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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
191/205

テンカウントのその先で(3)

 数日後、俺が愛妻弁当携えて午後三時の社食へ出向けば、

「――石田さんは本当、そういうの好きだよね」

「すみません、伊都さん。先輩はこういう人なんです」

「なんで霧島が謝んだよ……」

 他人の少ない社員食堂に何の偶然か、見知った顔が揃っていた。

 伊都と霧島、それに石田だ。


 三人は同じテーブルを囲んで何やら楽しげに話をしていたが、俺が入っていくなり、まず伊都が気づいて手を振ってくれた。

「あっ、巡くん! すごい、皆揃ってる!」

 彼女と向かい合わせに座っていた霧島と石田が、その言葉でこちらを振り返る。

 霧島はわざとらしい会釈を、石田はにやにや笑いを俺に寄越してきた。

「何だよ、三人で一緒に昼休みか?」

 俺は皆のいるテーブルに近づき、伊都の隣の席に座る。

「仕事立て込んでお昼遅くなったら、たまたま営業課のお二人さんがいたの」

 今日は忙しかったようだが、俺に向けられる彼女の笑顔はいつものように明るい。

「俺らもせっかくなら、女の子と飯食う方がいいしな。な、霧島」

 石田が水を向けると、霧島は何とも言えない微妙な顔になる。

「そういう言い方しちゃ駄目ですよ、仮にも旦那さんの前で」

「仮にもって何だ霧島」

 仮どころか正真正銘本物の旦那様だぞ俺は。

 確かに、俺を差し置いて何をちゃっかりうちの妻と同席しているのか、などと思わなかったわけではない。だが石田や霧島と伊都は旧知の間柄だし、偶然一緒の休憩になって同席するくらいのことはなくもないだろう。ここでむかついていると知られるとまた連中がうるさいので、なるべく顔に出さないようにしておく。


