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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
51/205

さよならは言わない(4)

 一月十日の朝は、私の方が先に目を覚ました。

 ぱっと目が開いたかと思うとそこは彼の寝室で、部屋の空気が冷え込んでいるのが鼻の冷たさでわかった。カーテンと窓の隙間から白々とした光が漏れている。もう朝の六時は過ぎた頃だろう。

 ベッドの上で寝返りを打とうとしたら、背後から肩をがっちり抱え込まれていた。

 首だけを動かしてどうにか後ろを向くと、穏やかに瞼を閉じ、静かな寝息を立てる安井さんの顔が見えた。薄明かりの中で見る寝顔は子供みたいに無邪気で、ちょっと可愛い。私に抱きついて寝ているところも彼らしい。

 三連休の初日からここに泊まり込んでいたし、年末年始だってずっと一緒だったんだから、こうして二人で朝を迎えるのにもそろそろ慣れていい頃だ。でも今朝は少しだけ照れた。

 去年の誕生日とは全く違う、幸せな朝だからだろうか。


 私は彼を起こさないよう、慎重に身体を反転させて、布団の中で彼と向き合ってみた。

 眠る彼の鼻の頭に指で触れてみたら、彼のもちょっと冷たかった。私は手を引っ込めて、暖かい布団の中に潜り込む。二人で寝ていると寒くなくて、本当に心地いい。もう少しここにいたい気分だけど、目はすっかり覚めてしまった。

 ちょっと浮かれてるのかもしれない。誕生日だから。

 一年前、二十八歳の誕生日には感慨も思う節もないって思ってた。一つ歳を取るからって劇的に何か変わるわけでもないし、良くも悪くもずっと変化がないのが私だった。入社当時の写真と比べても、まるで違いがないくらいだった。

 でも今は、変わらない自分は嫌だなって思う。誕生日を迎えて一つ歳を取るからには、去年までとは違う私でいたい。これからはもうちょっと可愛くなりたい。髪も伸ばすつもりでいるし、どうせならきれいな花嫁さんになりたい。この先、どうしたって若くはいられない時期がやってくるのかもしれないけど、その時も今以上に可愛いおばさん、可愛いおばあちゃんになっていたい。

