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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
42/205

決して絶えず、限りあるもの(6)

 テーブルがリビングにしかなかったから、そこでご飯を食べることにした。


 豆腐のあんかけ卵とじ丼と大根のお味噌汁、ほうれん草のおひたしも添えてみた。

 誕生日のメニューにしてはかなり地味だ。テーブルに並べてからふと思ったけど、差し向かいに座る安井さんは感嘆の溜息をついていた。

「ようやく……ようやく園田の手料理が食べられる……!」

「久し振りだもんね。喜んでもらえてよかった」

 私が照れると、彼は真剣な顔でかぶりを振る。

「喜ぶなんてものじゃない。こんな日がもう一度やってくるのを何度夢に見たか」

 オーバーな言い方だったけど、安井さんなら本当に夢に見てそうだ。

「夢に出てきたのより美味しいといいな」

「園田が作ってくれたなら美味しいに決まってる。いただきます」

 彼が両手を合わせ、丼用のスプーンを持った。そして熱心に食べ始める。

 途中で味見をしていたから味に自信はあったけど、果たして彼の期待に応えられるだけの仕上がりになっているだろうか。私は彼がスプーンを使い、口元まで持っていく動きをじっと見守った。

 一口食べるなり、彼は浸るように目をつむる。

「ああ、これだ。園田の料理の味がする」

 時間をかけてその一口を味わった後、目を開いてしみじみと言った。

「それに相変わらず豆腐料理のツボを押さえてるな、さすがだ」

「そんなに? 誉め過ぎだよ」

 美味しいって言ってくれるだけで十分なのに、そこまで言ってもらえるとはくすぐったい。

 でも安井さんはあながち冗談でもない調子だった。

「俺は昔から思ってた。お前の料理には豆腐へのリスペクトを感じる」

「リスペクトって。つくづく大げさだね、安井さんは」

「けど俺が作ったってこんなに美味くはならない。たまに作るんだけどな」

 彼のその言葉通り、冷蔵庫の中には今日買ってきたものとは別に買い置きの豆腐があった。今では無類の豆腐好きとなった彼は、一人でもよく豆腐料理を作るらしい。

「安井さんの手料理も一度食べてみたいな。手堅いの作りそう」

 私が言ってみると、彼は途端に気後れしたように苦笑いを浮かべる。

「本当にあまり美味しくないから、やめといた方がいい」

「そうなの? ちなみに、どんなの作ってるの?」

「例えば、お前が作ってた豆腐ぶっかけ丼」

 彼は話しながらも盛んにスプーンを動かしていた。この分だとあっという間に食べ終わりそうだ。

「でも、何度やってもお前が作った味が再現できない。何かコツでもあるのか」

「コツってほど難しいものでもないよ。多分、調味料の配分かな」

 基本は温かいご飯に豆腐を載せるだけという代物だから、あとは自分好みの味つけをすればできあがり。簡単なものだ。

 ただ、どんな料理も自分好みの味を見つけるのが一番難しいのかもしれない。

「食べ終わったらレシピ書いてあげるよ。それ見ながら作れば楽勝だよ」

 そう提案した私を、安井さんは一旦手を止めて、縋るように見る。

「作ってあげるよ、って言って欲しいな。俺としては」

「あー……」

 そういうことか。気づけなくて申し訳ない。

 私もすぐに言い直した。

「うん、いいよ。次の機会に作ってあげる」

 すると彼はわかりやすく胸を撫で下ろす。

「よかった。じゃあ早速、明日の朝にでも」

「そういう反応に困る冗談はいいから」

「いや、冗談じゃないんだけど……」

「私は冗談として受け取ります」

 その後はしばらく、二人揃って黙々と食べた。


 安井さんの策略めいた冗談はさておき、こうして相手の誕生日に部屋を訪ねてご飯を作ってあげる関係って、どういうものなんだろうと私は思う。

 恋人?

 むしろ、婚約者?

