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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
63/205

ふたりの幸せな日に(1)

 当分の間、付き合ってることは秘密にしよう。

 そう言い出したのは彼女の方だった。


「何で?」

 俺は園田の提案を聞いた時、まず即座に聞き返した。

 異論があったわけじゃない。彼女がどうしてそんなことを言い出したのかちゃんと理解もしていたが、単に彼女の可愛い反応が見たかったのだ。照れ屋な彼女らしい事情があると察していたからでもある。

「俺と付き合ってるって知られるの、嫌?」

 重ねて問うと、自転車を押して歩く園田は慌てたように頭を振った。

「ち、違うよ。そうじゃなくて……嫌なわけないじゃない」

 はにかみ顔で付け加えられた言葉に、自然と口元が緩む。もっともわざと言わせたと知れたら彼女は怒るだろうから、なるべく顔には出さないよう努めた。

「嫌だって言われたらどうしようかと思った」

 俺が胸を撫で下ろすと、園田はフォローするように早口になった。

「あのね、安井さん。嫌だったらそもそも一緒になんて帰らないよ」

「それもそうか」

 この時点で、付き合い始めてからまだ一週間も経っていなかった。

 だが俺は少しでも彼女と一緒にいたくてたまらなくなっていた。いくら同じ会社とは言え部署が違うから毎日顔を合わせられるわけでもなく、特に外回りばかりの俺はなかなか社内で園田にめぐりあえずにいた。付き合いたてだというのに接点がないのはもどかしいもので、今日はとうとう彼女に言って、退勤時間を合わせてもらった。

 会社から駅まで歩くわずかな時間でいいから、二人で話をしたかった。


 園田は、

「私は自転車で来てるけど」

 と言いつつ、少し遅れた俺を会社近くのコンビニで待っていてくれた。

 そこから駅までの道を、自転車を押す園田と並んで歩いた。

 あの日と同じように、今夜の園田もスポーツウェアで決めていた。今日はキャスケット型ヘルメットにフード付きのシャツ、ショートパンツ、そしてスパッツという組み合わせだ。自転車の日はいちいち会社で着替えてから帰るという話だった。

 営業の仕事は残業があるのが当たり前で、今夜も最大限急いだにもかかわらず、既に午後九時を過ぎていた。彼女は自分も残業だったと言っていたが、いくらかでも待たせてしまったことは心苦しい。仕事が一段落したら必ず休日を使って、彼女を誘おうと決めていた。

 今はまだ、二人きりで話せるだけでもよしとしておこう。


「今日は一緒に帰ってくれてありがとう。嬉しいよ」

 俺が礼を告げると、園田は柔らかく微笑む。

「そんな、私の方こそだよ。誘ってくれて、すっごく嬉しかった」

 あれから彼女は少しだけ変わった。俺に対してよりわかりやすく好意を示してくれるようになった。以前みたいな諦め交じりの目をすることがなくなり、代わりに違う目で俺を見るようになった。

「だからね、私もこそこそするのはよくないって思うんだけど……」

 園田はちらりと俺を見上げる。

 以前よりももっと親しみを込めた、信頼と甘えといとおしさが感じられる眼差しだった。

 そういう目を向けられるのが心地よくて仕方ない。もっと見ていて欲しいとさえ思う。

「よくないと言うより、不毛じゃないか。どうせいつかはばれることだろ」

「そうかもしれないけど。今はまずいの」

 この場にいない誰かを警戒するように、彼女が声を落とした。

「例の合コンで誘った子達は私と安井さんが一緒に幹事やってたって知ってるし、合コンは流れたのに私達が付き合い出したって言ったら抜け駆けしたようなものでしょ?」

「俺が幹事だって皆に言ったのか」

 いちいちそこまで触れ回るものかと俺は疑問に思った。俺は女側の幹事が誰かなんて、石田にすら話していなかったからだ。

 すると園田はじとっと俺を見て、憂鬱そうに答えた。

「安井さんの名前出すと食いつきが違うからね」

 なるほど、そういうことか。喜ぶに喜べないが。

 俺が納得したからか、彼女は少し困ったように続けた。

「だから今は時期がまずいかなって。抜け駆けしたのは確かに、事実なんだけど」

 そうだとしても責められるいわれはないはずだ。こういったことは常に手の早い奴が勝つ。何もしないで手をこまねいている奴が悪いのは当然だが、一瞬でも流れを読み間違えて遅れを取れば、その時点で負けが決まる。俺もそれでついこの間、後輩に先を越されたばかりだった。

