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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
19/205

トライアンドエラー(3)

 その後二人で雑誌を見て、買う物を買って、書店を出たのは午後八時半を過ぎたところだった。


「せっかくだから夕飯食べてかないか」

 安井さんに誘われたら、それを合図にしたみたいに急にお腹が空いてきた。

 目当ての資格本と自転車雑誌を買えて機嫌がよかった私は、即座に頷いた。

「いいよ」

 ここまで連れてきてくれたお礼をしたかったというのもあり、こちらから切り出してみる。

「よかったら私に奢らせてくれる?」

 私の申し出に安井さんは戸惑ったようだ。

「そういうのはいい。誘ったのは俺だから、園田は気にするなよ」

「でもこんなに遠くまで乗せてきてもらったし。お礼くらいはさせて欲しいな」

「お礼なんてされるほどのことでもないだろ」

 彼はそう言ってしばらく難色を示していたけど、押し問答をしているのも不毛だと思ったんだろう。やがて苦笑気味に言われた。

「そこまで言うなら仕方ない。軽いものでも奢ってもらおうかな」

「軽いものか。安井さんが何が食べたい?」

「豆腐料理とか」

 それは私の好きなものじゃないだろうか。せっかく奢るって言ってるのにいいのか。

 と思いかけて先月、石田さんから聞いた話が脳裏に蘇る。そういえば今は安井さんも豆腐が好きなんだっけ。よく食べてるって言ってた。

「じゃあさ、豆腐バーガーとかどう?」

 私が持ちかけると、安井さんは驚きに目を瞬かせた。

「豆腐のハンバーガー? そんなのあるのか」

「あるよ。知らなかった?」

 モールの奥に見えるレストラン街の方向を指し示し、私は続ける。

「ここに入ってるバーガーショップにあるんだけどね。それがもうすっごい美味しいの!」

「さすが豆腐ネタとなると詳しいな。どういうの?」

「パティの代わりに豆腐とアボカドとトマトが挟んであるの。ソースはさっぱりと酸味がある感じ」

「何か美味そう。よし、それにしよう」

 驚くほどすんなりとメニューも決まり、善は急げとばかりにバーガーショップへと向かった。


 午後九時前のバーガーショップはさすがに空いていた。

 私は豆腐バーガーを二つ買い、フライドポテトとオニオンリングもそれぞれLサイズを頼んだ。コールスローサラダも二人分買った。

「軽いものって言ったのに、既に軽くなくないか」

 容赦せず注文を続ける私の隣で、安井さんが懸念を示すように眉を顰める。

 食べられない量じゃないよ、と私は笑う。

「奢りなんだしいいじゃない、このくらいは持たせてよ。飲み物は何がいい?」

「無難なのがいい。冷たい紅茶にする」

「じゃあ私、キウイミックスプロテクター」

「何だそれ? 強そうな名前してるな」

「変形するんだよ。飛行形態から二足歩行のロボに」

「子供みたいな嘘つくなよ」

 安井さんが吹き出したので、私もつられて笑っておく。


 そしてテーブルに着いてから数分、運ばれてきた豆腐バーガーを彼は恐れず果敢に食べ始め、そしてすぐに称賛の声を上げた。

「おお、これは本当に美味い」

「でしょ? 豆腐にこのソースが絶妙だよね」

 私達はバーガーショップの隅っこの席にいた。

 テーブルの上には所狭しと買ったばかりの食べ物が並んでいる。ポテトは皮付きのごろりとしたナチュラルカット、オニオンリングもそのまま手首に填められそうな大きさだ。安井さんは最初揚げ物類のボリュームに恐れをなしていたようだけど、何だかんだで美味しそうに食べていた。

「ポテトなんて食べたの久し振りだよ。意外といけるな」

「そうなの? あんまりこういうの食べない?」

「石田達と飲みに行く時は普通の居酒屋だからな。で、めいめいが好きなもの頼む」

 そういう時、安井さんはいつも豆腐を頼んでる、ということだろうか。少なくとも石田さんが安井さんの好みを覚えてしまうくらいの頻度で。

 私は石田さんから聞いたその話を、本人に尋ねようかどうか迷った。

 でも私が決断するより早く、彼の方が違う話題に移った。

「これって、この間の写真のお礼とはまた別だよな」

 確かめるような問いを向けられて、私はオニオンリングにケチャップをかけていた手を止める。

 安井さんは割と真剣に気にしているみたいだ。その真剣さがおかしくも、少しだけ怖くもあった。

 とりあえず答える。

「うん。今日のは乗せてきてもらったお礼だよ」

「そうか。ならよかった」

 そして思いっきりほっとしているみたいだった。


 安井さんは写真のお礼として何を望むんだろう。

 変なことは駄目だよと釘を刺しておいたけど、もし真面目に、私の望まないことを頼まれたらどうしよう。私はそういう覚悟もまだできていなかった。

 それどころかこの間の言葉の返事だって、まだ考えついてもいない。

 もともと考えるのは苦手だ。なのに安井さんのこととなると苦手でもどうしても考えざるを得なくなって、それで余計に混乱してくる。答えはとっくに出ているはずなのに、私はいつまでも安井さんのことを考え、そして悩んでいる。


