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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
50/205

さよならは言わない(3)

 仕事始めの日から残業なんて、普通ならごめん被りたいところだ。

 でも私は嬉しい三連休、そして二十九歳の誕生日を控えている。新年早々、ここが努力の見せどころだろう。


 朝礼で小野口課長のほんわかしたスピーチを聴き、それぞれに新年の挨拶を済ませた後は、ひたすらずっとパソコンと向き合っていた。ソフトを立ち上げ、レイアウトを弄り、去年のうちに作っておいた新年号の文章を填め込んでいく。

 広報に来てからというもの、原稿だデザインだとパソコンを用いる仕事が格段に増えた。半年くらい前にやった健康診断では問題なかったものの、最近乾きやすくなってきた気がするし、あれから視力が落ちていないか心配だ。私は丸顔なのであんまり眼鏡は似合わないだろうし、なるべくならかけたくないんだけどな。

 まあ、でも、安井さんだったら。

 私が眼鏡をかけても、どこかしら誉めどころを見つけて誉めてくれるような気がする。

 彼のことを考えると気持ちが弾んで、仕事も捗るから不思議だ。私はいつになくスムーズに社内報を仕上げることができた。


 あとは明日の朝一で更新するだけ、というところで、小野口課長が声をかけてきた。

「園田さん、まだ残る? 僕はもう上がるけど」

 課長はいち早くパソコンの電源を落とし、椅子から立ち上がって伸びをする。

 時計を見れば午後八時をとうに過ぎていて、居残っている課員は私だけだ。パーテーションで仕切った向こう側、秘書課の皆さんももう帰宅されたようだった。

「あ、私もそろそろ上がります。電気消しときますから、お先にどうぞ」

 答えた後で私も両腕を高く挙げて伸ばした。一日中デスクワークだと肩や背中がばきばきになる。今日なんてお昼ご飯もこの席で食べてしまったほどだから、そりゃ肩だって凝る。

 思わず深く息をつくと、小野口課長に少し笑われた。

「仕事始めから随分頑張るねえ、園田さんは」

「何事も最初が肝心ですからね!」

「そうかそうか。頑張るのはえらいけど、根詰めすぎて疲れちゃわないようにね」

 小野口課長はおっとりした口調で言うと、いそいそと着込んだコートのポケットから小さな袋包みを取り出した。私の席まで近づいてきて、机の上にそれを置く。

「じゃあこれはお年玉。疲労回復には甘い物だよ」

 袋の中身はコインみたいに丸いクッキーだった。五、六枚は入ってるだろうか。透明な袋の口は細いオレンジのリボンで結ばれていて、どこかのお店で買ってきたもののように見えた。

 ということは、

「ありがとうございます! これって課長の奥様のお手製ですか?」

 お礼の後で尋ねると、課長は誇らしいのを隠しきれない様子で、微笑みながら頷いた。

「そう。口寂しい時の為に持ってきたんだけど、今日は食べる暇もなくてね」

「へえ……すごく美味しそう。あとでいただきます」

「美味しいよ。手前味噌だけどね」

「それはそれは、すっごく楽しみです!」

 私は嬉々としてそれを受け取った。


 お年玉なんて貰ったの、何年ぶりだろう。いくつになっても嬉しいものだ。

 そろそろ上がろうかと思っていたし、せっかくだからお茶でも入れて、一息ついてから帰ろうかな。外は寒いし、温まってから帰らないと。


 そうと決まれば私もぼちぼち帰り支度だ。完成したデータを念入りに保存した後、パソコンをシャットダウンする。

 その間に机を片づけ始めると、小野口課長は鞄を提げて一足先に戸口へ向かおうとしていた。

「じゃあお先に。今年もよろしく頼むよ、園田さん」

「お疲れ様です。こちらこそよろしくお願いします」

 まだ席も立っていなかった私は、慌てて立ち上がり、頭を下げた。

 小野口課長はそれに笑顔で応じた。そして身体の向きを変え、一度は出て行こうとして――何か思い出したように足を止め、振り返る。

「そうだ。園田さん、彼とは最近、どう?」

「えっ?」

 思わず素で聞き返してしまった。

 彼、というのが誰のことかは今更確かめるまでもなく、小野口課長はにこにこと人のよさそうな笑顔で続ける。

「イブに出張させた僕が聞くのもなんだけど、ちょっとだけ気になっててね」

「い、いえいえ、あの……」

 出張のことは課長のせいじゃないですし、私も済んでしまえばどうってことないって言うか、むしろかえって雨降って地固まるみたいに丸く収まった的な感じなのでいいんです――とはもちろん言えない。

