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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
36/205

私に似合うこと(5)

 思いがけない距離の近さに、声も出なかった。

 全身が強張って身動きが取れない。視線もほとんど目の前の顔に釘づけだった。濡れた私の前髪が彼の顎や唇に触れそうなほどの至近距離にあり、彼は私の頭を抱き寄せるようにして私の髪を拭いている。

「全く、最後の最後で運が悪かったな」

 ぼやく安井さんは、それでも唇にうっすらと笑みを浮かべていた。


 少し赤くなった耳の傍を雨の雫が伝って、既に水を存分に吸ったスーツの肩に落ちたのを見た。髪は洗った後みたいにぺったりしていて、意外と真っ黒だった。息がかからないよう気を遣ってくれているのか、時々押し殺したような息継ぎが頭上で聞こえてきた。

 私はお礼を言うどころか、お返しに彼を拭いてあげようとするどころか、不格好にも凍りついてしまった。

 恐らく表情も張り詰めていたはずで、安井さんが視線を私の顔に下ろした時、不思議そうにされた。


「どうした? 寒いのか?」

「う、ううん」

 私は首を横に振ることもままならず、声だけで答える。

「何か、顔、近いなと思って……」

 言ってしまってから、言わなきゃよかったと思った。

 たちまち安井さんは妙な顔をして、それから苦笑しつつ弁解する。

「ああ。別に、わざとじゃないよ」

 わざとじゃない。それはわかってる。どう見ても私が意識しすぎているだけだ。

 髪を拭いてもらっておいて文句を言うなんてどうかと思うし、そもそも文句を言うほど嫌だったのかと言えばそうじゃない。文句のつもりもなかった。ただ、本当に近いなと思った。それだけ。

 それだけのことが今の私には、身体の自由を奪い思考を混乱させるほどとても重大なことだった。

「園田、もう少しだけ我慢できるか?」

 安井さんはまた顔を上げ、私の目の前で唇を動かす。

「あと少しで拭き終わる。それまでじっとしてて」

 私がどう答えようか迷っている間に、彼は広げたハンカチで再び私の髪を拭き始める。

 私の髪も短いからざっと乱暴に拭いてくれて構わないのに、彼は驚くほど丁寧に、優しく拭いてくれる。髪に触れられるのは好きだったけど、今はそれ以上に心臓がうるさくてたまらない。


 雨の日の車内はいやに静かだ。

 降り続ける雨の音がそれ以外の音を遮断してしまうせいか、車の中で発生する全ての音を耳が拾ってしまう。彼の押し殺した呼吸、ハンカチを持った手が髪を拭く微かな音、運転席のシートの軋みも全部よく響いて、考え事の邪魔をする。

 私は自分が何を考えているのかさえわからなくなっていた。もともと考え下手なんだからぐるぐる悩んだところで結論なんて出やしないんだろうけど、今はそれに輪をかけて酷い。自分がどうしたいのか、どうしたいのかさえわからない。

 わかるのは、めちゃくちゃ緊張してて動悸が激しくなってて頬も赤くなってるだろうという予感がすることだけだった。


「……ほら、終わった」

 やがて彼がそう言って、私の髪から手を離した。

 いつの間にか口の中がからからに乾いていた。私は恐る恐る視線を上げ、お礼を言おうとした。

「あ、ありがとう。安井さんも髪、拭いた方が」

 それが不自然にかすれた声になっていよいよ気まずいと思った時、安井さんは片手で私の頬に触れた。

 ごつごつした感触の手は、雨に打たれたせいか、ひやりと冷たかった。

 そのままそっと上を向かされたかと思うと、まだ濡れた髪の彼が私の目を覗き込んでくる。鼻がぶつからないように少し顔を傾けるようにして、でも唇は今にも触れそうなほど近い。

「園田」

 その距離から名前を呼ばれたら、肩が勝手にびくりと跳ねた。

 それを押さえ込むようにもう片方の手を私の肩に置いた安井さんが、熱い溜息と共に言った。

「ごめん。本当は、わざとだ」

 言葉の割に切実そうに言ったかと思うと、何が、と聞き返すことができなくなった。

 次の瞬間、噛みつくように口を塞がれた。

 私の髪に触れていた時とは対照的に、何の断りもなく、そして力ずくで唇を押し当てられた。


 もはや心臓まで止まってしまった私は人形みたいにされるがままで、目を閉じることさえ忘れていた。

 すぐ目の前に伏せられた彼の片方の目があり、生え揃った睫毛が微かに震えているのが見えた。触れている唇は彼の手よりは温かく、少しだけ乾いていた。

 身体が覚えているものだと思っていたけど、キスの感覚だけは思っていたより曖昧だった。懐かしさよりも先に、こんなふうだったっけ、と思う。私が生涯でキスをした相手なんて片手の指で事足りるほどしかおらず、二十代に入ってからは彼だけだった。そして最後にキスしたのは三年前の誕生日だったから、きっと私は忘れてしまっていたんだろう。

