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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
44/205

冬の日に訪れる(2)

 忙しいという字と忘れるという字はよく似ている。

 どちらも心を亡くすという意味だ。

 年末進行の真っ只中を追われるように過ごすうち、私は何かを忘れてしまったような気分になっていた。何かは、なかなか思い出せない。ちょっとした些細な事柄のような、でも私にとっては大切なことだったような、曖昧な印象だけが残っている。

 何にしても思い出そうとする暇さえなかった。喉に小骨でも引っかかったような感覚をずっと持ち続けたまま、私は十二月二十三日を迎えていた。


 二十三日のお昼前、私は出張に向けた荷造りに追われていた。

 これは別に当日まで忘れていたわけではなくて、単に今日までする余裕がなかったというだけだ。

 もっとも出発は夕方だし、午後四時に駅に着けば十分間に合う。それでも取材の為の出張という緊張感、それにちょっとした小旅行気分も手伝って、私はそわそわと気もそぞろに荷物をまとめていた。

 向こうに着いたら美味しいものでも食べよう。そのくらいの楽しみはあってもいい。

 そんなことを考えながら荷物をまとめていると、不意に携帯電話が鳴った。


『園田、準備はできてるか?』

 開口一番にそんな問いをぶつけてくるのは、もちろん安井さんしかいない。

 彼の声を電話越しに聞くのは久し振りで、私は顔が緩むのを抑えられなかった。

 こうやって電話を貰えるのっていい。そりゃ直に会って話せる方がもっといいのは知ってるけど、それが叶わない時は休日の貴重な時間をこうして私の為に割いてくれるだけでも嬉しかった。

 もっとも、安井さんも私の声を聞く為だけに電話をかけてきたわけじゃないはずだ。

「今、急ピッチでやってるとこ。もうばたばただよ」

 ちょうど今し方も旅行鞄と睨み合っていた私は、正直に答えた。

『何時にこっち発つんだ?』

「午後四時。まあ間に合うとは思うんだけどね」

 電話を肩に挟みながらスーツを畳んでいれば、彼が心配そうな声になる。

『結構早くに発つんだな、大丈夫か? よかったら駅まで送っていこうか?』

「え、休みなのに悪いよ。気持ちは嬉しいけど」

 彼ならそう言ってくれるだろうだと思っていた。多分それが目的で電話をかけてきたんだろう、とも。

 でもまさか、こんな時期の貴重な休日に、それも恐らく混み合っているであろう駅前まで車を出してもらうなんて気が引ける。

『そんなこと気にしなくていい。どうせお前に会う口実だから』

 安井さんは心なしか、どこか自嘲気味に言った。

 こういう言い方をする時は寂しがってるか拗ねてるか――どちらにしても同じか。とにかく放っておくのはかわいそうだ。私は苦笑いを噛み殺しながら慌てて意見を翻した。

「頼めるならありがたいけど、本当にお願いしちゃってもいいの?」

『ああ。俺としても、ちょっとでも顔を見られるなら嬉しい』

 その言葉に私は照れた。顔だけならほぼ毎日見てるんだけどな。

 でも出発の時刻を伝え忘れている程度には、このところまともに話ができていなかった。せめてメールだけでもと思っていたけど、それも一晩に一往復できればいい方で、そうなるとお互いを労い合ったり励まし合ったりするので精一杯だった。

 おかげで私もぽろぽろいろんなことを忘れがちだった。安井さんに何か聞こうと思ってたことがあったような気がしたんだけど、何だったっけ。忙しさにかまけて忘れるくらいなら、それほど重要なことでもないのかもしれない。

 思い出せないものは仕方ない。落ち着いてから改めて聞けばいい。

「じゃあ、道混んでるかもしれないから余裕持って、三時に迎えに来てくれる?」

『わかった。また後で』

 彼は少しだけ安心したように柔らかい声で言い、その後でふと、独り言の口調で付け加えた。

『悪いな、押しかけるみたいで』

「そんなことないよ。私も会いたかった」

 お世話になる方の私が取り成すのも変だけど、そう告げたら彼は少しだけ笑ったようだった。


 私は大急ぎで荷造りを終え、着替えも済ませて彼が尋ねてくるのを待った。

 安井さんの青い車は約束の五分前に私のアパート前へと現れた。それに気づいた私が鞄を提げて部屋を飛び出すと、モッズコート姿の彼が素早く車から降りた。その姿がちらりと見えただけで、なぜだか妙に心が弾んだ。

 アパートの階段を駆け上がってきた彼が、その途中で部屋を出てきた私を出迎える。

 こちらを見上げて一度、眩しそうに目を細めた。

 それから当たり前のように大きな手を差し伸べてくる。

「持つよ。重たいだろ」

「本当に結構重いよ。いろいろ入ってるから」

 警告しながら鞄を手渡すと、安井さんは一瞬怪訝そうに眉を顰めた。

「一泊の荷物だよな?」

「持ってくもの多いんだもん。パソコンにレコーダーにスーツにヒールに」

 スーツ着て電車乗れば着替えなしで済むんだろうけど、仕事で行くのにそんな疲れることやりたくない。駅から宿泊先のホテルまでもそれなりに歩くようだし、そうなると行きは履き慣れた靴の方がいい。

