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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
30/205

あの日までは数えてた(5)

 来る途中に話していた通り、臨海公園内はあまり人気がなかった。

 暗いせいでせっかくの海はよく見えず、波の音と潮風の匂いがすぐ傍にある海の存在を主張している。それでも公園内にはぽつぽつと灯りが点いていて、私達はそれを頼りに遊歩道をぶらついた。

静かな公園の中にいると次第に会話もなくなっていく。誰も見当たらないのに声を潜めたくなるような、よくわからない強迫観念に囚われ始める。まさにデート中によくあるシチュエーション。


 こういう雰囲気は昔から苦手だ。何を喋っていいのかわからなくなる。

 大抵テンパって自分だけはしゃいで空気を壊すか、がちがちに緊張して満足に口も利けなくなるかのどちらかだった。呑まれてるという安井さんの言葉はまさに的確だ。彼にはそういう醜態を散々晒してきた経緯もある。

 でも、私だってもう二十八だ。

 昔よりも大人になったはずだし、何か変わっていなければならない。

 せめて言いたいことくらいはちゃんと言えるようになろう。そう思いながら歩いた。


 少し歩いたところでベンチを見つけた。

 石でできた背もたれのないタイプで、座面はまあまあきれいだった。遊歩道の脇にあり、そこに座っても海は見えないようだったけど、私は安井さんに尋ねた。

「座る?」

「そうしよう」

 意図を理解したみたいに安井さんが顎を引く。

 それからベンチに、ほぼ同時に腰を下ろす。右側に彼が、左側に私が座った。計算もしてないのに握り拳一つ分の隙間が開いて、私はスカートの裾を気にしながら、その隙間を維持したまま座り直す。

