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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
23/205

唯一無二でも安物です(2)

 忙しい日々もいつまでも続くわけではなく、八月もまた刻一刻と過ぎていった。

 先月の梅雨明け以降、私は楽しい自転車通勤を復活させていて、そのせいだけではないのだろうけど安井さんと一緒に帰る機会はほとんどなかった。


 代わりにメールの機会がぐんと増えた。

 彼は三日と置かずに連絡をくれた。普段とは裏腹にメールでは言葉少なで、内容は大抵が今帰った、これから何を食べるといった報告ばかり。たまに会社で顔を合わせた時の話をしたり、私の勉強ぶりを気にかけてくれたりしている。

 私も慣れたとは言え、仕事を終えて帰宅すればくたびれきっていることも多かったので、短いメールで済むのがとてもありがたかった。同じように私も帰ったよとか、晩ご飯は豆腐だよとかそういう返事を送っていた。

 そして花火大会が近づくと、メールの話題にもそのことが上るようになった。当日は是が非でも花火を見よう、でも残業中だからあまり抜けられないかも、だったら夕飯食べるって言って抜けてくればいい、じゃあ当日はお弁当買っておくよ――みたいなやり取りをしているうち、当日が少し楽しみになってきた。

 あとはお天気さえよければいいんだけど。


 幸いにも花火大会当日はからりと晴れた。

 ビルの外壁を炙るような日差しがようやく和らいだ午後六時半、私は夕飯のお弁当を買いに行く為に一度会社から抜け出した。他の広報課員からも買い出しを頼まれたのでちょうどよかった。駅周辺にはいかにもこれから花火見に行きますよ、という浴衣姿の人達が少なからずいて、そういえばもう何年も浴衣着てないなと思う。花火大会でもない限り着る機会もないし、そしてその花火大会すら縁遠くなってしまったんだから当然だ。

 今年だって、まさか花火を見ようって気になるとは思わなかった。

 買い物を済ませて店を出ると、ちょうど日没時刻を迎えて空には残照が広がっていた。もうじき花火が上がるであろう空の下を、私はお弁当を詰めたビニール袋を提げながら歩いた。夏の夜の匂いに交じって、できたてのお弁当の匂いがするのがミスマッチでおかしい。

 日が沈んでも外は非常に蒸し暑く、歩いているだけでじりじりと水分を奪われる気がする。だから途中で自販機から水も調達した。


 それから帰社したところ、廊下で安井さんと出くわした。

「あ、お弁当買ってきたよ」

 私がビニール袋を少し掲げると、彼は驚いたように笑う。

「随分買ったんだな。そんなに食べるのか」

「そんなわけないから。他の人にも買い出し頼まれてただけ」

 この時期は誰もが残業当たり前になっている。皆、これからお弁当を食べてもうひと頑張りするんだ。中には食べずに、より早く帰れるよう空腹と戦いながら残業する人もいるけど。

「安井さんの分も買ってきたからね」

 お弁当を何にするかは任せると言ってもらっていた。私の言葉に安井さんはすかさず聞き返してくる。

「何にした?」

「牛すき丼。私も一緒」

「夏でもあるのか、すき焼き丼って」

「あるところにはあるよ。ここのはエリンギ入ってて美味しいんだよ」

 もちろん焼き豆腐も入ってる。すき焼きに豆腐が入ってなかったら詐欺だ。

 安井さんは腕時計をちらりと確かめてから言った。

「悪いけど、屋上に上がる時に持ってきてくれ」

「了解。何時にする?」

「七時半スタートだから、そのくらいに。ちょっと慌しくなるかもしれないけど」

「私もそうだから大丈夫だよ」

 本当は打ち上げが終わるまでのんびりお弁当食べながら花火見ていたいところだ。でもそんな余裕はない。ビールと枝豆が欲しいなんて間違っても言っちゃいけない。勤務中だ。

「じゃあ後で」

 安井さんは短い挨拶の後、しっかり微笑んでから立ち去った。いつもよりも足早なところを見るに、今日もそこそこ忙しいのだろう。

 私もすぐにその場を歩き出す。七時半に間に合うよう、ある程度片づけておかなくてはならない。


 会社のエレベーターは一応屋上まで通じている。

 だけど実際にそこまで上がったのは、多分一度きりだったと思う。入社直後、先輩社員に連れられて『こんなところもあるんだよ』と案内してもらっただけ。フェンスを張り巡らせた屋上には見るべきものも特になく、せいぜい給水タンクと機械室がある程度だ。エレベーターがここまで通じているのもメンテナンスに必要だからというだけだった。

