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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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ふたりの幸せな日に(4)

 園田の部屋に正式に招かれたのは、十月に入ってすぐのことだった。

 俺達の関係はまだ秘密のままで、誰に知られる機会もなかった。彼女は今なお人目を気にしており、外でのデートを警戒し続けていた。付き合い始めてから二ヶ月弱しか経っておらず、俺としても彼女の意向に異論はなかった。

 ただ、デートの行き先が限られるという点だけは問題と言えなくもなかったが――俺達にとっては本当にごく些細な問題に過ぎなかった。人目を避けるデートのやり方だっていくらでもある。

「私の部屋だったら、他人に見られる心配もないしね」

 彼女はそう言った後、少し申し訳なさそうに言い添えてきた。

「あんまり広い部屋じゃないけど……よかったらご飯の後、映画でも観る? そういう過ごし方ってどうかな?」

 もちろん俺に不満があるはずもない。二つ返事で約束を交わした。


 約束をした当日の午後一時、彼女の部屋のインターフォンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。

「い……いらっしゃい。どうぞ、入って」

 玄関まで迎えに出てくれた園田は、どこか照れていたようだった。

 俺は特に緊張もしていなかったが、現れた彼女の姿にはたちまち目を奪われた。

 彼女は白いシャツワンピースを着ていた。

 丈は膝が覗くくらい、ウエストの辺りから緩やかに広がるデザインで、襟元のボタンを一つだけ開けている。鎖骨が見えそうで見えない割に、よく締まったふくらはぎは惜しげもなく晒しているギャップがいい。シャツワンピース自体はごくシンプルなデザインだったが、それを着ている彼女にはほんのりと控えめな色気があった。

「今日の服、すごくいいな。よく似合ってる」

 少し眺めてから誉めると、園田は困ったように笑った。

「あ、ありがとう。実は最近買ったんだ」

「そうなのか。デート用に?」

 期待を込めて聞き返す。

「うん」

 彼女はおずおずと頷いた。

「それっぽい服、そういえば持ってないなと思って慌てて買ったの。買った後で、安井さんの好みを聞いとけばよかったかなって思ったけど」

 俺としても、今までこういう服を好みだと感じたことはなかった。俺が好きなのはもっとわかりやすく女らしい服で、ワンピースにしても身体の線がわかりやすいニットのものとか、ブラウスとフレアースカートの組み合わせに心惹かれることが多かった。

 しかし一見飾り気のないワンピースが園田にはよく似合っていた。スタイルがいい分、逆に身体の線が見えないところにそそられるのかもしれない。それでいて丈は短く、きれいな足を抜かりなく見せているのもいい。計算でこの服を選んだのだとしたら大したものだ。

「いや、かなりいいチョイスだと思うよ。俺は好きだ」

 そう告げたら園田の表情がふにゃっととろけた。

「よ……かった。安井さんに誉めてもらえて、ほっとしちゃった」

 それから思い出したように、

「あっ、そうだ。ご飯すぐできるから、入って。手洗ったら座って待っててよ」

 俺を促してきたので、俺もその勧めに従った。


 初めて入った彼女の部屋は、いかにも一人暮らしという広さだった。

 ダイニングの他に一部屋というこじんまりした間取りで、部屋の壁には聞いていた通りに彼女の愛車がかけられていた。反対側の壁にはしっかりと扉を閉ざしたクローゼットがあり、部屋の奥にある窓を挟むような配置で、デスクトップパソコンが置かれた白い鏡面天板のデスクと、三十二インチのテレビを載せたボードがあった。ベッドがないところを見るに、彼女は布団派なのだろう。

 ダイニングには丸いラグが敷かれ、その上にオーバル型のローテーブルが置かれている。卓上には既に箸が二膳、それからレンゲが二本、向かい合わせに並べられていた。

 園田はキッチンに立ち、昼食の用意をしているようだ。炊きたてのご飯と、和風だしと思しきいい匂いが部屋中に漂っていた。


 洗面所を借りて手を洗ってからダイニングに座ると、程なくして園田がテーブルの上に食器を並べ始めた。陶器の丼と汁碗、付け合わせはかぼちゃのサラダのようだ。汁碗に入っていたのは大根の味噌汁だったが、丼の中身を見た時、俺は思わず絶句した。

