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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
28/205

あの日までは数えてた(3)

 いつの間にか八月は終わり、九月がやってきた。

 一向に和らがない残暑のせいで秋らしさは皆無だったけど、仕事の方は落ち着いてきた。それで私と安井さんは、かねてから予定していた私の検定合格祝いをすることにした。


『いい店を見つけた。創作豆腐料理の店だ』

 退勤後、帰宅してからのいつもの電話で、安井さんはそう言った。

 この数週間のうちに、彼と夜に電話することを『いつもの』と呼べるくらいになっていた。

 彼は毎晩のように疲れている様子だったけど、話しているうちに元気を取り戻して朗らかに笑ってくれるようになる。私もそれが不思議と嬉しくて、初めは五分間だけと決めていた電話が十分、十五分と次第に長引くようになってきた。今では安井さんから連絡のない日を、物足りないと思うようにもなった。

 それにしても、創作豆腐料理。なんて魅惑的な響きだろう。俄然テンション上がってきた。

「よさそう。どんなメニューがあるのかな」

『この時期だとごま豆腐に湯葉の刺身、豆乳の冷製スープがお薦めだそうだ』

「いいね、是非行きたい! そこにしよう!」

 私は一も二もなく飛びついた。

 電話の向こうで彼が、ほっとしたように息をつく。

『さすが園田、豆腐への食いつきはすごいな』

「そりゃそうだよ。私の身体には豆腐が流れてるからね!」

『……流れなくないか? 常に詰まってそうだ』

 私が笑うと、安井さんまでおかしそうに笑った。近頃では、彼の明るい笑い声を聞かない日はないほど楽しそうにしている。

 そしてひとしきり笑った後、忘れていたことがあったというように話を戻した。

『思い出した。ただその店、一つだけ問題があるんだよ』

「え、そうなの? どんな?」

『園田の住んでる辺りからはかなり遠い。電車で来てもらうには負担かもしれない』


 彼にお店の位置を詳しく尋ねると、どうやら彼の部屋からは近いお店らしい。

 通勤途中に偶然見つけて目をつけておいたそうで、既に下見も済ませているのだと彼は言った。

 私と安井さんは会社の最寄り駅を挟んでちょうど反対方向に部屋を借りている。確かに住所を聞く限り、ここからじゃ電車でも片道三十分近くかかりそうだ。


「でも行けない距離ではないし、そこまで負担ってほどでもないよ」

 安井さんが見つけてくれたいい感じのお店、せっかくだから私も行ってみたい。そう思って反論すると、安井さんはやんわりと諭してきた。

『行きはよくても帰りが大変だろ。俺が車で迎えに行くよ』

「え? それはちょっと悪いかな……」

 お店を探してくれただけでもありがたいのに、迎えにまで来てもらうのは気が引ける。

「それに車で行ったら安井さんが飲めないんじゃない? 一旦置いてから行くの?」

『いや。駐車場あるし、それに迎えに行く以上は帰りも送らなくちゃな。俺は飲まなくていい』

「そんな、ますます気が引けるよ。私なら電車でも平気だから」

『帰りも送っていきたいんだよ』

 私の言葉に被せるように、安井さんはそう言った。

『今回は園田のお祝いだからな。送り迎えまでワンセットで初めておもてなしってものだ』

 だとするとものすごく至れり尽くせりのおもてなしではないだろうか。

 たかが、というのも何だけど私の検定合格祝いくらいで、ここまでしてもらっていいんだろうか。私が尚も戸惑っていれば、彼はそれすら見抜いたみたいに言葉を重ねる。

『そんなに遠慮するような仲でもないだろ。気にするなよ。どうしてもって言うなら俺の誕生日にもてなし返してくれればいいから』

 そういえば安井さんって十一月が誕生日だ。私も、そういうことは忘れずに覚えている。

 去年も一昨年もその前の年だって何もしなかったどころか、おめでとうさえ言わなかったけど、今年はどうなるだろう。私の誕生日にはお祝いの言葉を貰っていたから、私も何かお返しをすることになるのは間違いない。もしかしたら、もてなし返すことになるのかもしれない。

 そういうことなら、早いうちに安井さん好みのお店でも探しておこうかな。ちらりと脳裏をかすめた考えはまだしまっておくことにして、私は彼に答える。

「うん。今回はありがたくお言葉に甘えようかな」

『なら決まりだ。俺は飲まないけど、お前は遠慮せず飲んでいいからな』

「どうしようかな。当日の気分で決めるよ」

 私もすごく酒好きというほどではないから、飲めなきゃそれはそれでいい。ただ料理が美味しいとお酒が欲しくなることもあるかもしれない。安井さんに甘えすぎない程度に飲むのもいいかもな、と思う。