 私が二人分のお弁当を携えて屋上へ出ると、既に花火大会は始まっていたようだ。吸い込まれそうな夜空に目映い花火が次々と広がり、打ち上げられる度に響く重低音が空きっ腹を震わせる。

 屋上には申し訳程度にベンチが何基か置かれており、それらは全て空いていた。そもそも屋上に人気は全くなかった。安井さんもまだ来ていないようだ。

 私はベンチの埃を払い、そこに腰を下ろす。隣には牛すき丼の器を二つ、まだ重ねて置いておく。

 お腹は空いていたけどもう少し、安井さんが来るのを待ってみることにした。代わりにペットボトルの水を飲む。

 日が落ちたからと言って、屋上はそれほど涼しくはなかった。むしろビル街のほうぼうから室外機の熱風が集まってきたみたいに、むしむしと風が吹いていた。隣接する割と新しいビルの屋上にはいくつかの人影があり、そちらでは花火を楽しむ人がいるようだ。

 我が社の屋上は今のところ私が独り占め状態。贅沢気分だった。


 花火を眺めながらぼんやり待つこと五分、やがてエレベーターの扉が開いて、安井さんが慌しく駆け込んできた。

「悪い、待たせた」

「そうでもないよ」

 私はかぶりを振り、彼が息をつきながらベンチに座るのを見計らい、牛すき丼の器を差し出す。まだちょっとだけ温かい。

「はい、どうぞ」

 安井さんはそれを笑顔で受け取る。ワイシャツの袖をまくっているのが夏場っぽい。

「ありがとう。いくらだった?」

「後でいいよ。早く食べながら花火見ないと」

 急かしながら割り箸を手渡せば、安井さんも腑に落ちたように頷いた。

「それもそうだ。園田は何分くらいいられる?」

「十五分が限度かなあ。まだ仕事もあるしね」

「なら俺も、それまではいるかな」

 毎年、花火は一時間以上打ち上げられているはずだった。その四分の一も楽しめないのは残念だけど、こうして見られるだけよしとしておこう。

「しかし、牛すき丼ってチョイスが園田だよな」

「時々はしっかり食べて、スタミナつけておかないとね」

「まあ確かに。最近はいろいろ疎かになってるからな」

 二人揃って牛すき丼の蓋を開けた。びっしりと汗を掻いている蓋を傍らに除け、割り箸を割って食べ始める。

「冷めてるけど結構美味いな」

「美味しいよね。やっぱすき焼きには豆腐がないと」

 食べながらそんな会話を交わしている間にも、夜空に花火が上がっていく。次々と打ち上げられては空に広がる色とりどりの光、それより遅れて聞こえてくるお腹に響く音。隣のビルからだろうか、誰かが歓声を上げるのが微かに聞こえたような気もした。

「結構よく見えるのに、もったいないね。私達しかいないなんて」

 私がふと呟くと、エリンギを箸で摘んだ安井さんがこちらを見た。

 その顔がちょうど打ち上がった花火の色で照らされる。初めはピンク、その次は白、更に緑へと変わる。

「皆、花火見るより早く帰りたいって思うからな。一緒に見る相手でもいない限りは」

「なるほど……」

 と言うか見る相手がいれば尚更、花火大会に間に合うように帰りたいって思うよね。

 それが無理ならわざわざ会社に残ってまで花火なんて見ない。一刻も早く仕事を終わらせて、家へ帰りたいって思うはずだ。

 ここで花火を見たがるなんて、それこそ社内に『一緒に見る相手』がいる場合だけだろう。

 私は牛すき丼を食べ進めつつ、並んで座る安井さんの横顔を盗み見る。

 どうして彼は私を、今日ここへ誘ったんだろう。その理由はまだ教えてもらっていない。十五分しかない時間の中で、その話は聞けるだろうか。

 こちらの視線に気づいてか、安井さんが目だけを動かして私を見た。

「昔は、営業課からも花火が見えたんだよな」

「そういえばそうだったね。隣にビルが建っちゃったから見えなくなったって」


 ちょうどすぐ隣にある、屋上に人が出ているビルがそれだ。

 我が社の社屋とちょうど同じ高さだから、そっちに面した窓は各階全てが塞がれたようなものだった。本来ならそちらのビルでは屋内からでも花火が見られるはずだけど、窓の向きが悪かったのか、それとも花火はやっぱり外で見なくちゃと思ったんだろうか。

