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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
43/205

冬の日に訪れる(1)

「合鍵、貰って欲しい」

 誕生日の夕方、すっかりしょげ返っていた私に安井さんはそう言った。

 ソファの下に座る私の頭を慰めるように一撫でしたかと思うと、ポケットから小さな鍵を取り出す。鈍い銀色をしたその鍵を私の手に握らせると、少し寂しそうな顔をして言った。

「いつでも来ていいから」


 私は手のひらの中の鍵を見下ろす。

 鍵は傷一つなく、恐らく作られてから一度も使われてないのだろうと思われた。安井さんは『ちょっと気が急いて』この合鍵を作ったと言っていた。それから四年の間、この鍵はずっとしまわれ続けてきたけど、ようやく日の目を見たということになる。

 だけどまた当面の間はしまい込んで置かれることになるんだ。かわいそうに。


「ありがとう。けど、しばらくは来られないよ」

 鍵は受け取ったものの、私は正直に告げた。

 多分、無理だ。これからどんどんお互いに忙しくなるし、十二月はきっとデートする暇さえない。

「それでも持っててくれるなら嬉しい」

 安井さんはそう言うと、私の頬や下瞼に手を触れ、指の腹でそっと撫でた。私が泣いていないかどうか、確かめるような仕種に見えた。

 私は泣くような気分ではなく、ただただ打ちひしがれていた。いっそ十二月があっという間に終わってくれないかなとさえ思う。実際には終わられたら仕事片づかないし、私が困るんだけど。

「持ってるよ。使う時まで大事にしまっとく」

 受け取った合鍵を鞄にしまい、私は彼をそっと見上げた。

 ソファに座っている彼は困ったような、残念そうな笑みを浮かべている。そんな顔をしながらも言葉を選びながら切り出してきた。

「いざとなると言えなくなるもんだな。忙しくなるとわかってたら、寂しくなるとか、それでも会いたいとか……」

「ごめん」

 私が謝ると彼は肩を竦める。

「責めてるわけじゃない。それに言ってなかったけど、俺も今月から忙しくなる」

「そうだろうね。時期が時期だし」

「ああ。来月は企業説明会もある。今からいろいろと準備があるんだ」

 安井さんの口調は自らに言い聞かせるようでもあった。

 これからのシーズンは誰だって忙しくなる。私も彼を支えられたらよかったんだけど、この状況じゃとてもままならない。そのくらいなら諦めて、十二月を一人きりで乗り切った方がいい。

 そして全部が終わったら、この合鍵を使おう。

「安井さん」

 私は彼の名前を呼び、膝の上に片肘をついた姿勢の安井さんがわずかにだけ表情を和らげる。

「何?」

 たったそれだけの言葉を、驚くほど優しい声で口にした。

 だから、なのかどうかわからないけど、胸の奥がきりきりと痛んだ。

 それで私は今言える精一杯の言葉をと思ったけど、

「仕事納めまで全部終わったら、私――」

 言いかけたところではたと気づいて、慌てて口を噤んだ。

 彼が目を瞬かせる。

「どうした? 言いかけてやめるなよ」

「でも、映画とかだとこういうのってフラグでしょ。この戦争が終わったら結婚するんだ、とか」

 故郷へ帰るんだとかこの職を辞めるんだとか、映画でよく見る類の宣言は大抵まずい。

 そういうことを口走ったが最後、絶対にその願いは叶わず生還もできないフラグだ。迂闊なことは言わない方がいい。

「だから言わないって?」

 苦笑する安井さんに、私は黙って頷く。

「意外と縁起を担ぐんだな、園田は」

 そりゃそうだ。もう二度と駄目になりたくないもの。

 ここまで来たらもうありとあらゆる縁起を担いで担いで担ぎまくる方向で行こう。

 そしてもちろん年内の仕事が無事収まったあかつきには、必ず幸せになる。彼と二人で。

「変かな。失敗したくないって思うの」

「変じゃないよ。ただ、もう恐れることでもないと俺は思ってたんだけど」

 彼はじっと、私を見つめている。

「じゃあ俺も、今は下手なことを言わないでおくか。クリスマスは一人でやり過ごすよ」

 やがて短く息をつくと、安井さんはテーブルの上に置きっ放しになっていたカップに手を伸ばす。そして冷めてしまったはずの中身を一気に飲み干してから、私に尋ねた。

「よかったらお替わりを入れるよ」

「ありがとう。お願いしようかな」

「いくらでも飲んでけよ。自棄酒ならぬ、自棄ハーブティーだ」

「同じ自棄でもこっちはすごく健康的な感じがするね」

 私もありがたくその申し出を受け、すっかり横槍が入ったような誕生日をせめて最後はきれいに締めくくるべく、二人してリンデンの甘い香りを楽しんだ。

 自棄気味に、それでいてもちろん、健康的にその日を過ごした。


 かくして私達のクリスマスはものの見事に中止となった。

 とは言え希望がないわけじゃない。

 もともと、私も安井さんもクリスマスだけに強いこだわりがあったわけでもないし、要は二人でいられさえすればいつでも、理由も何だっていいんだと思う。だから仕事納めまで頑張って、その後で大掃除や年越しの準備を済ませたら連絡でも取り合って、例えば年明けを一緒に迎えるなり、初日の出を見に行くなり、神社へ初詣に行くなりすればいい。