 それから私達は日程や待ち合わせ時刻などを詰め、次の土曜日に会う約束をした。

 当日は夕方五時に、安井さんが私のアパートまで車で迎えに来てくれるそうだ。こうして迎えに来てもらうのも付き合っていた頃のデート以来で、妙にそわそわした落ち着かない気分になる。

 私達、普通によりを戻したみたいになっているような気がする。頻繁に連絡を取り合い、約束をした日には部屋まで迎えに来てもらい、そして彼の誕生日の約束までしている。これで付き合ってないなんて、客観的に見ればとてもおかしい。


 この間から思っているように、安井さんは私にとってまさに理想の人だ。

 さっぱりとした短髪も涼しげな顔立ちも当然好みだし、私が絶対条件として掲げる『豆腐好きで自転車に理解がある人』という点は軽々クリアしている。お酒は私より弱いようだけどそんなのは苦にもならない。勤務中は真面目で仕事ができるのも、姿勢がいいのも、歌が上手いのも格好いいと思う。それに何より、一緒にいて楽しくて幸せだ。これはどんな趣味嗜好を差し置いてでも絶対忘れてはならない、大切な条件だ。

 彼との毎夜の電話を楽しみにしているのも、すっかり当然のように彼とデートの約束をしているのも、そして彼の言葉や他の人のからかいにいちいち赤くなってしまうのも、安井さんが私にとって理想的な、とても素敵な人だから――なんていうのも客観的に見れば絶対おかしい。

 そろそろ自覚すべきだと、私が傍観者なら我慢できずに口を挟んでいるところだ。

 でも、自覚しちゃったら。

 今のところ微々たる成長しかしてない私は、結局同じことばかり考えに考えた挙句一人でぐるぐるするんじゃないかって、そんな不安も消せずにいた。


『当日、楽しみにしてるよ』

 私の内心など知らず、うきうきとした声で安井さんは言った。

 それから、

『他に決めておくことはないよな?』

 確認するように尋ねてきたので、私はもやもやしたものをさて置いて考える。

 そして前に会った時、聞いておけばよかったと思ったことを思い出した。

「あ、安井さん。一つ聞いていい?」

『どうした?』

「当日って、安井さんはどんな格好してくる予定?」

 前回、お酒を飲むだけだしとパーカーにジーンズというカジュアルな格好で出かけた私は、安井さんがこぎれいにまとめてきたのを見て後悔したのだった。その辺はちょっと合わせておきたい。付き合っているわけじゃないとしてもだ。

『店の雰囲気からして、何着ていっても問題はないだろうけど』

 安井さんも考え込むようにして、ゆっくりと答える。

『もし園田が迷ってるんだったら、たまにはスカートはいてるところが見たい』

「え……似合わないよ。脚太いし」

 私が困惑して言うと、彼は不服そうに言い返してきた。

『そんなことない。園田の脚はいい脚だ、俺は好きだよ』

「ど、どうもありがとう……。微妙に変態チックな言い方だけど」

『俺の趣味なんて真っ当な方だ。石田なんかに比べたら』

 ということは石田さんの趣味は真っ当じゃないんだ。微妙に聞きたくなかったその情報。

 ひとまず服装の話に戻るとして、サイクルウェアなら何着も持っているけど、可愛い服なんて本当に全く持っていなかったりする。四年前だって、安井さんと付き合うことになってから慌てて服を買いに行ったりもした。よって持ち合わせのスカートも一枚しかない。そしてあれをはくとして、上に何を合わせるかでまた悩むことになりそうだ。

「本当に似合うかどうかわからないけど、それでもいいなら」

『大丈夫だよ。例えばあの白いシャツワンピース、あれもよく似合ってた』

 安井さんがピンポイントでかつてデート用に買い足した服を挙げてみせたので、私はいっそ感心してしまった。

「私の服なんてよく覚えてるね、安井さん」

『可愛かったからな』

 しかもさらりとそんな殺し文句まで言う。

『園田はいつもの服が似合ってるけど、たまにはああいうのもいいと思った』

 固まる私の耳に、安井さんの笑いを含んだ声が聞こえてくる。

「い、いいよそんなの覚えてなくて。あの頃はああいうの、着慣れなかったし」

『でも初々しくて可愛かったよ。俺に会う為に買ってきてくれたんだろうな、ってわかった』

 ということは、当時の私は目に見えて着慣れてない感が半端なかったのだろう。あのシンプルなシャツワンピにさえものの見事に着られている自分を想像しただけで、気恥ずかしさにその辺を走り回りたくなる。