 昼の間は暑いくらいだったのに、夜になると急に風が冷たくなる。七分袖のニットがちょうどいいくらいだった。


 何を話そう。

 何から話そう。

 私は空を見上げながら考える。

 街灯の明かりが眩しくて星の光はよく見えない。見えても星座なんて詳しい柄ではないけど。

 安井さんも黙っている。でもそれは私みたいに言葉を探して考えているんじゃなくて、私が何か話したがっているのを察して待っててくれているんだと思う。

 もっとも、彼がいかに優しい人だとしてもあまり長く待たせては悪い。


 私はパンプスを履いた足をぷらぷらさせて――大人らしくない気がしたのですぐにやめて、口を開いた。

「人から聞いたんだけどね」

 途端に安井さんがこちらを向く。怪訝そうに、だけど黙って目で頷いてみせる。

「世の中には婚約まで漕ぎ着けても、上手くいかなくて別れちゃう人達もいるんだって」

 私が続けると、彼は一瞬間を置いてから苦笑した。

「何の話?」

「だから、人から聞いた話」

「いきなり失敗したケースから語り出すとか、園田はチャレンジャーだな」

 安井さんはあまり誉めてる口調ではなかった。

「聞いた時に何か、驚いたんだ。そういうこともあるんだって」

「別に珍しい話ではないだろ。人間関係なんてどんなきっかけでも破綻する」

「まあそうだけど。長く付き合って、婚約までしても駄目になっちゃうって、じゃあ何を信じていいのかって話にならない?」


 長い時間を共有すればしただけ、想いは深まるものじゃないんだろうか。

 そうじゃないなら、歳月さえ引っくり返すような破綻のきっかけには、どう立ち向かえというんだろう。

 東間さんの元婚約者とは、学生時代からの付き合いだったと言っていた。その話を私に語り聞かせる時、東間さんは寂しげで、今でも少し後悔しているようだった。

 とてもではないけど詳しく聞ける雰囲気ではなくて、どうして別れたのかは知らない。でも、詳しく教えてもらわなくてもその話は私の記憶に強く残っていた。


「テンカウントの、ナインくらいまでは行ってたんじゃないかって、その人は言ってた」

 私がそう言うと、安井さんは軽く目を瞠った。

「テンカウントまで行くとどうなるんだ? 結婚か? まさか永遠の愛とか言うんじゃないだろうな」

 後者の方を口にしかけていた私は慌てて言い換える。

「えっと、多分、揺るがぬ愛?」

 安井さんは何も言わない。少しだけ笑んで、話の続きを促すように私を見る。

 それで私もまた口を開いた。

「私は――私達は、半年くらいしか付き合ってなかったじゃない。短い間だけだったから、別れたらもうなかったことになるのかと思ってた。でも、そうじゃなかった」

 想いの深さを、歳月だけで単純に測ることはできない。

 私達の半年間はなかったことにはならなかったし、たったそれだけの間にも思い出がたくさんできた。後からでもちゃんと思い出すことができる幸せな記憶を持つことができた。

「カウントで言ったら、私達の場合は三つようやく数えたくらいだったと思うけど」

 きっと、そのくらい。あの頃は十まで数えるものだってことさえ知らなかった。先のことなんて考えないで、とにかく一緒にいられたらそれでよかった。

「一緒にい続けるのに足りなかったのは時間じゃなかったんだって、最近ようやくわかったよ」

 我慢していたけど、気がつくとベンチの前で足をぷらぷらさせていた。お酒を飲んだ後だからか、ふくらはぎに触れる秋風はまだ心地いい。

「何が足りなかったと思ってる?」

 安井さんが尋ねてきたので、私は無難な答えかなと思いつつも言った。

「優しさと思いやり、かなあ。もっと安井さんのことを労われてたら、思いやれてたら、私達はもっと一緒にいられたよね」


 これからは優しくなりたい。

 彼のことを思いやれるようになりたい。そうしたらやり直しだって上手くいくことだろう。

 そして、彼の優しさがわかる人間でありたい。

 会いたいからって、真夜中に駆けつけてくれる彼の気持ちを大切に思えるようになりたい。


 いくつかの前向きな誓いを心の中で立てる私に、

「俺は、そうは思わない」

 だけど安井さんは、妙にきっぱりと断言した。

 思わず彼に目を向けると、彼は冷静な面持ちをしていた。もう考えは決まっていて、それは私の考えと若干ずれがあるらしいことが表情から読み取れた。

「何について、そう思わないの?」

「ほぼ全部。時間なんて関係ないってところだけは同意できるけど」

 安井さんは私の意見をばっさり切って捨てるつもりらしい。生真面目に続けた。

「俺達に優しさや思いやりはもう必要ない。あの頃だって多すぎたくらいだ」

「そ、そうかな。でもさ、私はもうちょっと多忙な安井さんを労わってもよかったと思わない?」

 私が聞き返しても彼は首を横に振る。

「俺は園田がもう少し甘えてくれてたら上手くいったのにって思ってるよ。『寂しい』じゃなくてはっきり『会いたい』って言ってくれてたら」

 そんなことが、だけど、できたはずがない。

 あのメールでさえ散々悩みに悩んだ挙句、縋る思いで送信してしまったものだ。あれ以上の本音を載せる無謀さはいくら私でも持ち合わせてはいなかった。

「そもそも恋愛ってのは、自分の為にするものだろ」

 彼が同意を求めるように私の顔を覗き込む。

 距離が近づいたことよりも、投げかけられたその言葉の方に私は戸惑った。

「そう、なの?」

「そうだよ。誰だって自分が幸せになりたい、気持ちよくなりたいって欲求から人を好きになる」

「確かにそういう側面もあるかもしれないけど、相手を幸せにしたいって気持ちだってあるでしょ?」

 私は異を唱えようとしたけど、それすら懐疑的だというように安井さんは答える。

「それだって自分の為だろ。好きな奴の悩み苦しむ顔は見たくないとか、自分の傍にいる時は幸せそうにしていて欲しいとか思うものだ」

 挙げられた例はどちらも心当たりがあったので、ぎくりとした。


 全部自分の為、だったんだろうか。

 彼を気遣う思いも、彼に幸せであって欲しいと願う気持ちも。

 あの時別れを決断するきっかけになった、彼に迷惑をかけたくないという切実な望みも。


「俺は、あの頃の俺達こそナインカウントまで辿り着けてたと思ってる」

 安井さんは、声に後悔の色を滲ませていた。

 いつぞやの東間さんが、思い出を語った時と同じように。

「あと一つ足りなかったのは優しさじゃない。体面とか変な遠慮とか無駄な我慢とか、そういうものを全て吹っ飛ばせるくらいの強い気持ちだけだった」

 体面、遠慮、我慢。

 それらはあの頃の私達が持っていて、そして無理をしてお互いを遠ざけあっていた理由だった。

「俺は園田の前では格好つけていたかったから、別れようって言われた時も受け入れることにしたんだ。園田が、優しい男が好きだって言うから、未練がましく縋ったりしないでほとぼりが冷めるまで待ってやろうと思ってた」

 話しながらも安井さんは私を見ている。ベンチに開いた拳一つ分の隙間は、見つめ合う私達の顔の間にもある。ものすごく近い位置にある彼の目は、今は随分と真剣な色に見えた。

