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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
39/205

決して絶えず、限りあるもの(3)

 席に着くなり、安井さんは既にお湯が入っているカップ麺の蓋を開けた。

 そして割り箸をもどかしげに割ると、ずるずると麺を啜って飲み込んでから顔を上げ、隣に座る石田さんを冷ややかに睨んだ。

「で、石田は婚約者以外の女と何を楽しそうに話してたんだ。この浮気者め」

「何言ってんだ。浮気なわけないだろ、人聞き悪い」

 反論する石田さんはらしくもなく歯切れが悪い。目もあらぬ方へ逸らしているし、未だに平静を取り戻せていないふうでもある。

 安井さんはその様子を検分するようにじろじろ見た後、ふとテーブルの上に視線を落として眉を顰める。

 私達が囲むテーブルの上にはお弁当箱が二つあった。一つはまだ食べかけの私のお弁当で、もう一つは石田さんが食べ終えた青いストライプのお弁当箱だ。

「それともまた他人のおかずをせびってたのか。婚約者にお弁当を作ってもらっておきながら」

「してねえって。いいから安井、お前は黙ってそれ食えよ」

 逃げを打つように石田さんがカップ麺を指差せば、安井さんはむっつりした表情でまた麺を啜る。それを横目でちらりと見た後、石田さんはいよいよ切羽詰まった顔で何か考え込み始める。


 雲行きが怪しい二人を目の当たりにして、私も今更ながら失策を悔やんでいた。

 石田さんがうろたえているのはどう考えても私のせいだ。

 そして気のせいかもしれないけど、安井さんも今日は妙に機嫌が悪いようだった。虫の居所がよくないのか、疲れているだけなのかはわからない。ただやけに言葉に棘を感じる。そのせいもあって空気が一層重く感じた。


