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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
6/205

誰かの幸せな日に(3)

 安井さんは、二杯目にジンフィズを頼んだ。

 そしてそれが運ばれてきてから、ごく何気ない調子で私に尋ねた。

「園田は、結婚しないのか?」

 唐突な質問に、私はむせかけるところだった。

「えっ、何。いきなり何を聞くかと思えば」

 付き合っている相手はいないのか、じゃなくて、結婚しないのかと聞いてきたあたり、私の色気のない暮らしぶりなんて安井さんにはばればれなんだろう。こっちも隠しているつもりはなかったし、自覚もしている。彼氏がいると周囲に誤解してもらえるような生活はしていない。

 そしてどういう聞き方をされても、答え方は同じだ。

「しないんじゃないかな」

 私が他人事みたいに答えると、安井さんは不思議そうにした。

「投げやりに言うんだな。まだ諦めるような歳じゃないだろ」

「諦めてるって言うか……まあ、それもなくはないんだけど」

 この辺りの正直な気持ちを、他でもない安井さんに伝えるのは難しい。


 以前付き合っていた時、私は自分の感情に振り回された挙句、彼に多大な迷惑をかけてしまった。

 私にとってはずっと好きだった人と付き合えて、結果はどうであれ短くも悩み多くも幸せな半年間だったけど、安井さんはその半年間で私に相当引っ掻き回されたはずだ。もう二度と同じ過ちはすまいと、私は恋愛する気さえすっかり失くしていた。

 もっとも私に次の恋を目指す意気があったとしても、この三年の間にそれらしい出会いや恋の予感があったわけでもない。

 恋愛する気がないなんて、いちいち宣言するまでもないようだった。


 だから表向きは、ある意味正直に答えておく。

「そもそもご縁がないしね。それに一人でも結構楽しいし、ちゃんと稼げてるし」

 安井さんが味わっているような寂しさも、今のところ私には無縁だ。このまま生涯独身でも困ることはないはずだった。

 ウェディングドレスだけは、一度でいいから着てみたかったけど――これもある意味、隣の芝生というやつか。羨んでばかりの生き方もしていられない。

「それに最近はずっと一人でもいい、みたいな人それなりにいるよね。結婚だけが幸せの全てじゃないみたいな。私もそんなんでいいかなって」

 私がまくし立てるのを、安井さんは真面目な顔つきで聞いていた。

 そしてこちらの話が一旦落ち着くと、口調もまた真面目に言った。

「そりゃ、結婚が全てだなんて俺も思ってないし、ちゃんと考えた上でそういう答えを出す人達がいるのは知ってるよ」

 涼しげな目元に鋭い光を閃かせて続ける。

「でも園田は、そこまで真剣に考えてないだろ?」

 思わずその目から逃げるように、私は視線を逸らした。

「……何でわかるの?」

「俺だって園田のことはよくわかってるからな」

 私の真似をするみたいに、安井さんはそう言った。

 カフスボタンが光る袖口から、男の人らしい手が伸びてジンフィズのグラスを掴む。店内に暖房が入っているせいなのか、彼のグラスも私のタンカードもうっすら汗をかいている。滑らないようにしっかりとグラスを掴む指にはいくらでも見覚えがあって、関節の目立つ指の先、短く切り揃えた爪は照明の下で白蝶貝のボタンのように鈍く光っていた。

 よくわかっているのはお互い様なのかもしれない。

 わかっていると言うべきか、覚えていると言った方が正しいのか。

「確かに、よくは考えてないかもしれないけど……」

「全然考えてないだろ」

 私の反論を、安井さんはばっさりと切り捨てる。

「いや、全然ってほどではないよ。ちょっとくらいは考えたよ」

「園田の考えなんてお見通しだ。どうせ今は相手もいないし一人暮らしに不自由してないし、このままでもいいかなんて短絡的に考えてるだけなんだろ。何年か後に今とは違う自分がいるなんて想像すらしてないはずだ」