 その頃、安井さんはどんなふうになってるのかな。

 想像してみようとしたけど、さすがにおじいさんになってる彼の姿はイメージできない。

 私は手を伸ばし、まだ眠っている彼の頬に触れてみる。指で触れるとちくちくする頬も、鼻先と同じように少し冷たい。

 そういえば去年の今日は雪が降っていた。朝起きて窓の外を見たら、ものの見事に積もっていたんだ。もしかしたら今年もそうなんだろうか。


 私はそっと身を起こし、ベッドのすぐ傍にある窓を、カーテンをめくって覗いてみた。

 さすがに雪は積もっていなかったけど、アパートの前の道路は霜が降りたようにうっすらと白く、水溜まりには氷が張っているようだ。それなら寒いのも仕方ない。

「……おはよう。早いな、起きるの」

 背後で彼の声がして、私はカーテンから手を離す。

 振り返ると、布団に包まる安井さんが目を擦っているところだった。

「ごめん、起こしちゃった?」

 思わず詫びる私に、寝起きの顔をした彼がかぶりを振る。

「いや、起こして欲しかったからちょうどいい。もう朝だろ?」

「うん。何時かは見てないけど」

「時計ならここにある」

 安井さんが布団から剥き出しの腕を伸ばし、枕元に置いていた目覚まし時計を掴む。それを自分の目の前まで引き寄せた後、文字盤を覗いて少し笑った。

「六時半か。午前中から出かけるんだったらちょうどいいくらいかな」

「休みなんだし、まだ寝ててもいいんだよ」

 私がまだまどろむ顔に笑いかけると、安井さんも普段より隙のある、緩んだ笑みを返してきた。

「お前が二度寝に付き合ってくれるならそうするけどな」

「二度寝なんかしたら、私は本格的に起きられなくなるよ。いい?」

「それもそうだな。起きるか」

 口ではそんなふうに言いながら、彼は軽く上体を起こしたかと思うと窓辺にいる私を両腕で抱きかかえ、再び暖かい布団の中に連れ戻した。

「起きるんじゃなかったの?」

「ちょっとだけ。あと五分」

「もう……いいけどね。お休みだし」

 私が許可を出したからか、安井さんは私を逃がすまいとするみたいにぎゅうぎゅう締めつけた。少し苦しくなって私が顔を上げると、彼は笑いながら私の耳元で囁く。

「誕生日おめでとう」

 今年は誰よりも早く、朝のうちに言ってもらった。

 去年、おめでとうを言ってもらった時は、次の誕生日をこんなふうに迎えるなんて考えもしなかった。

「ありがとう。やっぱり嬉しいね、お祝いしてもらえるのって」

 お礼を言ったら彼はふと優しい顔つきになり、それから目を閉じて唇を重ねてきた。

 短いキスの後、なぜかおかしそうに笑い出す。

「二十代最後の一年間の幕開けだな。若々しくて羨ましいよ、全く」

 そう、私が二十代でいられるのもあと一年間だ。別に焦るようなことも、悲しい気持ちもないけど、ちょっとだけ寂しい気はする。

 まあでも、安井さんも三十代だしね。同じになると思えばどうってことない。

「二つしか違わないのに年上ぶっちゃって」

 私が彼をからかうと、彼は目を細めて余裕ありげに応じる。

「年上は年上だろ。俺はもう三十代だし、人生の先輩だよ」

 そんな人生の先輩は放っておけばやりたい放題だ。私の髪を撫で、耳をくすぐり、唇や顎や肩にキスしてくる。くすぐったくて私が背を向けると、今度は背中にされた。

「……起きるんじゃなかったの?」

 さっきと同じ問いかけをした私に、彼は幸せそうな、今にも溶け出しそうな声で答えた。

「もうちょっとだけ。二十九歳初日のお前を堪能してから」

 何だその言い分、と思ったけど、彼の好きにさせてあげることにした。

 私だって誕生日には、好きな人が幸せそうにしてるのを見たいからだ。


 結局、準備をして出かけたのは正午頃のことだった。

 今日の予定は買い物と映画、そして軽くお茶でも飲んで帰ることになっている。明日は仕事だし、今日は成人の日で街中も混み合っているかもしれないから最低限のポイントだけ抑えたデートコースにしてみた。

「……で、買い物ってここか」

 安井さんが店の前で腑に落ちたような表情を浮かべる。

 私は腰に手を当てて、もっともらしく頷いておいた。

「そう。買い物と言えばここだよ」

 彼の車でやってきたのは、私が行きつけにしているサイクルショップだ。

 この市内では一番大きな店舗で、メンテナンスはもちろん、ちょっとしたカスタムからパーツの組み付け、一からの組み立てまで全部対応してくれる。私が初めてロードバイクを購入したのもこのお店で、あの時は随分親身になって相談に乗ってくれたっけ。

「自転車以外も売ってるのか、ここって」

 自動ドアの向こうに目を凝らし、安井さんが不思議そうにしている。

「安井さん、こういうお店来たことないの?」

「あるにはあるけど、学生時代以来だよ」

 私の問いに彼が肩を竦めた。

「それに俺の地元の店は、自転車の他はせいぜいワイヤー錠くらいしか売ってない」

「そうなんだ。ここなら何でもあるよ、ハンドルもサドルもばら売りしてるし」

 私は彼を促し、うきうきとサイクルショップに入店した。


 久し振りに入るお店の中は懐かしい匂いで溢れていた。

 タイヤのゴムと油分洗浄に用いるオイルの匂いだ。きっと好みが分かれる匂いなんだろうけど、私は結構好きだった。自転車屋さんに来たんだなって、わくわくしてくる。

 物珍しげにきょろきょろしている安井さんの手を引いて、私は店の奥へと進む。

 ちょうどレジカウンターのところに顔馴染みの店長さんがいて、私達を見るとおやっという表情をした。

「園田さん、随分久し振りですね。今日は彼氏連れ?」

「そうなんです。買い物に付き合ってくれるって言うから連れてきちゃいました」

 私がはにかみつつ答えると、店長さんも冷やかしめいた笑みを浮かべた。

「ああ、それで最近来なかったんだ。彼氏とデートで忙しかったんでしょ」

「違いますよ! 仕事が忙しかったんです!」

 慌てて否定する私を、安井さんはにやにや笑いを噛み殺すような顔で見てくる。

 かれこれ十ヶ月近く来ていなかったのだから、店長に久し振りと言われるのは仕方ない。でもデートで忙しかったなんてことはない。むしろ今年辺りは一度、そんなふうに誰かに言ってみたい。