 そんな有様でも、安井さんはしっかり誉めてくれていた。つくづく優しい人だ。

「忘れてくれないかなあ。あの頃は必死だったって言うか、今思うと痛すぎるよ私……」

 げんなりした私は思い出を打ち消しにかかった。

 でも安井さんは悪戯っ子みたいな口調で、

『残念でした。俺は一生忘れない』

「そんなに覚えてるようなこと!?」

『当たり前だろ。好きな子が、それも普段はカジュアル派の女の子が俺と会う為に可愛い格好をしてきてくれるって、なかなかにツボだよ』

 それはもちろん、私だって好きな人に可愛いと言ってもらいたいからこそああいう服を買ったわけだ。

 だからそう思ってもらえるのは嬉しいんだけど。

『それに、ちょっとくらい恋愛に必死な子の方が、斜に構えてる子よりも可愛いよ』

 安井さんがそんなふうに続けたので、私は昔の自分を振り返りながら唸った。

「そ、そうかな……」

『……と、俺も園田に思ってもらいたい』

「え? どういう意味?」

 私が聞き返すと、彼は言った。

『ここにも恋愛に必死になってる可愛い子がいますよ、ってアピール』

「ああ、そういうこと……」

『子って言ってももうじき三十一だけどな』

 はにかむ声で言う安井さんは、確かにちょっと可愛いかもしれない。

 しかし彼に必死になってもらうのは何と言うか申し訳ない。もともとは私一人が必死になってる恋だったはずなのに。


 それで私は当日、膝丈の茶色いフレアースカートをはいた。

 上はVネックの七分袖ニット。秋らしくくすんだ緑にしてみたけど、夕方の段階ではまだちょっと暑くて袖をまくりたくなる。足元はパンプスだ。職場ではいつも履いてるけど、外で履くのは久々だった。多分、長谷さんの結婚式以来。


 安井さんは時間通りに青い車で現われて、外で待機していた私の前に車を停めた。

 私が助手席のドアを開けると、まじまじとこちらを見つめて、声を上げた。

「おお、園田がスカートだ」

「その反応、恥ずかしいからやめて欲しいなあ……」

 私は俯きながら助手席に座り、ドアを閉めてからシートベルトに手をかける。

 やめろと言っているのに、安井さんは私の一挙一動を見守るように視線を向けてくる。運転席から身を乗り出すようにして、食い入る目つきで見つめてくる。思わず横目で睨むと、彼はテーラードジャケットを羽織る肩を竦めた。

「似合うじゃないか。やっぱり可愛いよ、園田」

 彼のジャケットの下は白いシャツ、ボトムスはジーンズだった。今日の私の格好なら合わないということは全くないだろうけど。

 でも合わせたなら合わせたでかえって気まずいと言うか、くすぐったいと言うか。

「いいよ誉めてくれなくて。恥ずかしいから」

 訴えると、彼は困ったように少し笑った。

「驚くのも誉めるのも駄目なんて理不尽な。じゃあどうして欲しいんだ」

「スルーしておいて。いつもと変わらない格好してる扱いで」

 いたたまれなくなって、私は顔ごと背ける。自分で選んで着てきた服ではあるけど、思っていた以上に恥ずかしい。顔から火が出そうだ。

 途端、それを追い駆けるみたいに安井さんが言った。

「無理だよ、スルーなんて。すっごくどきどきしてるのに」

 そんな言葉を車内という密室空間でいきなりぶつけられて、平然としていられる人間がいるだろうか。みるみる頬が熱くなる。サイドミラーを覗けば紅潮しきった顔が見えてしまうかもしれない。

 私はついに耐えられなくなり、思わず顔を覆った。

「何か今日、初デートの時より遥かに恥ずかしいんですけど……!」

「そう? 俺は楽しいよ、初デートの時よりも」

 安井さんは実に楽しげな声を上げてから、再び車を動かした。


 いや本当に恥ずかしくていたたまれない。

 この、お互いにデートだって自覚してる感じとか。久々に車で迎えに来てもらったこととか。彼なら誉めてくれるってわかってるのに、乞われるがままスカートはいてきた私自身も恥ずかしい。


 もう何か! 誰に言われるまでもなく自覚しつつあるんですが!

 私、安井さんのこと好きなんじゃないだろうか。

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