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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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いとしいとしというこころ(4)

 披露宴が始まる前に、伊都はお色直しを済ませていた。

 結婚式の間に来ていたドレスと同じアイボリー色の、ミモレ丈のドレスに着替えていた。


 やはり、とても可憐だった。

 試着の時よりも更に可愛くなっているような気がする。袖は肌を透かすレースの五分袖、スカートは張りのあるシルク地で、常にふわんと広がっている。バレリーナが着るチュチュのようなそのドレスを、伊都もさながら踊り子のように身軽に、そして愛らしく着こなしている。

 足元もバレリーナを意識してか、トゥシューズを模したようなリボンのレースアップシューズを履いている。程よく引き締まった足首に結ばれたサテンリボンがたまらなく可愛い。


「やっぱりこっちの方が動きやすくていいなあ」

 俺の隣へ戻ってくるなり、伊都は両手を広げてくるりと一回転してみせる。

 スカートの裾と共に、下ろしたベールが風をはらんでふわりと揺れた。はしゃいでいるのだろうか、その後で屈託のない、あっけらかんとした笑顔を浮かべてみせて――俺は披露宴の直前だというのに、この花嫁に何度目になるかわからない恋をする。

 惚れ直した、なんて思うのも何度目のことだろう。

「可愛いよ、伊都」

 俺が誉めると彼女はすぐに照れてしまって、甘えるように俺の腕を取りに来る。

「誉めてくれるの嬉しいけど、顔緩んじゃうよ。本番前は程々にね」

「花嫁なら幸せそうに笑ってる方がいいよ。何ならもっと誉めてあげよう」

「もう!」

 伊都がその場でぴょんぴょん飛び跳ねる。その度にスカートの裾がふわふわとふくらむように揺れる。こんなによく動く花嫁というのも珍しい。

「巡くんも、上着脱いでもカジュアルでいいね。ベストの色も似合ってる」

 彼女の言葉通り、俺も披露宴に備えてタキシードの上着を脱いでいた。伊都が身軽そうな格好をしたので俺も合わせたまでの話だが、パステルオレンジのベストとネクタイは彼女の愛らしさとも釣り合うだろうと自負している。

「惚れ直したか?」

「うん! 巡くんはいつも素敵だけど、今日は史上最高の巡くんだよ」

 素直に頷いてくれる花嫁に、俺も改めて幸せを噛み締める。


 披露宴開始まであと数分というところだった。

 出席者は全員もう会場入りしていて、あとは司会者に呼ばれたタイミングで俺達も入場するだけだ。


 会場へ続く両開きの扉の前、俺達は出番を待ちながらひそひそ話をする。

「そのドレスなら自転車にも乗れそうだな」

「あ、私も考えてた。新郎新婦入場の時にタンデムしてもよかったね」

「そしてまた俺が後ろか?」

「巡くんも結構走れるようになったし、今なら前でもいいかも」

 そういえばいつぞやの雪辱を晴らす機会はまだ訪れていなかった。そのうちやらせてもらおう。そしてその時こそ、俺が前に座って漕ぐ。

「それともダンスしながら入場、とかでもよかったかな」

「伊都、何か踊れるのか?」

「ううん、マイムマイムくらいのものだよ」

「俺だってそうだ。学生時代の遠い思い出でしかない」

 さすがにマイムマイムで入場してくる新郎新婦はないだろう。

 でも、入場を控えた俺達はくすくす笑いながら冗談を飛ばし合う。結婚式の間はほとんど話せなかったから、その時間を埋めるみたいに。あるいはお色直しで離れていた間の寂しさを楽しさで上書きするみたいに――俺達はもう片時も離れていたくなかった。結婚したのだから離れてしまう不安なんてないのだが、一分一秒も逃さず伊都と過ごしたい。そんな欲求がいつよりも強く、この結婚式のうちに募っていた。