「園田も、俺が必要だって思ってくれるだけでよかったんだ」

 彼はゆっくりと唇を動かし、痛いくらいの眼差しと共にそう言った。

「俺を気遣ってる余裕もないくらい、俺が欲しくて人生に必要だって思ってくれてたら」

「じ、人生に……?」

 いきなりスケールが大きくなったような気がして、私は思わず復唱した。

 安井さんは真面目な顔つきで深く頷く。

「そう、人生に。今はそう思わないか、園田」

 吐息混じりの低い声が静かに響くと、妙にどきどきした。


 気がつけば彼の顔が目の前にある。

 こうして近くで見ると、目元はやっぱり涼しげで目鼻立ちもすっきりとしていてとても格好いい。彼が瞬きをする度に意外と長い睫毛が動いて、ついその動きを見守りたくなる。

 この状況で彼に見とれている時点で、私の方の真剣さなんて大したものじゃない。


「そこまで真面目には考えてなかったかも。あ、もちろん安井さんは理想の結婚相手だと思うし、一緒にいて楽しいし、幸せだけど……」

 私が弁解するように思っていることを答えると、彼は意外そうに眉を顰める。

「園田、婚活してたんだろ? どういう奴が自分の人生に必要かって、考えなかったのか?」

「あ、あんまり……。どういう人となら気が合うかな、とは考えたけど」

「すごいな。そんなアバウトさで婚活なんてしてたのか」

 安井さんは心底呆れたというように目を伏せた。

「いい加減な男に捕まってたらどうする気だったんだ。危なっかしい」

 その心配は多分ない。なぜって私は、こういう人は駄目だという条件だけはしっかり持っていたからだ。

 そしてその条件を難なくクリアしてくれた、たった一人をようやく見つけた。

「じゃあ今考えてくれ。その上で俺が必要だと思うなら、そう言って欲しい」

 気がつけばいつの間にか、会話の主導権を彼に握られていた。

「俺はお前が必要だ。切実に、お前が欲しい」

 しかもすごい口説き文句をぶつけられて、頭がくらくらしてきた。


 でも彼の言葉は、考えべたのくせにごちゃごちゃ考える私の頭の中から無駄を削ぎ落とし、シンプルにしてくれた。

 考えなくてはいけないのは、まず私自身がどうしたいかだ。

 安井さんを幸せにしたいとか、思いやろうとかいうのは後からいくらでも考え、実行することができる。

 それよりもまず、私がしたいことを考えなくてはならないだろう。


 私は入社して半年も経たないうちに彼を好きになっていた。

 そして今日までの八年間ほど、何だかんだで彼のことばかり見てきたわけだ。

 言わば二十代を彼に捧げてしまったようなもので、それだけ好きになれる人が今後、他に現われるとも思えず。それだけ好きな人と二十代を終えてからも、いくつになっても一緒にいられたら、さぞかし素敵なことだろうと思う。


「……豆腐」

 雰囲気に呑まれて再び緊張してきた私は、恐る恐る震える口を開いた。

 安井さんが片眉を上げて聞き返す。

「豆腐?」

「うん。私が豆腐食べたいって言って、付き合ってくれるのは、安井さんしかいないよ」

「もちろん、付き合うよ。俺も好きだ」

 彼がそう言ってくれたので、私は少しだけほっとした。

 いくらか緊張を解きながら続ける。

「それと、自転車。安井さんは私の趣味を知っててくれてるし、それに服を誉めてくれるよね」

「園田には自転車乗る時の格好が、一番よく似合ってるからな」

 いつもの誉め言葉が、今日は一段と胸に染みた。

 嬉しかったのももちろんだけど、彼は私のことをよく知ってるんだって――もしかすると誰よりもわかってくれてるんだって実感したのもある。

「それに、こんなに好きになれる人、他にはもういないと思う」

 私がそう告げると、彼はほっとしたように表情を和らげた。

 だけどその後、ほっとしたのは悟られまいとしたんだろう。笑いを噛み殺すような表情の後、諦めて普通に微笑んだ。

「俺も好きだよ、園田」

「うん」

 知ってたけど、だからって言われて嬉しくないはずがない。

 むしろ噛み締めるようにその言葉を受け取り、私はあと一言、彼が今、一番欲している言葉を口にしようと試みる。

「あと……私も、安井さんが――」


 だけどその言葉は、どうしてか言いにくい。

 だってものすごく重くて、責任のある言葉だ。人生に必要って、自分ではない誰かがいないと生きていけないような気さえするってことだ。豆腐や自転車みたいに好きなものというだけではなくて、好きだけでは足りない、もっと切実で必死な気持ちに違いない。

 前に彼がそうしていたように、私も想像し、考えればいい。

 彼がいつも傍にいる暮らし、彼と共に過ごす日々。そういうものを素晴らしいと思うなら、一人でいるよりも遥かに素敵で楽しいと思うなら、もう答えは出たようなものだ。


「安井さんと一緒に生きてみたいな。今度は最後まで、ちゃんと」

 息をつきながら私が言うと、彼はこの答えは予想していなかったというように目を瞬かせる。

「まるでプロポーズの言葉みたいだ」

「『あなたが人生に必要だ』っていうのと、意味は全然違わないと思うんだけどな」

 私は珍しく真面目ぶって、もちろん心を込めて続ける。

「でも私は安井さんが必要だっていう以上にね、安井さんに必要とされて、すごく嬉しいよ」


 その瞬間、彼は込み上げてくる笑いを堪えるような顔で私を見ていた。

 でも、堪えきれなくなったんだろう。やがて押し殺した笑い声を立てながら、腕を伸ばして勢いよく私を抱き締めた。

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