 来年度はもうちょっと余裕持って仕事できるといいんだけどな。


「お前、ここの常連扱いなのか」

 店長さんと軽い挨拶を終えた後、安井さんが尋ねてきた。

 彼は面白がるような顔つきで私を見て、

「自転車屋の常連なんてすごいな。さすが園田」

「まあ、ちょこちょこ買ってるしね。ここに来ると何かしら買いたくなっちゃうんだ」

 サイクルショップって、服を買いに来るのと同じくらいわくわくする。どちらも着飾る楽しみがあるし、趣味に直結するものだからだろう。今度はどんなコーディネートにしようかなとか、最近はどんなのが流行ってるのかなとか、展示モデルを見て歩くだけでも楽しい。

「買うって何を? 自転車は一台しか持ってないだろ?」

「ハンドルとかサドルとか、バーテープにヘルメットなんかもね」

 安井さんにはもう話してあるけど、私の部屋には自転車用のヘルメットが七つもある。服に合わせていろいろ買い揃えたくなる、可愛いデザインのが多いから困るんだ。

 でも私は気軽に着替えられるからいいものの、我が愛車は去年の春からずっと同じ色だ。忙しさにかまけてちっとも手をかけてあげられなかったので、そろそろお召し替えを、なんて考えているところだった。

「俺の知ってる自転車と違うな。ハンドルを買うって発想がまずなかったよ」

 彼はいたく感心した口調で呟くと、棚にずらりとかけられたハンドルやサドルを眺めた。インクの色見本みたいにカラーが豊富で目移りしてしまうのか、しきりに視線を彷徨わせている。

 そのうちに落ち着かなくなったのか、私に向かって尋ねた。

「で、今日は何を買うんだ?」

「そろそろカラーリングを変えたいと思ってて。ずっと今の色のままだったでしょ」

 現在は真っ白いカーボンフレームにオレンジのホイール、サドルは暗めのオレンジというカラーリングだ。この取り合わせも結構気に入っているんだけど。

「色変えちゃうのか」

 安井さんも心なしか、少し残念そうに言ってきた。

「今の色、園田にすごく似合ってるのに」

「そう? 私も気に入ってるから嬉しいな」

「なら変えるなよ。俺としてはオレンジって園田の色なんだ」

 続いた彼の言葉に、私は思わずきょとんとさせられた。

 確かにオレンジは好きな色だけど、そればかり身につけているわけでもなかったからだ。普段着はナチュラルカラーが多いし、勤務中に着るスーツは言わずもがなだ。だからオレンジのイメージと言われてもぴんと来ない。

 釈然としない私を見て、安井さんは続けた。

「去年、自転車通勤の時には大抵オレンジの服を着てきてただろ」

「ああ、それはね。愛車の色に合わせたんだよ」

 それでオレンジのイメージか。何となく腑に落ちたかもしれない。

 私が頷いていると、彼は照れたように視線を外して、

「それに天気予報の晴れのマークはオレンジ色だ」

 思い出し笑いみたいな顔つきで言った。

「だから、天気予報を見てるといつも園田のことを考える。明日は晴れだから自転車で来るかなとか、夜には雨が降るっていうから電車だろうな、とか」

 そういえば、そんな話を前にも聞いていたような覚えがある。いつだったっけ。

 最近は特に天気予報を気にしてるって言っていた。

「雨の方が一緒に帰れるから嬉しいけど、晴れの方がお前には似合ってる。そういうことを、天気予報を見ながらいつも考えてる」

 彼の話を聞いてたら、私の方までもじもじしたくなるから困る。

 前から知ってたけど、十分実感してたけど、やっぱり彼は私のことをすごく気にかけてくれてるんだなって。

「……じゃあ、次もオレンジ系にしようかな」

 考え直した私がぼそりと言ってみたら、安井さんはこっちを向いて、ほっとしたように笑んだ。

「その方がいい。よく似合ってる」


 私はその後も安井さんを引き連れて、サイクルショップを見て歩いた。

 とりあえず古くなったバーテープだけは新調することにして、後はぶらぶらと興味のあるものを眺めただけだった。以前から購入を検討していたビンディングペダルを見ていたら、安井さんも気になったようでいくつか質問を受けた。

