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ナインカウント  作者: 森崎緩
番外編
197/205

ボーイズアンドガールズ(石田隆宏編)

 浴衣の女の子に、背中越しに抱きつかれるのは率直に言って最高である。

「柔らかかったな……」

「ああ、すごく柔らかかった」

 俺と安井は頷き合った後、固く握手を交わし合った。

 古今東西卓球では決着こそつかなかったが、互いの健闘を称え、感謝を伝える握手だ。

「ありがとな、安井。ナイスファイトだっだぜ」

「こちらこそ。この結果はお前のお蔭だよ、石田」

「……結局、最後まで最低でしたね先輩がた」

 霧島が一人ぼやいていたが知ったこっちゃない。


 水入りで終わった決勝戦で、しかし俺達は勝利よりも素晴らしいものを得た。

 お互いに全力を尽くして戦い抜いた結果だ。まさか抱きついてまで止めに来るとは思わなかったが、これもまた役得というやつだろう。

 にしても浴衣に秘められたポテンシャルはすごい。俺も着ているからよくわかるが、生地自体は実に薄くてひらひらで、そいつをほっそい帯一本で留めているという無防備さだ。にもかかわらずこいつが意外と堅牢強固で、ちゃんと着られていると見えない。鎖骨すら見えない。たった布一枚、帯一本の無防備さと意外なガードの堅さのギャップがいい。それでいてうなじはちゃんと見えるところとかな。まさに神から賜りし奇跡の衣である。

 できれば卓球でも、激しいラリーを続けるうちに帯が緩んだり衿が崩れたりしてぽろっとはだけちゃう展開があればよかったんだが、そもそもそこまでラリーが続かなかったからな。その点は残念だった。

 むしろ無駄な動きの多い安井が着崩してたが、あいつがはだけたところで百害あって一利なしだ。

 やはりここは、うちのとびきり可愛い最愛の妻でなければな。


「そろそろお夕飯の時間ですし、お部屋に戻りませんか?」

 俺の妄想など露知らず、藍子が張り切って声をかけてきた。

 当然ながら全く着崩れていない浴衣姿の彼女は、俺と安井の卓球勝負が曖昧に終わったことを何よりほっとしているようだった。そして万が一にも同じお題で再戦などという事態にならないよう、内心焦りつつ促してきたに違いない。もちろん藍子ちゃんなので純粋にお腹ぺこぺこという可能性もかなりあるだろうが、それはそれで可愛いのでいい。

 背中にはまだ、さっきの感触が残ってる。

「次は前からでもいいな」

「え? 何がですか?」

「いや、独り言だ。部屋戻るか」

「はいっ」

 藍子はとてもいい笑顔でとてもいい返事をした。

 やっぱお腹ぺこぺこなだけかもしれない。

「そういえば準備してもらわなきゃいけないんでしたね」

 霧島夫人も時計を見て、思い出したようにそう言った。


 この旅館の食事は二食とも部屋食と決まっている。

 他の客もいるところでは気を遣うし、酒盛りでも始まったら余計落ち着かないし、霧島ベビーの胎教にも悪い。

 部屋食の宿を選んだのはそういう配慮もあってのことだが、そうなると料理の配膳をお願いしなくてはならないのでこちらも早めに戻って準備をする必要がある。


「ちょうどいい頃合いかもしれませんね。戻ったら配膳をお願いしましょう」

 霧島の言葉を合図に、俺達は熱戦を繰り広げた卓球台に背を向け、ゲームコーナーを後にする。

「あ、待って巡くん。衿崩れてるよ」

 そこで伊都ちゃんが安井を呼び止める。

 立ち止まった安井の正面に素早く回ったかと思うと、着崩れた襟元を丁寧に直してやっていた。

 されるがまま、棒立ちになっている安井の顔を横目に見て、俺は思う――カメラ持ってくりゃよかった。意外と素の表情してやがった。

「藍子、俺の襟も直してくれ」

 羨ましくなって、俺もねだってみた。

 そしたらうち藍子ちゃんは、屈託なくこう答えた。

「直すって、隆宏さんのは崩れてないですよ。ちゃんと着れてます!」

 ですよねー。

 ちょっとくらい派手に動いて、もっと着崩しとくのもアリだったかな。それも少し、後悔した。


 夕食は、俺達の部屋に六人で一堂に会して取ることにした。

 本来なら男女別れて各々の部屋で取るべきなんだろうが、そこは旅館側にお願いをして、融通を利かせてもらうことにした。幸い快く承諾してもらえたので、俺達も座卓を運び込むのを手伝ったりした。

