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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
24/205

唯一無二でも安物です(3)

「夢を見てたんだよ」

 安井さんは、懐かしい記憶を振り返る口調で言った。

「霧島が長谷さんと付き合ってる間にしてた社内恋愛っぽいことを、俺もしてみたくなったんだ」

 空になった丼に蓋をして、割り箸は箸袋にしまう。

 それらを隠すように自分の陰に置いてから、何気ないそぶりで空を見上げる。


 花火は相変わらず断続的に打ち上げられていた。

 夜空に光が広がる度、屋上が一面真昼みたいな明るさになる。


 その光を浴びる彼の横顔は、なぜか少し寂しげに映った。

「正直、あいつがそういうことやってるのを見た時は、ちょっと馬鹿にしてたところもあった。いい年して社内公認のお付き合いなんて周りに醜態を晒すようなものじゃないかって。俺なら周りにうるさく言われながら付き合うのは面倒だし、結婚するまで秘密でもいいくらいだと思ってた」

 うちの会社は社内恋愛にはさほどうるさくないけど、長谷さんが時々冷やかされるのを見てきたのもあるし、最近になって私が東間さんに冷やかされるようになったせいで、それはそれで面倒だというのもわかる気がする。ずっと秘密の関係の方が、少なくとも周りにあれこれ言われずに済むのは確かだ。万が一別れるとなった時もそう。

「でも実際に自分が同じ会社に彼女作るとさ、そういうのも悪くないなって気になってくるんだよ。単純だろ?」

 自嘲気味の微笑を浮かべて彼は続ける。

「皆に冷やかされつつ一緒に帰ったり、社内で会った時に手を振ってもらったり、花火見せる為に営業課まで連れてきたり、そういうのを俺も園田とやってみたかった」

「意外と可愛い憧れ持ってるんだね」

 まるで学生時代のような――いや今時高校生でもしないかもしれない牧歌的恋愛なんて、はっきり言って安井さんのイメージじゃない。私が率直な感想を述べると、彼も苦笑する。

「まあな。それでいて俺は見栄っ張りだから、そういうことに憧れつつもすぐには踏み切れなかった」

 私は彼の口元で、苦笑いがじわじわと照れ笑いに変わるのを見た。

「園田といる時の俺は、普段の俺とは違うように思ってたから余計に。石田にばれたら散々にからかわれるだろうし、霧島にも日頃の仕返しとばかりにいろいろ言われるだろうし、営業課の連中はそういうネタ大好きなおっさんとおっさん予備軍ばかりだし」

 それだけの説明でも、実際ばれてたらどうなっていたかという推測が私にもついた。ばれなくて本当によかったのかもしれない。

「結果的にはそれ以前の問題で、花火の日には呼べなかったけどな。お前とは別れてたし、それでなくてもうちの隣には新しいビルが建った」


 どちらにしても駄目だった、というのが私達の運命を暗示しているみたいに思えた。

 あのまま付き合っていたところで、安井さんのささやかで可愛い憧れは叶えようがなかった。


 私は微かな切なさを覚えつつ、改めて最後に取っておいた焼き豆腐を口に運んだ。それをよく噛み締めて味わう間も花火は上がり、その光の下で安井さんは話を続ける。

「今だから言うけど、お前と別れた時も、舐めてかかってたところはあるんだ」

 言葉に後悔の色が滲んでいるのがわかる。

「俺は大した理由じゃないと思ってた。だからその気になれば、いつでもよりを戻せる気でいた」

「私には、大した理由だったんだよ」

 器に蓋をしながら言い返すと、安井さんは困ったように笑った。

「今振り返っても別れるほどの話には思えない。だって俺は喜んでたんだから」

 聞き捨てならない言葉だと、感覚で察した。

 すぐさま聞き返した。

「喜んでたって、何を?」

「園田から『寂しい』ってメール貰って、すごく嬉しかった」

 そう語った安井さんの表情に、少なくとも嘘は見えないように思えた。

 だけど私は困惑した。あれを、あの時のメールを嬉しいと言える安井さんの感覚がわからない。あんなメールを送ってしまったせいで私は最大級の迷惑をかけてしまったはずだ。

「気を遣ってくれてるなら――」

 言いかけた私を、安井さんは眉を顰めて遮る。

「遣ってない」

「安井さんは優しい人だから、迷惑だったなんて絶対言わないでしょ?」

「本当に迷惑じゃなかったんだよ」

 溜息が一つ落ちた。

「あの時、年明け早々に異動の告示があって、引継ぎだの挨拶回りだの俺はめちゃくちゃ忙しかった」

 それは知っている。社内で見かける姿も常に慌しそうにしていて、声をかけるのさえためらわれるほどだった。

「忙しい時こそ、無性に園田に会いたくなった。仕事終わってくたくたのまま部屋に帰って、あんまりにも疲れてて食欲もないって時でも、園田の顔見たら元気になれる気がしてた。本当に毎日、会いたくてたまらなかった」