「そういえば、さっきの花火の話だけど」

 安井さんがポテトに手を伸ばす。

 私はケチャップのボトルをテーブルに置き、オニオンリングを口に運ぶ前に尋ねる。

「そんなに花火見たかった?」

「違う。その話じゃなくて」

 ポテトを一本食べ終えてから、安井さんは言葉を継いだ。

「ふと思い出したんだ。ちょうど花火大会の頃だったよな、俺が園田を怒らせたのも」

「そうだっけ?」

 言われてから、オニオンリングをかじりつつ考える。

 確かにあれは夏の終わりの話だった。八月のお盆前後は営業課にとって特に過酷な繁忙期で、だから合コンは秋に入ってからにしようと言われていて、そのようにスケジュールも組んでいたはずだった。でもその日を迎える前に中止になって、お詫びにと連れて行ってもらったデートは八月最後の休日だった。

「まさか忘れたんじゃないよな。二人で森林公園に行ったのも八月の終わりだった」

 安井さんもよく覚えているみたいだ。咎める口調で言われた。

「忘れてはいないよ。花火大会と絡めて覚えてなかっただけ」

 何せ私にとっての花火大会とは、会社からの帰りに見れたらちょっと足を止めて見る程度のもの、あるいは会社の中で音を聞くだけのものって印象しかない。

 四年前、あの年の八月の花火大会をどんなふうに迎え、過ごしたか、上手く思い出せないほどだった。


 そしてはっきり覚えている思い出も、今となってはもやもやするような、複雑な心と共にある。

 楽しくて嬉しくて幸せな記憶だったけど、その後のことまで考えると。

「あの日の園田はちょっと怖かった」

 安井さんはどう思っているのかわからないけど、思い出話もさらりと口にする。

「駅で落ち合った時にまず睨まれたし、ろくに口も利いてくれないまま電車に乗ったよな」

「そりゃそうだよ。私、すごく怒ってたからね」

 怒ったなんてものじゃなかった。切れてた。


 好きな人の為にしたことに対し、努力を踏みにじられて取るに足らない奴だと軽んじられて、それでもにこにこしていられるような人間がいたらお目にかかりたいものだ。本物の聖人君子ならともかく、二十代半ばの私にそんなできた精神を期待されても困る。

 ただ、デートの当日はそこまで怒ってはいなかった。

 怒った顔をしていないといけないような気がして、わざとつっけんどんに振る舞っていたけど、そのことさえ途中で忘れてしまうほどだった。


「でも自転車に乗り始めたらあっという間に機嫌よくなって、ずっと笑ってたな。楽しそうだった」

 私の内心の変化は安井さんもお見通しだったようだ。思い出し笑いを向けられて、気まずく思う。

「うん、まあ……自転車は楽しいからね」

「こっちは大変だったけどな。園田と一緒に自転車乗るのがあんなにきついとは思わなかった」

 それは、わざとだ。

 安井さんを困らせてやろうと思ってあえてタンデム自転車を借りた。後ろを譲ってあげるふりをして、あちこち引っ張り回してやるつもりでいた。安井さんは思ったよりもしぶとくついてきたけど、最後には上手く喋れないほど息を切らして、休憩したいと懇願してきた。

「安井さんが運動不足なんだよ。あのくらいで音を上げるなんて」

「あのくらいって、十七キロもあっただろ。園田が健脚過ぎるんだ」

「まあ八月だしね。夏のサイクリングコースとしては長めだったかも」

「おまけに園田がぐんぐん飛ばすから、途中から漕ぐのやめようかと思った」

 思い出したら疲労感まで蘇ってきたのか、安井さんは溜息をつく。

 そのくたびれた表情に、私もあの日の妙な達成感、誇らしさ、してやったりという気分を取り戻していた。

「そうだったんだ。安井さん、やめずに漕ぎ続けて偉かったね」

「いや、結局降参したんだから偉くもないよ。園田にも笑われたし、悔しかったな」

 私はまさに彼の降参の言葉を待っていたから、その瞬間は嬉しかった。思いっきりげらげら笑った記憶がある。

 その時にはもう、まだ怒っているように振る舞うことさえ忘れてしまった。

 今もにやにやしている私を見て、安井さんが拗ねたように唸る。

「楽しそうな顔するなよ。こっちは必死だったんだから」

「ごめん。けど、もっと早めにギブしてもよかったのに」

「そんな格好悪いことできるかって思ってたんだよ。しかも女の子の前で」

 つまり見栄を張りきれなかったわけだ。それは彼のような人にとってさぞかし屈辱だったことだろう。あの日の安井さんの心境を想像すると、私はまたおかしくなって声を立てて笑ってしまう。

