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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
52/205

さよならは言わない(5)

 買い物を済ませた後は映画を観に行った。

 前にも二人で行ったショッピングモール、そこの最上階にシネコンが入っている。モールの駐車場に車を入れた後、一気に最上階を目指した。

 観る映画は決めてあった。私と彼は好きな映画も割とよく似ていて、上映中の作品の中から絞り込むのは簡単だった。

 私にとってのいい映画の条件は一つだ。

 観終わった後ですっきりできるもの。それだけ。

 アクションだったら銃をバンバン撃って、どーんって爆発して、丸く収まってハッピーエンドみたいな映画がいい。恋愛物なら何だかんだで上手くいく明るいラブコメ。ファミリー向けはあんまり泣かせに来ないのがいい。どれも結末はすっきり明瞭だと最良。映画を観てまで頭を使いたくはないからだ。

「映画の好み、変わってないな」

 私の要望を聞いた安井さんはほっとしたように笑っていた。

 昔、私の部屋で一緒に映画を観たことを思い出したのかもしれない。

 いつか大手を振って映画館に行けるようになりたい――なんてことを、あの頃は思っていた。叶ってしまえばすごく簡単なことだった。


 事前にネットで予約を済ませていたから、私達はスムーズに入場することができた。

 座席はやや前列よりの真ん中辺り、もちろん彼とは隣同士で座る。ポップコーンはキャラメル味にして、ホットドッグも二つ買った。ドリンクはお互いホットコーヒーだ。

「園田はビールでもよかったのに」

 安井さんはメニューを見てそんなことを言っていたけど、まだ昼間だし、私一人で飲むというのもつまらないからやめておいた。

「でもお酒飲める映画館っていいね。今度はバスで来る?」

 上映が始まる前に私が切り出すと、左隣に座る彼はちょっと考えてみせて、

「酒飲むんなら、部屋で観る方がいいな。酔っ払うと帰りが困る」

「酔っ払うだけ飲まなきゃいい話じゃない?」

「俺は園田ほど強くないんだよ、知ってるだろ」

 知ってるけど、さすがにビール一杯で酔っ払うほどではないはずだ。むしろお酒を飲む時は部屋でのんびり飲みたい、ってことなのかもしれない。


 そういえば私の部屋で映画観る時も、二人で缶ビール飲んでたな。

 映画館真似てコンビニでポップコーン買ってきて、二人並んで床に座って、ばりばり食べながら映画観てた。本物の映画館みたいにしようって窓のカーテン引いて、部屋を真っ暗にしてみたけど、私の部屋の三十二インチのテレビじゃ臨場感も何もあったものじゃなかった。

 今、目の前にしているスクリーンは私の部屋のテレビが軽く十個は入るようなサイズだ。こんな大画面で私達好みの映画を観たら、さぞかしすっきりできることだろう。


「あ、しまった」

 右手にポップコーン、左手にホットドッグを持った安井さんが、ふと気づいたように呻く。

 私がそちらを向くと悔しげな顔をされた。

「両手が塞がってるから手を繋げない。せっかく映画館に来たのに」

 座席にはドリンクホルダーはついているけど、食べ物を置くスペースはない。安井さんの両手はものの見事に塞がってしまっている。

「食べ終わったらいくらでも繋げるよ」

 そう言ったら彼は深く頷き、

「じゃあ急いで食べてしまおう」

 応じるや否やホットドッグにかじりつき出した。まだ予告編も何も始まっていないというのに。

 私はその姿を横目に見ながら、せっかくだから付き合ってあげるかと一緒になってホットドッグを食べる。

 思えば昔も、映画観ているうちにいつの間にか手を繋いでいたっけ。最初に繋いでくれたのは彼の方からだったけど、慣れたら私からも繋げるようになった。安井さんは時々私の手のひらをくすぐってきたり、そうかと思えば指を絡めてきたりと悪戯にも余念がない人だったけど、それも含めて二人で映画を観るのは本当に楽しかった。幸せだった。

 ちょっと前までは思い出すと切なくなった記憶が、今ではわくわくするような思い出に変わっていた。これってすごいことじゃないだろうか。

「……よし、食べ終わった」

 ホットドッグを口に押し込んで、飲み込んでしまった彼が、妙に張り切って私の左手を握ってきた。

 私はまだホットドッグを食べ終わってなかったけど、にやにやしながら黙って繋がれておく。

 こちらを向いた彼が同じようににやりとした時、唐突に照明が落ちて、対照的に目の前の大きなスクリーンが明るくなった。


 今回、私達が選んだ映画は恋愛物だ。

 ヒロインの女性が、安井さん言うところの『白馬の王子様』を捜し求めて右往左往するラブコメディ。もちろんその王子様に該当しそうな人物は、恐らくどう見てもヒロインのすぐ近くにいる人物なわけだけど、お約束ながら鈍感なヒロインはなかなか気づけない。予告編だけで結末がわかってしまいそうなありきたりな筋書きは、でもだからこそ共感しやすいとも言える。デートムービーとしてはこの上なくいい作品だった。

