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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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うららかな旅路(1)

 かつて、新婚ほやほやだった石田は俺達に語ってみせた。

「結婚式だ何だでずっと忙しくて、一息つく暇もなかったからな」

 石田夫人と二人で北海道まで旅行を終えた、その直後のことだった。

「新婚旅行くらい周りに知り合いもいないようなところで、二人だけで過ごしたかったんだよ」


 その話を聞いた当時、俺はまだ伊都と結婚していなかった。

 だから石田のその心境がいまいちわからないと思っていた。

 もっとも全く理解できないというわけでもなく、そんなもんかな、と思った程度だ。石田は結婚式の準備も楽しくやっていたし、事あるごとに『藍子が』『藍子が』と彼女自慢も忘れないくらい元気いっぱいだった。結婚式当日だって疲れた顔一つ見せずにでれでれの笑顔を見せていたし、正直自らの式を誰よりも楽しんでいたように思った。

 にもかかわらずあの言葉だ、恐らく結婚式というやつはそれなりに手ごわいのだろうし、石田のようなエネルギーを持て余して常にフルスロットルの男ですらくたびれさせてしまうほどのものなのだろう。俺は奴よりも繊細な男ゆえ、結婚式が済んでしまえば燃え尽きてしまう可能性もある。一層の心構えが要るだろう。

 結婚式が終わり、新婚旅行の日がやってきたら、伊都と二人の時間をのんびり過ごそう。

 非日常的なひとときを過ごして、日々の疲れを癒せる旅行にしよう。

 そんなふうに思ったのもほんの三十分間ほどのことで、その後はあれよあれよという間に行き先が決まってしまったのだが。

 果たして俺はその時、結婚式での疲労を引きずってやしないだろうか。当時はそんな不安に駆られていた。


 しかしいざ結婚式を終えてみれば、疲れたとか燃え尽きたなんてことはなく。

「巡くん、見て見て! 名古屋駅!」

 新幹線の車窓に張りつくように外を見ている伊都を、俺は胸ときめく思いで眺めている。

 考えてみれば俺達の結婚式は三月の終わり、そして新婚旅行は五月の連休だ。結婚式でいかにくたびれようともその疲れを一ヶ月以上も引きずるはずがない。ましてや笑顔が可愛く料理も上手くいつも明るい新妻に癒されているので、体力気力共に日々増進している今日この頃である。

「駅ビル、高いなあ……。てっぺんって何階になるんだろう」

 伊都なんてこの通りのはしゃぎっぷりだ。旅の始まりから何を見ても楽しそうにしてくれていて、こっちまで楽しくなってくる。


 五月の連休初日、新幹線の乗車率は百パーセントを軽く超えているらしい。

 前々から指定を取っていたから助かった。そうでもなければゴールデンウィークに旅行なんてできなかっただろう。

 外は見事な五月晴れで、道中では車窓から富士山もよく見えた。

 今は名古屋駅を過ぎたところだ。


「あ、お城! 巡くん、お城があるよ!」

 伊都が次に声を上げたのは、新幹線の線路のすぐ傍に建つ城を見つけた時だった。きれいで立派だが、望楼の欄干が朱塗りで遠目にはいささか派手にも見える。

「あれって名古屋城……じゃないよね?」

「違うよ、清州城だ」

「あ、清州会議のだよね。知ってる!」

 現在の清州城はつい近年建てられたものだそうで、かつての城の姿を残した資料がなく、想像で建てたものだと聞いたことがある。

 それにしてもよく目立つ城だ。新幹線はあっという間に通り過ぎてしまったが、それでもゆうに見つけられるだけのインパクトがあった。

「この辺って仕事でもあんまり来ないし、景色新鮮だよね」

「そうだな。見てるだけで楽しいよ」

 しかも新幹線はこの先京都、大阪と見どころ満載の都市を通り抜けていく。車窓からの景色だけでも存分に旅気分を楽しめそうだった。ましてや可愛い妻が一緒なら尚更だ。


 俺達の目的地はひとまず福山。

 そこから尾道へ入り、本日はそこで一泊する予定だった。何せ昨日まで普通に仕事だったから、そういう意味では若干疲れている。予定通りなら明日からは自転車旅行が始まることだし。


「それにしても、お天気よくてよかったね」

 伊都がほっとした様子でからりと晴れた空を見ている。

 連休中の天気は予報通りであれば全国的に晴れ、雨の心配はないそうだ。今回の旅行は天候次第で予定がまるで変わってしまう。新幹線や帰りの飛行機、宿はどれも予約済みだが、天候ばかりはまさに神頼みといったところだ。最悪、しまなみ海道をレンタカーで渡る覚悟もしていたが、どうやら心配はなさそうだった。