 だが災い転じて福となすとでも言うのか、お蔭で可愛い彼女ができた。

「それに同じ社内でっていうとほら、いろいろ……ね? 仕事に差し障りそうだし」

 園田が言いにくそうにしていたので、俺はからかうつもりで応じる。

「俺は社内恋愛でも問題ないけどな。可愛い彼女ができて、かえって仕事も捗りそうだ」

「な、何言ってるの! わざとそういうこと言わない!」

 わざとだと見抜かれたようで、園田が自転車を押す肘で俺をつついてきた。

 決して痛くはなく、むしろ照れ隠しのその態度が見ていても可愛くてたまらない。俺は思いきり笑っておいた。

「まあ、しばらく隠しとくのは賛成かな。他の奴はともかく、石田にはまだ言いづらい」

 打ち明けるならまずあいつに、とは思う。

 だからこそ今はまずい。石田も立ち直ったとは言え、霧島に続いて俺までいい話があると知れればさすがに拗ねるだろう。

 俺としてもどうせなら祝福される報告をしたい――なんて思うのは柄でもないか。


 少し浮かれているのかもしれない。

 それこそ柄にもないことだが、『彼女』ができるのは久し振りだった。まさか園田とこういうことになるとは思ってもみなかったが、傍にいるとむしろ今まで考えもしなかったことが不思議だった。

 彼女は気安く軽口を叩き合え、とても話しやすい、そして居心地のいい存在だった。

 それでいて時折見せる、同期の友人としては目にすることもできなかった態度や仕種に心を惹かれた。


「そうだね。石田さん、辛い思いしたばかりだからね」

 園田は奴に随分と同情を寄せているようだ。今も気遣わしげな顔をしている。

 俺は彼女の心配を解きほぐす為に笑いかけた。

「でもあいつはもう時間の問題だ。今じゃ普通に元気になってるからな」

 そして今度は、彼女の為に笑った。

「少ししたらちゃんと話そう。俺はいつまでも隠しておきたくない」

 社内恋愛が楽しいばかりでないのはわかっている。

 周囲の雑音が煩わしいことも、霧島達を見ていればわかる。仕事に差し障るという園田の言葉もそう的外れではないだろう。

 だが同時に俺はあいつが羨ましい気持ちにもなっていて――来年の花火大会は、俺が園田を誘ってみようかと、そんなことまで考えていた。

 俺を見上げる園田は一瞬だけうろたえた後、迷いを振り切るように微笑んだ。

「――うん、そうだね。そういう日が来るって、ちょっと想像つかないけど」

 正直に言えば、俺も想像はつかない。

 石田は園田のこともよく知っているだけに、きっと不思議がるだろう。お前らいつからそんな関係だったんだと突っ込まれるのが目に浮かぶようだ。もちろんその時は適度にあしらいつつ当たり障りのない答え方をするつもりだが、実際にそう振る舞えるかどうかは自信がなかった。

