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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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うららかな旅路(3)

 因島をしばらく走り、海沿いの道の向こうに美しい斜張橋が見えてきたところで、俺達は一旦休憩を取った。

 と言ってもまだ昼飯ではない。軽く汗を拭いて水分補給をするだけだ。

「生口橋の手前も上り坂みたいだから」

 よほど予習をしてきたのか、伊都はしまなみ海道のガイドさんのように詳しい。

「でも橋の上はきっと気持ちいいよ」

「今度はちゃんと橋の上を通れるんだな」

「うん。橋の中走るのも、あれはあれで面白いけどね」

 伊都は束ねた髪を片手で持ち上げ、首の後ろをタオルで拭いている。長いせいかちょっと大変そうだ。

「お昼は大三島で取ろうと思うんだ」

「大三島っていうと、もう愛媛か」

「そうだね。もう広島じゃなくなるよ」

 その為に橋を渡って島をいくつも越えようとしているのだから不思議でも何でもないはずだが、やはり何だか不思議に思えてくる。自転車で、島を渡って、県境を越える。俺達は結構すごいことをやっているのではないだろうか。

「何か俺、ギネスにでも挑戦してるような気分になってきたよ」

 俺の言葉に伊都は目を丸くしてから吹き出した。

「大袈裟だなあ、巡くんは」

 そして今度は、タオルで長い髪を拭きながら続ける。

「ギネスなんてもんじゃないけど、ここまでいいペースで来てるよ。大三島にも一時過ぎには入れるんじゃないかな」


 しまなみ海道のどこで昼飯を取るか。これは出発前にもさんざん悩んだ大いなる命題である。

 何と言っても旅の醍醐味は食事だ。美味さはもちろんのことながら、そこでしか食べられない名物も押さえておきたい。さすが話題の観光地だけあって、しまなみ海道にも名物グルメはふんだんにある。広島と言えばお好み焼きがまず浮かぶし、瀬戸内海は魚だって美味い。今治には焼豚玉子飯というB級グルメもあるらしく、俺達は出発前からものの見事に目移りさせられる羽目になった。

 結局、走行時間を見て現地で決めるということに落ち着いたのだが。


「今からだと大三島の道の駅が一番タイミングよさそうだしね」

 伊都はヘルメットを被ったまま、腕をうんと上に伸ばして髪を拭く。

 あまりにもやりにくそうなので、

「俺が拭いてやろうか」

 そう提案したら、伊都は一瞬迷うそぶりを見せた。

「助かるけど、結構汗掻いてるよ。汚くない?」

「伊都の汗が汚いなんて思ったことないよ」

「何を言うかな、もう」

 はにかんで、彼女はタオルを差し出してくる。

「髪伸ばしすぎたかなあ、拭きにくくって」

「昔と比べても随分伸びたもんな」

 俺はそのタオルを受け取り、伊都の髪を手のひらの上に載せ、丁寧に拭いてやる。彼女の髪は湯上がりのようにしっとりしていた。

「結婚式も終わったし、何なら短くしたらいい」

「そこ、悩みどころだよね。伸ばしとく理由、一つなくなっちゃったし」

 伊都が髪を伸ばしていた大きな理由の一つが、結婚式でドレスを着ることだった。それはもう既にクリアしてしまっている。

 しかし第二の理由、俺に髪を撫でられたいからという理由はこれからも続く。俺は別に、伊都の髪が短かろうが長かろうが構わないのだが。どっちにしたって撫でたければ撫でる。

「自転車乗るなら短い方が楽じゃないか。これから暑くもなるし」

「かもしれないね」

 伊都は頷くと、俺が拭き終えた髪をそっと揺すりながら呟いた。

「旅行が終わるまでには考えよっかなあ。巡くんの意見も聞きつつ」

 海風が乾き始めた彼女の髪をたなびかせて、きらきら光っていた。


 休憩の後、坂道を上って生口橋へ入る。

 相変わらず先を行くのは伊都で、俺はその後を追い駆けている。

 斜張橋は橋桁を支えるケーブルがぴんと張っていて、遠くから見ると橋の上に三角形がいくつも並んでいるように美しい。実際、橋の上を走ってみても景観は素晴らしかった。

 午前十時を過ぎた頃だろうか。晴れ渡った空に太陽は眩しく輝き、橋の下に広がる静かな海を鏡のように光らせている。橋の先には次の目的地である生口島が見えていて、こんもりした緑に覆われた島の姿もまた美しい。橋の上はさすがに風があったが、ペダルを漕ぎ続けて汗を掻く身体には心地いい。潮の香りだって悪くない。