 花火には夏の夜の匂いがよく似合う。息が詰まるような蒸し暑さも涼しさのない夜風も、花火と一緒ならかえって心地がいいほどだ。これで虫の声でもあれば完璧なんだけど、ビルの屋上にそれを期待するのも酷か。


「じゃあ安井さんも、昔は仕事しながら花火が見られたんだね」

 私がそう言うと、彼はちょっと微妙な顔で頷く。

「一応はな。毎年こんなふうに忙しいから、実際はそれほど余裕もなかったけど」

「でも音だけ聞くよりいいんじゃないかな。音だけって相当空しいよね」

「何か、世間から突き放されてる気分になるよな」

「本当。平日開催じゃ、普通の会社員には全くご縁がないもんね」

 世間では夏休み期間だから、平日開催というのもわかるんだけど。土日にやってくれれば私も見に行ったりできるのになと思う。

 しかし、夏休みなんて懐かしい響きだ。今じゃ夏のお休みはお盆休みって名前だからね。

「営業課で花火が見られた頃にさ」

 安井さんが箸を動かしながら続ける。

「霧島が退勤後の長谷さんを連れてきたことがあるんだよ。花火見せたいって」

 その話は初耳だ。私は思わず箸を止め、彼を見ながら聞き返す。

「それって、安井さんがまだ営業課にいた頃の話?」

「ああ。ちょうど例の、合コンを企画してた頃の話だ」

 安井さんもこちらに視線を返した。顔がおかしそうに笑っている。

 何となく私も察して、言った。

「つまりそれで安井さん達は、長谷さんと霧島さんの関係に気づいたんだね」

「そういうこと。気づくも何も、わかりやすいってものじゃなかったけどな」

「安井さん達かわいそう。普通に『付き合ってます』って言われるよりきついね」

 私の心からの同情を、安井さんはどこか複雑そうな微笑で受け止めていた。

「別に失恋したってほどでもないし、そこまででもなかった」

「嘘、結構しおしおに萎れてたじゃない。私は覚えてるよ」

「そりゃ悔しいのはあったけど。そんなの覚えてるなよ」

 噛みつくように言ってから、安井さんは牛肉とご飯を口に詰め込む。ちょっと腹立たしげにもぐもぐと噛み、飲み込んでからまた口を開いた。

「あの頃は長谷さんを狙ってた奴ばかりだったからな。誰も彼もが総じてショック受けてたよ」

 わかるなあ、と私は思う。

 あれだけふわっと可愛くて優しくてきれいな人だから、皆に好かれるのも自然なことだ。

 長谷さんとは異動後も同じ室内で働いているので、毎日顔を合わせている。結婚後も以前と変わりなくふわっと可愛くて優しいし、それでいて以前よりも一層きれいだった。

「もしかして、それで今日、私を花火に誘ったの?」

 私はようやく合点がいって、尋ねた。


 やり直すというにはあまりにも希薄な繋がりではあるけど、安井さんにとっては確かに出発点に違いない。

 霧島さんが長谷さんを誘わなければ、安井さんは二人の関係に気づくこともなかった。そうしたら合コンだって中止にならなかったかもしれない。長谷さんは乗り気じゃなかったようだけど、私が彼女を口説き落として、どうにか開催には漕ぎつけていたかもしれない。

 そうしたら私は安井さんに対してぶち切れることもなかったし、お詫びにデートをすることもなかった。


「安井さんが合コンの中止を決めたきっかけだから。そういうことじゃない?」

「そうだけど、それだけじゃない」

 彼は、静かに首を横に振る。

「その次の年には、園田を誘おうと思ってたんだよ」

 更に続いた言葉に、私は残しておいた焼き豆腐を頬張るのをやめた。

「霧島が彼女を招いたなら、俺が園田を呼んだっていいだろうと思った。むしろ、そうしたかった」

 溜息と共に語ってから、安井さんが一足先に丼を空にした。

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