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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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テンカウントのその先で(2)

 その日の仕事は八時過ぎに終わった。

 今日は伊都の方が先に上がっていて、帰るよと電話をかけたらもう夕飯の支度も済んでいるそうだ。

「夕飯、何?」

『豆腐丼! 朝話してたら、食べたいなって思って』

「おお、楽しみだ」


 俺もちょうど食べたいと思っていたところだった。昼の弁当も美味かったけどこってり味だったし、夜はあっさりめがいい。

 ――と、そこで昼間のことを思い出した俺の脳裏に、ある考えがひらめいた。


 通話を終えずに尋ねてみる。

「ところで伊都、風呂はどうしてる?」

『えっ、どうって?』

 やぶからぼうの質問に、当然だが彼女は怪訝そうにしていた。

「お前はもう済ませたんだろ? お湯、取っといてあるかと思って」

『あ、私はシャワーで済ませちゃったんだ。今日は暖かかったし』

 五月ともなれば気温も上がって、玄関近くのバスルームでもそれほど寒さを感じなくなる。二人でのんびりできる休日はともかく、仕事のある平日は簡単にシャワーで済ませてしまうことも多かった。

 だが、今日は風呂がいい。

『巡くんが入りたいなら、いい頃合いでお湯張っとこうか?』

 ちょうど伊都もそう言ってくれたので、俺はもちろん即答した。

「頼むよ」

『任せて! じゃあ、気をつけて帰ってきてね』

 短い通話ではあるが、こんなやり取りにも無性に幸せを感じてしまう。

 石田は俺を落ち着いているなどと言うが、今、電話を切った直後の顔を見られていたら同じように言っただろうか。携帯電話をしまいながら、俺は幸せを噛み締めてにやにやしていた。


 もっともこれは結婚したから、というわけではない。

 同棲していた頃から、彼女が先に帰っている時はこうして欠かさず連絡をしていたし、その度に伊都が俺の帰りを待っててくれることに幸せを感じていた。新婚気分どころか、未だ同棲気分を引きずっているのが俺である。

 これでも、落ち着いていると言えるのだろうか。

 俺は首を傾げつつ、愛車に乗って夜の街並みを走り出す。まだそこかしこに明かりが点いているビル街を抜け、暖かな部屋を目指して家路を辿る。

 そして帰ったら、例の台詞をお願いしてみよう。

 果たして彼女の反応はどうだろう。意外とノリノリで引き受けてくれそうな気もするし、意外と冷やかに『これだから男子は』などという顔をするのかもしれない。あるいはいつもの彼女らしく、ぞくぞくするほど可愛く恥じらってみせるのかもしれない。

 そんな想像を巡らせていたら、帰り道のペダルが妙に軽かった。


 アパートまではいつもより少し速めのタイムで到着した。

 外階段をロードバイク担いで駆け上がり、勢い込んで玄関を開ければ、

「お帰りなさーい!」

 俺がただいまを言うより早く、伊都が玄関に顔を出す。

 シャワーを浴びた後だけあって、揺れる短い髪はまだ少しだけ湿り気を含んでいた。化粧を落とした顔でとびきり明るく笑んで、彼女は俺の為に室内へ続く戸を開けてくれる。自転車を家の中にしまうからだ。

「ああ、ただいま」

 俺もひとまず返事をして、靴を脱いでから自転車を部屋に運び込む。

 そしてスタンドにかけて固定すれば、伊都もひよこみたいに追い駆けてきた。一緒にほんのりとシャンプーのいい香りもついてきて、くらっと来た。

「お風呂、ばっちり沸いてるよ。すぐ入る?」

 声をかけてきた伊都が得意そうにしているのがおかしくて、可愛い。よほどいいタイミングで入れてくれたのだろうか。

 俺もいい気分になり、しかしここで聞き返してみる。

「夕飯もできてるんだよな?」

 確かめた途端、伊都はものすごく拍子抜けしたような、不思議そうな顔になった。

「え、できてるけど……ご飯が先がよかった?」

「いや、そうじゃない」

「お風呂が先だよね? 今がベストタイミングだし、入るべきだよ!」

「そうじゃないんだ、伊都。ちょっと惜しい」

 彼女の台詞は俺の求めるものに近いようで、ちょっと違う。

 そこは、それこそ新婚さんらしい言い方をして欲しい。

「どういうこと? 惜しいって何が?」

 伊都が目を瞬かせたので、俺は率直に打ち明けることにした。

「今夜は、新婚さんっぽく言ってみて欲しいんだ」

「んん? 何を?」

「さっきの台詞をだよ」

「どれのことだか、まずわからないんだけど……」

 どうやら彼女は俺の言わんとするところが全くぴんと来ないらしい。

 それならと、もっと具体的に説明してみる。

「よくあるだろ、新婚さんのお約束」

 俺の言葉に伊都はしきりに目をぱちぱちさせていたが、

「『ご飯にする? お風呂にする? それともわ・た・し?』だよ」

 仕方なく全部口にしてみると、ようやく納得した表情になる。

「ああ、それかあ。ってか巡くんが全部言っちゃったね」

「しかもちょっと裏声でな……」

「可愛かったよ、巡くん」

「俺が可愛くてどうする!」


 なんで俺が裏声使って世にも気色悪い謎の新妻を演じなくてはならないのか!