 今回の旅は二泊三日の予定だった。

 この中日にて、俺達はしまなみ海道の全線走破を目標としていた。

「自転車、乗れそうだな」

「うん、すっごく楽しみ!」

 相変わらず彼女の笑顔は屈託がなく明るさ全開だ。見ているだけで癒される。おまけに今日からの三日間は二人きりの新婚旅行だ。

 かつて石田が言っていた『周りに知り合いもいないようなところで、二人だけで過ごしたかった』という言葉だけは、今なら十分わかる気がする。

 俺もそんなふうに、これから伊都と過ごしたい。


 福山駅に降り立ったのは昼過ぎのことだった。

 そこからJRで二十分ほどかけて尾道へ。駅を出た頃にはちょうど十四時になっていて、まずチェックインを済ませようと、今夜の宿へ足を向けた。

 駅から徒歩ですぐのところにあるホテルは、尾道水道にも面した実に完璧な立地だった。

「わあ……すごい眺め!」

 客室に入った途端、伊都が歓声を上げたのも無理はない。

 部屋の奥にある大きな窓からはまさに尾道水道が一望できた。川と見まごうような狭い海の道を、船がすいすい行き来している。海の色はラムネの中に入っているビー玉のような、少し緑がかった青だ。すぐ目の前に見えるのが向島で、そこにいくつか立つクレーンや工場のような風景は造船会社のドックらしい。

「夜景もよさそうだね、このお部屋」

「夕景も夜景も素晴らしいと聞いてるよ」

「へえ。じゃあちゃんと見ないともったいないね」

 彼女は窓からの景色がすっかり気に入ったようだ。着いて早々、窓辺にかぶりつくようにして見入っている。それこそ見慣れない、新鮮な景色だからかもしれない。

 俺はと言えば、ホテルに泊まる時の習慣とでもいうのか、一通りの設備を確認して歩かなければ気が済まなかった。

 ダブルベッドが部屋の大部分を占めているこの客室は、前回泊まったホテルのスイートと比べればはるかに手狭だった。しかしビジホに慣れきった身としてはかえって落ち着く手狭さとでも言うのだろうか、手を伸ばせば何にでも届きそうな距離感が妙に居心地いい。

 設備はオーソドックスなものが揃っている。ユニットバスに冷蔵庫にテレビにクローゼット。一泊するだけなら不自由のない程度だろう。

「ユニットバスなのが残念だな、一緒に入れない」

 俺がベッドに寝転がりながら悔しがると、窓辺の伊都が振り向いた。

「入りたかった?」

「そりゃそうだろ、新婚旅行なんだし」

「だったら今日も、温泉旅館にすればよかったのに」

 彼女がくすくす笑うのには理由がある。


 そもそも泊まるホテルがユニットバスかどうかなんて、予約前に調べればわかることだ。端から知った上で予約を取っておいて不満を唱えるのはおかしいと言いたいのだろう。事実、その通りではある。

 ただこのホテルは明日の予定にとても都合のいい立地だった。朝一番で自転車を借り、しまなみ海道を走り出すには最適の場所だった。だからここに決めたのだ。

 温泉旅館は明日、長距離サイクリングを無事終えたらのご褒美として設定してある。目の前ににんじんを吊るされた馬よろしく、明日の俺はひたすらペダルを漕ぐ。もちろんいつぞやの森林公園での一件とは違い、今の俺にはサイクリング自体を楽しむ余裕もあるのだが、そこはやはりご褒美がある方が燃えるというものだ。