 伊都もそう思ってくれているのだろうか、自分から進んで俺と腕を組み、そのままずっと離さずにいた。

「披露宴も楽しみだね。皆、きっとびっくりするよ」

「びっくりされるか、『ああやっぱり』って思われるかだな」

「そうかも。でも面白がっては貰えるよね」

「その点はばっちりだ。石田も霧島もこぞって写真撮りに来るぞ」

 そんなことを囁き合ううち、やがて時間がやってくる。

『――それではお待たせいたしました、新郎新婦の入場です』

 司会者が俺達を呼び、割れんばかりの拍手の中で会場へ続く扉が開く。広い会場内の誰もが俺達の方を見て、笑顔で手を叩いてくれる。入ってすぐのところに安井家のテーブルがある。両親も兄弟も揃って嬉しそうにしてくれている。もっと奥には職場の皆のテーブルがある。人事課一同が一つのテーブルを囲っていて、その隣には広報課の皆さんがいる。更にその隣には石田夫妻や霧島夫妻が座るテーブルがあり、石田がカメラを構えているのが見えた。霧島夫妻と石田夫人がにこにこしているのも見えた。

 あいつらの結婚を見届けてきた俺達が、今、見届けられる側になっている。

 俺と伊都は腕を組み、幸せに胸を張りながら会場の中へ入っていった。


 披露宴はホテルの三十階にある大ホールで行われる。

 壁一面が眺めのいいピクチャーウインドウで、今は暮れなずむ夕刻の風景、ぽつぽつと灯る街明かりがよく見えた。就職してから十年間、ずっと住み続けてきたこの街――ここからはとうに見慣れた景色が見える。ひときわ賑わいを見せる駅前通り、少し離れたところにある背の高いビル街、遠くに見えるショッピングモールの看板、その反対側に延々と広がる海。どれもが俺にとっては思い出深い景色だった。披露宴が進めば夜景が見られるとのことで、それも楽しみにしている。

 俺達が拍手に出迎えられながら席に着くと、プログラム通りに披露宴が始まった。

 まずは新郎新婦のプロフィール紹介。次に新郎からの軽い挨拶。職場でもスピーチは短く、要点だけを簡潔にと心がけている俺だ。この辺りはさっさと済ませることにした。

「本日はお忙しい中、私達の結婚披露宴にご出席いただきましてありがとうございます。短い時間ではございますが、ごゆっくりとお過ごしください」

 二文でウェルカムスピーチを終わらせたら、出席者、こと職場関係者からは笑いが起きた。


 テンポよく乾杯まで済ませた後は、いよいよ伊都お待ちかねのイベントがやってくる。

『ではここで、ウェディングケーキ入刀を行います』

 司会者の言葉と共に、ワゴンに載せた『ケーキ』が運ばれてくる。

 それは一般的なウェディングケーキとはかなり違った見た目をしている。白いのは白いがクリームは一切乗っていないし、四角くてやや平べったい。ワゴンの上でぷるぷると微かに震えている。ちなみに上に書かれた"Happy Wedding"の文字はチョコレートではなく、だし醤油のジュレで描かれているそうだ。

『ケーキ入刀というと一般的には甘いケーキで行いますが――』

 司会者が愉快そうに説明を添えている。

『新郎新婦は揃ってお豆腐が大好きとのことで、本日はお二人たってのご希望で美味しいお豆腐をご用意いたしました』

 会場にまた笑いが起こる。


 俺達の前に大きな四角い豆腐が置かれ、俺達がナイフを持たされている間に、カメラを持った出席者が興味深げに近づいてくる。

「本気でやるとは思わなかったぜ」

 とは、俺達に豆腐を勧めてきた石田の弁であり、

「俺も麺類で何かやればよかったです」

 霧島は割と本気で悔しがっていたが、麺類入刀はないだろ、さすがに。

 とは言え豆腐入刀もそれなりに珍しいのかもしれない。いくら俺達が豆腐好きだからといってそこまでこだわるか、と突っ込む向きもあるだろう。ケーキだって美味しいじゃないか、という意見にももちろん頷ける。