 ただ小野口課長にはお見合いの席を設けてもらったご恩もあるし、結婚となったら報告して、お礼も言わなければならないはずだ。安井さんとの間には住居の問題とか、結婚式をどうするかといった漠然とした話題は持ち上がっていたから、ここで軽く打ち明けておいても尚早じゃないだろう。

 そう思って、私は告げた。

「お、お蔭様で、結婚することになりそうです」

 すると小野口課長はおお、と声を上げ、一層嬉しそうに笑んだ。

「それはよかった。実は上手くいってるんだろうと思ってたんだよ」

「え……そ、そうですか?」

 傍目にもわかるほど仲良く見えてたんだろうか。ちょっと照れる私に、小野口課長は造作もなく答える。

「今日の昼、安井課長と食堂で会ってね。いかにも手作りって風のお弁当を一人で食べてて、幸せそうにしてたなあ」


 安井さん、あのお弁当を社食で食べたのか。

 いや別にいいんだけど。海苔とかでんぶでご飯の上にハートマーク描いてたわけでもないし、恥ずかしくはないんだけど。

 でもこうして人から言われると、別の意味で恥ずかしいかもしれない。

 幸せそうに、か。他にも人がいただろう社員食堂で、どんな顔してたんだろうな、彼。


「さすがに、食事中に冷やかすのも悪いかと思って、挨拶だけして違うテーブルに座ったけどね」

 小野口課長は気遣ったと言わんばかりの口調だったけど、課長だって奥様のお手製弁当を人に見られたくなくていつも隅の方でご飯を食べてたはずだ。課長は安井さんのこと言えないんじゃないだろうか。

 むしろ、安井さんもいつか小野口課長みたいになるのかな――手前味噌だけどうちの妻は豆腐料理が上手くてね、みたいに惚気たりして。いや何か、想像しただけで余計に恥ずかしい。

 とは言え、想像はこのくらいにしておこう。考えるより先にすべきことがあるはずだ。

「あの、後日改めてご挨拶をさせてください。課長と奥様にはとてもお世話になりましたし」

 私が居住まいを正してそう述べると、課長は軽く手を挙げた。

「いやいや、そんなに畏まらなくてもいいよ。結婚式は年内? 来年かな?」

「多分、来年になると思います」

「じゃあ日取りなんかが決まったら知らせて。休みの申請も要るだろうしね」

「はい」

 課長に話したら話が一気に具体的になったような気がする。私は神妙な思いで頷いた。

 するとそれを察知したのか、小野口課長はふとおどけたような顔をして、

「ところで、プロポーズの言葉は何だった? 安井課長なら格好いいこと言いそうだねえ」

 その問いに私はどぎまぎしながら答える。

「い、いえ、別に……これっていうのはないんですけど」

「ないの? プロポーズなし?」

「あ、『結婚しよう』みたいなことは言われました。そんな感じです」

 実際は合鍵も貰ってたし、それっぽいことをいろいろたくさん言われてて『これこそがプロポーズの言葉!』って絞り込めないという感じなんだけど、そんなことだって小野口課長には言えない。