「一人で行くのも大変そうだな。俺も一緒に行ければよかったのに」

 ずっしりとした私の鞄をトランクに積み込み、運転席に乗り込んだ後で彼は呟いた。

 私も助手席に座り、シートベルトを締めながら、冗談半分で言ってみる。

「安井さんも一緒に行く? 今からだとぎりぎり日帰りってとこだけど」

「そんなこと言うなよ。本当に行きたくなるだろ」

 彼は私を軽く睨んで咎めた。

 私がきまり悪さに思わず笑うと、彼も悪巧みするような顔で微笑んだ。

「明日が仕事じゃなければな。一緒に行って泊まってくるのに」

 それから車を発進させる。


 予想通り、道はどこもそれなりに混んでいた。

 少し賑やかな辺りへと出ればたちまちイルミネーションの輝きが街並みを彩り始める。まだ日没前だというのにちかちかと瞬く小さな無数の光は、冬の物寂しい景色をいくらか華やかにしているようだ。

 街行く人の数も今日は多い。明日のイブが平日だから、今日のうちに出かけようって考えの人も案外いるのかもしれない。仲睦まじく腕を組んで歩くカップル、小さな子供を抱っこして歩く家族連れ、学生さんっぽい数人のグループと、誰も彼もが楽しくてしょうがないという顔をしている。

 他人を羨んでもどうにもならないのはわかってる。でも今日ばかりはちょっと思う。

 どうして私はクリスマスシーズンなのに、祝日なのに、これから出張なんぞに出かけなければならないのか。


「園田、羨ましそうな顔してる」

 運転席から指摘が飛び、私は誤魔化すように窓の外から声のした方へと視線を動かす。

 信号停止の間、安井さんは横目で私を見ていた。先月会った時と同じように、休みの日らしく短い前髪を下ろしている。思ったより疲れた顔はしていなくて安心したけど、唇が乾燥しているようなのは少し気になった。

 翻って私の顔は、彼の目にはどんなふうに映ってるんだろう。

「顔に出てる?」

「出てる。喉から手が出るほど物欲しそうな顔してる」

「そんなにかあ……。よくないね、気をつける」

「いいよ。俺だって最近は幸せそうな連中がどいつもこいつも妬ましい」

 そう言い放ってから彼は思いきり顔を顰めた。

「単に一人でいる時よりも、好きな相手がいて、でも一緒にいられないって状況の方が辛いな。クリスマスは」

 全く同感だ。私が深く頷くと、信号が変わって安井さんは車を動かす。

 正面を見据える運転中の横顔が、淡々と続けた。

「でも今日、こうして会えただけでもよかったよ」

 わざわざ休日に車を出してくれて、その上でこんなことまで言ってくれるなんて、安井さんは本当に優しい人だ。私も他人を羨む気持ちは一時忘れて、その優しさを味わっていたくなる。ささやかながら幸せな気分だった。

「そうだね。ありがとう、来てくれて」

 私がお礼を言うと、安井さんは口元だけで笑んだ。

「お前、いつの間にかちょっと痩せたな」

「え、そう? 最近不規則なせいかな……」

 そう思ってもらえるのは嬉しいけど、私に自覚がないということは、痩せたというよりやつれたという方が正しいのかもしれない。

「それに目の下、隈がある」

 彼が続けざまに言ったので、今度はぎくりとした。

 近頃は帰りが遅くて、睡眠時間も減りがちだった。もちろんそんなのは私に限った話じゃあるまい。安井さんがたまにくれるメールも日付が変わるぎりぎり前だったりするし、皆そんなものに違いなかった。