「わあ、海の上! 気持ちいい!」

 前を走る伊都が歓声を上げる気分もわかる。

 俺も橋の上を走り出した途端、妙にテンションが上がってきた。ここまで休憩を挟みつつも四時間ほど、自転車に乗りっ放しだというのに、何だってこんなに爽快な気分なんだろう。天気がいいからか、美しい海の上だからか、心躍る旅先だからか、可愛い妻と一緒の新婚旅行だからか。


 もちろん疲れていないわけじゃない。そろそろ足が張ってきたし、慣れないクロスバイクで尻が痛くもなってきた。日差しがあるからだろうか、首の後ろや二の腕がじりじり暑い。このまま行くと結構な日焼けをしそうだ。汗を掻いているせいで、サイクルウェアが身体に張りついてくるのがちょっと鬱陶しい。潮風が足りないと感じるくらいだった。

 それでも俺はペダルを漕ぐ。

 自転車の楽しさがわかってきた、なんてまだ言えそうにない。この橋に入るまでの坂道は漕ぎたくなくなるくらいきつかったし、まだ行程の半分も来ていないと思うと気が遠くなってくる。

 だけど何だか、不思議なくらいに楽しい。

 伊都のペースが上がってきた気がする。彼女もはしゃいでいるのだろうか。ついていくのも大変で、次第に息が切れてくる。明日は筋肉痛かもしれない。いくらスポーツが身体にいいからって、一日に七十キロも漕いだら身体にいいはずがない。


 でも、俺はペダルを漕ぎ続ける。

 目の前には伊都がいる。疲れた様子も見せない健脚ぶりでどんどんペダルを漕ぐ彼女の小さな背中が見える。短いスカートが風に揺れ、レギンスをはいた脚が伸縮して自転車を漕ぐ。俺はその後ろ姿を、橋の上の景色と共に楽しみながら走る。

 何が楽しいのかと聞かれたら、彼女がいることだとしか答えようがない。

 昔からそうだった。俺は、彼女の後を走るのが好きなのだ。

 ゴールデンウィークのしまなみ海道は混んでいた。俺達がいかにいいペースで走っていると言えど、他の自転車乗りには結構な頻度で追い抜かれた。中には本格派のロードバイクで走ってる人もいて、自宅に置いてきた愛車がちょっと恋しくなる。

 何だかんだで俺も、自転車が好きになりつつあるのかもな。

 それだって結局、伊都がいるからだが。


「生口島、とうちゃーく!」

 橋を渡りきると、伊都がまた大きな声を上げた。

 それから俺を振り返って、いい笑顔で笑ってくれる。

「巡くん、次の橋を渡ったら愛媛だよ! 頑張ろう!」

「ああ」

 その笑顔に乗せられた俺は深く頷く。

 そして、ペースが上がったように感じることを彼女に言い出せなかった。別に見栄を張ったわけではないが、楽しいしいいか、と思ってしまった。


 生口島を抜けると、その先に待つのはいよいよ愛媛県今治市。

 俺達にとっての入り口は大三島、そしてそこに繋がるのが多々羅大橋だ。

 多々羅大橋も生口橋と同じ斜張橋で、しかもその大きさは国内最長、かつては世界一だったこともあるらしい。全長は約一キロ半、長い橋だがここも風が気持ちよくて、走っていて快適だった。橋桁を支えるケーブルが繋がる白亜の主塔は天を突くほど高く、それがまた美しい。橋マニアじゃなくともぐっと来る景観だった。

 ただその美しさのせいなのか、他の橋よりも自歩道が混み合っている。立ち止まって景色を眺める人、写真を撮る人も多く、横を通りすぎる際は細心の注意を払わなければならなかった。

「巡くん、県境だよ!」

 伊都が不意に自転車のスピードを緩めて、橋の中央を走る車道を指差す。

 そこには緑に白字の小さな看板があり、『愛媛県』と実に慎ましく記されていた。自歩道の方にははっきりとした表記はなく、よく探して初めて、路上にぽつんと県境を示す三角のマークがついているのが見えた。

 俺達は立ち止まることなくそこを駆け抜けた。

「安井家、愛媛入り!」

「何か思ったより呆気ないな」

「県境なんてどこもそんなもんだよ」

 ペダルのひと漕ぎであっという間に広島から愛媛へ。ここはもう四つ目の島である大三島だ。ここへ入れば残すは伯方島と大島、そこを過ぎればいよいよ四国だ――いや、ここも愛媛だし、もう既に四国なのか。