 求めているのはあくまでも、俺の可愛い妻のより可愛い姿だ。

 というわけで、仕切り直すことにする。


「今の台詞を、伊都に言ってみて欲しいんだ」

 改めて要求すれば、伊都はそれはそれでわからないという顔つきになる。

「なんで?」

「聞きたいからだ。新婚さんの醍醐味みたいなものだろ」

「そんな醍醐味聞いたことないよ。そりゃベタではあるけど」

「ベタということはつまりメジャーだってことだろ、全世界的に」

「世界はどうかなあ……さすがにどこの新婚さんもやってるってほどじゃないよ」

「いや、やってる。夫婦で楽しむことだから表沙汰にならないだけだ」

 俺が力説すると伊都はどことなく訳知り顔になって、

「石田さん家では、もしかしたらやってるのかもしれないね」

 なんてことを言う。

 しかしその予測は外れだ。

「石田はまだやってないそうだ」

「あ、石田さんが発端ってとこは当たりなんだね」

 腑に落ちた様子の伊都がそこで冷やかすように微笑んだ。

「けど石田さんみたいな人がやってないなら、メジャーでも全世界的でもないんじゃない?」

 彼女の中の石田評が全くよくわかるお言葉である。

 劣勢と見て、俺はとにかくごり押しをする作戦に転じた。

「メジャーじゃなくてもいい、お前に言って欲しいんだ。お前じゃなきゃ駄目なんだ」

 誠心誠意を込めての懇願、これしかあるまい。


 俺は心からあの台詞を伊都に言って欲しいと思っている。

 他の誰でも代わりにはならない。伊都でなければいけないんだ。その気持ちはまさに純粋そのもの、真摯で一途な俺の本心だ――まあこの本心自体が下心そのものだという事実もなくはないが、さておき。


「頼む、俺の為だと思って。お前の声で是非とも聞きたいんだ」

「私は別に、言いたくもないんだけど……」

 伊都はそこで恥ずかしそうに苦笑する。

「そういうのって、演出されてもいまいち乗れなくない?」

「心配しなくていい、俺は乗れる」

「それに何か、わざとらしくないかなって」

「気にしなくてもいい。伊都なら絶対に可愛い」

 俺が力説したからというより、引き下がる意思のないことを察したかもしれない。伊都はしばらく考え込んだ後、困ったように笑ってみせた。

「しょうがないなあ……そこまで言うなら」

「やった! ありがとう伊都、愛してるよ。お前はやっぱり最高の妻だ」

「こんなことで最高の称号を賜りましても微妙であります」

 伊都は一瞬だけ呆れたような目を向けてきたが、その後でふうと息をつき、ちらりと俺を見た。


 少しだけ俯き加減で、俺を上目遣いに見て、頬は恥じらいからかほんのりとだけ赤く、唇は照れ隠しなのかちょっと尖っている。パジャマ代わりにしているシンプルなワンピースの前でもじもじと手を組みながら、もう一度溜息をつく。