「あ、うん。気づいちゃった? 化粧でカバーしてるつもりなんだけど」

 私は恥じ入り、頬に手を当てる。

「よく見てる顔だからな。疲れてればすぐにわかる」

 自信たっぷりな口調で言われると余計に恥ずかしい。私もお肌の曲がり角はとうに曲がりきった二十八歳、こうして疲労が蓄積するとてきめんに顔に出るから困る。

「明日は多分もっと疲れた顔してるよ。もし会っても見ないでおいてね」

「嫌だ」

 私の懇願は案の定あっさりと却下された。

 そして彼は唇に浮かべた笑みを深めて、

「俺は好きだよ。園田の疲れた顔」

「ええ……それ喜んでいいの?」

 疲れた顔が好きと言われるのも微妙だ。個人的に、好きな人には一番見せたくない顔だっていうのに。

 複雑に思う私に、でも彼は尚も言う。

「さっき迎えに行った時、部屋から出てきた園田の顔見て、可愛いなと思った」

 初めて向けられたわけでもない誉め言葉にどきっとしたのは、車の中だったからかもしれない。

 また信号で停まった。さっきからあまり進んでいない。車が動きを止めてから、安井さんは私の方を向く。涼しげな目元がじっとこちらを見る。

 何かを求めるような、物欲しそうな目をしているように、私には見えた。

「完璧にそそられた。弱ってる園田もいいな」

 冗談っぽく言われたらまだあしらいようもあるのに、今は本気の口調で言われた。

 おかげで私は妙にどぎまぎして、彼から目を逸らすしかなかった。

「安井さんこそ……何て言うか、疲れてるんじゃない?」

 内心焦りながら聞き返すと、彼は平然とそれを認めた。

「かもしれないな。心の栄養、及び癒しが欲しいんだ、俺は」

「じゃあ癒しになるようなお土産を買ってきてあげるよ。何がいい?」

「何も要らない。お前が無事に帰ってくるだけでいい」

 一泊二日の出張に言うには大げさな台詞を口にした後、また車が動き出す。

 彼が呟く。

「いや、黙って帰りを待つより、このまま攫って帰りたいな……」

 吐息混じりの独り言も、イルミネーションに囲まれて聞くと切なく思えた。

 何だってこんな、今から出張行くよって時に行きづらくなるようなことを言うんだ。安井さんは。


 駅近くのパーキングはどれもこれも満車だった。

 立て続けに三軒ほど振られたところで彼は駐車場を諦め、駅前のロータリーで私を降ろした。

「送ってくれてありがとう」

 私がお礼を言って、シートベルトを外そうとすると、彼がその手を掴んで制した。

 手首ごと力強く引き寄せられ、声を上げる間もなく唇にキスされた。かさついた唇の冷たい感触が奇妙に切なく思えた。

 それから唇を離した安井さんは、まるで捨てられていく猫みたいな目をしていた。

 今生の別れでもないのに、離れがたいのはどうしてだろう。私は寂しいのを誤魔化すように、彼の頬に触れながら笑った。

「明日には会えるよ、安井さん」

 触れられた方の彼は、困ったように目を伏せる。

「……わかってる。手のかかる男だな、俺は」

 ぼそりと零してから、彼は車を降り、トランクから私の鞄を取り出してくれた。

 私は彼の青い車が駅のロータリーを出て行くのを見ていた。イルミネーション輝く街並みの向こうに飲み込まれる彼の車を、見えなくなるまで見送ってから駅構内に入った。


 電車の中で時間を潰そうと自転車雑誌を持ってきたけど、私は結局それを一度も開かずに電車に揺られていた。車窓の景色は程なくしてとっぷりと暮れ、やはり普段よりも華やかな街の明かりが闇の中に浮かぶのをぼんやり眺めていた。

 目的地に着いたのは午後八時、見知らぬ駅から外へ出て、見知らぬ夜の駅前通りをガイドブック片手に歩いた。駅から十五分とあったけど、暗さと寒さと心許なさのせいかもっとかかったように思えた。ビジネスホテル特有の素っ気ないフロントでチェックインを済ませ、エレベーターに乗って目的のフロアへ向かう。

 客室のあるフロアは無人ではないかと思うほど静まり返っていて、ふかふかした絨毯敷きの床は私の足音も吸い込んでしまう。


 徹頭徹尾独りぼっちの私がようやく辿り着いた客室は、耳が痛くなるほど静かだった。

 オレンジがかった照明の下、シングルの部屋は息苦しいほど狭くて、乾燥した空気と慣れないホテルの匂いに戸惑う。よく弾むベッドに腰を下ろし、スーツをかけたりパソコンを充電したりするよりもまず、ごろりと仰向けに寝転がる。

 本当にめちゃくちゃ静かだ。

 私の呼吸以外、何の音もしない。

 見たことのない天井の模様を眺めていると、無性に孤独感を覚えた。


 寂しいのは、一人きりだからだろうか。

 それとも今日、彼と過ごしたほんのわずかな時間を引きずっているせいだろうか。

 少し前までは会えないから寂しいなんて思うこともなかった。もちろん安井さんとは毎日会おうと思えば会社で会えたし、よりを戻してからもデートは月に一度程度だった。それで物足りないと思うことはあっても、寂しいとは思わなかった。

 あの頃も同じだった。十二月に入って、忙しくなって、そしたら急に寂しくなった。彼を困らせちゃいけないと思ってメールも電話も控えたし、休日に会いたいとも言わないようにしていたけど、そうやって我慢すればするほど、そして年末の仕事に追われて疲れたら疲れた分だけ、会いたくて堪らなくなった。

 私達はあの頃からお互いに、同じものを必要として、求めていた。

 でもって私達はお互いに、結構な見栄っ張りだったのかもしれない。肝心な時に言うべきことが言えなかった。


 ベッドに寝転がって昔を思い出していたら、天井がぼやけてきて困った。

 ここに安井さんがいてくれたらな、なんてありえないことを考えてしまった。


 いやいや、泣いてる場合じゃない。明日は取材なんだから酷い顔じゃ行けない。

 弱った顔は彼のところへ戻るまで取っておくことにしよう。

 そして戻ったら、今度こそちゃんと言おう。

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