 お見合いしたからといって即座に婚約者、というのも違う気がするけど、かと言って安井さんを『彼氏』などと呼ぶのはどうにもむずむずする。恥ずかしい。そういうものはとっくに通り過ぎているような気もするし、それでいて、まだそこまででもないような気もする。

 何にせよこういうのは曖昧にしておかない方がいい。

 そろそろこの関係にもけじめをつけるべきじゃないかと思う。


 沈黙の間にも私は、彼の方を窺い見ていた。

 丼を空にしてしまった安井さんは、今は関節の目立つ手でお椀を持ち、幸せそうな顔でお味噌汁を飲んでいる。美味しく食べてもらえたのはよかったなと、私もほっとしておく。

 安井さんもお椀を置いた後で私に目を留めた。

「そういえば今月の社内報、読んだよ」

 そしてこのところ毎月のように聞く言葉を口にする。

 いつもなら喜んで感想を伺うところだけど、石田さんからいろいろ聞いた後では恥ずかしい。

 その気持ちが顔に表れていたのか、私が応じる前に彼が眉を顰めた。

「……もしかして、石田が何か言ってた?」

「うん」

 私ははにかみながら、肯定の返事だけをした。

 途端に安井さんが苦虫を噛み潰したような表情になる。

「あのお喋り野郎め。コラムじゃ格好つけて取り澄ましたこと書いてたくせに」


 十一月の社内報には、石田さんが書いてくれたコラムも掲載していた。

 彼は有言実行とばかり十月のうちに原稿を上げてくれて、おかげで今月分の更新は非常にスムーズに行うことができた。更新後にお礼を言いに行ったら、逆に『この間は変なこと頼んでごめんな』と謝られてしまって、それだけは心苦しかった。

 石田さんに話せるようになる為にも、というのも変かもしれないけど――あんなに安井さんのことを案じてくれる人を、なるべく早く安心させてあげたいとも思う。

 同じ人を好きになった者同士、だからね。


「でも、さすが石田さんは文章上手いよね。普段の話の上手さが出てた」

 私が誉めると、それは安井さんも認めざるを得ないようで、渋々頷いていた。

「まあな。あいつ、写真の撮り方にはこだわりあるらしいし」

 コラムの内容は石田さんが趣味にしているというデジカメについてで、どんなに科学技術が進歩しても写真一枚で人の魅力を収めきるのは至難の業だ、と記していた。石田さんは証明写真を撮る際にことさらそう感じるのだそうだ。彼の軽妙な文章は社内でもウケがよく、おかげでコラムの認知度も上がったようだ。

「石田さんのおかげで次の書き手もすんなり決まったんだ。ああいう感じでいいならって言ってくれる人が何人かいて」

 呼び水としてはまさに最適な人選だったのだと思う。おかげであと三ヶ月くらいは書き手探しに奔走しなくて済みそうだし、そこからまたコラムの認知が進んでいろんな人に書いてもらえるようになればいいなと思う。