「しかも笑うか。人の気も知らずに」

 安井さんは悔しそうにそっぽを向いてから、視線だけをこちらに戻した。

 私を眺める横顔が少しだけ、優しくなったように見えた。

「でも、そうやって素直に笑ってくれるところが園田のいいとこだよな」

「そう? 安井さんが笑われてるのに?」

「ずっと怒ってるよりいいよ。むしろあの時、笑ってくれて楽になれた」

 今度は安井さんが喉を鳴らして笑い出す。

 対照的に私は笑うのをやめ、怪訝な思いで瞬きをした。楽になれた、という感覚がぴんと来なかった。

「その後、休憩するのに売店に入っただろ。それで俺が、全部奢るって約束してたから『何か欲しいものある?』って聞いたら、きょとんとして『何で?』って聞き返してきたよな」

 安井さんはそのやり取りがものすごくツボに入ったらしく、笑いながら続けた。

「何でってことないよな、約束してたのに。と言うか約束させたの園田の方なのに」

「素で忘れてた。安井さんが負けを認めて、やりきった気分だったから」

「だと思ったよ。こいつ何しに来たのか忘れてるなって、すごくおかしかった」


 だから『何でも買ってあげるから』と言われても、欲しいものが思いつかなかった。

 森林公園の売店の冴えないお土産の中から、あえて公園と何ら関係のない風船を選んだのも、それが真っ先に目に留まったからというだけだった。部屋に持ち帰った風船は一週間と持たなかったけど、あの頃はまるで気にしていなかった。


「あの時、園田って可愛いなと思った」

 何気ない口調で、しかし爆弾を投げつけるようなことを安井さんは言った。

 バーガーに噛みついたまま、とっさに動きを止めた私に、いち早く食べ終えた彼は包み紙を丁寧に畳みながら告げる。

「園田とならこれから先、何度喧嘩することがあっても、何度すれ違ったって、最後には笑ってもらえるんじゃないかって思った。こういう子と一緒にいられたら、何があっても幸せだろうなって」

 私は押し黙る。

 彼の思いを裏切ったことには弁明のしようもない。締めつけられるように胸が痛んで俯きかけた時、彼が更に続けた。

「今もそう思ってる。あの時からずっと、同じように」

 本気で信じ込んでいるような、とても強い言葉だった。


 黙ったまま、私は豆腐バーガーの残りを食べた。

 今も、私達は喧嘩かすれ違いを続けている最中だと、彼はそう言いたいのかもしれない。なかったことどころか、終わってもないみたいな言い方だと思う。

 だけど、面と向かって否定する気になれないのはどうしてだろう。

 私もそうだったらよかったのに、そうありたかったとと思うからだろうか。

 自分でも、そういう人間だと思っていた頃が確かにあった。深く考えない、どんな悩みも一晩寝たら忘れてしまうような適当な性格だった。今でもそういうところはあるけど、でも今もあの頃も、安井さんのことだけは頭の中がぐるぐるするほど考えていた。

 いっそ何にも考えないで付き合えたら、上手くいったのかもしれない。


 私が無言のうちにバーガーを食べ終えた時、彼がふと呟いた。

「素面でするような話でもなかったか」

 ちらっと目をやれば、心なしか照れたような顔つきをしている。

 私はごたつく内心を整理しきれないまま、残りのポテトやオニオンリングを片づけ始めた。お酒を飲んでいたら何か上手い返答ができたかもしれないけど、今は何を言っていいのかわからなかった。


 お腹が一杯になってしまったせいか、帰りの車内ではお互いに口数が少なかった。

 安井さんは私のアパートまで黙って送り届けてくれた。やっぱり迷うことなく車を走らせ、アパートが近くなってきた辺りでふと言った。

「あの時、園田を好きになったんだ」

 それはよくよく考えれば、驚くべき言葉ではなかったのかもしれない。少なくともバーガーショップでのやり取りから十分に推測できるはずだった。

 だけどストレートに言われると、どうしても驚かずにはいられなかった。帰りも後部座席に座った私は真正面を向く安井さんの後頭部を見つめ、安井さんが微かに笑うような息をつく。

「あれから四年か。何もしないまま、できないまま時間だけが過ぎてるな」

 なかったことにするには十分な時間だと私は思っていた。

 でも、今わかった。なかったことになんてできない。

 だって私はあの頃のことさえ、あの日の彼の気持ちさえ知らないままだった。

「知らなかったよ」

 車がアパートの前で停まると、私は彼にそう告げた。

 運転席の彼が振り返る。途端に目を見開くのがわかったから、深く俯いて顔を隠した。

「てっきり、私だけが好きだったのかと思ってた」

 それでもいいと思ってた。

 そのことに不満なんてなかったし、後からでも好きになってもらえたらよかった。付き合ってもらえるだけで幸せだったから、どうして、なんて理由はどうでもよかった。最初で最後のチャンスの延長戦、できるだけのことを精一杯やって、好きな人に振り向いてもらおう。そんな思いでいた。

「……何で、俺が付き合おうって言ったんだと思った?」

 安井さんの声が鋭く尖る。

 私は俯いたままかぶりを振った。

「わからなかった。不思議だったけど、私を選んでくれたならそれだけでよかったから」

 他には何も要らなかった。安井さんが私の傍にいてくれたら。

 だから、彼の為なら何でもできると思っていたのに、独りぼっちの寂しさには耐えられなかった。

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