 安井さんは話しながら、痛みでも覚えたみたいに一瞬顔を顰めた。

 それでも私に向ける表情は柔らかい。

「でも、遅く帰った後で会いに行くのは悪いと思ってて――いや、それも格好悪い気がしてただけかもな」

 言い直してからかぶりを振り、

「一分でも、ほんの一目でもいいから会いたいなんて言ったら、まるで園田に縋ってるようで無様だろ? それで自制してた」

 私が反論しようとするのを押し留めて、更に続ける。

「だから園田がメールをくれた時、会いに行く口実ができた、って思った」

 安井さんは優しく微笑んでいた。

「誕生日はぎりぎり終わっちゃったけど、園田が寂しがってるんだったら会いに行けばいい。園田の顔を見たら、明日からの仕事も乗り切れると思った。すぐに車に乗って、園田の部屋まで行ったんだ」

 初めて聞くその打ち明け話に、私は愕然としていた。

 最初からすれ違っていた私達は、最後の最後でも大きくすれ違っていたことになる。

「そしたらまさか、あんなに泣かれるとは思わなかった」

 古傷に触れるような安井さんの言葉に、私は気まずく目を伏せた。

「あの時は、ごめん」

「謝るなよ。迷惑じゃないって言っただろ」

 安井さんは項垂れる私の背に、手でそっと触れてきた。

 大きな手の感触が懐かしく感じられて、一層胸に堪えた。


 疲れてるのに無理して来てくれたのかと思っていた。

 私がわがままを言ったから。あんなメールを送ってしまったから。

 くたびれきった顔で駆けつけてくれた安井さんの姿を見た私は、その思い込みと罪悪感から泣いてしまって、もうお祝いどころではなかった。来てくれてありがとうと言う余裕もなかった。

 泣きながらメールを送ったことを謝ったら、安井さんは私を抱き締めて、ちょうど今みたいに背中を撫でてくれた。

 彼は私を全く責めなかったから、それを私は、優しさだと思っていたけど。


「私、本当に、全然知らなかった」

 思わず私が呟くと、安井さんも少し笑った。

「園田が思いのほかショック受けてたみたいだから、後でじっくり話すつもりでいた。結局話す暇もないままだったけどな」

 あの日から私は多忙な彼と距離を置くようになった。安井さんからの連絡も途切れがちになり、そして三月に入ってすぐ、私は彼に別れ話をする為、時間を作って欲しいと持ちかけた。

「別れようって言われた時も、俺はそうなるだろうなって思ってたんだよ」

 聞こえた言葉に私が顔を上げたのと同じタイミングで、安井さんが腕時計を見た。

 残り時間はどのくらいだろう。花火はまだ上がり続けている。

「園田はあれ以来俺を避けてたからな。でも俺にはフォローするだけの余裕も時間もなかった。だから一旦冷却期間を置くのも手だと、園田の言う通りにしたんだ」

「私は何もかも終わらせたつもりでいたよ」

 そう告げたら、安井さんは弱々しく頷いた。

「だろうな。大分長いこと避けられてたし、後から失敗だったかもって悔やんだほどだ」

「安井さんには迷惑かけたくなかった。せっかく付き合ってもらったんだから」


 私は安井さんが格好をつけていられるような、負担にならない彼女でありたかった。

 でも今になって思う。

 安井さんが本当に必要としていたのは、私が考えていたような恋人像ではなかった。私は彼に見栄を張らせてあげたいと思っていたけど、彼は見栄を張らずに済むような彼女を欲していたのだろう。


「付き合ってもらったなんて言うなよ。俺も好きで付き合ってたんだ」

 軽い口調で彼は言う。何でもないことみたいな口ぶりだった。

「ただ、いつでもやり直せるって見込みは甘かったな。気がついたらもう、こんなに時間が経ってた」

 私はやり直せるなんて思ってなかった。考えもしなかった。彼の為に私ができることは速やかに距離を置き、付き合っていた事実をなかったことにする、それだけだと思っていた。

「何か私、安井さんのこと全然わかってなかったんだなあ……」

 ほとほと自分に嫌気が差す。

 格好をつけたがる人だとわかったつもりになって、彼の意に添わないことばかりしていた。その挙句に自分から別れを告げた。どちらにしても安井さんを振り回し、傷つけていたことには違いないけど。

「あの時点で四ヶ月ちょっとの付き合いだろ。理解してる方がおかしい」

 安井さんはそう言うけど、私はそれ以前から長きにわたる片想いを続けていたのだ。好きな人のことを何にもわかってなかったなんてすごく情けないし、へこむ。

「それにこうしてやり直せてる。俺はそれだけで十分だよ」

 落ち込む私を励ます余裕さえ見せた後、安井さんはまた腕時計を見る。

「そろそろ時間だ。少しだけ、花火見よう」

 もう終わりなんだ。私は急に感傷的な気分になった。

 気がつけば花火はあまり見られてなかったし、話し足りない気もしていた。確かに私は彼のことを知らなかった。知らなさすぎた。あんなに好きな人だったのに。今も幸せになって欲しいと心から願える人なのに。

