

「え……」

「気にしなくてもいい。さっきも言ったけど俺は、無理強いはしないから」

「で、でもっ」

 園田は反論しようとしたようだが、言いにくかったのか、それとも言いたいことがまとまらなかったのか、ぐっと言葉を呑み込んだ。

 代わりに、不安そうに俺を見た。さっきまでの怯えは一旦取り払われて、ほっとしつつも今度は別の懸念が浮かんだというふうな、様々な感情がない交ぜになった顔だ。

 俺がその頭をそっと撫でたからか、やがて彼女から尋ねてきた。

「安井さんは、いいの?」

「いいも何も、園田の気持ちが何より大切だよ」

「だけど……がっかりしてない?」

「しない」

 それは確かに、惜しいなという気持ちはなくもない。今日はかなり期待していたからだ。

 だがその落胆が彼女のせいだとは思わないし、それを彼女にぶつけるつもりもない。むしろ打ち明けてくれて嬉しいくらいだ。そういう実情や内心を打ち明けあいつつ、少しずつ着実に距離を埋めていくというのもなかなか楽しいものだろう。

 だから今日のところは、今後に繋がるスキンシップ程度に留めておくというのも――俺が頭の中で今後の計画を組み立てている最中だった。

 急に園田が俺の身体を、手のひらでやんわりと押しやった。

「私……やっぱり」

 直後、きっと顔を上げたかと思うと、

「あ、あの、ちょっと待ってて。シャワー浴びてくる」

 宣言を突きつけて、押しやられた俺をさらに戸惑わせた。

「え? 急に、何だよ」

「だから、ほら、こういう時って先にシャワー浴びるものだって」

 園田は本で読んだ雑学でも披露するみたいな口調で言った。そこは可愛いなと思ったが、同時に俺は混乱をきたした。

 そういうつもりはなかったと、さっき言っていたはずだ。

「やっぱ、きれいにしとかないとって思うし……」

 そこまで言うと園田は、さっきまで震えていたとは思えないほど身軽に立ち上がり、俺を見下ろす。

「待ってて。すぐ戻ってくるから!」

 そしてどこかへ向かおうとしたので、俺も慌てて腰を上げ、引き止めた。

「園田、どうしたんだ急に。そんなことしなくていいよ」

 俺が彼女の手首を掴んだからか、園田は一瞬びくっとして俺を見た。

 だけどすぐに顔を背け、頑なな口調で言った。

「ううん、大丈夫だから。安井さんは映画でも観て待っててよ」

「何言ってんだ。俺は無理強いはしないって言っただろ」

「無理じゃない。大丈夫」

 誰にでも明らかにわかる、自らに言い聞かせるような強がりの言葉だった。

 それから園田は俺の手を振り解くと、無理やり作った笑みを顔に貼りつかせた。

「ごめん、早くしないと決心鈍っちゃうから」

 言い終わるが早いか彼女は洗面所の方へと駆け込んだ。その奥にはバスルームがあることを、俺も手を洗った時に知っていた。

 しばらくしてからバスルームのドアを開閉する音が聞こえ、すぐにシャワーから勢いよく水が迸り出したのも音でわかった。

 俺は手を振り解かれた直後の姿勢のまま、間抜けにもその場に突っ立っていた。カーテンが引かれた部屋の中、テレビの画面にはうるさくまくし立てあう外国の俳優達が映っている。英語のお喋りとは言えこういう状況下では耳障りでしかなく、我に返った俺はたまりかねて、真っ先にプレイヤーの電源を切った。テレビも消し、とりあえず床に座り込んで彼女が入れてくれたお茶を飲む。

 すっかり温くなっていた。


 あれだけやりたい一心でここまで来ておいて、いざ彼女がその気になるとうろたえるなんてみっともない。十代じゃあるまいしと自分で自分をあざ笑いたくなる。

 だが園田は明らかに無理をしている。この後彼女が戻ってきたからと言って、これ幸いと食いつくことはできない。そうしたらまた彼女を傷つけてしまうだろう。

 同期で入社して勤続年数も同じだからか時々忘れてしまうが、園田は俺より二つも年下だ。社会人経験は同じでも、恋愛経験まで同じだけあるとは限らない。それは今日までに何度も実感してきたことでもあり、俺はその事実をもう少し深く考えておくべきだったのかもしれない。