 湯気が立つほかほかのご飯の上に、白くてぐずぐずと崩れた脆い何かがかけられている。

 その上には緑のねぎとかつおぶしがたっぷりと散らされ、更に上から何かの調味料を振りかけたようだった。

 問題はこの、白くてぐずぐずと崩れた脆い何かが、何なのかということだ。

「園田、これは……」

 俺が恐る恐る口を開くと、向かい合わせに座った彼女が屈託なく笑った。

「うん。私の得意料理、豆腐丼だよ」

「豆腐丼!?」

「え、知らない? ご飯の上に豆腐を乗っけて食べるの。美味しいよ」

「初めて見たし、聞いたこともなかったよ。豆腐丼……か」

 失礼ながら、あまり美味そうには見えない。

 そもそも豆腐なんてご飯の上に乗せるものじゃないだろう。冷奴も湯豆腐もそりゃ酒の肴としては最高に美味いものだが、あれでご飯が進むなんてことはない。どちらかと言えば淡白で、歯応えのない豆腐がご飯の友になり得るとは到底思えなかった。唯一の例外は麻婆豆腐だろうが、あれはこってりと味がつけられているからこそだ。

 今、目の前にある豆腐丼には何か調味料はかかっているようだが、色味は薄く、しっかりした味つけがされているふうには見えない。薬味はたっぷりかかっているが、そちらも調味されているようではなく、味の足しになりそうもない。

 そして豆腐から湯気が立っていないところを見るに、この豆腐は生の、冷たいもののようだ。


 女の子が俺の為に手料理を作ってくれるというシチュエーションに遭遇した時、俺はいつでも快くその手料理をいただき、相手を労い、手料理の味を絶賛してきた。たとえ多少味に問題があったとしても文句を言うことはできない。作ってくれたという気持ちを評価することが大切なのだ。

 だが今回ばかりは、手をつけるのをためらいたくなった。

 味が想像できる分まずくはないだろうが、果たして完食できるだろうか。


「あ、安井さん。美味しいかどうか疑ってるでしょ」

 園田が見透かしたようににやりとした。

 図星を突かれて俺は慌てた。

「そんなことない。食べたことがないから驚いてただけだ。ちゃんと食べるよ」

「安心していいよ。うちのお姉ちゃんも最初半信半疑だったけど、すぐにはまってたから」

「そうなのか……じゃあ、いただきます」

 そこまで言うならと、俺は卓上に置かれていたレンゲを手に取った。

 丼を持ち、レンゲの先で薬味がかかった豆腐とご飯を程よい分量だけ掬う。

 ちらっと園田の方を見る。彼女はよほど自信があるのか、満面の笑みを崩さずに俺を見守っている。本当に、心から、俺が美味いと言うに決まっていると信じて疑わない顔つきだ。

 ここは多少口に合わなくても精一杯彼女を誉めてやろう。その上で、改善点があればそれとなく告げてみることにしよう――そう思いながら俺はレンゲを口に運び、押し込んだ。

 一口めの率直な感想は、意外と悪くない、だった。

 ひんやりと冷たい豆腐には鰹だしベースの味つけがされていて、醤油を加えたのかきちんと塩気もあった。薬味が豆腐の深い味わいと醤油の塩気を引き立てて、その部分はとても美味いと感じた。

 問題のご飯はまさに炊きたてという温かさだったが、その熱が冷たい豆腐と混じり合い、中和され、程よい温度になっていく。和風の味つけがご飯に合わないはずはなく、そうおかしなものではないんじゃないか、と思えた。

「どう?」

 園田が尋ねてきたが、一口めで安易な感想を告げることは避けたかった。

 俺はすぐさま二口めを掬い、食べた。

 確かに、悪くない。崩された豆腐の冷たさが炊きたてご飯にちょうどいい。豆腐の淡白な味はご飯に馴染まないのではと思っていたが、そこに調味料、そして薬味が加わるとむしろ味わい深く感じた。口解けよく、さっぱりと食べられるのもいい。

 つまりこれは、

「美味い。思ったより……」

 つい、本音が口をついて出た。

 言った直後に我に返って、俺は急いで弁解した。

「あ、いや、まずそうだと思ってたわけじゃないからな。ただこんなに美味いとは思わなくて」

「そうでしょ? 皆、初めはそんな感じなんだよね。本当に美味しいのって態度で」

 園田は誇らしげに語る。

「でも実はめちゃくちゃ美味しいんです。すごいでしょ、豆腐の底力」

「確かにすごいな。豆腐もだけど、園田も」

「私は何にもしてないよ。ただご飯炊いて豆腐乗っけて調味料かけただけだよ」

 彼女は謙遜するでもなく言い切ったが、それだけではこんなに美味くはならないだろう。彼女が手を加えたからこそ淡白な豆腐がご飯に合う味になったことは間違いない。

 それによく見ればネギの切り方も丁寧だ。付け合わせのかぼちゃサラダもほっくりとした品のいい味つけだった。味噌汁も塩加減がちょうどよく、具の大根もきれいな銀杏切りできちんと火が通っている。

