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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
20/205

トライアンドエラー(4)

「園田」

 静かになった車の中、少し強めの口調で安井さんは私を呼ぶ。

 黙っていたら、もう一度呼ばれた。

「園田。顔上げて」

 それで私が嫌々ながらも顔を上げると、運転席から振り向く彼が息を呑むのがわかった。

「顔真っ赤だ」

 ライトはもう消えているのに見えてしまうのが辛い。私は上げたばかりの顔を手で覆う。

「見ないで。恥ずかしさで死ねる」

「そんな死に方は聞いたことない。大丈夫だよ」

「でもさあ……そんなに早くから両想いだったなんて知らなかった。知ってたらありがとうってちゃんと言ったのに。今更過ぎるよ、その情報」


 好きだった人が自分を、ちゃんと付き合う前に好きになってくれた。

 それは私にとってすごく嬉しいことだ。今更な喜びでもあるけど、それこそあの頃の私に教えてあげたい。きっと今みたいに真っ赤になって慌てふためきつつ、心から喜んだことだろう。

 しかし、今となってはとにかくすごく恥ずかしい。

 何で顔が赤くなるのか、自分でもわかるようでわからない。


「俺だって、好きになったその日に相手から告白されるとは思ってなかった」

 安井さんが妙に困った顔で言い返してくる。

「びっくりした?」

「びっくりした。結構慌てた」

「嘘だ。超冷静だったし即答してたよ」

「返事してから慌てたんだよ。別れ際のぎりぎりのところで言われたから」

 それはそうだ。いざとなれば言い逃げするつもりで切り出していた。

「じゃあ寄り道していこうかって言いたくてもお互いサイクリングの後で汗だくだったし、園田は自転車で来てるからってさっさと帰っちゃうし。一人になってから急に心細くなって、もしかして俺のぬか喜びなんじゃないかって何度も思った」

 そこまで語ると安井さんは、今度は肺の空気を全部吐き出すような溜息をついた。

「俺達、最初の段階から全力ですれ違ってるな」

「本当だね。ことごとくすれ違ってる」

 私も納得する。一周回って笑えてくるようなずれっぷり。

 やっぱり私達は壮大なすれ違いを今も続けているのかもしれない。

「これはもう、やり直すなら本当に一からやり直すしかないな」

 安井さんは私に言い聞かせるみたいに笑いかけてくる。

 私は、少しためらってから尋ねた。

「やり直すって、どの辺から?」

「最初から」

 どこか懐かしむような、穏やかな顔つきで彼は続ける。薄闇の中でその目がなぜかきらきらしている。

「とりあえず、園田。花火を見るところから始めようか」

 しつこいようだけど、就職してからというもの花火大会とは無縁の夏を過ごしてきた。もちろん安井さんと花火大会にまつわる素敵な思い出があるわけでもない。

 だから不思議に思った。

「何で花火?」

「どうしても」

「やり直すんだったら、してないことまでするのはおかしくない?」

「おかしくない。とにかく俺は、どうしても花火が見たいんだ」

 安井さんはそう言い張るばかりで、理由を教えてくれなかった。

 あの頃の出来事のうち、私の知らないことはまだまだたくさんあるのかもしれない。

 それを全て知ってしまうまでは、なかったものだとも、終わったことだとも思えない。


 その晩、私はあまり眠れなかった。

 ただでさえ寝苦しい夏の夜を持て余しつつ、布団の上で寝返りを打ちながら考えた。

 考え事の対象はいつもあの人だ。

 来月、一緒に花火を見る約束をした。

 私は『多分残業あるから無理かもしれないよ』と言ったけど、五分くらいなら休憩がてら屋上に出てこられるだろ、なんて言って聞かなかった。それならと私も誘いを、やや消極的に了承したわけだけど。


 安井さんが花火にこだわる理由は知らない。

 私の知らない何かが過去にあったのかもしれない。ただそれをやり直しに結びつけるからには、私に全く関わりのないことでもないんだろう。

 私自身は花火大会に思い入れがあるわけでもないし、八月は何かと忙しいだろうと既に予測がついている。彼との約束を守るなら今から計画立てて仕事を頑張る必要もある。私はまだ、やり直しをしたいと思っているわけじゃない。一緒に花火をすることがそれに結びつくのかどうかもわからない。