 自分で蒔いた種は自分で刈り取らなきゃいけない。

 私は覚悟を決めて、何か別の話題を切り出そうと口を開きかけた。

 だけどそこで石田さんがこちらに気づき、私の発言を制するように素早く目配せを寄越した。とっさに私が口を噤むと、石田さんは安井さんに向き直る。

「そうだ安井。俺もうじきノンフィクション作家としてデビューするからな」

「はあ? 何を寝惚けたこと言ってるんだ」

 安井さんが鼻で笑うと、石田さんは急き気味に話を継ぐ。

「いやマジで。ついさっき広報から社内報のコラムを依頼されたんだよ」

「そんなことで作家デビューなんて言うのか石田は。小学生みたいだな」

 一蹴されても石田さんは挫けず、にやにやしながら応じた。

「わかんねえだろ。俺の類稀なる文才を、どこぞの出版社が見出してくれるかもしれん」

「お前がノンフィクションなんて出したら即座に発禁処分を食らうよ」

「何でだよ! その辺はあれだ、表現の自由ってやつだろ」

「石田の場合、自由すぎて野放図な表現になるのが想像つくからな」

「ノンフィクションならリアルさは重要だ。そりゃもう細部に渡って克明に書いちゃうぜ」

「やめとけ。お前は誰から声をかけられようとその桃色に爛れた脳内を表に出すな」

 一体どんな本を出す気でいるんだろう、石田さんは。

 いつもながらの二人の会話に私が苦笑していれば、安井さんがまたこちらを見てふっと笑んだ。石田さんに向けるものとは違う、険しさのまるでない温かな笑い方だった。

 私の心臓が跳ねたのと、彼が私に言葉をかけたのとはほぼ同時だった。

「園田も、石田に頼むならちゃんと釘刺しとけよ。下ネタはお断りだって」

 内容はともかく、声まで優しい彼の態度に、私はどぎまぎしながら頷く。

「う、うん。さすがにわかってくれてると思うよ」

「いいや。石田なんて面白半分でタブーに挑戦する類の男だ。厳しく言ってやった方がいい」

 安井さんはあからさまに揶揄するような物言いをした。

 ところが当の石田さんはそれには反応せず、先程までにやにやしていたのも忘れたように安井さんを見ている。相手を強く案じている、深刻な面持ちだった。

 もちろんそれに気づかない安井さんではなく、すぐに隣を見て訝しそうにする。

「何だ、どうした石田。微妙な顔して」

「お前の顔が最近緩んでるように見えてしょうがねえなって」

「緩んでないよ失礼な。色惚けのお前と一緒にするなよ」

「……どうだか。ったく、こっちがへこむわ」

 ぼそっと呟く石田さんに、安井さんがますます解せないという顔をした。その反応すら見届けず、石田さんはまた思案に耽る。

 明らかに変な空気が、沈黙が、私達のテーブルに落ちる。


 早いとこ、どうにかしないと。私は麻婆豆腐の残りをかき込みながら頭を捻った。

 せめて今ここで安井さんに、石田さんにお見合いの件を話しちゃったって伝えられたらいいんだけど。メールで送ってみようかとも考えたけど、目の前でケータイ打ってすぐに安井さんの電話が鳴ったらどう考えても怪しいし、すぐ隣に座ってる石田さんに内容を見られないとも限らない。でも伝えないと安井さんは変に思うばかりだろうし、石田さんはものすごく頭を悩ませているようだし。


 何とか、伝えたいことがあるんだって事実だけでも安井さんに気づいてもらえないだろうか。

 そう思って彼を注視していると、すぐに彼の方も私に気づいた。

 目が合った次の瞬間、安井さんは驚いたように瞳を見開き、すぐに口元を綻ばせたかと思うと嬉しそうにはにかんだ。

「何? 園田」

 問い返すその表情は目が合ったこと、私が彼を見ていたことを心底喜んでいる顔に見えた。

「う、ううん、何も」

 そんなものを見せられたら私は面食らうしかない。たどたどしく答えた後、そういうつもりで見てたんじゃないんだけどと思いつつ、まとまらない考えが一気に雲散してしまった。