 そして現在はめでたく六人で、二台並べた食卓を囲んでいる。割とカジュアルな印象の会席料理で、先付の後は向付から焼き物、鍋物までいっぺんに運ばれてきた。品目の方も海のもの山のもの織り交ぜられてて、焼き茄子豆腐にお造りに牛ロースステーキ、湯葉と山菜の炊き合わせに鱧鍋と盛りだくさんだ。


 当然、食いしん坊達は大喜びである。

「わーい、鱧鍋! すっごく楽しみにしてたんです!」

「ここの豆腐美味しい! 私好みのどっしり系!」

 特に温泉でも夕食に期待を寄せていたあの二人はこの喜びようだ。旅館の皆さんにも見せたくなるほどの素晴らしい食べっぷり。やっぱりぺこぺこだったんだな。

「うどんは、まだですかね……」

 麺類命の霧島は一人そわそわしていたが――こういう会席料理は主食が終盤に来るものなので、こればかりは仕方ない。締めのうどんまでお待ちいただくしかあるまい。

 俺は魚が食えたらそれでいい。そして夏にいただく鍋というのもいいものである。鱧はそれ自体は割と淡白な味わいなのに、鍋にするとこっくり深いだしになるから不思議なものだ。鱧のぷりぷりした食感と濃厚なだし汁を味わいつつ、ここにビールがあったら最高なんだがなと思う。

 思っただけだ。口にはしてない。

 だが、霧島夫人はしきりに気にするそぶりを見せた。

「すみません、皆さんにまで禁酒をお付き合いさせちゃって。飲んでくださっても構わないんですよ」

 妊娠してからというもの、霧島夫人はずっと酒を控えている。こうして皆で集まっても一人だけソフトドリンク、なんてこともよくあった。俺達には今みたいに『遠慮しなくていいですよ』と言ってくれるから、こっちも気を遣ったり遣わなかったりしてきた。

 ただ旅先ともなると話が違う。

「俺がいますから、大丈夫ですよ」

 霧島もそう言ってくる。


 何でも今回の旅行に当たり、霧島夫妻はかかりつけの医者と綿密な話し合いをしたのだそうだ。医者が言うには、経過は順調だから旅行自体は問題ないが、いざという時にはすぐ動けるよう準備だけはしておいた方がいい、とのことだった。

 山の中の旅館ともなれば救急車もタクシーも出前迅速とはいかないだろうし、万が一の時にはすぐ車を出せるようにした方がいい。幸い、霧島は車こそないが免許を持っているから――というのが夫妻の主張だった。

 とは言え慣れない他人の車じゃ運転もしにくかろう。『いざ』って時なら精神的にも切羽詰まってるだろうから尚更だ。

 そういうことならと俺と藍子と安井夫妻とで話をして、今回は酒を飲まないことに決めた。


「そっちこそ気を遣うなよ。何もないに越したことないが、いざって時は人手多い方がいいだろ」

 俺が言うと、安井もすかさず頷く。

「これだけいっぱい料理食べたら酒が入る余地もないよ。気にしないで」

「ありがとうございます、先輩がた」

 深々と頭を下げる霧島に、いつもの生意気さは窺えない。

 そりゃそうだ、もうじき父親なんだもんな。いつまでも反抗期のまま、落ち着きないままじゃいられないよな。温泉で女湯に聞き耳を立てたり、卓球にかこつけて嫁自慢しまくったりもしてられない――って、それは俺と安井か。霧島は俺達よりかはまあまあ落ち着いてる。