 でも、知らないことがあるままでは何も終われない。

 私は好きだった人を、私を好きになってくれた人を誤解したままではいたくなかった。すれ違いのままで終わってしまうのも嫌だった。

 だから、彼と花火を見ようと思っている。


 翌朝、寝不足でふらふらしながら出社すると、先に東間さんが来ていた。

「おはよう、園田ちゃん」

「おはようございます」

 挨拶を返した途端にあくびが出そうになって、急いで噛み殺した。

 東間さんがくすくす笑う。

「すごく眠そうだね。寝不足なの?」

「そうなんです。昨夜は全然眠れなくて……」

 それもこれも全部安井さんのせい。

 せい、って言うのもおかしいか。嬉しくなかったわけじゃない。もっと早く知りたかったとは思うけど。

 嬉しいと思う自分の気持ちが当たり前のような、奇妙なような気がして、延々と考え込んでしまった。

「ふうん。寝不足なんだ」

 相槌を打つ東間さんが、どこか興味深げに見えたのは気のせいだろうか。

「最近蒸し暑いですからね。夜なんてエアコンつけっぱにしようかと思うほどで」

「あ、そういう意味の寝不足?」

 しかも普通に答えたら意外そうにされた。

 他にどんな理由があるように見えたんだろう。早速検定の勉強を始めるなんて園田ちゃん偉い、とか思ってくれてたのかな。私は自分の想像に照れながら言った。

「はい。昨日はちょっと疲れちゃって、早めに寝ようと思ったんですけど眠れなくて」

「何だ。てっきり朝帰りでもしたのかと思っちゃった」

 東間さんは私の想像と正反対の予想をしていたみたいだ。

 自己評価が高すぎたか。まあそうですよねと私は苦笑する。

「違いますよ。私の退勤後なんてもう慎ましやかなものですからね」

「でも昨日、モールにいたでしょ? 本屋さんに」

「――えっ!?」

 広報課も、パーテーションで仕切られた向こう側の秘書課にも、まだ誰も出勤していなかったのが幸いだった。私の素っ頓狂な叫びを東間さんにしか聞かれずに済んだ。

 そしてうろたえる私に、東間さんはにこにこと微笑む。

「私、あの近くに住んでるから、仕事帰りによく寄るの。そしたら先に帰ったはずの園田ちゃんがいるんだもの。これはもしかして、って思っちゃった」


 朝っぱらから冷や汗が出た。

 東間さんは私が誰といたのかはっきりと言わない。他の誰かに聞かれる可能性を考慮してくれているんだろうけど、その気遣いが逆に私を焦らせた。

 めちゃくちゃ誤解されてる気がする。


「そ、そうだったんですか。あの、別に昨日のはデートとかじゃなくてですね」

 私は大焦りで否定にかかった。

 誰かに見られるという可能性を想定していなかったわけじゃない。でも付き合っていた頃には避けていたことを避けなくなったのは油断しすぎだったかもしれない。ガードが緩むとこんなふうに社内の人に見られてしまう。

「違うの? すごく仲良く雑誌見てたから、てっきり付き合ってるんだと」

 東間さんは優しく表情を綻ばせた。私の反応次第では祝福の用意もあるというような、温かな顔つきだった。

「仲良いってほどじゃないですよ。普通にお友達と言いますか」

 私が否定をすれば小首を傾げてみせ、

「本当? でも私、見たんだけどな」

「ななな、何をですか!」

「園田ちゃんの隣にいた人が、雑誌読んでる園田ちゃんをじいっと見つめてたとこ。傍で見守るって言うのかな、遠目に見てもわかるくらい熱い視線だったよ。おかげで私、声かけられなかったもの」

 何やってんのあの人は!