 気がつけば揃って既婚者となった俺達は、それぞれに手作り弁当を持参していた。

 石田の弁当にはいつものように焼き魚が入っているし、霧島の弁当は彩りのいいミートボールパスタだ。俺と伊都は当然同じおかずで、本日は焼き豆腐入りすき焼き弁当だった。

 いそいそと蓋を開けた俺は、先に来ていた皆に倣って幸せな思いで食べ始める。今日も美味い。


「大体、石田先輩は伊都さんに駄目出しされてたとこじゃないですか」

 霧島はパスタをフォークに巻きつけつつ、自分の上司を眼鏡越しに睨む。

 石田は全く意に介さず、魚をつつきながら俺を見た。

「聞いたぜ安井。お前、アレやったんだってな」

 また唐突に話を振ってくる。来たばかりの俺にいきなり言われても、何のことやらだ。

「あれって何だよ」

「新婚さんのお約束だよ」

 言われて俺はぎょっとした。箸でつまんだ焼き豆腐を危うく取り落とすところだった。

 思わず隣を見れば、視線に気づいた伊都がつんと澄ましてみせる。

「今、石田さんにお願いしてたんだ。うちの巡くんが真似したがるから、変なこと教えないでって。夫の教育によくないですって」

 まさか、話したのか。あんな話を伊都が石田達にするとは驚きだった。何せ彼女は無類の恥ずかしがり屋、よその男にそういう案件を堂々と打ち明けられるとは思えない。

 それに、ありのまま話したにしては石田の反応がおかしいような――。

 訝しがる俺に、

「お前、いくら新婚さんだからって自分から裏声使ってやるのはどうかと思うぜ」

 石田がけたけた笑い、霧島はあからさまにげんなりする。

「安井先輩が裏声でしな作ってるとこなんて、頼まれても見たくないですね」

「俺の話かよ!」

「え、先輩がやったんですよね? って伊都さんが」

「……ああ、確かにやったけど」

 伊都め、自分の話は恥ずかしいからと俺の話だけ喋ったな。


 ちらりと目をやれば彼女はしてやったりという顔で笑い返してきた。

 可愛いので、まあ許す。嘘でもないし。

 俺だってそういう話を惚気て、伊都の可愛さを外にアピールしたいとは思っていない。そういうところは俺の独り占めでいい。


 もっとも笑われっ放しも癪なので、俺はすかさず言い返した。

「それを言うなら石田だってやっただろ」

 すると石田は笑うのをやめ、両目をいつも以上に吊り上げた。

「俺が? そんなんいつやった?」

「こないだやっただろ。俺の前で」

 昼休みの社員食堂で。まさか伊都より先に石田のアレを聞かされるとは思わなかった。気色悪さではあいつの方が上だ。

「ああ、そういやそうだな。安井の前で披露してやったんだった」

 石田も思い出したのか、腑に落ちたように頷いた。

 途端、伊都と霧島が揃って好奇心に目を光らせる。

「ちょっ、巡くん? 何それ、妻としては聞き捨てならないんだけど」

「えっ……お二人とも何やってんですか、正直ドン引きなんですが」

「待て待て妙な誤解をするな! どう考えても違うだろ!」

 新婚なのに妻に浮気疑惑をかけられるのも、後輩に白い目で見られるのもごめんだ。俺が慌てて否定するのをよそに、石田は豪快に笑い飛ばした。

「何だよお前ら、そんなに俺のアレが見たいってか? しょうがねえな、今ここで再演してもいいぜ」

「勘弁してください!」

 霧島には即答で拒否されていた。それはそうだ。

 俺だって正直聞きたくもなかった。例を挙げるにしてももうちょいダメージの少ないやり方があるだろうに。

「伊都さん、先輩がたって昔からこうなんですか? 昼間っからこんな話ばかり……」

 さも自分は真っ当だと言いたげに、霧島が伊都に尋ねた。とんだ裏切り者である。

 伊都はくすくす笑っている。

「そうだよ。巡くんも石田さんも、ずっとこんな感じで変わってないよ」

「おいおい、そこはサービスで上手いこと持ち上げといてくれよ」

「私、嘘はつくの得意じゃないからなあ」

 石田に突っ込まれても楽しそうに拒んでいる。俺はその横顔に懐かしさを覚えて、思わずじっと見入った。


 確かに俺も石田も、中身の方はあまり変わっていないのかもしれない。

 伊都も、ものすごく変わったというところはないと思う。最近になってまた髪を短く切ったから、むしろ一時期より昔の彼女に近づいたようにさえ感じる。昔から彼女は明るくて、同期の飲み会で俺と石田が馬鹿話をすると楽しそうによく笑ってくれた。あの頃は彼女の笑顔の価値を何もわかっていなくて、今思うと随分もったいないことをしてきたものだ。

 でも彼女は今、俺の隣にいる。

 左手の薬指に指輪をして、石田や霧島と俺の話をして笑っている。見るからに幸せそうだ。そして、俺も同じだ。

 それだけでも俺と伊都は、昔と比べたら変わった――成長したと、十分に言えるのではないだろうか。

 あとは一応、おまけで石田も。いい意味では変わったかもしれないな。


「そういえば、伊都とも話してたんだけどな」

 俺は話を逸らそうと、石田と霧島に対して切り出す。

「今度、皆で温泉でも行かないか。飲み会の延長ってノリで」

「皆って、六人でってことか?」

 石田の問いに、俺より早く伊都が答える。

「そう。私とゆきのさんと藍子ちゃんと、あと皆さんで」

「あ、こら、完全に俺らおまけみたいな言い方しやがって」

「そんなことないよ。巡くんは石田さんと霧島さんにこそ一緒に来て欲しいって思ってるよ」

 そこまでは言っていない。

 言ってはいないが、まあ、近いことは思っている。こいつらと小旅行というのも案外楽しいんじゃないか、とか。

「いいかもしれないですね」

 霧島がフォークでミートボールを拾い上げながら言った。

「実はうちの妻も、今のうちに皆で出かけておきたいって言ってるんです。いざ生まれたら遊びに行く暇もないだろうからって」

 こうして弁当を持たせている辺り、近頃の霧島夫人はかなり復調しているようだ。そしてその言葉通り、お腹の中にいる子供がめでたく誕生したら、霧島夫妻はしばらくの間とても忙しくなることだろう。皆で遊びに出かけるなら今しかないのかもしれない。