「サイクリングの前に疲れたら困るからな」

 嘯くように俺は答えた。

 すると伊都は窓辺を離れ、俺が寝そべっているベッドの隣にうつぶせの姿勢で倒れ込んできた。ベッドのスプリングが音を立てて軋み、波のように揺れて弾んだ。

「偉いな、巡くん。明日に備えて体力温存するんだね」

 そうして伊都はベッドの上に頬杖をつき、上から俺の顔を覗き込んでくる。からかうような、おかしそうな表情をしている。

「俺がすると思うか?」

「するでしょ? 明日走り切れなかったら、温泉にも着かないよ」

「そう言うけど伊都、俺だってまだ三十二だ。十分若い」

「いつもは『もうおっさんだ』って言ってるじゃない」

「若い妻を貰って若返ったんだ」

「私だって三十だよ、若いってほどじゃないよ」

 伊都は微妙な抵抗を続けていたが、俺がベッドの上で抱き寄せて唇を重ねると、何か言いたげな顔つきで黙り込んだ。

 俺はその顔に笑いかけつつ訴える。

「とにかくお気遣いなく。今夜はセーブしなくても明日はちゃんと走れるよ」

「ふうん……」

「むしろ、体力温存なんてしたくない。新婚旅行だからな」

 すると伊都は顔を赤らめつつ、俺の額を指で弾いた。

「もう。巡くん、はしゃぎすぎ」

 伊都に言われるというのも妙な感じがするが、否定はしない。というより、できない。

 俺だってこの旅にはすっかりわくわくしている。

「ね、あとでこの辺をお散歩してみない?」

 するりと俺の腕から逃れた伊都が、身軽にベッドから下り立った。

「初めての街だし、きれいなところだし、ちょっと歩いてみたいよ」

「いいな、そうしよう」

 明るいうちからベッドでごろごろ、というのも退廃的で実に新婚旅行らしい気もするが、俺にとってもこの辺りは初めての土地だ。明日には離れてしまうのだし、見ておくなら今のうちだろう。


 俺達は日が傾き始める頃を待ち、ホテルを出て尾道の街並みをぶらついた。

 南を海、北側を山に挟まれた地形という点で、尾道は俺達の住む街に少しだけ似ていた。坂が多いところもそっくりだ。

 とは言えレトロな家屋の多い街並みはやはり独特だったし、古民家を改装した趣ある店構えには胸が躍った。坂と入り組んだ路地だらけの道は、曲がり角の先を想像させない謎めいた雰囲気があった。古い日本映画に出てくるような、見たことがないのにどこか懐かしい風景があちらこちらに見受けられる。


 しかし、夕暮れ時だからだろう。そんな街並みからも夕飯と思しきいい匂いが漂ってくる。

「いい匂い。お夕飯、何かな」

 坂道を上りながら伊都が鼻をひくつかせたので、俺は思わず吹き出した。

「お腹空いたのか」

「そうでもなかったんだけど、この匂い嗅ぐとね」

「そういう時間帯だからな」

 見慣れない街並みであっても、ここには人の暮らしがある。俺達と何ら変わらないであろう日々の生活がある。俺達にとっては何もかもが珍しい旅先だが、この地に住まう人も確かにいるのだ。

 そう思うと、不思議な切なさが込み上げてきた。

「去年のことを思い出すね」

 伊都が不意に、ぽつりと言った。

「去年?」

「そう。去年の五月の連休は、巡くんのご実家に行ったじゃない」

「ああ、そういえばそうだったな」

 俺にとっては少々憂鬱だった帰省旅行だが、同時に俺達にとって初めての旅行でもあった。ゴールデンウィークとあって高速道路は混んでいたし、予定時間を随分とオーバーしての道行となったが、あれも伊都は何だかんだで楽しんでくれていた。

「巡くんの故郷に着いたの、ちょうどこんな時間だったよね」

 伊都はしみじみと、噛み締めるように語る。

「私にとっては初めての街で何にも知らないところだったけど、巡くんのご実家からも美味しそうなご飯の匂いがしてて、そしたらふっと懐かしいなって思ったんだ。初めて来るところなのにね」

 俺も覚えている。兄貴と車の入れ替えをする際、家の外で美味そうな匂いを嗅いだ。

「案外、日本中どこに行ったって『懐かしい』って思うのかもしれないね」

 彼女もやはり、そう思っていたのか。


 不思議だった。初めて着た街なのに、ここはどこか懐かしい。

 俺達の住んでいる街に立地が似ているせいかもしれないし、たまたまニュースで見た風景を覚えていただけかもしれない。あるいは夕飯の匂いが家と似ているせいかもしれない。


「そうかもな……。来たことのない街なのに、不思議だよな」

 俺は同意を示すと、伊都は珍しく自ら手を繋いできた。彼女の手は、今日も俺より少しだけ冷たい。日が落ちてきたせいだろうか。

「巡くんがいると、どこへ行っても寂しくないよ」

 少し甘えるような声で言われた。

「何だ、もうホームシックか?」

 その顔を覗き込んでみれば、上目遣いの眼差しが返ってきた。

「そうじゃないけど、ちょっと恋しくなっちゃったのかも。夕方だからかな」

 五月の日暮れは夕焼けの色すらクリアなオレンジだった。坂道の途中でふと振り返れば、街並みが一面同じ色に美しく染まっているのが見えた。海までもが夕日を照り返し、鏡のように光っている。

「どこへ行っても、俺が傍にいるよ」

 俺は繋いでいた手に力を込める。

 そして、このやり取りこそ新婚旅行らしいと言えるのかもな、とふと思う。


 二人きりの旅先、誰も俺達のことを知らない古い街並みの片隅で、伊都は俺の手を強く握り返してきた。

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