 そもそも、現実の人生だって結構ありきたりだ。

 私の王子様はすぐ近くにいてくれたし、だけど私は長い間、そのことに気づけなかった。一度別れた恋人達がふとしたきっかけでよりを戻すなんてのも、映画の世界じゃ使い古されたような設定だろう。そんな話がありふれているのは、そうすることが、そういう選択もまた幸せには違いないんだと皆が思っているからなのかもしれない。

 彼と手を繋いで映画に見入りながら、そんなことを思う。

 でも映画のヒロインの猪突猛進ぶりはちょっとだけ身につまされた。これだ、と思ったら脇目も振らずに突っ込んでいって、あとで悔やんだり恥ずかしがったりするところなんて他人事とは思えない。ホットドッグを食べ終えた後はポップコーンをつまみながら、私は何度か苦笑せざるを得なかった。


 もしかしたら、安井さんも同じように思っていたのかもしれない。

 合間合間で軽く吹き出したり、口元が緩むのを抑えきれないといったふうだったから、映画の内容ももちろんだったけど彼の方も気になってしまって困った。

 スクリーンから跳ね返る白っぽい強い光を浴びて、見慣れた横顔も少し眩しい。


 時々視線を向けていたら、やがて気づかれて、声には出さずに口の動きだけで問われた。

『何?』

 ううん、何でもない。私も声にしないよう、かぶりを振って答える。

 安井さんは繋いだ手に力を込め、不思議そうに私を見ていた。

 そのうちに彼は、ふと何かを思いついたようだ。ずっと左手に持っていてくれたポップコーンの容器をこちらへと差し出して、今度は囁き声で言った。

「悪い。少し持ってて」

 私は頷き、開いている右手でポップコーンの容器を受け取る。いつの間にやら中身は大分減っていて、もうじき底が見えそうだ。

 彼は私に容器を手渡した後、ほぼずっと繋いでいた手を一旦離した。それから自分の手を拭き始めたから、それで持っててって言ったのかな、と私も思う。映画が始まる前からずっと持っててもらったから、以降は私が持つ番でもいいんだけどな。

 丁寧に手を拭き終えた彼は、次に私の左手を取って、同じように拭いた。指の一本一本を丁寧に、まるで壊れ物でも扱うみたいに優しく拭いてくれた。サービスがいいのは嬉しいけど、ちょっと恥ずかしかった。

 と思ったら、彼が私の左の薬指を、指先で挟むようにそっと持ち上げた。

 何か硬くて小さなものが、私の指に通された。彼の指の温度とは違う、微かに冷たいものがゆっくりと指の付け根まで下りていく。違和感を覚えて視線を向けると、私の左の薬指には見慣れないものが填められていた。

 指輪、だった。

 あまりのことに私は凍りつき、自分の手が急に自分のものではなくなったような新鮮さに戸惑い、初めて見る小さなリングがスクリーンの光を浴びてきらりと輝くのに動揺した。

 言葉も出なくなっている私に、彼は何事もなかったように再び手を差し出してきた。

「ありがとう。あとは俺が持つよ」

 小声で言って、またポップコーンの容器を持っていってしまう。


 私はもう映画どころじゃなかった。

 自分の指を飾るその真新しい指輪を凝視していた。

 指輪には小さな石がついていたけど、ここでは色合いまではわからない。映画が終わったら、真っ先にどんな指輪かよく見てみたい。

 私が彼から貰った指輪だ。

 欲しいなんて言ったこともなかったし、実際こだわりもなくてねだるつもりもなかったけど、貰ってみるとすごく嬉しい。

 驚きのせいか、予想もしていなかったせいか、泣きそうになるくらい嬉しい。

 私は指輪を填めた手で、もう一度彼の手を取ってぎゅっと握り締めた。込み上げてくる感情のせいで手が震えて上手く繋ぐことさえできなかったけど、彼がちゃんと指を絡めて、繋ぎ直してくれた。