「味噌汁の具は、やっぱ大根だよな」

 俺がそう言うと、彼女は興味深げに食いついてきた。

「安井さん、大根のお味噌汁が好きなの?」

「ああ。一番美味いと思う、食べ応えもあるし」

「そっか、覚えとくね」

 園田は頷きながら、自らも熱心に豆腐丼を口に運んでいる。

 俺もすっかり豆腐丼にはまってしまって、気がつけば丼が空になっていた。


「はあ、美味かった。ごちそうさま」

 レンゲを置いて手を合わせてから、俺は改めて彼女に告げた。

「こんなに美味い手料理を、作ってくれてありがとう」

「どういたしまして。私も好きな献立だから、気に入ってもらえたなら嬉しいな」

 彼女もちょうど食べ終わったところのようで、同じように手を合わせながらそう言った。口元をほころばせた表情は満足げで、満腹の充実感ともあいまってか、何だか幸せそうだった。

 見ていると俺まで満ち足りた、幸せな気分になってくる。

「また作ってくれる? 豆腐丼、俺の中でブームが来そうだ」

 ねだってみたところ、園田はぱちぱちと目を瞬かせてから微笑んだ。

「もっちろん! いつでも作るよ、うちは豆腐を常備してるからね」

「すごいな、そんなに豆腐好きなのか」

「好きだよ。豆腐丼は、特に夏場が最高だよね」

 確かに食欲の落ちる夏場には、冷たい豆腐を乗せたご飯がちょうどよさそうだった。八月の繁忙期は忙しい上に暑さのせいで食事を抜いてしまうことも多いが、こういうメニューならするりと食べられそうだと思う。

「安井さんにも喜んでもらえてよかった。美味しいって食べてもらえて、嬉しいな」

 食器を片づけ始める園田が、朗らかな声でそう言った。

 その時、少しだけ胸が痛んだのは、食べる前に疑ってかかってしまったことに対する罪悪感のせいかもしれない。

 いや、前にも似たようなことを彼女に対して感じていたからか。

 好きになるはずがないと思っていたのに。


 食器を洗うのを手伝おうかと申し出たが、『すぐ済むから』と断られた。

 その言葉通り、後片づけを瞬く間に済ませた園田は、きれいに拭いたテーブルを持ち上げて奥の部屋へと運んだ。それからテレビを点け、ボードの引き出しから映画のDVDを数枚取り出し、テーブルの上に並べた。

「今、お茶入れてくるから。どれが観たいか安井さんが選んでよ」

「ありがとう。なら選んでおく」

 俺はその頼みを了承し、早速卓上に並べられたソフトを吟味し始めた。


 ただ請け負いはしたものの、彼女の手持ちの映画はどれもハリウッドお得意のド派手なアクションばかりだ。タイトルはどれも俺が知っている作品ばかりで、いくつかは確実に観たことがあった。

 もちろんそれが悪いわけじゃない、むしろ観たことがあるからこそ楽しめるものもあるのだが――はっきり言ってしまうと、部屋の中、二人きりで観るのにふさわしいようなしっとりした映画がないのが惜しいと思った。

 園田の趣味はわかりやすい。どの映画もアメリカ、あるいは地球全土に訪れた危機をヒーローが銃なり兵器なりをぶっ放して解決するものだ。どれも恋愛要素が皆無というわけではないのだが、デートムービーと呼ぶにはいささか色気が足りない。ただ安心して観られるのも確かだ。それに俺も、一人で観る時はこういう爽快さ優先の映画が好きだった。


 その中から多少はラブシーンがありそうなものを、と記憶を頼りに選び出すと、お茶を入れた園田が戻ってきて、テーブルの上にカップを二つ、並べて置いた。

「安井さん、いいのあった?」

「ああ、これ。前に観たことあるんだけど、面白かったから」

 彼女は俺からパッケージを受け取り、腑に落ちた様子でそれを開く。

「これ面白いよね。私も好きだよ、暇な時とかつい見ちゃう」

 ディスクを取り出し、プレイヤーにセットした園田は、その後何を思ったか、テレビの横にあった窓のカーテンを引いた。

「眩しいと雰囲気出ないかなと思って」

 窓の半分をカーテンで覆った後、彼女は俺の方を振り返る。

 午後の日の光を透かした短い髪が明るい色に光っていた。対照的にワンピースの裾から伸びたラインのきれいなふくらはぎは、遮光カーテンが作る薄暗がりの中で白く浮かび上がって見えた。