「やっぱだらしない顔してんじゃねえか」

 ぼそりと、石田さんが毒づいた。

 安井さんが首を傾げるように隣を見やる。

「何だよ石田、さっきからカリカリして。マリッジブルーか?」

「んなわけあるか。そもそもカリカリしてんのは安井の方だろ」

「俺が? いつそんな態度を見せた?」

「忘れたんならいい。そのまま一生忘れてんのがお前の為だ」

 石田さんは唇の片方だけを吊り上げて笑い、安井さんは釈然としない様子でカップ麺を食べ続ける。その間に私もお弁当を空にして、スプーンをしまい蓋を閉めた。

 するとそれに気づいたか、安井さんが言った。

「園田、もう食べ終わったのか」

「うん。ごちそうさまでした」

「また味見させてもらえなかったな、園田の手料理」

 少し悔しげな声だった。

 そういえば前にもそんなことを言われていたっけ。私は笑って応じる。

「でも今日は麻婆豆腐だからね。一口分けてあげるのは難しかったかも」

「そうか? 何で?」

「だって箸だと掴みづらいじゃない。スプーンはこれ一本しかないし」

「園田のを貸してくれればいいよ」

 平然と言い切る安井さんに、意識しすぎだとは思いつつも言葉に詰まってしまった。

 いや別に、間接キスとか気にするような年頃ではないんだけど! でも人前で言われるとさすがに反応に困る。

 私が動揺する傍で、石田さんが慌てたように安井さんの肩をぱしっと叩いた。

「ばっ、馬鹿じゃねえのお前。何言い出してんだよ」

 叩かれた安井さんは寝耳に水の顔をしていたけど、石田さんは懸命に説く。

「爛れてんのはお前の方じゃねえか。そういうセクハラじみたこと、園田に向かって言うなよ」

 ますます訳がわからないという顔を、安井さんはした。

「そんなの石田に言われたくない。お前こそ息をするようにセクハラしてるくせに」

「一緒にすんな。俺は少なくとも人妻には絶対しねえよ」

「園田は人妻じゃないだろ?」

 セクハラなんてそもそも既婚か未婚か関係なく駄目だと思うんだけど、ともかくもきょとんとする安井さんに、石田さんは複雑そうな顔で口ごもる。

 それをどう見たかわからないものの、安井さんは呆れたように息をついた。

「大体、石田は前に味見させてもらってるだろ。何でお前はよくて俺は駄目なんだよ」

「そんな昔の話、とっとと忘れろ。空しくなるだけだぞ」

「根に持ってるわけじゃない。いつでも言いつけてやるぞと思ってるだけだ」

「三十一にもなって告げ口が切り札って、お前が小学生かよ」

「あいにくだけど俺はまだ三十だ。誰かさんと違ってな」

「半年も違わねえだろ。時間の問題なのに何を勝ち誇ってんだ」

 普段通りの軽口の応酬のようで、石田さんの表情は晴れない。どことなく物憂げな顔つきで安井さんを諌めにかかる。

「そもそも俺が園田から恵んでもらったのだって、桃太郎のきび団子的なあれだからな?」

 すると安井さんもすっと眉を吊り上げて、

「じゃあ石田は何だ? お供の猿か?」

「ああそうだよ。でもって安井、お前は山に柴刈りへ行った爺さんだ」

「何で俺の役が爺さんなんだよ……白馬の王子様とかにしろよ」

「桃太郎に王子様は出ねーよ。つか白馬って、鬼ヶ島は海の上にあんだぞ?」

「そのくらい馬で行けるだろ。どうにかして駆けつけてやるよ」

「大海原を舐めんな。もういいから諦めて爺さんやっとけって、お前は」

 二人とも何の話をしてるんだか。

 と言うか、私はどうあっても桃太郎で確定なのか。


 しばらくの間、二人はそうやって軽口を叩き合っていた。

 だけど、やがて石田さんが腕時計を見て、くたびれたように溜息をつく。

「俺、そろそろ戻んないと」

「そうか。じゃあまたな、石田」

「ああ、お先」

 安井さんから短く言葉をかけられ、同じく短めに返事をした後、石田さんは私に向かって手招きをした。

「園田、ちょっといいか。社内報の件で一つだけ」

「私? うん、わかった」

 呼ばれた私は立ち上がり、石田さんの後についていく。

 安井さんは身体ごと振り返って私達を見送っていたけど、彼に声が聞こえないようにか、たっぷり距離を取ったところで石田さんは足を止めた。

 同じく立ち止まった私に対し、緊張感を帯びた面持ちで声を落とす。

「なあ、一つ頼みがある。お前が見合いをしたこと、俺からあいつに言わせてくれ」

 普段は陽気で朗らかな表情ばかり見せている人が、息を呑むほどの真剣な様子で訴えてくる。

「まだ安井は知らないんだろ? なら俺が教えとく。もちろん園田に迷惑はかけない。お前から聞くより、俺が酒でも飲ませながら伝える方がいい」

 石田さんはそこで一秒間だけためらい、諭すように続けた。

「俺がこうして頼んでる理由はわかるよな? 察してくれ」

 彼が心配をする必要は、実のところない。

 安井さんはお見合いの件を既に知っている、それどころか当事者だ。この話を聞かされたからといってショックを受けるはずがない。

 でも、私はその心配を打ち消す言葉も口にできないほど圧倒されていた。安井さんに対し、いつもは遠慮のない軽口を叩いてはからかい合う仲の石田さんが、その友人の為にこんなに真剣に考え、行動することに打ちのめされた。

 石田さんにとって安井さんは、本当に大切な友達なんだ。

 今までだってそのことを知らなかったわけじゃないけど、今ほど強くそう感じたことはなかった。

「……勝手なこと言ってごめんな。あと原稿、仕上げたら連絡する」

 口も利けないでいる私に、石田さんはようやくにまっと笑って、それから食堂を出て行った。

 彼がいなくなってから、私は内心で改めて手を合わせる。

 ――本当のこと言えなくて、心配かけさせてごめん。


 石田さんが立ち去った後、私は二人分の煎茶を入れてからテーブルに戻った。

 待ち構えていた安井さんは、私が湯呑みを卓上に置き、椅子を引いて腰を下ろすまでの一挙一動をじっと見つめてきた。そして私が湯呑みを勧めると、会釈をしながらそれを受け取る。