 彼女が戻ってきたら、きちんと諭し、伝えなければならない。

 俺は無理をして欲しくないと思っていること。お互いの気持ちが高まるまで待つ気もあること。

 今日拒まれたからと言って、園田を嫌いになったり、愛想を尽かしたりはしないということ。

 ――軽い気持ちで押し倒した人間がどの口で言うのやら。

 心の奥底に自分自身への皮肉が過ぎって、俺は一人で罪悪感を募らせた。


 園田はなかなか戻ってこなかった。

 ちょっと遅いな、と思って時計を見てから更に二十分が経過した頃、ようやくシャワーの水音が止まった。

 薄暗い部屋に戻ってきた園田は、バスルームに向かう時と同じシャツワンピースを着ていた。バスタオル一枚で現れたら決心が揺らぐかもしれないと思っていたのでその点はほっとした。

 不自然なくらい俯きながら、彼女は俺の前にどさっと崩れるように座った。

 ワンピースの裾からは相変わらずきれいな素足が伸び、隙間明かりの中で艶を帯びて光っていた。向かい合う距離からでもわかるくらい、彼女からはほのかな石鹸の香りが漂っていた。髪は洗ってこなかったのか、毛先だけがしっとり濡れていた。

「ただいま」

 対照的に、かさかさに乾いた声がそう言った。

「ああ……お帰り」

 俺は笑いながら応じ、すぐさま切り出した。

「園田、しつこいようだけど俺は、お前を大切にしたいと思ってるんだ」

 彼女はそれには答えず、俯いたままで呟く。

「勢い余って、化粧まで落としてきちゃった」

 悔やんでいるような言葉の後、彼女は俺の審判を仰ぐようにそろそろと面を上げる。

 見えた顔は確かに化粧をしていなかった。震える唇が素の色をしていた。

「こういう時って化粧はしてくるものなのかな、よくわからなくて」

 園田が困ったように続ける。

 俺は化粧を落としてもらう方が好きだ。その方がちゃんと裸になったという感じがするからだ。

 でも今は無理やり服をひん剥いてしまったような決まりの悪さが先立って、俺はいよいよ罪悪感に押し潰されそうになっていた。

「あと、下着……」

 胸を隠すように、彼女が自らのシャツの胸元に手を置いた。申し訳なさそうに続ける。

「お風呂に行く時、持ってくの忘れちゃって。色気ないかもしれないけど、笑わないで」

「園田」

 彼女を押し留める為、俺は彼女を呼んだ。

 たちまち彼女の顔に動揺が走り、目に見えて強張った。

「安井さん……」

 呼び返してくる声が不安げに揺れて聞こえ、そうなると俺はいてもたってもいられなくなり、彼女の肩を両手で掴んだ。

「園田っ!」

「きゃっ」

 肩を掴まれた彼女が悲鳴を上げ、ぎゅっと目をつむる。

 そこまで怯えてるのにどうしてこんなことをするんだ。そのつもりがないならそれでいいって俺は思ってるのに。無理強いをする気もなければ、愛想も尽かしたりしないって思ってるのに。