 そして、唇を開いた。

「ご……ご飯にする? お風呂にする? それとも……」

 最後の言葉をためらうところは、ものすごく彼女らしいと思った。

「――……私、にする?」

 こわごわと、まるで『この選択肢を選ばれたら困るな』という体で言い添えてくる慎ましさも、彼女らしかった。

 何より言い終えると伊都はぱっと赤くなって、両手を頬に当てながら言った。

「ああ、こういうのやっぱり柄じゃないよ! もう言わないからね!」

 そんなのもったいないにも程がある。途轍もなく可愛かったのに。

「伊都……」

 俺は彼女の肩に手を置き、赤い顔の彼女から上目遣いの眼差しを貰う。

「な、何?」

 聞き返されて、俺は先程の問いから答えを選択する。

「一緒にお風呂に入ろう、俺と」

「そんな選択肢さっきの三択になかったよ!?」

「二番と三番の合わせ技だ。お風呂と伊都がいい」

「何かずるい!」

 ずるくない。俺は提示された選択肢の中から最善のものを選び取っただけだ。

 そもそもあの台詞は、新妻から夫への選択を委ねるものではないか。俺はその選択権を粛々と行使したまでのことだ。仮に全部俺が言わせた台詞だとしても、である。

「じゃあ行こうか、伊都。今がベストのタイミングだったよな?」

「や、待って、私もうシャワー浴びてるんだけど……」

「湯船に浸からないと疲れ取れないだろ、ほら」

 かくして俺は今夜、まんまと彼女をバスルームへ連れ込むことに成功した。新婚さん万歳。


 風呂から上がった後、すっかり遅くなってしまった夕飯を二人で取った。

「結局、乗せられたのは私の方だったなあ……」

 伊都がどこか恨めしげに呟き、丼の中の豆腐を崩す。

 二度目の湯上がりで肌はすっかり赤らみ、瞳もうるうるしている。短い髪の先が少しだけ濡れていて、頬や口元に張りついているのが色っぽい。

「可愛かったよ、伊都。最高だった」

 俺が誉めると、彼女はレンゲごと飲み込みそうな大きな口で豆腐丼を食べる。いつも通り、むしろ身体を動かした後だけにいつも以上の美味さのはずだったが、食べた後も唇を尖らせていた。

「大体、結婚してからもう四ヶ月だよ。新婚さんとかさあ……」

「お互いに『新婚はもういいか』ってなるまで堪能するのが新婚期間だ、って石田は言ってたよ」

 新婚でいたければ、好きなだけいればいい。そうも言ってたな。

 途端に伊都は拗ねていたのも忘れて、おかしそうに吹き出した。

「何それ、石田さんらしいね」

「全くだ。そういう話を真昼の社員食堂で、堂々とするんだからな」

「巡くんもでしょ?」

「まあ、俺もちょっとは、したかもしれない」

 石田ほどではないが。


 そして俺も豆腐丼を頬張りつつ、程よく疲れた頭で昼間の会話を再生してみる。

 同棲もして、結婚もして、伊都の言う通り四ヶ月が過ぎてしまったが、俺達はある意味相変わらずだ。こんなふうに時々ふざけあって、一緒に風呂に入るだけでものすごく浮かれたりして、そういうのが本当に楽しくて、幸せで。

 むしろ、いつになったら落ち着けるのかわからないくらいだ。

 石田の基準を当てにしてしまってもいいなら、落ち着く必要すらないのかもしれないが。


「あいつ、新婚なのに俺が妙に落ち着いてるって言うんだ」

 その話を伊都にもしたら、彼女はからかうようにくすくす笑った。

「そんなこと全然ないよね。巡くん、毎日大はしゃぎしてるのに」

「外では出してないだけかもな」

 と言うより、石田が惜しみなく出しすぎなのではないかという気がしなくもない。霧島の話では、営業課での石田の浮かれぶりは『日刊石田惚気新聞』と形容するのが相応しいほどだそうだ。やっぱりあいつは何年経ってもあんな調子だろうな、と思う。

 俺はどうだろう。長きにわたる同棲期間を経ても伊都の可愛さは色褪せることなく、むしろ日毎に磨きがかかっている。こうして家にいる時、二人きりの時だけは大はしゃぎしてしまうのも、もうしばらく――もしかしたらずっと続いてしまいそうな気がしてならない。

 そもそも落ち着けるのなら、同棲中にしっかり落ち着いていただろうしな。

「私も、巡くんにはしゃいでもらえるのは嬉しいな」

 伊都が、ぽつりとそう言った。

「私だけが幸せじゃ、ちょっと寂しいもんね。一緒に幸せなのがいいよ」

 それで俺は、食卓を挟んで向かい合う彼女の姿を改めて眺めた。豆腐丼を美味しそうに口に運ぶその顔は、言葉通り確かに幸せそうだ。

 伊都は、果たして落ち着いていただろうか。

 その可愛さも明るさも昔から何一つ変わってなくて、むしろ結婚してから一層可愛く、明るくなったように思える彼女は――。

「そうか、伊都も結構はしゃいじゃってるんだな」

 腑に落ちた俺が笑うと、伊都は悪戯を見つけられた子供みたいに首を竦める。

「ばれた? だって、しょうがないじゃない」

「そうだよな、新婚さんだもんな」

「違うよ、巡くんとだからだよ」

 そう言ってかぶりを振って、それから彼女は慌てたように目を伏せた。

「……っていうのもすっごく浮かれてる感。ちょっと恥ずかしいかも」

 もちろんそれを聞いた俺は嬉しくてたまらなくて、豆腐丼を味わう口元が際限なく緩んでしまう。


 俺達って結構、似たようなことを考えている夫婦なのかもしれない。

 この分だともうしばらくは、こうして人目を忍んではしゃぎまくって、楽しい思いをしていられそうだ。

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