 その為にもまずは目の前の仕事を片づける。少しでも年末が辛くならないように。


 十二月に入っても、私と安井さんは連絡を取り合っていた。

 ただしその頻度は先々月あたりと比べたらがくっと落ちている。私は帰りが遅くなることが多くなってしまったし、そうなると徐々に疲労が身体に蓄積するようになった。お風呂を沸かして入ってる間にうたた寝をしたり、こたつの上に突っ伏したまま寝落ちしたりすることも増え、夜に貰ったメールの返事がその日のうちにできない、なんてケースもぽつぽつとあった。

 逆に安井さんからのメールがおやすみを言うだけの簡素なものになることも珍しくなく、そういう時は彼も忙しくて疲れているんだろうと思って、気にしないように努めた。

 社内恋愛というのは便利なこともあって、彼が体調を崩していないか、元気でいるかは直に見に行けば確かめられる。それによると安井さんは社内では至って元気そうにしているし、私に気づくとこっそり笑い、目配せをしてくるくらいの余裕はまだあるようだった。安心だ。


 私も仕事に打ち込みながら、時々安井さんのことを考えた。

 こういう繁忙期に、彼と一緒に暮らしていたらどうだっただろう。

 私がお風呂でうたた寝したら心配して覗きに来そうだ。こたつで寝落ちしかけたら起こしてくれるだろうか、それとも隣で一緒になって寝落ちてるかな。忙しい時のご飯って、安井さんはどうしてるんだろう。私は豆腐とご飯があればあと一手間で美味しく食べられる人間だけど、そういえば豆腐丼の作り方は結局教えられなかったし、安井さんがどんなもの食べて過ごしているのかちょっと気になる。洗濯物は溜まるだろうなあ、二人分だったら尚更だ。でも洗うのは洗濯機の仕事だし、干すだけなら一人分も二人分も大して変わらない。そのくらいの助け合いはできると思う。

 何より毎日、わざわざ会社で見に行かなくても彼の顔を見られるんだから、どんな調子でいるか気分はどうかがすぐにわかっていい。

 一緒に暮らすようになったら、彼の為にしてあげられることはたくさんある。

 今みたいにメールも遅れがちな時期だとしても、一緒に暮らしていれば他にできることがある。

 それなら私、やっぱり彼と暮らした方がいいのかもしれない。


 もしかしたらそういう想像すら、現実逃避の一環だったのかもしれないけど。

 そう思ってしまうくらいに十二月はやることが多すぎた。

 社内報の更新の後すぐに次回、年明け後の社内報の原稿を打ち始める。まだ十二月に入ったばかりだというのに『謹んで新年のお慶びを申し上げます、皆々様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます』なんて文章を打つのは、まるで年賀状を作っているみたいな作業感がある。

 それと平行して広報誌の原稿を書き、更には出張の為のチケットの手配とビジネスホテルの予約を済ませた。十二月二十三日はどういうわけかどこのホテルも混み合っているらしく、わざわざシングルを指定したのにホテル探しに手間取った。それでもどうにか駅から徒歩十五分のところを確保することができて、ひとまずほっとしている。


 そうこうしている間にも街の景色は冬になる。

 普段は無機質な灰色のオフィス街にもどういう趣向かイルミネーションがちらつくようになり、ケーキ屋にはクリスマスケーキの予約受付中という張り紙がされ、コンビニに入ればBGMはずっとクリスマスソングだ。私も部屋にいる時、ついつい『諸人こぞりて』あたりを口ずさむようになった。

 憂鬱に思ってたって、ご縁がなくたって、クリスマスは否応なしにやってくる。

 見て見ぬふりをするのは至難の業だ。


 更に、身近なところからクリスマスケーキのセールスを受けた。

『お世話になっております、営業課主任の石田です!』

 広報にかかってきた内線で、石田さんの威勢のいい挨拶が聞こえてきた。

「お疲れ様です、広報の園田です」

『よう園田、ちょっと今いいか? クリスマスのケーキはもう予約したか?』

 やぶからぼうに何を聞くかと思えば。私は受話器片手に応じる。

「ううん。どこにも頼んでないです」

 正直に言うとクリスマスなんてもうどうでもよかったし、わざわざ自分の為だけにケーキを予約するという考えもなかった。ケーキは嫌いじゃないけど、クリスマスケーキって大抵ホール売りだからちょっと買いづらい。