「ご、ご、ごめん……!」

 少しして、園田は目を開けながら詫びてきた。きっと悲鳴を上げたことについてだろう。

 俺は溜息をつく。

「園田。俺は、お前が好きだよ」

 彼女が黙って、怪訝そうに瞬きをする。

「だから、お前が望んでないことはしないし、させたくない。園田もそういう気持ちは正直に言ってくれ」

 自分を誤魔化してまで俺に合わせて欲しいとは思わない。だからそう言った。

 でも園田はそこで、ぎくしゃくと微笑んだ。

「私も、安井さんと同じ気持ちだよ。安井さんのこと、すごく好き」

 だったらどうして。尋ねたくなった俺を制するように、彼女は言う。

「だから安井さんの望んでることをしてあげたい。無理はさせたくないって思ってる」

「無理なんかしてない。こう見えても忍耐力はある方だ」

「でもさっきは、私のこと、あんなにあっさり押し倒したのに……」

「あれは……そりゃそういう気持ちにはなりかけたけど、ちゃんとやめただろ」

 痛いところを突かれてぎくりとする俺を、園田は少しだけ笑った。

「私は安井さんが好き。だから大丈夫。気にしないで」

 そう言われても気にせずにはいられない。園田の唇は相変わらず震えていたし、ワンピースの裾を伸ばすように握り締めた両手は力を込めすぎて血の気が引いている。代わりに顔は真っ赤に上気していて、瞳は今にも涙が零れ落ちそうなほど潤んでいた。その目が俺を、こっちが気後れするほどひたむきに見つめてくる。

「正直、私は今も、安井さんが思ったようには考えられないけど……」

 そして、たどたどしい彼女の告白が続く。

「好きになったらしたいとか、そういうふうに思えるかはわからないけど、嫌じゃないよ。好きな人の為に何かできたらって気持ちはすごく、本当にすごくたくさんあるよ」

 それは一つ一つが突き刺さるように響いた。

「むしろ、好きな人の為に何にもできない自分じゃ嫌だよ。安井さんの望むことなら、何だってできるようになりたい。好きだから」


 今まで俺は、彼女の気持ちを疑ったことはなかった。

 彼女が俺を好きなことは、もう随分前から知っていたからだ。

 でも今になってふと、疑問が湧いた。

 園田はどうして、そこまで一途にひたむきにいっそ申し訳なくなるくらいに、俺のことが好きなんだろう。

 俺は彼女を傷つけたのに。


「俺、お前に何かしたかな。そこまで好きになってもらえるようなこと」

 思い余って俺は、彼女に尋ねた。

 聞いておかなければ本当に胸が潰れそうだった。彼女にそこまで深く想ってもらえる資格が、俺にはあるだろうかと思う。負わせた傷をものともせずに今なお俺を好きでいてくれる園田は、何にも汚れていなくてきれいで、真っ直ぐすぎて、俺には直視できないほどだった。

「うん、したよ」

 園田は頷いたが、すぐに言った。

「私だけじゃなくて、皆にしてるよ。安井さんはすごく優しい人だから」

 優しいなんて、そんなのは間違いだ。

 俺ほどずるくて、身勝手で、何でも計算づくな男はそうそういないだろう。そもそも優しい男があんな利己的な理由で、自分を好きになってくれた女の子を利用した挙句、傷つけるだろうか。


 でも、園田がそう思ってくれるのなら。

 世界で一人、園田伊都に対してだけは、彼女が思う通りの優しい人間でありたい。

 そんなことを、今、強く思った。

 柄にもないだろうか。誰かの為に自分を変えたいなんて、俺らしくもないだろうか。でも俺も、思った――『好きな人の為に何かできたら』、他でもない園田の為なら、それができるような気がしていた。


「じゃなきゃこんなに、おかしくなりそうなほど好きになんてならないよ……」

 呟く彼女の頬に手を添えて、俺は唇を重ねた。

 柔らかい感触の合間に熱い吐息が零れて、そこから溶けてしまいそうだった。

 唇を離してから視線を交わしあうと、彼女は潤んだ瞳から涙を落とし、慌てて自分の指先で拭う。

「ご……ごめんね。安井さんに好きになってもらえて、本当の本当に、嬉しかった」

 そんな彼女のひたむきさに惚れてしまった。

 彼女が好きで、いとおしくて、欲しくてたまらなかった。

「優しくするよ」

 俺は彼女の目を見つめ返し、誓いを立てる。

「今だけじゃなく、これから先もずっと優しくする」

 シャツワンピースを着た肩を抱くと、その下にある身体は布越しにわかるほど熱を持っていた。

「俺も、気が狂いそうなくらい好きだ、伊都」

 初めて名前で呼ぶと、彼女は恥ずかしそうにしながらも俺に身を任せてきた。

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