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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
45/205

冬の日に訪れる(3)

 翌日、無事に取材を終えた私はすぐに電車へ飛び乗った。

 朝一のアポイントメントでも取材が済んだのは午前十時過ぎだった。会社に戻れるのは午後二時頃だろう。そこから今日の仕事に取りかかれば、努力次第では今日のうちに帰れるかもしれない。ううん、帰れなくたって別にいい。睡眠よりもご飯を食べるよりも、てきめんに効果的な栄養を取れたらそれでいい。

 クリスマスの約束をしよう。

 仕事納めまでまだ日があって、やるべき仕事が残ってても、身体が疲れてても――その時間があれば、私はきっと頑張れる。

 彼だって言ってた。心の栄養、及び癒しが欲しいんだって。

 私も今、すごくそれが欲しい。


 予想通り、帰社したのは午後二時を少し過ぎた時分だった。

 お昼ご飯は電車の中で食べてきた。重い旅行鞄はロッカーに放り込み、まずは駆け足で広報へ戻る。

「ただ今戻りました!」

 駆け込むなり声を上げると、皆が一斉に振り向き、労いと同情が入り混じった笑みを向けてきた。

「園田さん、お帰り。今回は大変だったね」

 小野口課長は未だに済まなさそうにしていて、こんな時期になっちゃって申し訳ないとか、出張明けは疲れてるだろうから今日は無理しないでねとか、いろいろ気を遣ってくれた。

 私も多少は疲れていたけど、明日のことを思えば頑張れる。だからてきぱきと報告を済ませた。


 それから自分の席へ着くと、東間さんがそっと話しかけてきた。

「お疲れ様、園田ちゃん」

 その言葉と共に差し出された個包装のチョコレート二粒を、私はありがたく受け取る。

「ありがとうございます、東間さん」

 同じく小声でお礼を言うと、優しい先輩はにっこり微笑む。

 そして、思い出したように言い添えた。

「そうだ、石田主任から連絡。ケーキ、夕方には届くから手が空いたら取りに来てくれると助かるって」

「あ、そういえば。今日でしたっけ」

 今日がクリスマスイブなのは覚えてたけど、ケーキを頼んだことは危うく忘れるところだった。何だっけ、確かフランボワーズのムースにしたような。申し込みの際に貰った控えは財布に入れっ放しだ、最近はこういうところがだらけている。

「向こうもこの時期は忙しいみたいでね。配りに行くとなると遅くなりそうって仰ってたよ」

 東間さんの言葉に内心で納得する。

 私も、営業課の年末進行が多忙を極めていることは知っていた。得意先に出向いて挨拶回りもしなくちゃいけないらしいし、大変なんだろう。

 それならわざわざ届けてもらうのも悪い。手が空き次第、こちらから伺うことにしよう。


 そうは言ってもこの日もまたやることが山積みだった。

 報告書と出張で使った旅費や経費の精算書を仕上げて小野口課長へ提出しなければならなかったし、インタビュー内容を来月の広報誌に掲載する為にも、今日のうちにテープ起こしくらいは済ませておかなければならなかった。こういうのは会話の雰囲気や細かな表情まできちんと覚えているうちがいい。

 とりあえずそこまでを終えたところで時計を見たら、もう午後六時を回っていた。

 どうりで外が暗いと思った。

「園田ちゃん、そろそろケーキ引き取りに行かない?」

 私と同様、まだ勤務中の東間さんが伸びをしながら切り出してくる。私も休憩を兼ねて一度席を離れることにした。


 この時期は定時上がりなんて夢のまた夢で、六時を過ぎたくらいじゃ帰る人なんていないほどだ。

 ざわめく社内を東間さんと二人、営業課へと急ぐ。

「東間さん、今日は晩ご飯食べます?」

「ううん、時間もったいないし食べないで頑張る。園田ちゃんは?」

「私もです。終電にはどうにか間に合わせたいんで」

「そっか、出張帰りだもんね。自転車乗ってきてないよね」

 帰りが電車だっていうのは憂鬱ポイントの一つだ。出張で何時間も乗ったのにまた乗るのかっていうのもあるし、駅から部屋までそれなりに距離があるから、歩くのが面倒だというのも大いにある。