「これって普通のペダルじゃないのか? ちょっと小さいけど」

「うん、靴を固定して漕げるペダルだよ。前からちょっと欲しかったんだよね」

 少し前までは結構なお値段のするものだったビンディングペダルも、今やすっかりお手頃価格になった。ただ慣れないと難しいって話だし、今買っても年度末前、そして降雪の心配があるこの時期に練習の暇はなさそうだ。暖かくなったら、かな。

「へえ、いろんなのがあるもんだな。これを使うと速く走れるようになるとか?」

「速くと言うより、漕ぎ易くする為のものかな。足の位置が固定されると安定感が違うからね」

 長距離を走るならビンディングの方がいいと聞く。私の普段の通勤距離はロングライドと言うほどではないけど、信号で停まる箇所がごく少ないことと、意外と坂が多いことから導入を検討していた。

 ああ、でも、近々引っ越すことになる。また検討し直さなきゃいけないな。

「安井さんの部屋から会社までって、坂道いっぱいある?」

 今度は私が質問すると、安井さんは困ったように笑った。

「いきなり聞かれてもわからないけど、車で走った感じだと、行きは長い上り坂があるな。陸橋のとこ」

「そっか……一度、試しに走ってみた方がいいね」

 結婚してもこの趣味は続けたいと思ってる。もちろん趣味に費やせるお金は減るだろうし、彼そっちのけで一人で遊び回ろうなんて思わないけど、通勤で乗る楽しみは残しておきたかった。

「やっぱり、結婚してからも自転車通勤するのか」

 安井さんは案の定という顔をして、私を見て優しく笑っている。

「駄目? 安井さん、私と一緒に出勤したい?」

 そう聞き返したら軽く吹き出して、

「そりゃしたいよ。でも園田の楽しみを奪っちゃ悪いからな」

「じゃあ安井さんも始めればいいよ、自転車通勤」

 気軽なノリで勧めてみたら、今度は驚きに目を見開かれた。

「俺が? 興味ないとは言わないけど……今から乗って、園田と一緒に走れるかな」

「大丈夫。私だって一ヶ月くらいで慣れたし、最初のうちは合わせてあげるから。練習にも付き合うよ」


 思いつきだったけど、口にしたら素晴らしいアイディアのように思えてきた。

 そうだ、彼と一緒に自転車に乗れたらより一層楽しいに決まっている。二人で出勤もできるし、健康にもいいし、休みの日には自転車でデートもできるようになるし、まさにいいことずくめじゃないだろうか。


「森林公園で一緒に漕いだ時だって、安井さん結構頑張ってたじゃない」

 私はここぞとばかりに畳みかけた。

「きっと練習すればすぐものにできるよ。ね、また一緒に走ろうよ。買う時は相談に乗るから、何でも聞いて」

「……そんなに目を輝かせて迫られるとな」

 いくらか面食らった様子ながらも、彼は何事か決断したみたいに肩を竦めた。

「わかった。今日は買わないけど、とりあえず品物だけ見てみたい。案内してくれ」

「やった! じゃあ行こうすぐ行こう、ロードバイクの売り場はこっちだよ!」

 繋いだままの彼の手を引っ張ると、安井さんもまた笑いながらついてくる。

「自転車のこととなると特別はしゃぐな、園田は」

「だって嬉しいから。夫婦で共通の趣味があるって素敵じゃない?」

「趣味にできるようにしなきゃな……約束したからな、練習付き合えよ」

「もちろんだよ!」

 私は彼をロードバイク売り場へ案内する。


 かつて『お金のかかる趣味』として敬遠されたロードバイクだったけど、安井さんは値札を見ても驚かなかったし、むしろ前から知ってたみたいに納得の表情を浮かべていた。

「そりゃ調べたことくらいはあるよ。園田がどんなの乗ってるのかって」

 安井さんは恥ずかしそうに打ち明けてきた。

「お前がどんなものに夢中になってるのか、興味もあったんだ。だからいい機会かもしれないな」

 そうそう。いい機会と思ったら、考えるより先に動く方がいい。

 そして二人で一緒に夢中になれたらいい。夫婦で共通の趣味があるって、本当に素敵だ。

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