「いっそ思いっきり見せつけてやろうかな」

 口ではそう言っておく。

 園田は目を白黒させて慌てふためいた。

「や、やめようよそういうの! お互いいたたまれないじゃない!」

「そうかな。石田を羨ましがらせてやるのは楽しいぞ、きっと」

「絶対恥ずかしいだけだよ……。よく平気でそういうこと言えるね、安井さんは」

「幸せいっぱいだからだろうな。そういうこと言えるのは」

 浮かれ気分から、そんな言葉さえ口をついて出る。

 俺が笑っていたからか、園田はしばらく口をぱくぱくさせた後、真っ赤になりながらも笑い返してきた。

「そ……っかあ。安井さんも、幸せなんだね」

 彼女の笑顔はあの日思った通り、いいものだった。


 駅までの距離はゆっくり歩いたところでせいぜい十五分というところだ。

 彼女と歩けるのもたったそれだけ。別れ際には『楽しかった』という思いよりも『足りない、もっと話したい』という思いが上回る。

 往生際悪く話を引き伸ばしたい衝動にも駆られ、しかし現在の時刻、そして明日が仕事であることを思い出してようやく彼女を帰す気になる。

「気をつけて帰れよ、園田」

 この時間になるといつも下りてくる前髪をかき上げながら、俺は彼女に声をかける。

 駅の前で自転車を支えながら佇む園田は、やはりいい笑顔を浮かべている。

「うん、安井さんもね。また会社で会おうね」

 嬉しそうにしてくれるのはいいが、もっと別れを惜しんでくれてもいいのになと思わなくはない。


 時間が足りないと思っているのは俺だけで、彼女はこういう付き合い方に満足しているようだ。

 待ち合わせて一緒に帰って、あとは空いた時間にメールか電話をするだけという牧歌的男女交際。それが楽しくないとは言わないが、直にもっと進めたくなるとわかっている。少なくとも俺は、今以上にもっと園田を知りたいと思っている。

 園田伊都。名前の通り一月十日生まれで趣味は自転車。好きな食べ物は豆腐で、実家はここより遠く、現在はこの市内で一人暮らし。

 あとは――俺より二つ年下なことと、彼女の明るく朗らかな性格、そして笑顔。一緒にいたいと思うほどの魅力があることは知っていても、知らないことはまだたくさんあるはずだ。そういうことも、もっと知りたくなっていた。

 だからこそ時間が欲しい。もっと二人でいられる時間が。


「今度、暇ができたらどこか行こう。仕事落ち着いたら誘うから」

 俺が持ちかけた拍子、また前髪が下りてきて視界を遮る。鬱陶しく思いながらそれをかき上げると、園田が俺を見て目を瞬かせた。

「安井さんっていつも前髪邪魔そうだよね」

「そうなんだ。ちゃんと固めてくるんだけど、夜になると落ちてくる」

 彼女の問いに苦笑して答える。悩みというほど深刻なものではないが、鬱陶しいとは思っていた。

 園田はしばらく観察でもするように、しげしげと俺を眺めてきた。

 その後で確信したような面持ちになり、ふっと笑む。

「ね、いっそ髪切ってみたら?」

「え? 俺が?」

 髪をかき上げながら俺は聞き返す。


 切ることを勧められたのは初めてではなかった。

 むしろいろんな相手から、しょっちゅう言われていた。

 それでも俺が邪魔だ鬱陶しいと思いつつも前髪を短くしなかったのは、自信がなかったからだ。よく似た顔立ちの兄が学生時代に短髪にしていたのだが、その時の印象からどうも子供っぽいと思っていて、今日までずっと長めのヘアスタイルを維持していた。


「絶対似合うと思うよ、安井さんなら」

 園田の口ぶりは自信たっぷりだ。

「思いきってばっさり、短くしてみたらどうかな。その方が邪魔じゃないだろうし」

「そりゃ邪魔ではなくなるだろうけど……短くって、どのくらいだ?」

「もうばっさり。潔く短髪にしちゃおうよ」

「本気か? そんなに短くして、似合わなかったらしばらく気まずいだろ」

 彼女の勧めとは言え、さすがに俺も怖気づいた。ちょっとした服や装飾品の趣味なら合わせてもいいのだが、髪型は一度大きく弄ると取り返しがつかないものだ。

「ううん、大丈夫。似合うって保証してもいいよ」

 熱心な口調で園田は訴えてくる。声だけじゃなく目つきまで真剣だ。

「だって安井さん、頭の形がいいんだもの」

「あ、頭の形?」

 予想外のところを誉められて、俺は軽く仰け反った。

 だが園田は平然と続ける。

「せっかくきれいなラインしてるんだから、髪も短くした方が生かせていいと思うよ」

「頭の形か……そんなとこ、初めて誉められたよ」

「うん。それに目とか鼻とか口の形も、一つ一つが男前って言うかさ、素材がいいんだよね」

「そこまで誉められると照れるな」

 顔を誉められるのは悪い気がしないし自覚もあったが、頭の形は意識したこともなかった。確かめるように自分で頭を触ってみたが、形がいいかどうかはわからなかった。

「だから絶対、短髪の方が似合うと思う。変に髪型工夫するより、さっぱり切っちゃったらもっと格好よくなると思うな」

 園田があんまりにも勧めてくるものだから、俺もいくらかその気になってくる。

 少なくとも彼女はいいと言ってくれているのだ。たとえ他人からの受けが悪くても、試してみる価値くらいはあるかもしれない。もし子供っぽく仕上がってしまったら、若気の至りとして笑い飛ばせばいい。園田なら一緒に笑ってくれる。