「藍子もこのメンツなら行きたいって言うんじゃねえかな」

 石田がそう言うなり、携帯電話を弄ってメールを送ったようだ。

 すぐに返信があったらしく、画面を眺めてだらしなく緩む顔にメールの相手が窺い知れる。

「『是非行きたいです!』っつってるぜ、うちのかわいこちゃんが」

「あ、よかった! じゃあ決まりだね」

 石田の惚気めいた言葉もあっさり受け止めて、伊都が俺に笑いかけてきた。

「巡くん、皆で旅行できそうだね!」

 何だかすごく楽しそうな、あっけらかんとした全開の笑顔だ。俺はこの顔が好きなんだって見る度に実感する。

 本当に、伊都でよかった。

「温泉ってどこの行くのか決めてんのか?」

「いや、全く。でも霧島の奥さんいるし、近場がいいだろ」

「そうですね、長旅は負担になりますし。あと泉質も気になります」

「安産の湯とかないのかな。いろいろ調べてみるね!」


 俺達は弁当を食べながら、どこの温泉に行こうかととりとめもなく話し合った。

 せっかくだから露天風呂からの景色も楽しみたいよな、お酒とご飯は美味しいところがいいです、できればメニューに美味しいお豆腐があるといいな、混浴は候補にないのか、などなど――。