 おかげで何もかもが新鮮だった。唇と唇が触れ合う感触も、その間の息苦しさ、緊張感、何とも言えない高揚感も、いつの間にか背中に回されている手が私の背を撫でるくすぐったさまで、全てが真新しい感覚としてインプットされていくみたいだった。

 合間の息継ぎは彼の方が上手くて、私はいくらもしないうちに息苦しくなって、慌てて彼の肩を押しやろうとした。すると彼がわずかな間だけ口を離してくれて、私が息をついた途端にまた塞がれた。


 頭はもう働かなくなっていて、私は懐かしい記憶を無意識に手繰り寄せていた。

 ずっと好きだった人とキスできて、幸せだった。嬉しかった。迷いも後悔もなかった。彼が私を選んでくれたことに途轍もない幸福と満足を覚えていて、私もこの人じゃなきゃ駄目だと思った。

 他の人じゃ嫌だ。彼がいい。

 初めて唇を重ねた時、直感するみたいにそう思っていた。

 今もそう思う。理屈じゃない。筋道立てて考えに考えた上での結論ってわけでもない。感覚だけで思っている。

 でも今までその感覚に基づく決断に、素直な心で従った結果、私は何か後悔したことなんてあっただろうか。

 この人が好きだ、と思った時も。

 これはもう二度とないかもしれないチャンスだ、と思った時も。

 そしてこんな機会がもうやって来ないなら、いっそ告白してしまおうと思った時も、その後も――私は直感で決めたことには一度として、後悔なんてしていなかった。

 

 唇が離れると、お互いに長く息をついた。

 それから吸い寄せられるように目が合って、彼が先に笑った。

「許してもらえるとは思わなかった」

 私はまだ夢見心地でぼんやりしていた。彼の言葉に、本当にそうだと他人事のように思う。不意を突かれたとは言え、案外あっさりと受け入れてしまったようだ。

「ありがとう、園田」

 安井さんは零れるような笑みを浮かべて、しみじみと呟く。

「こんな時間がまたやってくるなんて思わなかった。幸せだよ」

 その噛み締めるような言い方に、私はこれまで二人で過ごしてきた時間の長さを実感した。

 彼と付き合っていたのは約半年、実質はもっと短い。でもそれよりも何年も前から私は彼のことが好きで、そして別れてからも彼は私のことを気にかけてくれていたし、私も彼を気にしないでいたわけではなかった。

 そういった長い長い時間が、私達の間には確かにある。

「久し振りだね」

 私は何と言っていいのかわからず、でもずっと黙っているのもよくない気がしたので、そう告げた。

 安井さんが即座に頷く。

「ああ、本当に」

 それから彼はいとおしげに私を見つめ、指先で私の下唇に触れ、軽く撫でながら言った。

「園田の唇、記憶にあった通りだ。柔らかかった」

 よく覚えてるなあという感心と、よくもまあそんなことを恥ずかしげもなく言うものだ、という気恥ずかしさが私の中で交錯した。


 恥ずかしいと思う気持ちは私にとって他のどんな気持ちよりも強力で、時に他の感情を押し退けてでも面に表れようとするから困る。

 私は今更のようにじわじわと照れ始め、ずっと止まっていた心臓が今になって動き出したように忙しなく音を立て、再び頬が熱くなる。そうなると目の前の彼の顔を直視できなくなって俯いた。


「変なこと言わないで」

「変かな。素直な感想なんだけど」

「何か今になって照れてきた。安井さんの顔見られないよ」

「それは困るな。顔上げて、園田」

 耳元で囁かれて、私は慌てて俯いたままかぶりを振る。

「やだ。またする気だって知ってるから」

「駄目? 久し振りだから、一度じゃ足りない」

 安井さんはそう言ったけど、頑として顔は上げなかった。

 彼は割としつこく耳元で囁いたり、私の肩を抱き締めたり、乾いてない髪を撫でたりしながら顔を上げて欲しい旨を訴えてきたけど、全て拒んだ。

「久し振りだから駄目なんだってば」

 私はいい加減困り果てて答える。

「一回だけでもすっごくどきどきしてるのに、これ以上したら……」

「これ以上したら?」

 おうむ返しで彼が尋ねてきた。

 その彼のネクタイの結び目を注視しながら、私はおずおずと言った。

「何か……普通じゃなくなっちゃいそうって言うか……」

 酷使しすぎた心臓が壊れるかもしれない。そう思って答えると、安井さんは黙って私の頭を掴んで上を向かせたかと思うと、またかぶりつくみたいな勢いで唇を重ねてきた。

 今度はそんなに長くなかった。程なくして彼が私の唇を舐めてきたから、私は力を込めて彼を思いきり突き飛ばした。もちろんその程度で吹っ飛ぶ安井さんではなく、心外そうにしながら私を見る。