「もし俺が短くしたら、惚れ直してくれる?」

 そう尋ねてみたところ、園田はどぎまぎしたように目を伏せてから、こくんと顎を引く。

「み、短くしたらって言うか……うん。似合うってわかってるからね」

「そこまで勧められたら試したくなるな」

「一度試してみてよ。私、ずっと短い方が似合うなあって思ってたんだから」

 ずっと、か。

 いつからそう思ってたんだろうな、彼女は。

 他人の頭の形なんて、たとえ惚れた相手でもそうそう気にするものじゃないだろうに。

「にしても、よく見てるんだな、俺のこと」

 俺が感心したように告げると、園田はそっぽを向きながらも言った。

「まあ……ね。それは何て言うか、す、好きな人のことだからね……」

 なかなか、ぐっと来ることを言ってくれる。


 彼女自身も髪は短く切り揃えている。

 風が吹くとヘルメットの下で短い髪が揺れ、白い襟足が覗いた。

 帰したくないなと思うのは、気が早すぎるだろうか。


「わかった。今度、試してみるよ」

 俺は意を決した。

 前髪の鬱陶しさから逃れられるならありがたいことだし、園田も随分と自信ありげにしている。俺をよく見てきたという彼女だからこそ、きっとその助言も的確なものだろうと思えた。

「切ったら一番に見せるから、正直に感想言ってくれよ」

「うん、任せて。でも私、本当にすっごく自信あるからね」

「そうか、そうだろうな。『好きな人』のことだもんな」

 意味ありげに繰り返してやると、園田は半分笑いながら唇を尖らせた。

「意地悪……そういう言い方しなくたっていいじゃない」

「嬉しかったんだよ、園田の言葉が」

 彼女の好意自体もそうだが、『好きな人』なんて言われたの、何年ぶりだろうな。

 もしかすると一桁じゃ済まないかもしれない。恋愛をしてこなかったわけじゃないのになぜか大人になるにつれて縁遠くなったその言葉を、いやに感慨深く噛み締めている。

 確かに牧歌的だが、こういう恋も悪くはない。

「あ、何か恥ずかしくなってきた……私、そろそろ帰るね」

 園田がうろたえながら愛車に飛び乗る。こういう時でもバランス一つ崩さないのは見事なものだ。

 俺は頷き、彼女に向かって手を挙げた。

「さっきも言ったけど、気をつけて帰れよ。何か動揺してるみたいだし」

「誰のせいだと思ってるの!」

「俺のせい? 先にどきっとするようなこと言ったのは園田だろ」

「でも安井さんは平然としてるじゃない。こっちはすごくどきどきしてるのに」

 サドルの上で深呼吸をした後、園田は恥ずかしそうに笑んで俺を見上げた。

「本当に事故らないよう、気をつけないと。じゃあね、安井さん」

「ああ。デートの件も、時間できたら連絡するからよろしく」

「うん、でも忙しい間は無理しないでね」

 園田はそう言うと、ペダルを蹴るようにして颯爽と自転車を漕ぎ出した。

 車道へ出た彼女の自転車を見えなくなるまで見送ってから、俺も駅の中へと足を向ける。


 一人で電車に乗り込んだ後、夜の街を背景にした車窓をぼんやり眺めていたら、ふとそこに映った自分の顔が見えた。

 垂れ下がってくる前髪が邪魔そうな、多少お疲れモードの若きサラリーマン。さっきまで彼女と一緒にいたのもあっていくらか寂しげにも映る。癖のように前髪をかき上げると、さっきのやり取りでも思い出したか口元には笑みが浮かんだ。

 短髪か。それこそ思いきった挑戦になりそうだ。

 でも、ああまで似合うと言われて試さない手はない。俺はすっかりその気になっていた。

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