 そんなふうに盛り上がっていると、

「園田ちゃーん!」

 社員食堂の入り口に、東間さんがふと現れた。急ぎの用事なのか、こちらに向かって手を振っている。

「休憩中ごめん、ちょっといい?」

「はい、今行きます!」

 伊都はすぐさま立ち上がり、すばしっこい足取りで東間さんの元へ向かう。

 東間さんはそんな彼女の肩越しに俺達のいるテーブルを見て、何かに気づいたように微笑んだ。そしてすっ飛んでいった伊都と、楽しそうに会話を始める。

「ご夫婦仲良くお昼のところをお邪魔しちゃってごめんね、園田ちゃん!」

「い、いや、邪魔とかじゃないですよ」

「でもお二人で肩並べてご飯食べてるんだもの、声かけちゃって悪かったかなって」

「別に二人きりとかじゃないんで! 大丈夫です!」

 先輩に思いっきり冷やかされて、慌てふためく伊都が可愛い。

 俺はその姿をテーブルからこっそり見守り、

「おい見ろよ霧島。安井の奴、嫁さんガン見してんぞ」

「めちゃくちゃ目で追ってましたね……しかもうっすら微笑んでますし」

 こちらでは石田と霧島が、筒抜けのひそひそ話を展開している。

 俺は視線を手前の二人に戻し、思いきり睨みつけてやった。

「自分の嫁をガン見して何が悪いんだよ」

「いや、落ち着いてるように見えて、実は結構浮かれてんだな」

 石田がげらげらと声を立てて笑う。

「悪い、こないだの『落ち着いてる』っての撤回するわ。すっかり骨抜きだな安井」

「意外と万年思春期ですよね、安井先輩」

 霧島まで笑いを堪えてそんなことを言うので、俺は反論せずにはいられない。

「うるさい、万年思春期はお前らもだろ! 始終嫁さんにでれでれしやがって!」

「いや俺はお前らほど酷くねえよ。歳相応に大人の男だ」

「俺だって先輩がたとは一緒にされたくないです。俺は節度を知ってますし」


 よく言う。

 お前らだって嫁さんに骨抜きにされているのは同じだろうに。そして同じ状況になったら、俺みたいにしっかり目で追いかけるに決まっている。


「このメンバーで温泉なんて、意地でも混浴探し出しそうで心配だよ……」

「お前らこそ、有料チャンネル見ようとしたら駄目だからな!」

「それ以前に先輩がた、枕投げしようとか言わないでくださいよ。迷惑ですから」

 いや、枕投げはやりそうな気がする。伊都が。

 全く、このメンツだと本気で修学旅行みたいになりそうだな。さぞかし賑やかで思い出深い旅行になることだろう。何だかんだでちょっと、楽しみにし始めている俺がいる。

「なになに、温泉の話?」

 東間さんの用件が済んで、駆け足で戻ってきた伊都もいい笑顔で食いついてくる。

「ね、温泉と言えば卓球じゃない? 卓球したいよね、皆で!」

「卓球か。もうずっとやってないから、できるかな」

「普通の卓球じゃつまんねえよな。古今東西卓球にしようぜ!」

「うわ、すごく嫌な予感が……先輩がた、卑怯なことしないでくださいよ」

 こうやって行く前から盛り上がってる、このテンションがまさに思春期の少年どもだ。あ、少女もいるか。

 ともかく、こんな俺達が結婚して少し経ったくらいで、簡単に落ち着けるはずがない。


 温泉話で散々盛り上がりつつ、俺達の昼休みはあっさり過ぎていき――。

 弁当を食べ終えた石田と霧島は、まるで競い合うように慌ただしく午後の仕事へ戻っていった。営業課はあちこち走り回るのが身上だから、午後からも慌ただしいことだろう。

 もちろん俺と伊都だって暇ではない。美味い弁当を平らげた後は、それぞれの部署に速やかに戻らなくてはならない。

 一旦ロッカールームに立ち寄って弁当箱をしまい、そこから二人で二階の総務部へ下りる。

「今日は早く帰りたいな」

「そうだね。お夕飯、何にしようかな」

 こんな会話を交わしながら、堂々と肩を並べて歩けるのは、結婚した者同士の特権かもしれない。

 社内恋愛をしていた頃はこうはいかなかった。

 特に初めて付き合ったばかりの頃は、彼女が必要以上に人目を気にしていて、社内では他愛ない会話すらままならなかった。

 今は人目を憚る必要もないし、当たり前のように帰ってからの話もできる。夫婦であることを隠す必要なんて何もないからだ。

「帰ったら温泉についてじっくり調べるか」

「うん。まずは安産の湯を探し当てないと!」

「そんなのあるのか? とりあえず、飯の美味いとこがいい」

「あとお豆腐とね! お魚と、麺類と、甘いものもあるといいなあ」

 俺の隣で伊都が笑う。


 いつだったか彼女が言っていたように、俺達はナインカウントからテンカウントに辿り着き、そして無事に超えることができた。その点はもはや誰の目から見ても疑いようはないだろう。物語で言えば『めでたしめでたし』の先に俺達はいる。

 この先に待っているのは平凡かもしれないが、きっとこの上なく幸せな夫婦としての日々だ。


「じゃあ、またね」

 広報課のドアの前、一旦足を止めた伊都が俺に向かって手を振った。

「午後のお仕事も頑張ってね」

「ありがとう。お前もな」

「うん、頑張る!」

「もし帰りの時間が合ったら一緒に帰ろう」

 俺がそう告げると彼女はとびきりの笑顔で頷き、広報課のドアを開けて中に入る。

「あっ、園田ちゃん。ご夫婦で一緒に戻ってきたんだね、仲いいんだから!」

「わあ、東間さん!? 聞いてたんですか!」

 すぐに広報課からはそんな会話が漏れ聞こえてきたが――俺はそれを、微笑ましく聞いた。

 何かというと冷やかされるのも新婚さんならでは、かな。しかし悪い気は全くしない。

 緩み切った顔を引き締める努力だけはしながら、俺も人事課のドアを開けた。


 可愛い新妻に頑張ってねと言われたことだし、午後の仕事も頑張るか。

 そしてなるべく早く帰る。

 テンカウントの先の幸せを、今日も思いきり味わってやろう。

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