「突き飛ばすことないだろ。久し振りだっていうのにつれないな」

「久し振りなのにいきなり舐めることないでしょ!」

「愛情表現だよ。園田こそ、少しくらい口を開けてくれたって」

「わ! そういうこと言わないでよ安井さんの馬鹿!」

 私は声を荒げたけど、すると彼は一層嬉しそうににやにやしながら車のエンジンをかける。

「園田に『馬鹿』って言われたの、それこそ久し振りだ」

「何で、そんなに嬉しそうなの?」

「さあ、何でだろうな?」

 まるで謎かけみたいな彼の言葉の直後、車のエアコンが勢いよく空気を噴出し始めた。

「さて、風邪引く前に送ってくよ。窓の曇り取れるまで、ちょっと待ってて」

 気がつけば窓という窓がすっかり曇ってしまっていて、引くまでにはもう少しだけ時間がかかりそうだ。それすら気恥ずかしい思いで私はそっぽを向く。

「お見合いの当日にキス、とか。普通ないと思うんだけど」

「普通だったら速攻破談だな」

 安井さんが今になってようやく自分の髪を拭きながら、私に尋ねる。

「でも俺達は破談にしないだろ?」

 それはそうだ。破談にする可能性がひとかけらでもあったなら、キスなんてしない。

 そして私はもう普通じゃないと思う。心臓が痛いくらいどきどきしていて、しばらく呼吸さえ苦しかった。


 私にとって不運だったのは、お見合いが日曜日に行われたということだ。

 当然、日が変われば次にやってくるのは月曜日。誰もが恐れる週始めの出勤日である。

 まして私は前日の諸々のせいですっかり眠れぬ夜を過ごしてしまい、眠気と未だ晴れぬ気恥ずかしさを吹き飛ばしてやろうと通勤路を自転車で駆け抜けた。夏が終わったのにまだ暑い、残暑が厳しいなんて言っていた頃が懐かしくなるほど、街に吹く風も景色もすっかり秋模様だった。秋が終われば冬が来る。そんな当たり前のことを、今年は一段と強く思うのかもしれない。


 秋の街並みを抜け、駐車場に愛車を収めた私がロッカールームへ足を向けると、

「おはよう、園田」

 一足早く出勤していた安井さんが、まるで待ち構えていたようにロッカールーム前の廊下に立っていた。

 既にお仕事モードで手帳を開いていた彼は、それでも私にとびきりの笑みを向けてくる。こんなに機嫌のいい安井さんを、私は何年かぶりに見たかもしれない。

 その笑顔を目の当たりにした私は反射的に足を止め、しかしここで顔に出したりしたら負けだという気持ちで目を逸らす。

「……おはようございます」

「ちゃんと目を見て挨拶しような」

 すかさず注意されたので私はむっとしながら応じた。

「うるさいなあ。誰のせいだと思ってるの」

「何が誰のせいだって?」

「何でもないです失礼しました。安井さんの馬鹿!」

 昨日言われて嬉しそうだったからもう一回言ってやると、私はロッカールームに駆け込む。

 そして汗を拭き、スーツに着替え、髪や化粧を整えてから廊下へ出ると、何となく予想はしてたけど彼はまだそこにいた。私が戸口でまた足を止めたのを、素晴らしく幸せそうな笑顔で出迎える。

「待ってたんだ。一緒に行こう、園田」

「……いいけど」

 よくないわけじゃないけど、しかし社内でこういうのはどうなんだ。

 見るからに普通じゃない感じで朝からうろたえている私と、やっぱり普段より機嫌よさそうな安井さんが並んで歩いているところを誰かに見られたら、さすがに要らぬ憶測を呼ぶんじゃないだろうか。

「昨日はすごく楽しかったな」

 また安井さんは安井さんで臆面もなくそういうことを言うから、私は彼を睨まざるを得ない。

「楽しかったけど。こういうとこ人に見られたら何か言われるかもよ」

「言われて何かまずいのか?」

 即座に聞き返されて言葉に詰まる私に、安井さんは対照的な優しい眼差しを向けてきた。

「誰かに怪しまれたら、正直に『お見合いした』って言えばいいよ」

 意外な答えに私は目を瞬かせる。

 だけど実際、そこは普通の社内恋愛とはちょっと違うところかもしれない。

 私達はもう元カノと元カレじゃなくなっている。

 お見合いした同士、なんだから。


 私の初めてのお見合いは、間違いなく最後のお見合いになることだろう。

 あれこれ考えるより、直感に従った方が上手くいく。その方が多分、下手に頭を使うより遥かに、私に似合うことだと思う。

 そして直感に従うなら、私は他の人じゃ嫌だ。彼がいい。

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