 しかし何となく、しみじみ感慨深くなったりもする。

「もうすぐなんだねえ、予定日。すごく楽しみになってきちゃった」

 くるりと巻いた湯葉を堪能する伊都ちゃんが呟けば、

「ゆきのさんのお腹、赤ちゃんがぽこぽこ蹴るんですよ」

 柔らかそうなステーキを箸でつまんだ藍子が、思い出したように目を輝かせる。

 まあその話は知ってたがな。何せ女湯の会話、筒抜けでしたから。聞き耳立ててましたから。

「びっくりしますよ、赤ちゃんの脚力。思ったよりかなり力強く蹴ってくるから、元気なんだなあって、よそのお子さんなのにいとおしくなります」

 そう語る藍子が浮かべた優しい微笑みに、こっちもつい、未来のことを考えたくなる。


 藍子が母親になったら、どんなふうになるんだろう。

 それはもう優しくて明るくて何より超可愛い母親に違いない。いつもにこにこして、子供と一緒になってはしゃいで、でも真面目な子らしく叱る時はびしっと叱ったりして。俺のことも『お父さん』とか『パパ』とか呼んだりすんのかな。それはそれでいいな。子供はできれば藍子似の可愛い女の子がいいな――想像するだけならタダだし自由だ。でもってものすごく幸せな想像だ。

 まだ先の話かなとも思いつつ、俺と藍子だって、霧島夫妻のような幸せがすぐにでも現実になるようなところにいるんだよな。そのことにもまた、しみじみする。


「石田先輩も安井先輩も、同じタイミングで黙るのやめてください」

 その霧島のツッコミで我に返ると、ちょうど安井も箸を止めていて、はっと面を上げたところだった。

 どうやら俺達はよく似た想像に耽っていたらしい。

「何考えてたのか、大体わかりますよ」

 呆れたように笑う今の霧島は、いつもの生意気な後輩の顔をしている。

 すると俺も若干ほっとしたりして、いつものように弄りたくなる。

「人の心を勝手に覗いたりして、霧島は全くむっつり野郎だな」

「お前、父親になるんだから覗き魔なんて卒業しろよ」

 続いて安井が笑うと、霧島はわざとらしく溜息をついてみせた。

「俺が覗いてるんじゃなくて、先輩がたが露出してるんですからね」

 マジか、そんなにだだ漏れか。そこまででもないよな?

 ちらりと藍子の方を窺い見たら、彼女は霧島の言葉に恥ずかしそうにしながらこう言った。

「だ、大丈夫ですよ。露出とかしてないですから……多分」

 多分って付け足したってことは、藍子にも俺の考えてることがわかったんだろうな。

 それか、もしかしたら、藍子も俺と同じようなことを考えた、ってことかもしれない。


 いつの間にか俺も、子供のいる未来ってのが手の届くところに来ちゃってるんだよな。

 もちろん実際に手に入るかどうかなんて誰にもわからん。案外と子供のいないまま夫婦二人きりで暮らしていくことになるかもしれないし、俺はそれならそれでもいいと思ってる。俺は藍子がいてくれたら本当に幸せで、それ以上は何にも望んじゃいない。

 ただ、いつぞやよりは心に余裕がある。

 霧島が結婚すると聞かされた時は『くそ、羨ましいなこの野郎』って気持ちが若干――いや、割とものすごくあったりしたのだが、今は先を越されても羨ましさこそあれど、この野郎、なんて気持ちは微塵も起こらない。

 それだけ俺も大人になったってことだろう。

 俺だっていつまでも女湯に聞き耳立てたり卓球で愛妻家アピールしたり浴衣について熱く語るだけの男じゃない。三十過ぎたってまだまだ伸びしろはあるんだぜってところを見せてやりたい。何なら今すぐにでも父親になったっていいし、愛妻家道を更に精進して免許皆伝するまで上り詰めたっていい。仕事も頑張る、藍子の為ならいくらでも。とにかく結婚して、幸せで、だからこそ変わったんだってところを見せてやりたい。