「うん」

 私も彼に従い、あと少しだけという思いで夜空を見上げる。

 空にはぱっと光ってゆっくりと消えていく花火が、短い間にも次々と上がっていた。私がそれに見とれていると、何の前触れもなく私の手が握られた。夏らしくじわりと熱い手だった。

 横を向くと、安井さんが私の手をしっかりと握り締めながら空を見ていた。こちらを向かずに笑みながら言った。

「あと一分だけ。それまでは貸してて」

 私は何か言おうと思ったけど、残りの一分間がもったいなかったから、結局黙っていた。

 熱い手の感触にどぎまぎしながら、夜空を彩る花火を眺めながら、これまでのすれ違いに思いを馳せていた。


 あの日、あの夜のメールは間違っていなかった。

 間違っていたのはその後の、せっかく駆けつけてくれた安井さんに対する態度だ。

 安井さんの為を思うなら、私はあの時、一体どうすべきだったんだろう。

 そんなことを一分の間に、とりとめもなく考えていた。


 一分間はあっという間に過ぎ去ってしまい、安井さんが私の手を離す時が来た。

 離れる時、ちょっとだけ寂しかった。

「花火、一緒に見られてよかったよ。夢が叶った」

 彼がそんなことを口にしたので、私は答えに迷った。彼の可愛い夢を私がぶち壊してしまったのは確かだ。

 やり方次第では彼の夢を、私が叶えることだってできたのに。

「こちらこそ。あの……何て言うか、話聞けてよかったよ」

 とりあえずは素直に、私は応じる。

「あの時メール送ったこと、後悔してたから。それ自体が悪かったんじゃないってわかって、よかった」

「園田は何も悪くないよ」

 安井さんはそう言ってくれたけど、そんなことないと私は思う。

「ううん。私は安井さんのこと、何もわかってなかった。私のせいだよ」

「これからまた、じっくり知っていってくれればいい」

 彼が言って、真面目な顔でじっと私の顔を見つめてきた。

 私はその視線をくすぐったく感じて、いそいそと食べたお弁当の容器を集め始める。

「これ捨てとくね。安井さんは先に戻って」

「一緒に戻らないのか」

「さすがに、これは見られたらまずいかなって思うから」

 屋上で一緒に花火なんて、もはやあらぬ噂とかいうレベルじゃない。私が照れながら告げると、彼は少し残念そうにしながらも顎を引いた。

「わかった。あ、弁当代は……」

「今度でいいよ。もう時間ないでしょ?」

 私の言葉は真実だったようで、安井さんは名残惜しそうにしながらもエレベーターに向かって歩き出した。そして歩きながら言った。

「後で必ず払う。それと、今夜はありがとう」

「こちらこそ。いろいろありがとう」

 去っていく彼に私も言葉をかける。

 さっきまで手を握っていてくれた人が次第に離れていくのを名残惜しく思っていたら、次の言葉はするりと口から飛び出した。

「また、時間見つけて話がしたいな。私……」

 安井さんが足を止めて、振り返る。

 引き止めてしまったようだと思いながら、言った。

「すれ違ったままなんて、私も嫌だから。ちゃんと話をしよう」

「ああ」

 彼が頷く。

 そのままエレベーターを使うのかと思いきや、ふと踵を返してこちらに戻ってきた。


 ベンチの前でゴミをまとめていた私は、戻ってきた安井さんの妙に畏まったような顔を黙って見ていた。彼はにこりともせずに私の傍まで来ると、いきなり腕を伸ばしてがばっと抱き締められた。

 そう、抱き締められた。


「え、え、な、何!?」

 私が上げた声は夜空に響くこともなく、顔を押しつける格好になった彼の肩に吸収されたようだ。そのままぎゅうっと数秒間、きつく抱き締められた。

 その間に彼が、私の耳元に囁いた。

「お前が俺のところに戻ってきてくれるなら、何でもする」

 それはいつになく切羽詰まった、余裕のない声だった。

「園田に、傍にいて欲しいんだ」

 その囁きの後で腕の力がまた唐突に抜け、私は彼の腕と体温から解放される。なぜかふらつきながら後ずさりする私に、安井さんは無理やり作ったような笑みを浮かべてみせた。

「じゃあ、俺は先に戻るよ」

「う、うん……」

 彼が再び踵を返す。エレベーターに乗り込む。扉が閉まる。

 呆然と立ち尽くす私の背後で、飽きもせず花火が上がり続けている。


 何だか無性に、後悔の念が湧き出てきた。

 あんな笑い方をさせるくらいなら、私も彼を抱き締め返せばよかった。

 彼には幸せになって欲しい。今も変わらずそう思っているけど、一方で懐かしい気持ちも込み上げる。


 彼を幸せにしたい。私が。

 そんなのは元カノの仕事じゃないと思うけど――昔は確かに胸にあったその気持ちが、溢れ出るみたいに蘇ってきた。

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