 それから顔を上げたら、やっぱり当たり前のように、平然とスクリーンを見つめている彼がいた。

 でも、これまででも十分わかってたはずだ。

 彼はこういうことを、世間一般にはベタなことでも確実に私を喜ばせてくれるような仕掛けを、基本に忠実にやってのける人なんだって。


 映画を観終えた後、私達は適当なカフェに入って一息ついた。

 私はそこで贈られたばかりの指輪をしげしげと眺めた。小さな石は透き通った、はっきりとしたオレンジ色をしていて、マンダリンガーネットだと彼は言った。

「園田にはオレンジがいいと思ったから」

 安井さんは得意げなのを隠しきれない様子で、ちょっとだけ笑んだ。

 それで私もサイクルショップでのやり取りを思い出し、ようやく彼の言葉の意味を知る。

「だから、色を変えない方がいいって言ったんだ」

「そう。お前が『カラーリング変えたい』って言った時、少し焦ったよ」

 彼は今、してやったりという気分なんだろうか。涼しげな目に、いつになく愉快そうな光が躍っている。

 となると私は、まんまとしてやられたというところなんだろう。悪い気はしない。

「もうずっと変えられないなあ、色」

 しみじみ呟いてみる。

 彼が似合うと言ってくれるなら異存もないし、ずっとオレンジ系でいくのもいいかもしれない。その色を見れば、いつでも今日のことを思い出せるだろう。

「だけど、指輪をくれるなんて思わなかったな……何か、こういうことしなくてもいいところまで、話が進んでるって思ってたから」

 私は素直にそう打ち明けた。


 小野口課長にプロポーズの言葉を聞かれて、どれだったっけと答えに迷うくらいには、もう話が結婚の方向へ進んでいたような気がした。

 もちろんそのことに不満はなかったけど、現実は映画ほどくっきりはっきりしてないものだとは思った。どんなありきたりなラブコメだって、プロポーズくらいは盛り上がるものだろうから。

 そうしたら、現実も結構びっくりするものだった。


「こういうことはきちんとやっておかないと格好つかないだろ」

 安井さんが目を細めて私の左手を見下ろす。

 私も彼によく見えるように手の甲を向けて、微笑んだ。

「ありがとう。嬉しかったよ」

「ああ。俺も、喜んでもらえてよかった」

「でも私、指輪のサイズを教えたことあった? 話してなかったと思うんだけど」

「昔から知ってたよ」

 造作もない口調で彼は答えた。

 全くもって何と言うか、お見それしました。

「改めて、言わせて欲しい」

 彼は居住まいを正し、わずかな間を置いてから切り出した。

「……結婚しよう、伊都」

 プロポーズの言葉の後に、本当に何年かぶりに私の名前を呼んだ。

 呼んでおきながら本人は少し照れたようで、

「久し振りに呼んだな。何か、気負ったみたいになって恥ずかしいけど」

 なんてことをはにかみながら呟くから、私の方がどぎまぎした。

「あ、うん。すごい、久し振りだね」

「昔も何度か呼んでみたけど、慣れなかったからな、お互い」

 そうだった。安井さんは私を名前で呼んでくれようとしたんだけど、むしろ私の方が恥ずかしくて舞い上がっちゃって駄目になっちゃって、結局定着しないままだったんだ。

 今も、恥ずかしいし舞い上がりそうだし既に駄目になりそうなくらいどきどきしてるけど、嫌じゃないのは昔と変わらない。

「でも、これからは呼ぶよ。ずっと『園田』じゃ夫婦っぽくないもんな」

 彼がじっと見つめてくる。

 私はすかさず顎を引き、既に真っ赤になっているであろう頬を緩めて答えた。

「うん。何て言うか……いい夫婦になろうね、私達」

「そうだな。さっき見た映画の結末みたいに」

 同じく頷いた彼がそう続けたけど、私もあいにく映画のラスト辺りは意識が吹っ飛んでいて、その結末をあまりよく覚えていなかった。間違いなく幸せになったであろうことは、観る前からわかっていたけど。

「私、最後の辺りはあんまり覚えてないかも」

 だから正直に告白したら、安井さんは腑に落ちたような顔つきで語を継いだ。

「とても、幸せになってたよ」

「……そうだろうね」

「王子様はすぐ近くにいた。それに気づきさえすれば幸せになれる。そういう物語なんだ」

 本当にそうなんだろうと、私も心から思った。


 誕生日の夜はもう帰りたくない気持ちでいっぱいで、彼と離れるのが嫌だった。

 名残惜しくて寂しくてもっとずっと一緒にいたくて、でも明日は仕事だからお互いに帰らなくてはならなかった。彼が私を部屋まで送り届けてくれてからも、私はわがままを言って彼を何分間か引きとめてしまった。

 それでも彼は嫌な顔一つせず――と言うよりむしろすごく嬉しそうに、幸せそうに付き合ってくれて、指輪を填めたままの私の左手にキスしながらこう言ってくれた。

「大丈夫だよ、伊都。もうすぐ、こうして別れなくても済む日がやってくる」

 私はその日が待ち遠しくてしょうがない。今のうちから既に待てない、焦れた気持ちが溢れ出しそうなんだけど、きっと彼も同じだろうから、ここは少しだけ我慢しておく。

 さよならを言わない日が一日でも早く、私達のところに訪れるといい。


 そうして一人で部屋へ戻った、二十九歳の誕生日の残り数時間。

 私はかつてと同じように、彼に会いたくて堪らなくなっている。

 昔と違うのは、『会いたい』って素直にメールできるようになったことかもしれない。

 彼からは『明日会えるよ、会社で』と返信があって、それならまたお弁当でも作っていこうかな、なんて考え始めている私がいる。そうなるともう寂しがってる暇もなくなって、彼に喜んでもらえるような献立をあれこれ考え始めていた。


 やっぱり私、ちゃんと変われたみたいだ。

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