「両方閉めたら暗いかな? 目疲れる?」

「いや、映画館みたいでいいと思うよ」

 俺は下心を押し隠しながら答える。食欲が満たされると今度は別の欲が募り出す、人間の身体は実に正直にできている。

 それで園田は両方のカーテンを閉め、微かな隙間明かりだけが漏れる状態にしてから戻ってきて、俺の右隣に座った。画面の中では早くも映画が上映を始めている。

「映画館にしては画面ちっちゃくて、ごめんね」

「別に気にならないよ。園田と二人で観られるなら」

 この場合は映画の内容よりも、二人きりで、薄暗い空間の中にいるという事実の方が重要だった。映画デートなんてそんなものだ。

 園田が俺を見て、どう反応していいのかわからないという顔をする。

 俺はそんな彼女に少しだけ近づいて、映画館みたいな暗がりの中でその手を探り当て、しっかりと握った。柔らかくて、冷たさが心地よい手だった。

 彼女は戸惑いがちに口を開く。

「手、繋いで観るの?」

「駄目か?」

「駄目じゃないけど……集中できるかなあ」

 集中する気なのか。彼氏を部屋へ招いておいて。

 俺は黙って、テレビ画面に視線を向けた彼女の姿をしばし眺めた。

 床の上で、俺に左手を取られているので右手だけで膝を抱えて座っている。ワンピースの裾は彼女の膝を覆っていたが、ふくらはぎは剥き出しのままだった。こうして映画館と同じ薄闇の中で見ていると、彼女の肌は白く、より美しく見えた。

 園田は俺の視線に気づいているはずだが、あえて頑なに画面を注視している。不自然に瞬きが多く、時々困ったような顔つきをする。その表情に、早くも賑々しく物語を展開し始めた映画の光がちらついて、いろんな色が次から次へと過ぎっては消えた。


 一つ、気になっていたことがある。

 彼女はなぜ、俺を部屋へ招いてくれたのだろう。

 手料理をごちそうしたいから、まだ人目を避けていたいから。建前としての理由はそんなところだろう。だから俺はその誘いを暗黙の了解だと思い、下心満載でお招きにあずかったわけだ。おまけに今日の彼女は真新しいシャツワンピースを着ていて、それが随分と色っぽく見えて仕方がなかった。

 ただ引っかかっていることもあった。先月、臨海公園で彼女とキスした時の反応だ。園田は初めてではないと言っていたし、激しくうろたえた理由を『好きな人とだから』と答えた。俺としてもその言葉を疑うつもりはないが、だとしても彼女が初心で、恋愛に慣れた様子がないこともまた疑いようはなかった。

 そんな彼女が、こんなにも早々に俺を部屋へ招いたことが意外だった。

 まさかこの歳で、男を部屋に連れ込むことの意味を知らないというわけでもないだろうに。いくら園田が初心でも、可能性を全く考えていないということはないだろう。もしかしたら、と多少なりとも想像を巡らせてはいたはずだ。

 俺も少しくらいは期待してもいいはずだ。


 繋いでいた手を軽く握ってから、俺は彼女に顔を近づけた。

 園田がまたうろたえ、小声で尋ねてくる。

「映画、観ないの……?」

「園田は観てた?」

「み、観てたよちゃんと。少なくとも、安井さんよりは」

「俺は映画よりもキスしたい」

 そう告げたら、彼女は逃げるように目を逸らした。

「何言って……駄目だよそんなの、緊張しちゃうよ……」

「駄目?」

「……じゃないけど。安井さんの馬鹿……!」

 口ではそう言いながらも、彼女は震える瞼をゆっくりと、慎重に閉ざした。

 俺は彼女の唇を塞ぎながら、空いていた左手をその肩に置き、強引すぎない程度に力を込めて床に押し倒した。

 呆気ないほどすんなり押し倒された園田が、それでも直後、ぱちりと目を開けた。

「え……ええっ? あ、あの、安井さん、これって……」

 映画館みたいな暗がりの中、園田はいつになく心細げに俺を見上げていた。

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