 すごい。七割方合ってる。

 私はぎくりとしつつ、残りのモスコーミュールを飲み干した。三杯目はソルティドッグを頼む。披露宴でたくさん食べたからだろうか、すっきりしたものが欲しくなる。

「でもそういう認識でよくない? 多分困らないよ、私、一人でも」

 注文を終えてから私は、改めて言い返した。

 だけど安井さんは、それすらお見通しだというように眉を顰めた。

「今はいいだろうけど、三十過ぎたらいろいろ変わるぞ」

「そんなに?」

「まあな。周りは結婚し始めるし、そうなると無性に寂しくなるし、親はもちろん会社の上の人間までせっついてくるようになるし、そのくせ露骨に出会いは少なくなるし……」

 どうやら安井さんは私の知らないところで、そこそこ辛い目に遭っていたようだ。ついた溜息がやけに重く、実感を込めて響いた。

「園田はまだ二十代だからいいって思ってるのかもしれないけどな」

「う、うん……。と言うか、そんな違わないでしょ?」

「いや違う。もう根本的に違いすぎる。三十になってから急に結婚したくなったって、二十代の頃のようにはいかないんだからな」

 三十歳になったのがそんなにショックなんだろうか。安井さんの言葉には実感の他にも深い嘆きと物寂しさがこもっている。

 そういえばこの人、私よりお酒弱いんだっけ。披露宴でも当然いくらか飲んだだろうし、既に酔っ払っちゃってるのかもしれない。

「それに何より、気の持ちようが変わるよ」

 安井さんが呟いて、片手で頬杖をつく。

「恋愛観が、と言った方がいいのかもな。二十代の頃は鼻で笑ってきたようなことが、三十になってみたら途端に素晴らしいものだったってわかる。俺に誰かを馬鹿にする権利なんてなかったってことも――」

 そこまで言うと安井さんはどういうわけか深く俯いて、

「悪い、ちょっと酔ってきた。自分でも何言ってるのかわからない」

「そうみたいだね」

 私は頷きながら、運ばれてきたばかりのソルティドッグに口をつける。それから、まだ俯いている安井さんに声をかける。

「そろそろお開きにする?」

「園田が飲み終わってからでいい」

 そう言うと安井さんはようやく顔を上げた。

 だけどその後は黙ったまま、言葉を探すみたいに視線をテーブルの上に彷徨わせている。

 愚痴を零し足りないのかもしれない。鬱憤と言うか、寂しい気持ちがよっぽど積もり積もっていたんだろうなと思わせた。


 私も、他人事ではないのかもしれない。

 今はまだ全然実感ないけど、あと二年もすれば私も三十歳になる。二十八歳の誕生日にはその数字をそれほど重く捉えていなくて、来年もこんな調子で誕生日迎えるんだろうなと考えていたけど、再来年はもしかしたら違うのかもしれない。

 その時、私もこんなふうに、無性に寂しくてたまらなくなってしまうだろうか。


「……私も、結婚しようかな」

 ふと、思いついた考えが口をついて出た。

 その途端、安井さんが酔いに揺れた、うろんげな目を向けてくる。

「誰とだよ」

「いや、誰って言うか。相手がいたら、見つかったらしようかなって」

 その辺、突っ込んで聞かれると恥ずかしい。相手もいないのに結婚したいなんて、願望だけ語るのは夢を見ているみたいで照れる。

 でも、幸せな結婚式を見てきた後だ。相手はいないし見つかる気もしないけど、もしそういう機会があったら逃さないようにはしたいな、と思った。その時私が恋愛する気分になっているかもわからないけど――もしかしたら気が変わる日がいつか来るかもしれない。