 と言うか見てたのか、私が自転車雑誌読んでるところを。全然気づかなかった。てっきり隣で別の雑誌でも読んでたのかと思ってた。

 見られるのは別に、ちょっと恥ずかしいくらいで済むけど、それが他の人にまで筒抜けなのはまずい。

「違うんですよ。同期だから友達付き合いみたいなのがあるだけで、別にそういうんじゃないです!」

 私は強硬に、重ねて否定した。

「でもほら、この間の写真のことだってあるじゃない。快く提供してくださって」

「それも入社当時からの繋がりがあったからですよ。本当にそういうのじゃないんです!」

「園田ちゃんがそう思ってても、向こうは違うってこともあるんじゃない?」

 東間さんは妙に確信しているみたいな物言いだった。もしかしたら他に何か疑わしい行動でも見つけていたのかもしれない。

「気のせいです。絶対気のせいです!」

 ここで否定しないと安井さんにも飛び火する。そう思って私は言い張った。

 すると東間さんが目を瞬かせる。

「……そっか。気のせいか」

 それからまた柔らかく笑んで、

「ごめんね、変なこと言って。早合点だったかな」

「いえ、いいんです。同期とで買い物行くのって誤解招きますよね」

 私はかぶりを振った。

 そして密かに、この件は後で安井さんに報告して、気をつけるように釘を刺そうと考える。

 昨日の、社内で車の鍵を預けたのとかも人に見られたら厄介だ。もう二度としないように言わなくては。二人きりの時、外でご飯を食べるのもよくないかもしれない。

「あ、そうだ。昨日約束した過去問。持ってきたよ」

 気を取り直したように東間さんが言い、話題が変わったことに私もほっとする。

「ありがとうございます、助かります!」

「早く渡したくてこんな時間に出社してきちゃった。喜んでもらえてよかった」

 東間さんは仏か菩薩かというレベルで優しい。

 過去問を受け取り、私は平身低頭、お礼を言った。

「本当にありがとうございます! いっぱい勉強して、必ず受かりますから!」

「うん、頑張ってね園田ちゃん」

「はい! 近々ご飯でも奢らせてください!」

「そんなのいいのに。こういうのは助け合いだよ」

 東間さんはそう言ってくれたけど、お礼は大事。石田さんも言っていたことだ。

 しかしその為にもまずは検定に受からないと。そしてその為に勉強をしないといけない。受かってから改めてお礼を言って、何かご馳走しよう。


 いそいそと過去問を鞄にしまう私を、東間さんはなぜか目で追っていた。

 そして私が一段落すると、待ち構えていたように、手にしていたクリアファイルから一枚のチラシを取り出す。

「それとね、園田ちゃん。これなんだけど……」

「何ですか?」

 私は東間さんが差し出してきたチラシに視線を落とした。

 それは今月開催されるイベントについての概要を記したチラシ、のようだった。

 乾杯をする男女グループのポップなイラストの下に日時や会費、協力店などが記されている。会費は女性二人一組で六千円、男性はその倍。時間内なら何店舗回っても自由で食べ飲み放題、必ず二名一組様でご参加くださいとのことだ。

「街コンって知ってる?」

「ああ……テレビで見たことはありますよ」

「それなの。二人一組だから、園田ちゃんが一緒に出てくれないかなと思って」

 東間さんが私に向かって両手を合わせる。

「もし乗り気だったらでいいんだけど。園田ちゃん、まだ婚活してるよね?」

「え、ええ、一応……」

 料理教室に通うことを婚活の一環として見ていいのなら、している。

 裏を返せばそれ以外していないということだ。パーティにはあれ以来行っていないし、そもそも夏に入ったら仕事が忙しくて、料理教室すら満足に通えなくなってしまった。私は前回ので自分に足りないものが何かを痛感させられてしまったから、不十分なままで再参加を試みる気にはなれなかった。

 そしてその他にも、今はものすごく中途半端にしていることがある。

「じゃあ、よかったら一緒に行かない?」

 相棒が見つかって安堵したのか、東間さんは晴れ晴れとした顔で誘ってきた。

 私は即答できず、受け取ったばかりのチラシに再び見入る。


 結婚したい。その気持ちがなくなってしまったわけじゃない。

 でもその前に私にはすべきことがある。人に話して引かれない程度には普通の料理ができるようにならなければいけないし、趣味に浪費しすぎていると思われないよう貯金も作らなくてはならない。

 そして、かつての恋をきちんと振り返らなくてはならない。

 私と安井さんはスタート時点から既にすれ違っていた。その差異をこれから埋めていかなくてはならないはずだ。これを放ったらかしにしたらいつまで経っても終われない。

 でも差異を埋めてすれ違わなくなった時、私達はどうなるんだろう。

 今度こそ本当になかったことになるのか。

 それとも今度こそ終わってしまうだけなのか。

 あの時私を好きになったのだと、昨夜、安井さんは言って、私はその言葉を無性に嬉しく思ったのに――。


「……園田ちゃん?」

 チラシを凝視したまま固まる私に、東間さんが声をかけてくる。

 顔を上げると、優しい先輩は気遣わしげな微笑を向けてきた。

「あのね、無理はしなくていいんだからね。園田ちゃんが駄目なら他の子を誘うから」

「え? いえ、無理ってわけじゃ」

「もしかしたら言いにくいのかもしれないけど、彼氏ができたならこそっとでいいから教えて。こういうのには誘わないようにするから」

 どうやら東間さんはまだ私と安井さんのことを誤解しているらしい。

 確かに今回、乗り気だとは言いがたい。何もかも中途半端なままで婚活に挑むのはどうかと思えた。

 それに安井さんがどう思うか。前の時も馬鹿正直に打ち明けたらショックを受けていたようだし、またあんなふうに落ち込ませるのは辛い。安井さんとは付き合っているわけじゃないけど、それでも傷つけたくなかった。

「彼氏がいるとかじゃないんです。むしろ全然いないんですけど」

 私はすかさず答えた。東間さんの誘いを断ることには引け目もあったけど、今回はまだ無理だ。

「でも……その、すみません。気乗りしないって言うか」

「そっか。それなら仕方ないね」

 東間さんは軽く微笑むと、私が返したチラシを受け取った。

 それから口元に浮かんでいた微笑に、少しのいたずらっぽさを滲ませた。

「彼氏はいないけど、好きな人ができた、とか?」

 その言葉も、もちろん誤解だ。本当じゃない。

 だけどなぜか、てきめんに顔に出た。

「図星?」

 東間さんに覗き込まれた顔が、熱を持ったように熱くなる。

「ち、違いますよ。好きな人って言うか、元好きだった人みたいな感じで!」

「じゃあ復縁するってこと? 元カレと?」

「いえそうでもなくて! 何と言うか、つまりその――」

 図星でも何でもないのに、なぜ私の顔は赤くなるのか。

 そして東間さんは、そんな私を見てとりあえずのところは把握したというように、にんまりした。

「やっぱり近々ご飯でも食べに行こうか、園田ちゃん。よかったら詳しく聞かせてくれる?」


 黙秘権はあるんですか、なんて聞けなかった。

 あるわけないよね。逆の立場なら私だって根掘り葉掘りしてるところだ。

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