「ありがとう、気が利くな」

「そうでもないよ」

 私は煎茶を一口飲んでから姿勢を正し、

「安井さん。一つ謝りたいことがあるの」

 切り出すと、安井さんは口元だけ笑んで、でも目は全く笑っていない表情を見せた。

「何? 石田と内緒話してたことについて?」

 やっぱり虫の居所がよくないみたいだ。わかりやすい嫉妬に私が絶句すると、彼はすぐに目元を和ませ、いくらか穏やかな声音で言った。

「冗談だ。いい年した男が、その程度のことで妬くわけない」

「そっか……そうだよね。ならいいんだけど」

「ならいい、で済まされるのも辛いものがあるな。男は意外と繊細なんだ」

「男心って難しいね。何話してたか、今から言うよ」

 そう申し出た私の顔を、安井さんは一呼吸の間、涼しげな眼差しでじっくりと眺めていた。

 それから、視線を手にした湯呑みに落とし、尋ねてきた。

「二人でしてたの、俺の話?」

「うん。と言うか私、お見合いしたことを石田さんに話したの」

「話してたのか、あいつに」

 安井さんは何よりも意外そうな顔をした。驚くというよりも、私がそれを打ち明けたことがただただ予想外だと言いたげだった。

 私もすぐに言い添える。

「そうなんだけど、相手が誰かってことは言ってない」

「どういうことだ」

「相手が安井さんだって、石田さんは知らないの。安井さんが話してないのは何か理由があるのかもって思ったから」


 できれば何一つ打ち明けずに済ませたかった。

 だけどあの時、石田さんは私から何らかの言葉を引き出したがっていた。今考えるとそれは『私が安井さんをどう思っているか』という一点のみだったんだけど、私はそこまで読みきれなかった。石田さんは安井さんの想いだけを察していたけど、それはまだ当人に確かめたものではなく、そして彼の推察は現在の状況とは微妙に違っていたというわけだ。

 どう考えても私が下手を打っただけだった。


 私の説明を聞いた安井さんは、腑に落ちた様子で深く息をつく。

「ああ、それでか、そういうことか」

 石田さんの数々の不思議な態度にも、それだけで説明がついたようだ。

「ごめん。石田さんがどこまで知ってるかわからなくて、私のことだけ話したんだけど、かえってややこしくしちゃった」

「俺があいつに言ってなかったのが悪かったんだ。お前のせいじゃない」

 安井さんは苦笑いの後で、くすぐったげな表情を浮かべた。

「いつかは話すつもりでいたんだけどな。あいつもそういう話聞くと黙ってられなくて土足でずかずか踏み込んでくるだろうから、当面は隠しとこうと思ってた」

「そうだろうね」

 黙ってられない、というのはわかる。

 あんなに真剣な石田さんの顔、初めて見たような気がする。

 そこまでできる友情が素敵だ。ちょっとだけ、羨ましいかもしれない。

「石田さん、安井さんのこと心配してたよ。お見合いのことも自分から伝えるって言って、私には言わないように頼んできたくらいだから」

 私が事実を伝えると、安井さんはこの上なく複雑そうにしていた。

「あいつ、俺が空しく散りゆく片想いをしてるとでも思い込んでるわけか」

「多分そう。失恋したと思って、慰めようとしてくれるはずだよ」

「何が失恋だ。勝手に勘繰った挙句、縁起でもないこと考えやがって」

 歯軋りするような口調で呻いた安井さんが、私に向かって続けた。

「心配するな、俺からあいつに説明しておく。どうせあいつは俺を哀れんで、失恋残念でしたパーティって体で飲みにでも誘ってくるはずだ。その時にでも打ち明けて、奴の度肝を抜かせてやるよ」

 彼の楽しそうに弾む声に、少しだけほっとする。

「うん、わかった。迷惑かけてごめんね」

「謝るなよ。俺が黙ってたのと、あいつがお節介なのが悪いんだ」

 安井さんがそう言ってくれたので、私はこの一件を彼に預けることにした。石田さんのことは安井さんに任せた方が丸く収まるに決まっている。


 そうこうしているうちに休憩時間も尽きようとしていた。

 私が慌ててお茶を飲み干しにかかると、不意に安井さんが声を発した。

「園田」

「何?」

「俺、最近そんなにだらしない顔してる?」

 問いかけられて見てみれば、彼は困ったような、半ば諦めているような笑みを浮かべている。

「石田みたいな包み隠さない奴に言われるとショックだ。俺は自制できてるつもりでいたのに」

 もしかするとそれは、口元が緩むのを止められなくて困ってる顔だったのかもしれない。

 私はちょっとだけ迷ってから、正直に答えた。

「確かに最近、顔に出てるかも」

「本当に? 参ったな」

 笑って応じた安井さんは、それほど参った様子には見えなかった。

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