 ただ、安井さんはちょっと残念そうだ。

「もう決まっちゃったのか」

「あ、もしかして安井さんも書きたかった?」

「と言うより、俺も園田に頼りにされたかった」

 変なことで拗ねてる。

 私はおかしいのを堪えながら彼を宥めにかかる。

「これでも普段から安井さんのこと、結構頼りにしてるよ」

 でも彼は物足りないのか、不満げなままで言った。

「これからは、もっとして。仕事のことでもそれ以外でも」

 表情も目も笑っていないせいだろうか。今の物言いからは場違いなくらいの真剣さが窺えた。そうしてくれなきゃ困る、というような譲れない意思がひしひしと伝わってくる。

 私は一瞬気圧されたけど、それならと思い直して彼に告げた。

「じゃあ、食べ終わったら食器洗うのをお願いしていい?」

「もちろんいいよ」

 一転して笑みを浮かべた彼が頷く。それから、

「今の会話もちょっと夫婦っぽい。拗ねる旦那に手を焼く奥さんって感じ」

 と言い出したので、私は思わず苦笑した。

 手を焼くってほどじゃないけど、案外拗ねる人だったんだ。本当に難しいな、男心。


 食事の後、安井さんは約束通りに食器を洗い、更にはお茶を入れると言ってくれた。

「前に買ったハーブティー、上手に入れられるようになったんだ。ご馳走するよ」

 どうやら密かに入れ方を練習していたらしい。彼が上機嫌でキッチンに立つのを、私はリビングのソファに座って眺めていた。

 やがて彼はお揃いのカップを二つ持ってきて、一つを私に差し出した。上品で優しい、蜂蜜みたいな香りがする。お茶の色はごく薄く、光の当たり具合では無色透明に見えるほどだった。

「ありがとう。これは何のお茶?」

「リンデン。ブレンドじゃなくて単品」

 そう答えると、安井さんは私のすぐ右隣に腰を下ろした。

 二人掛けソファはいざ二人で座ると狭いような気がする。彼との距離が、肩がぎりぎりぶつからないくらいに近い。

 隣を気にしないようにしながら、まずはお茶を一口飲む。ほんのりとだけ甘い味がする。

「すごく美味しいね」

 途端、安井さんは得意げな面持ちになる。

「入れた人の腕がいいからだ」

「そうだね、結構たくさん練習した?」

「いつかお前に振る舞ってやろうと思ったからな」

 彼は素直に顎を引いた。そしてカップの上で揺らめく湯気を顎に当てながら、少しだけ思案するようなそぶりを見せた。

「あの店、クリスマスケーキも取り扱ってると思うか?」

 それは当然、小野口課長の奥様の店のことだろう。

 私も同じように少し考えて、それから答えた。

「どうかなあ。あのお店、ケーキも美味しかったよね」

「ああ。だからクリスマスにでもまた食べよう」

 安井さんは不思議なくらいクリスマスにこだわっているようだ。

 確実に会えると決まったわけではない私は、やや気後れして聞き返す。

「どうなるかわからないよ。安井さんだって忙しいでしょ?」

「一日くらいどうにでもする。だからって園田にまで無理させるつもりはないけど」

 そう言うと、彼はテーブルの上にカップを置いた。

「俺はクリスマスだから会いたいって言ってるわけじゃないんだ」

 私はカップを持つ手を温めながら、黙って彼の言葉を聞いた。

「十二月の忙しい時期だからこそ、会いたい。頼りにされたいと思う」


 彼も私と同じように、冬の訪れに思うところがあるようだ。

 考えてみれば当然のことだろう。私達は冬にすれ違い、そして別れた。その時の記憶を共有したまま今に至る。

 今でこそ教訓として消化できているけど、私達は長い間、その記憶を傷として引きずり続けてきた。


「私は、同じ失敗はしたくない」

 ささやかに反論した私を、安井さんは冷静に見下ろす。

「園田。今の俺達って何だろう」

「え? 何って……」

 彼が聞きたいことは、さっき私が考えたことと同じだろうか。

 今の私達は恋人か。婚約者か。それとも――。

「今なら『寂しい』じゃなくて、『会いたい』って連絡貰えるくらいになれたかな」

 安井さんがそう続けたので、私は返事をためらい、カップの水面に視線を落とす。

 正直なところ今だってそんなことは言えない。思ってても言いたくない。彼に無理はさせたくないと思ってる。

「私ももういい大人だよ。そう簡単に寂しいなんて言ったりしない」

 その点は強がりじゃなく、断言できる。

 あの頃私が抱いていた寂しさは、交際初期の不安や自信のなさが駆り立てたものだった。今は不安なんてない。

 自信は、むしろある。お互いに相手のことを、とても好きなんだって十分わかってる。

 だから会えない時期も簡単に乗り切れるって、私はそう考えている。

「でも、俺は言うかもしれない」

 ぽつりと言うなり、安井さんは私に顔を近づけた。

 身構える間もなく唇に彼の唇が触れ、微かにリンデンの香りがした。


 唇を離しても、彼の顔はごく至近距離にある。

 涼しげな目元、一つ一つのパーツがきれいにできた彼の顔が、冗談の色も見えない顔つきで私を見つめている。まともな思考力はその時点で大半が奪われてしまい、後に残ったのは今更のように湧き起こる狼狽だった。