 ただそれも、あくまで私個人の事情だ。

 他の人に事情があるならそれは酌まなくてはならない。恐らく石田さんも、理由あってこちらに連絡を寄越したんだろう。

『そりゃよかった。実は今年、取引先に注文の取りまとめ頼まれてな』

 案の定、彼は安堵したように言った。

 仕事上の付き合いから季節商品の売り上げ協力を頼まれるのもそう珍しい話じゃない。営業課なんて特に他社と接点多いから、そういう依頼が舞い込んでくるのも無理のないことだ。

 石田さんには先月、社内報のコラムを書いていただいたし、できることなら協力してあげたいところだけど。

「それって日付指定できるの?」

 私の問いに、石田さんは不思議そうな声で答えた。

『できなくはないけど、二十三、二十五ってどっちも休みだからな。そうなると俺が届けに行くことになる』

「ああ、そっか……」

『二十四日ならうちの社まで配達頼んでるから、会社で手渡しできるぜ』

 二十三日は夕方には発つ予定だし、二十五日は疲れて昼まで寝ている予定だからどっちもちょっと厳しいか。となると二十四日、会社に戻ってから受け取るのがベストかな。

「じゃあ、二十四日にお願いしようかな」

『お、マジで? 品物も見ないで決めてくれんのか』

「石田さんには先月お世話になったしね。お返しだよ」

 あと、秘密を作ってるという申し訳なさもあるし。

「ただ私、二十四日は出張なんだ。だから会社戻ってからでもいい?」

『へ? 出張? クリスマスイブに? 何だってまた』

 電話の向こうで石田さんの声が裏返る。

 誰だってそう思うだろう。私も思う。

「うん。しかも前泊でね、二十三日から現地入りでね」

『ええ……正気か。無茶なスケジュール組んだな、大丈夫かそれ』

「おまけに二十四日は半日出張扱い。だから夕方ならケーキ受け取れるよ」

『……こりゃ励ましの言葉も出ねえな。まあ何だ、ドンマイ園田』

 意気消沈の時期はとうに過ぎた。十二月に入っちゃった以上は腹を括って現実と向き合うより他ない。

 というわけで、クリスマスがやってくるという現実とも向き合うことにしましょうか。出張から帰って来た次の日の朝、冷蔵庫にケーキがあったらちょっとは楽しくなれるかもしれない。

「じゃあ注文するから、カタログとかあったら見せてくれる?」

『毎度あり。あとでそっちに寄るから、よかったら他の方にも聞いといてくれるか』

 さすがは石田さん。仕事に関してもめちゃくちゃしっかりしている。

 もちろん、いいよと答えておいた。


 それならと私も広報課内でクリスマスケーキの動向調査をした。

 小野口課長は奥様のお手製ケーキがあるのでよそでは買わない予定だそうだ。でも東間さんは買ってもいいと言ってくれて、十分後くらいに訪ねてきた石田さんが持ってきたリーフレットを一緒に眺めた。

 当たり前だけどクリスマスのケーキは押し並べてホールの、丸いやつばかりだ。クリスマスに予定の入れようがない独り身にはきついものがあるので、私は一番すんなり食べられそうなフランボワーズのムースを選んだ。

「これって日持ちはしませんよね。一人で食べきれるかな……」

 東間さんも私と同じ心配をしたようだ。不安げにリーフレットを覗き込んでいる。

 すると石田さんがリーフレットの端を指差し、

「それでしたらアイスケーキってのもありますよ。こっちはいくらか日持ちします」

「あ、そうなんですか。アイスケーキかあ、いいかも」

 目を輝かせてケーキに添えられたキャプションを読む東間さんに、石田さんも営業スマイルで続けた。

「それ、我が社じゃ結構人気なんですよ。何せ単身者は皆、誰か誘ってクリスマスどころじゃねえっていう時期ですからね」

「なるほど……じゃあアイスケーキ頼んだら、クリスマスは一人ってばれちゃいますね」

 少し恥ずかしそうに笑う東間さんを見て、私は、安井さんはどのケーキを頼んだのかなと考える。

 彼も石田さんのお願いなら何だかんだで断らないだろう。だけど一人で生クリームのホールケーキを食べきれるような人でもないから、リーフレット見ながら私達と同じように迷ったんじゃないかな。

 やっぱり日持ちのするアイスケーキだろうか。

 できればそれを、一緒に食べられたらよかったんだけど。


 あとで彼に聞いてみよう。

 それでもしアイスケーキを頼んだって言ったら、一切れでいいから年末まで、次に一緒に過ごす時まで取っておいてもらえないかってお願いしてみよう。

 クリスマスを一緒に過ごせないなら、後からクリスマス気分を味わうのだっていいと思う。

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