 多々羅大橋を抜けた後は、一路道の駅へ。多々羅しまなみ公園という名の道の駅は、たった今渡ってきたばかりの多々羅大橋が眺められる見事な立地だった。

 俺達は予定通りここで昼食を取ることにして、一旦自転車を下りた。

 朝からずっと乗ってきたせいか背中はばりばりだし、やっぱり尻が痛い。腿もぱんぱんに張っている。首の後ろがひりひりする。


 そういった疲れがどっと来たのか、フードコートに入って席に着くと深い溜息が出た。

「巡くん、結構疲れてるみたいだね」

 伊都はスポーツウォッチを確かめて、ちょっと心配そうな顔をする。

「ここまで三時間半で来てるもん。ペース上げすぎちゃったかな」

 彼女ならしまなみ海道を渡りきれると言っていたタイムだ。もう工程の半分は過ぎているし、この分だと当初の見込みより早めに着くかもしれない。

 ただ、椅子に座ると疲労感がじわじわ込み上げてくる。

「俺もつい張り切っちゃったな。橋の上、走ってると気分よくてさ」

「わかるわかる! 何かスピード出ちゃうよね」

「またいい風吹くしな」

 残す橋もあと三つ。しかし午前中と同じテンションで走りきれるかは微妙なところである。


 俺達はフードコートにて今治名物という焼豚玉子飯をいただいた。

 これはご飯の上に焼豚を載せ、更に半熟の目玉焼きを載せた上からタレで味つけをするというなかなかのがっつりメニューである。玉子を崩してタレと焼豚、肉を混ぜながら食べるのが流儀らしく、散々運動してきた後なので俺も伊都も美味い美味いとがつがつ食べた。


「これを豆腐でも作れないかな」

 伊都はタレの味が大層気に入ったようで、唸りながらそんなことを言っていた。

 そういえばこの旅の間は豆腐を食べていない。明日になればそろそろ我が家の味が恋しくなっているかもしれない。帰ったら早速豆腐丼にでもしようか。

「やっぱりゴールデンウィークだね、どこも混んでる」

 彼女の言う通り、フードコートは正午を過ぎた辺りからどっと混み始めた。併設されたレストランの方も混み合っているようで、道の駅全体が人で賑わっている。俺達のようなサイクルウェアの客も多いが、普段着の客もそれなりにいた。

「石田さん達へのお土産、どこで買おっか? ここだと荷物になるよね」

「旅館着いてからでもいいだろ。どうせ買うものは決まってる」

「え、そうなの?」

 石田にも霧島にも新婚旅行の際には土産を買ってきてもらったし、何か買って帰ろうとは思っていた。

 そして俺達の旅の最終目的地は今治だ。

「タオルでも買って帰ろう。使い出はあるし悪くならないし困らないだろ」

 食事を続けながら俺が答えると、伊都はくすっと笑った。

「何かまさにご挨拶の品って感じ」

「違う、手拭いじゃないぞ。タオルだ」

「まあそうだけど。タオルって柄とか選べるのかな」

「そりゃそうだろ、無地ばかりなんてあり得ない」

「じゃあ、東間さんとゆきのさんと藍子ちゃんに可愛いの買って帰んないと」

 伊都が指折りしながら土産の宛先を数えている。

 また前みたいに女の子同士、きゃあきゃあ言いながらお土産公開するんだろうな。微笑ましくて大変よろしい。


 対照的に男どもの反応はうるさそうなのが今から予想できてしまう。

 いや、土産には文句言わないか。むしろ他のところで突っ込まれそうだ。

『安井お前新婚旅行でも筋肉痛かよ、軟弱だな』

『まーた奥様の前で見栄張っちゃったんですね』

 石田と霧島の反応を想像したら、イメージにもかかわらず本気でむかついてきて困った。

 いいよ、わかってる。どうせ筋肉痛になるのは確定だ。

 だったら俺はこの旅路を、伊都とのサイクリングを精一杯楽しんでやる。


 食事を終え、休憩を小一時間取った後、俺達は道の駅を後にした。

 長かったしまなみ海道も半分を過ぎ、ぼちぼちゴールが見えて来た気分だ。

 次の目的地は伯方島と、そこに繋がる大三島橋。今治まではあと少しだった。

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