 小野口課長は意外そうに目を瞬かせる。

「そうなのか。まあ今時の若い人は、そんな形式にはこだわらないのかもしれないな」

「私達の場合、お見合いしたからっていうのもあると思います。結婚前提って言うか」

 私がそう語を継ぐと、課長は満足そうな顔をして、深く頷いてみせた。

「それなら、僕も少しはお役に立てたということかな。よかったよかった」

 少しどころじゃなく、すごくお世話になったと思う。

 安井さんとも話してたけど、落ち着いたらまた奥様のお店に伺おう。改めてのお礼も兼ねて。


 小野口課長が帰られたのを見届けてから、私も帰り支度を進めた。

 広報課の照明を消し、施錠を済ませて外へ出た後、私は課長から貰ったクッキーをどこで食べるかを考えていた。

 せっかくだからお茶でも入れて、一息つきたいところだ。もちろん自分の部屋でゆっくりするのが一番気が休まるとわかっているけど、今から帰ったら部屋に着くのは午後十時近く、甘い物をつまむには罪悪感のある時間帯だった。今のうちにさっと食べてしまう必要がある。

 そうなると行き先は給湯室か、社員食堂か――このフロアにある給湯室には皆でお金を出し合い購入したインスタントコーヒーやティーパックがあり、お湯さえ沸かせばいつでも飲むことができる。ただし給湯室自体は一般家庭のキッチン並みに狭いので、座って一息つくのは向いてない。社食は広いし自販機が充実してて楽だけど、五階まで上らなければならないし、今の時間だと誰もいないから一箇所だけ照明を点けてぽつんと座っていることになるだろう。どっちがいいか、悩む。


 歩きながら考えるかと、クッキーと通勤鞄を携えて廊下を進む。

 するとすぐに見えてきた給湯室には先客がいたようだ。明かりが廊下まで漏れているし、流しを使っているのか水音も聞こえた。

 使ってる人がいるならここは譲って、社食に行っておこうか。そう考えていた私は、ちらりと給湯室を覗いた瞬間に考えを変えた。

 流しに立っている後ろ姿に、とてもよく見覚えがあったからだ。

「安井さん、お疲れ様」

 ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖をまくって洗い物をする彼に、私は入り口から声をかけた。

 たちまち彼は振り返り、蛇口を捻りながら表情を解く。

「園田、お疲れ。今帰るとこか?」

「うん。その前にお茶でも飲んで、休憩してこうと思って」

 私は鞄を置くと、彼の背後をすり抜けて流し台の左隣にあるガス台の前に立った。空っぽのやかんを取り上げて蓋を開けると、安井さんが再び蛇口を捻って水を出してくれた。

「安井さんも何か飲む? 入れてあげるよ」

「いいのか? じゃあコーヒーを頼む」

「了解」


 水を注いだやかんの蓋を閉め、火にかける。

 それから流しの前に立つ彼を何気なく見やると、安井さんは見覚えのあるお弁当箱をキッチンペーパーで拭いているところだった。

「ああそれ、洗わなくてもよかったのに」

「いいよ、ごちそうになったんだしこのくらいはするよ」

 彼は軽く首を竦め、洗い終えたお弁当箱を差し出してくる。

「昼の休憩の時は洗う暇がなかったんだ。時間置くと汚れ落ちなくなるだろ」

「気にしなくてもいいんだよ、そんなの」

 そうは言いつつも彼の気遣いは嬉しい。私はお弁当箱を受け取ってから聞いてみた。

「お弁当、美味しかった?」

 すると安井さんは相好を崩し、

「ああ、すごく。特に豆腐に衣をつけたやつ。あれがすごく美味かった」

「豆腐のピカタだよ。口に合ったならよかった」

 小野口課長からちょっとだけ話は聞いていたから、安井さんが喜んでくれてたらしいことは知っていたんだけど、本人の口から聞くとより嬉しい。私は口元が緩むのを堪えきれなかった。