 二人掛けソファは、二人で座るには狭すぎるのかもしれない。

 額と額がくっつきそうなほど、こんなに近づいて座ってる。


「会いたい時は正直にそう言うし、我慢が利かなくて五分でもいいからって会いに行くかもしれない。どんなに忙しい時期でも」

 また唇が触れそうな距離から、安井さんがそっと言った。

「や、安井さんが言うのはいいよ。私も……できるだけ合わせるようにする」

 たどたどしい私の答えに彼は首を横に振る。

「園田もそうしてくれ。俺に会いたい時は、いつでもそう言って欲しい」

 そして私の手からカップを優しく取り上げると、それを自分のカップと並べるように卓上に置いた。その後は迷いもせずに私の手を握り、強く引き寄せ、抱き締めてきた。

 ハーブの香りが掻き消え、抱き締められた腕の中で、今度は彼の匂いを感じ取る。

 ほのかで心地いいのに、なぜか怖くなるほど懐かしい匂いだった。

「お前にも俺を頼りにして欲しいし、甘えてもらいたいんだ」

 彼は私の髪を撫でている。そうされると私がおとなしくなると知っているからだろう。

 何だかんだで彼は私のことをよく知っている。私に要望を繰り返すのも、私がそのうちに寂しがるようになると予想してのことなのかもしれない。私自身はそんなこと、予想も自覚もしていないのに。

「恋人同士って、そういうものだろ」

 安井さんが私の耳元で囁く。

 それがくすぐったかったから、私は彼の胸に顔を埋めた。

「恋人だっていうなら、普通は『会えなくても頑張ろうな』って励まし合うんじゃない?」

「俺はそうは言わない。言われたくないからな」

 素直な時は徹頭徹尾、素直で正直な人だ。

 でも私も、そうやって言ってくれる安井さんの方がいい。

「お前を、俺のものにしたいんだ」

 安井さんがごつごつした手を私の頬に添える。

 こうする時は、私に顔を上げさせたいのだと知っている。


 私がおずおずと顔を上げれば、また唇を押しつけられた。

 温かくて柔らかい感触が何かを確かめるように、何度も何度も私の唇に触れてくる。今更うろたえたってもう遅く、繰り返されたキスの最後に私の下唇を軽く噛むと、彼はようやく一度離れた。