 でもってそんな俺を一番近くで見ている藍子に、『惚れ直しました』って言われたい。

 結局はそこか、って霧島にも安井にも突っ込まれそうだが。


 お造りや鱧鍋をめいっぱい堪能した後、各々の料理があらかた片づいた頃合いで、霧島お待ちかねのうどんが運ばれてきた。

「やっぱり締めは麺類じゃないとですね」

 そう言ってめちゃくちゃ嬉しそうに、霧島はうどんを啜る。

 そんな旦那を霧島夫人がにこにこと温かい眼差しで眺めている。

 生まれてくる子供もびっくりするだろうな。うちの親父はどんだけ麺が好きなのかと。それとも親子で一緒に麺啜るようになるのか。

「隆宏さんはどうですか?」

 藍子が不意に尋ねてきて、どきっとする。

「どうって、何が」

「うどんです。コシがあって美味しいですよ、どうですか?」

 どうやら藍子は俺にうどんを食べないのかと勧めたつもりだったらしい。

 びっくりした。違うことを聞かれたのかと思った。危うく、うちは親子で魚つつくかもな、なんて答えるところだった。

「喉越しもすごくいいんです。つるんと入ってく感じで」

 一生懸命にうどんのセールスポイントを語りつつ、藍子は自分でもうどんを食べる。意外と小さな口で可愛くうどんを啜り、ものすごく美味しそうに顔をほころばせる。その顔を見ただけでこっちがとろけそうになるから困る。いや、ちっとも困らない。どっちだ。両方だ。


 藍子が可愛くて困ることなんてない。でも俺の顔にはしっかり露出しているだろうから、そこは困る。俺が気にしなくても、目ざとい奴らが黙ってない。

 でもマジで可愛いんだから仕方ない。

 しかも湯上がりだぜ。浴衣だぜ。あのひらっひらした薄い生地一枚であのもちもちした身体を無防備に包んで、帯たった一本で結んでるんだぜ。長い髪をポニテにしてうなじ見せもばっちりだ。そんな藍子がほんのり赤い唇でうどんを啜っている。これがぐっと来なくて何だというのだ。


「あ……あの、そんなにじっと見つめられると、食べづらいです……」

 誰よりも先に藍子自身が、俺の視線に気づいて頬を染める。

 それでも目を逸らせない俺に、

「石田先輩は本当に変わってないですよね。いつまでも思春期って感じで」

「まさに今でも『思考の九割が女子』だな。俺もここまで酷くないぞ」

 霧島と安井が好き勝手なことを言いやがる。

 しかし俺が変わってないと思うのは大きな間違いだ。俺がこの先、父親ってスキルを手に入れるか、それとも愛妻家道を究めるか、あるいは両方か――そんなことは俺にもわからないが、まだ伸びしろはあるんだぜってところを見せてやる。

 何せ藍子への愛は日毎に増し、今も日々増幅中だ。

 時には思春期のように激しく、時には年上の夫らしく穏やかに、俺はこの先も彼女を愛していくだろう。

「あの……」

 藍子がいよいよ真っ赤になって、うろうろと目を泳がせ始める。

 だから俺も、率直に今の胸のうちを明かした。

「浴衣が普段着になる法律ができたらいいのにな」

 すかさず霧島が呆れたように俺を見る。

「何を馬鹿なこと言ってるんですか」

 しかし安井はかぶりを振って、

「いや、俺は賛成する。浴衣はもっと広く着られるべきだ」

「ほら見ろ、安井も言ってんぞ」

 俺はここぞとばかりに畳みかける。

「まあ、霧島は二の腕見えない浴衣なんて趣味じゃないだろうがな」

「なっ、違いますよ! 先輩がたと一緒にしないで貰えます!?」

「ああそうか、二の腕が好きなんだっけ。お前も大概だな霧島」

「浴衣の敵め。俺がノースリーブなんて文化を滅ぼしてやるぜ!」

「滅びるのは困ります! 別に浴衣が駄目とは言ってませんし!」

「俺はどっちも好きだ。ってかスパッツとレギンスが滅びなきゃいい」

 そんな俺達の馬鹿馬鹿しいやり取りを、藍子は照れながら、霧島夫人は口元に手を当て、伊都ちゃんは声を立てて、それぞれ笑いながら聞いている。


 俺は藍子が笑ってたらそれでいい。

 多分、霧島と安井も似たようなことを、同じタイミングで思ってるはずだ。

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