 かと言って会社からタクシー使うような無駄は、出張の経費が戻ってこないうちは避けたい。もっとも、終電逃したらそんなことも言ってられないけど。


 早足気味に訪ねた営業課はやはり誰も彼もが忙しそうだった。

 そんな中でも石田さんは疲れの色を見せずに私達を出迎え、明るくケーキを手渡してくれた。

「よう、出張お疲れさん。甘いもんでも食って、仕事納めまで乗り切れよ」

「ありがとう、頑張ります」

 今日は私、いろんな人に労われてる。お礼を言ってケーキを受け取り、また東間さんと広報へ戻る。

 ホールのケーキは割と大きめの四角い箱に収められていて、まだ中身は覗いていない。ただ意外にもずっしり重たかった。

「これ、結構重さありますね」

「あるね。思ったより大きいケーキかもしれない」

「しまった、私もアイスにしとけばよかったかも……」

 ムースってきっとあんまり日持ちしないよね。ホールくらい余裕と思ってたけど、手に持ってみたら急に自信なくなってきた。

 思わず顔を顰めた私に、だけど東間さんはくすっと笑って、

「じゃあ彼と食べればいいんじゃない?」

 何でもないことみたいに言った。

 ケーキのことは忘れかけていたほどだ、そう考えていたわけじゃない。でも心の中を読まれたように思えて私は少し焦った。

 でもすぐに少しどころではなくなった。

「噂をすれば、向こうに安井課長が」

 廊下の先をちらりと見て、東間さんが声を上げる。


 何メートルと距離が離れていても彼の姿はどうしてかわかる。

 今日はスーツを着て前髪を上げた安井さんが、やや速い足取りでこちらへ歩いてくるのが見えた。

 向こうも直に私に気づき、途端に生真面目そうにしていた表情を和らげた。


「ああ、園田。帰ってたのか」

 彼が私の前で立ち止まる。

 私が返事をするより先に、アイスケーキの箱を抱えた東間さんが私達の横をすり抜けていく。

「先戻ってるね、園田ちゃん」

「あ、は、はい。私もすぐに行きます!」

 冷やかすような笑みを向けてきた東間さんへ声をかけ、それから私は改めて、目の前に立つ安井さんの顔を見上げた。

 昨夜、あんなに彼のことを考えたせいだろうか。こっちを見てほっとしたように笑う彼の顔を、目の当たりにするのが何だかこそばゆい。ホテルのベッドに寝転がって安井さんのことばっかり考えてたよ、なんて教えたら、彼は一体どんな反応をするだろう。

「お帰り」

 それでも彼の言葉には、なるべく笑って頷いた。

「うん、ただいま」

 挨拶を返しながら、妙に胸が高鳴って困った。

 本当に会いたかったんだなあ、って思う。まあここは会社だし、ゆっくり立ち話さえできるような時期でもないし、どきどきしててもしょうがないんだけど。

 私がそんなことを思っていると、安井さんは私が抱えた箱に目をやり、驚いたような顔をした。

「お前も石田にケーキ買わされたのか」

 彼の物言いではまるで詐欺の被害者同士を見つけたかのようだ。

「買わされたって言うか、石田さんにはお世話になったからね。持ちつ持たれつだよ」

「さっき、東間さんも箱持ってなかったか? 石田の奴、どこまで販路広げてるんだ」

 安井さんは肩を竦め、それから少しくたびれたように笑う。

「俺もあとで取りに行かなきゃな。じゃあまたな、園田」

 彼は私の横を通りすぎ、どうやら階段を上がっていったようだ。

 食堂にコーヒーでも飲みに行くつもりなのかもしれない。疲れた顔をしていたから。

 大丈夫かな。


 それから私は抱えたケーキを見下ろして、ふと思い出す。

 そうだ。前から安井さんに聞こう聞こうと思っていたことがあったんだ。最近忙しくて聞く暇がないどころか、何を聞こうと思ってたのかさえすっかり忘れていた。

 安井さんも石田さんからケーキを買ったんだろうけど、一体どのケーキにしたんだろう。

 そしてホールのケーキは一人じゃ多いだろうから、よかったら一緒に食べないって聞こうと思ってたんだ。

 もしかしたらケーキの種類が被ってるかもしれないし、安井さんなら日持ちのするアイスケーキにして一人でちびちび食べる気かもしれない。そうだとしても私は、彼と一緒にケーキが食べたいんだ。

 なぜってその方が、栄養になるってわかってるから。


 受け取ったケーキは広報の冷蔵庫にしまって、その後は再び仕事に打ち込んだ。

 クリスマスイブとあって、小野口課長は午後八時には退勤された。東間さんも十時過ぎには『お先に』と言ってケーキ抱えて帰っていった。

 私は最後まで居残ってどうにか広報誌の原稿を仕上げ、退勤したのは午後十一時過ぎだった。

 ケーキと旅行鞄と抱えて会社を出ると、イブの静かな夜空と冷えた空気が私を待ち受けていた。疲れた身体に冷気はことのほか堪える。荷物を抱えてひとまず駅を目指した。

 道行く人が極端に少ないのはこんな時分だからか、それとも二十四日だからだろうか。

 私はやけに響く足音に急き立てられて歩いた。

 もっともどんなに急いだところで、この分だと部屋に帰り着くのは日付が変わる頃合いだろう。今日中に安井さんに連絡して、明日の約束を取りつけられたらと思ってたんだけど――今からだってもう遅いか。帰り際に覗いた人事課は一足先に明かりが消えていたから、どうやら彼はイブのうちに帰宅できたようだ。