 目の前にある顔は幸福感にか、酔いしれるように口元を緩めていた。

 男の人の顔だ、と思う。当たり前だけど。


 私はまだ内心うろたえていて、彼がくれた数々の言葉への返事もしていなかった。

 でも安井さんは構わずに、期待を込めた目で見つめてくる。

「お前が好きだよ、愛してる。お前の為なら何だって惜しくない」

「……そういうこと、不意打ちみたいに言わないでよ」

 呼吸困難をきたした私が抗議しても、彼はどこ吹く風だ。

「初めて言ったわけでもないだろ。驚くなよ」

「驚くよ。と言うか何か、すごくどきどきするし……」

「そんなに? 触って確かめてもいい?」

「な、何言って……わっ、ちょっと待って、今日はそんな、そういうつもりじゃな――ひゃっ!?」

 思わず悲鳴を上げたのは、大きく震えたからだった。


 もちろん私じゃない。

 ソファの足元に置いてあった私のバッグがだ。

 その時、私は彼によってソファに押し倒されており、彼はものすごく楽しそうに私を組み敷いて何か企み始めていた。

 そんな時に音を立ててバッグが震えたものだから、お互いに思わず振り向いてしまった。


「ごめん、多分電話だから退いて」

「このまま出ればいいだろ」

 安井さんは本気でそんなことを言う。愛を込めて蹴っ飛ばしてやろうかと思う。

「って言うか何なのこの姿勢! 安井さんは本っ当に手が早いんだから!」

「早くないよ、これでも長々待ってやった方だろ。大体初めてでもないのに」

「わーもう! そういうこと言わない!」

「いいから出ろよ。電源切っとけよ、なんて気持ちは胸にしまっといてやるから」

 しまうどころか超素直に口から出てたけど、私はずるずると彼の下から這い出て、未だに振動を続けるバッグに手を伸ばした。

 中で震える携帯電話は社用のもので、ディスプレイの表示には『小野口課長』とある。

「も、もしもし。お疲れ様です」

 ソファの下に座り直しながら私は電話に出た。安井さんはソファの上に寝そべり、拗ねた顔で私を見守っている。

『ああ、園田さん。お休みの日なのに連絡してごめんね。今は大丈夫かな?』

 小野口課長はぺこぺこと頭を下げるのが見えるような、申し訳なさそうな声をしていた。

「大丈夫ですよ。何かあったんですか?」

『例の出張の件、先方とようやくスケジュールの折り合いがついてね』

「本当ですか? ありがとうございます、課長。お手数おかけしました」

『いや……それがその、日取りなんだけどね』

 課長がそこで言いにくそうに言葉を濁す。

 何となく、嫌な予感がした。

『十二月の二十四日……クリスマスイブだね。その日しか空いてないってことなんだ』

「そう、ですか」

 私はちらりと安井さんを見る。彼も何かを察して、そこで眉根を寄せた。

 しかし課長の話はまだ終わりじゃない。

『しかもね、二十四日の朝一、午前八時でお願いすると言われてね』

「え……ええ!? あ、朝一ってそんな……」

 出張先は日帰りできる距離だ。だけど始発で出て午前八時に間に合わせるのはかなり厳しい。土地勘もないし、冬場では降雪の心配もある。

『つまりその、前日に現地入りして前泊ってことで……』


 イブの前日って祝日じゃないですか課長。

 何が悲しくて、休みの日の夜に一人ビジホに泊まって、イブの夜明けを孤独に迎えねばならないのか。

 しかも朝一で用件が済むということは、二十四日は半日出張扱いになるわけだ。忙しい年末進行の真っ只中、恐らく切羽詰まってるであろうラストスパート期間の一日は大変貴重であり、当然駅から直帰なんて選択肢はない。ここで手を抜いたら仕事納めまでに納まらなくなる。納会の後に居残って仕事なんてしたくないし休日出勤なんてもってのほかだ。

 そう考えるとやはり二十四日は、出張終えた後に帰社してそのまま勤務、恐らく残業、下手すりゃ二十五日を会社で迎えてしまうという地獄のスケジュールが、サンタの代わりにやってくることになる。

 なんてことだ。あんまりだ。ボケる気にもなれない。


 絶望的な気分で電話を切った私に、安井さんが訝しげな顔をする。

「小野口課長からか? 何だって?」

 私は溜息まじりに答える。

「クリスマス終了のお知らせだった……」

「え?」

 彼が戸惑う傍で私は携帯電話をしまい、姿勢を正してソファの上の彼に向き直った。

「安井さん、ごめんなさい」

「何がだよ。そんな急に畏まって――」

「出張が二十四日に決まってスケジュールがえらいことになるのが目に見えてるので、仕事納めまで待っていただけないでしょうか!」

 深々と詫びると、ソファの上に起き上がった安井さんが呆然と聞き返してくる。

「イブに、と言うか年末に出張……?」

「そうです」

「か、かわいそうに……」

 真っ先に哀れんでくれた彼の優しさが今は痛い。

 もちろんこんな状況じゃ、安井さんの『会いたい』コールに応えられるはずがない。恋人同士らしい支え合いだってままならないのに、どうして私が彼に甘えられるだろう。


 あの頃と同じように、私達の前に仕事の忙しさが立ちはだかろうとしていた。

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