「今まではしないつもりだったけど、しないって決めてかかるのもよくないなって、安井さんの話聞いて思ったんだ。ウェディングドレスも着たいしね」

 照れながら打ち明けると、安井さんには心底呆れられたみたいだ。

「さっきまではしない気満々だったくせに……ころっと考え変えてきたな」

「だから、今まではって言ってるでしょ。これからはもうちょい前向きに考えるよ」

「相変わらず短絡的だな、園田は。どうせ明日にはまた違うこと言ってるだろ」

「そんなことないよ。安井さんの深刻さ見てたら、他人事じゃないなって思ったもの」

 私はそう言うと、残りのお酒をゆっくりと味わいにかかる。

 安井さんはしばらく何か言いたげに私を見ていたけど、やがて軽く笑い声を立てた。

「まあ、園田だったら。その気になれば相手くらい簡単に見つかりそうだよな」

「そうかな……。安井さんほど簡単じゃないと思うよ」

「でもないだろ。お前も十分、可愛いよ」

 ぽつんと落とされた一言に、私は硬直した。

 すると安井さんは急に得意げな顔になって、

「さっきの仕返し」

 と言った。

 仕返しって何だ。

 と言うか可愛いって何だ。それは彼女でもない相手に言っていい言葉じゃない。

 びっくりしたのを顔に出すのは癪だから、精一杯顔を顰めてやった。

「何それ。仕返しって何のこと?」

「俺のこと格好いいって言っただろ」

「ああ……でも何で? 誉めたんだよ、私」

「俺だって誉めてるんだよ。嘘でもお世辞でもない」

 それを仕返しと言う安井さんは、すっかりやさぐれてしまったみたいだ。素直に誉め言葉も受け取れないのか。全く困ったものだ。

「誉めて欲しくないなら言っといてよ。安井さんのこと、どんな格好してようと一切誉めないようにするから」

 私がむきになると、安井さんはおかしそうに笑い出した。

「そうじゃないよ。けど、普段あんまり誉めてこない相手に急に誉められたからな」

 吹っ切れたように、明るく笑いながら言った。

「どきっとするだろ、そういうのって」

 それはその通りだと、グラスを傾けて表情を隠しながら私は思う。

 可愛いなんて言ってもらったのは、それこそ三年ぶりくらいだ。

 仕返しだと言い添えられていなければ、どきっとしていたかもしれない。


 バーを出たのは日付が変わった直後くらいだった。

 どうせお互い電車で帰るから、駅まで一緒に歩いた。外は相変わらず冷え切っていて、式の名残りのように時折雪がちらついていたけど、程よく酔いの回った身体には心地いいくらいだった。

「今日は楽しかったよ。ありがとう」

 歩きながら、安井さんがお礼を言ってきた。

 その口調が妙に寂しそうだったから、私はつい吹き出してしまう。

「本当に?」

「何だよ。何で疑うんだよ」

 安井さんは声を尖らせたけど、私は尚も笑いながら答えた。

「だって安井さん、すっかりやさぐれてたから。いい気分で飲めてた?」

「お前がいなけりゃもっと酷いことになってた」

 ぼそりと呟いた答えは、間違いなく本当だろうなと思う。

 思い出話以上に、今の安井さんには愚痴を零す相手が必要だったんだろう。これで元気になってくれるといいんだけどな。

「でも今夜だって、園田が結婚してなかったから誘えたんだよな」

 安井さんがそう言うから、私はふざけてやり返す。

「本当だね。もし私が人妻だったら、こんなふうには付き合ってあげられなかったよ」

「そうだな、お前が独身のままでよかったよ。何ならもうしばらく独身でいろよ」

 更にやり返されたので、私は内心苦笑した。あれだけ私に考えてないだの短絡的だのとお説教みたいなことを言っておきながら、独身でいろと来ましたか。何という矛盾っぷりだ。

 何と言い返してやろうかと隣を歩く顔に目を向けた時、安井さんもこっちを見て、なぜか優しく微笑んだ。

「また誘ってもいいか? お前が迷惑じゃなかったら」

 それで私は視線を外し、粉雪がうっすら積もった道を見下ろしながら黙り込む。


 迷惑かと聞かれたらそうじゃない。

 私だって今夜はすごく楽しかった。それも事実だ。

 何より、なかったことになってるんだから。今夜だってお互い、昔のことを匂わすようなことは言わなかった――と思う。

 過去の諸々がノーカウントになっているのなら、私達は同期の友達としてたまにお酒を飲むくらいは許されるんじゃないだろうか。許すも何も、誰に文句を言われる筋合いだってないだろうけど。

 どっちかに恋人ができたり、結婚したりということでもない限り。


「いいよ」

 私は、自分なりに考えて答えたつもりだった。

 安井さんもこの答えを短絡的だとは言わなかった。むしろちょっと嬉しそうにしていた。

「じゃあ、また誘う。……と言っても今月から忙しいし、次に誘うのは新年度になりそうだけどな」

「あ、それは私もだよ。異動あるし、四月は何かと慌しそうだし」

「なら五月辺りにまた」

 そう言って、安井さんは雪が降ってくる空を見上げる。

「その時は、今夜よりは楽しく飲めるようにするから」

「別にいいよ。愚痴くらい聞くって」

 すかさず私は応じた。

「やさぐれる安井さんってなかなか見れないし、面白かったよ」

「面白がるなよ」

 安井さんは私を軽く睨んだ後、すっきりした顔になって、笑っていた。

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