「それに弁当があるっていいよな。昼に楽しみがあると仕事も捗るよ」

 安井さんが噛み締めるように呟いたところでお湯が沸き、私は二人分のコーヒーを入れる。

 インスタントコーヒーをカップに入れ、沸かしたてのお湯を注ぎながら言った。

「また作るよ。さすがに毎日とはいかないけどね」

「ありがとう、園田。すごく嬉しいよ」

 紙のカップを掻き混ぜる私の耳元で、屈んだ彼がそう言った。

 かと思うと次の瞬間には大きな手で私の髪をかき上げるようにしてから、頬に唇を寄せてきた。柔らかい感触に頬が反応して、唐突にかっと熱を持つ。

「……社内でそれはどうかと思うんだけど」

「こんな時間じゃ誰も見てないよ。気にしない、気にしない」

「気にしようよ! もう、こんなことして……」

「わかった。続きは三連休まで我慢する」

 恐らく赤面しているであろう私の抗議を、安井さんは楽しげに受け流した。


 おまけに私がコーヒーを掻き混ぜる間も、私の髪を指の腹で撫でたり、梳いたりして遊んでいた。おかげでどのくらい混ぜたかわからなくなって困った。

 どうやらこの人は私を構いたくてしょうがないらしい。昨日までずっと一緒に過ごしていたっていうのに――もっとも私だって、彼と話したくてこの給湯室に入ってきたんだから、彼のことは全然言えないんだけど。


 それでもようやく入ったコーヒーを、私は彼に差し出す。

「はい、どうぞ。安井さんはまだ仕事?」

「どうしようかな。仕事始めの日くらい、適当に切り上げて帰ろうか」

 カップに唇をつけながら、彼はちらりと私を見やった。

「園田が帰るなら寂しいしな。帰り支度するからあと十分、待っててくれないか」

「いいよ。どうせ休憩してから帰るつもりだったし」

 私も湯気の立つカップに息を吹きかけながら答えた。コーヒーを飲んでれば、十分なんてすぐに過ぎる。彼を待つなら尚のことだ。

 それに、いただいたお年玉もあることだし。

「安井さん、クッキー食べる?」

 私はスーツのポケットからクッキーの袋を取り出し、口を縛っていたリボンを解いた。

 彼がそれを見て怪訝そうにする。

「おやつか? 園田が会社にそういう物持ってくるの、珍しいな」

「小野口課長にいただいたの。お年玉だって」

「ってことは奥様の手作りか、一つ貰うよ」

 それで私はクッキーを一枚指でつまみ、彼に手渡そうとした。

 だけど安井さんはコーヒーが注がれたカップをわざと両手で持ち、私に向かって身を屈めたかと思うと口を開けてくる。

「安井さん、手出して」

「よく見ろよ、手が塞がってる。直接口に入れてくれ」

「カップくらい片手で持てばいいじゃない」

「いいから、ほら」

 彼は尚も言い募り、私が気恥ずかしさにためらうと、急き立てるように畳みかけてきた。

「俺はまだ帰り支度が済んでないんだ、お前が焦らすと俺の帰りも遅くなる」

「焦らすとかそういうんじゃなくて! もう、安井さんの馬鹿!」

「お前に馬鹿って言われるの、堪らないな。もっと言ってくれ」

 今更ながら、私が何を言っても彼には通じないようだ。

 私は観念して、つまんだクッキーを彼の口元まで持っていった。彼はそれを口で受け取り、お約束のように私の指先を唇で軽く食んでから口を離す。私が息を呑んだのに気づいたか、彼は少しだけ笑ったようだ。

「……うん、美味いな。ごちそうさま、園田」

 クッキーを飲み込んだ後はコーヒーのカップを平然と片手に持ち替え、安井さんは給湯室を出ていく。

 戸口で一度振り返り、

「園田はここにいるだろ? 用意ができたら迎えに来るから、お姫様のように待ってろよ」

 妙に格好つけた言葉を残していくのも忘れなかった。

「それじゃあ安井さんは王子様なの?」

 とっさに私は聞き返したけど、口にしたこっちの方が照れてしまった。

 一方、彼は照れもせず、笑みを深めてさらりと応じた。

「そう。お前を迎えに来た、素敵な白馬の王子様だ」

 そういう台詞を平気で言う人だから、どの言葉がプロポーズか、わからなくなるんだ。全く。

 わからなくなってもいいくらいたくさん貰ってるから、それでもいいんだけどね。


 結局、その日は行きも帰りも、安井さんと一緒だった。

 お互い電車通勤だから駅に入ったところで別れて、違うホームへ上がることになったけど――明日だってまた会えるのに、またねと言って別れると途端に寂しさを覚えてしまう。

 別れの挨拶なんて私達にはもう、なくなったっていいのにな。

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