 それなら明日にでも連絡しようか。と言っても休日の朝からじゃさすがに悪いし、午後からかな。となるとあと半日は会えないし声も聞けないわけか。寂しいな。

 こんなに会いたいって思うなら、無理を押してでも前もって約束しとくんだった。


 私は自分にとってどれほど彼が必要か、自覚できていなかったのだと思う。

 本当はすごくすごく必要だった。好きになればなった分だけ必要だった。だから彼も言っていた通り、私が彼に届けるべき言葉は、独り言みたいな『寂しい』ではなかったんだ。

 それがようやくわかったのに、あと半日も待たなきゃいけないなんて。


 歩きながら深く息をつく。

 たちまち白い息は夜の空気に溶けて、その溜息を聞き届けたかのようなタイミングで、私の携帯電話が鳴った。

 まさかと思いつつ確認すると、彼からのメールだった。

 文面にはこうあった。

『石田に買わされたケーキ、思ったより大きくて一人じゃ食べきれそうにない。手伝ってくれないか?』

 目を通した瞬間、よくわからない笑いが零れた。

 これも彼言うところの口実ってやつだろうか。それでもいい。どうだっていい。私と同じことを彼も考えていた、その事実だけあればよかった。

 こんなメールを貰っておいて、もう一人でなんていられない。

 折り返しのメールももどかしく、私は立ち止まって旅行鞄を足元に置き、彼に電話をかけた。思ったよりも早く繋がって、彼の意外そうな声が聞こえてくる。

『――園田? 今帰ったのか?』

「ううん、まだ外。て言うか会社出たばっか」

『寒いだろ、今すぐ返事くれなくてもよかったのに……嬉しいけど』

「うん、私も。メールありがとう」

 お礼を告げてから、私は込み上げてくる様々な想いを整理しようと一度黙った。

 だけど次から次へと溢れてくる感情はもう整理のしようもなく、結局は思いの丈をぶつけるしかなかった。

「あのさ、安井さん」

 私は片手にケーキを抱え、寒さに震えながらも目を閉じる。

「私、今すっごく、安井さんに会いたい」

 今はもう本当にそれだけだ。

 他には何も言うことなんてないほどだった。

 ノイズ混じりの沈黙が三秒間だけあり、

『……迎えに行こうか? 今から』

 限りなく優しい声が聞こえてきたから、笑って応じた。

「ううん、電車で行けるよ。行っていい?」

『いいよ、待ってる』

 彼はそう言ってから、嬉しそうに、そっと言葉を添える。

『俺も会いたかった。もう一日も待てないと思ってた』

 それなら私なんて、半日も待てないくらいだった。思いついたらいても立ってもいられなくなった。彼もいいと言ってくれたからもう迷わない。

 私はあれこれ考えるより、思いつきで動く方が向いてるんだ、絶対。


 電話を切った後、私は旅行鞄を拾い上げ、ケーキと共に提げて駅までの道をひた走った。

 駅では久々に券売機で切符を買い、いつもとは反対方向の電車に乗った。そして彼の住むアパートの最寄り駅で降りる。安井さんの部屋は一度訪ねたきりだったけど、駅からの道はわかりやすくて迷うことなく辿り着けた。彼に会いたい一心で無我夢中だったせいかもしれない。

 クリスマスイブも終わり近づく住宅街は、ひっそりと静かだった。ファミリーカーの多い彼のアパートでも、今頃は何人かのサンタクロースが仕事を始めているかもしれない。


 私もサンタの気分で外階段を上がり、ドアの前に立ったところで内側からドアが開く。

 セーターを着た安井さんが、温かみのある玄関の明かりを背負って顔を出す。

 私を見るなり目を細めた顔を、昨日も確かに見たような気がする。私もその表情に、何とも言えないいとおしさを覚えた。顔を見ただけで喜んでもらえるなんて、本当に幸せなことだ。

 私は今更のように照れて、手にしていたケーキの箱を彼に差し出す。

「ケーキ、私もあるんだけど……」

 安井さんがおかしそうにその箱を受け取った。

「これ、何ケーキ?」

「フランボワーズのムースだよ」

「俺はアイスケーキだ。被らなくてよかった」

 そしてもう片方の手で旅行鞄をも持ち上げると、私を促す。

「入れよ。寒かっただろ」

「うん。お邪魔します」

 私は玄関に立ち入り、靴を脱いで揃えた。

 それから振り返ると、両手が塞がった安井さんが私に顔を近づけてくる。戸惑い気味に目を閉じると唇に柔らかく温い感触があった。すぐに唇を離して、眉を顰めた彼は言う。

「冷たいな……出張の後で風邪引くなよ、園田」

「平気だよ。安井さんの顔見たら元気出たから」

 私がそう答えると彼はまじまじと見つめてきた。

 そして、とびきり柔らかく笑んだ。

「なら、これからでもパーティができそうだな」

 社内で会った時のように疲れた顔はしていなかった。


 もちろん望むところだ。

 クリスマスイブはもうじき終わってしまうけど、明日はクリスマスだし、そしてお休みだ。

 二人で心ゆくまでパーティができる。

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