 だが考えてみて欲しい。ホテルで出される豆腐である。それも、結婚式でもない限りなかなか来る機会がなく、俺達が普段利用するようなビジホとは格が違う、高級ホテルで出される豆腐である。

 美味くないはずがない。

 食べてみたいと思うはずだ。

「すごい、美味しそう……」

 伊都が目の前の美しい豆腐に見とれている。俺と手を重ねるようにしてナイフを持ちながら、その目はすっかりウェディングトーフにくぎづけだ。

 俺はそんな彼女の腰に手を回し、こちらへ軽く引き寄せておく。

「もっとくっつけ、カメラに入んねえぞ」

「誓いのキスくらいの距離感でお願いします!」

 石田と霧島にはもちろんのこと、

「めぐ兄ちゃんも伊都さんも、今更照れなくていいから!」

「豆腐まで入れるとなると遠いなあ……お二人とも、もっと寄ってくるかな」

 翔や小野口課長にまで冷やかされたので、俺は力を込めて伊都を抱き寄せ、伊都も俺に肩をぶつけるようにして身を任せてきた。

『ケーキにナイフが入りましたら、どうぞ盛大な拍手をお願いいたします』

 アナウンスの後で司会者が俺達の方を見やり、準備ができたことを確かめてから続けた。

『ウェディングケーキ入刀でございます』

 二人で持ったナイフが、ゆっくりと豆腐に入る。

 柔らかい豆腐は銀色に光るナイフにも無防備で、さしたる力も込めないうちにするりと刃を受け入れていった。

 盛大にフラッシュが焚かれ、沸き起こる拍手と共にシャッターの切られる音が辺りに溢れた。

 きっといい画が撮れたことだろう。


 もちろん、豆腐は切る為だけのものではない。

『続きまして、ウェディングケーキならぬウェディングトーフを食べさせ合うファーストバイトを行います』

 切ったら食べる。当たり前のことである。

 目の前にこんな美味そうな豆腐があるのに、食べずに終わるなどあり得ない。

「結局やるのかよ!」

 石田からはいいツッコミを貰った。ナイスタイミングだ。


 確かに勧められた当初はやるかどうか迷った。俺は見世物になることに抵抗があったし、伊都は俺以上の恥ずかしがり屋だ。ケーキではなく豆腐でと言われても彼女は首を縦に振らないだろう。

 と思っていたのだが。

 意外や意外。いつしか伊都の方が乗り気になっていた。

「豆腐が美味しい式にしたいね!」

 とは、かつて彼女が俺に語った理想の結婚式だ。

 彼女がいいと言うなら俺の方に異存は――なくもなかったが、最後には羞恥心にホテルの豆腐への興味と、この機を逃してなるものかという欲求が勝った。何せ伊都が相手なら、こんな機会でもない限りは食べさせ合いっこなんてしてくれないからだ。


『ファーストバイトには、新郎から新婦へは一生食べ物に困らせない、新婦から新郎へは一生美味しい料理を作ります、という意味があります』

 司会者の説明の間に、俺は豆腐を掬う為の木匙を手渡された。

 これから、こいつで楽しい食べさせ合いっこをする。

『それではまず、巡さんから伊都さんへ。お願いいたします』

 皆がカメラを構える中、俺と伊都は豆腐の前でお互い向き合って立っていた。

 伊都の方は準備万端なようだ。とても幸せそうな顔で、俺が匙を差し出すのを待っている。

 そこで俺は木匙から溢れない程度に豆腐を掬い、皆の掛け声に合わせて、雛鳥みたいに口を開けている伊都にそっとあげた。伊都のつややかな唇が木匙をぱくっと咥えて、途端にその唇がにんまり笑み、彼女の目もきらきらと輝く。

 どうやら、とても美味しかったようだ。

「美味しい?」

「すごく!」

 俺の問いかけに伊都は笑顔で頷いてみせる。

 まあ、こうでもしないと皆の前で『あーん』なんて、伊都がするわけないからな。これもいい画が撮れたことだろう。

『次に、伊都さんが巡さんに食べさせてあげてください』

 司会者に促され、俺は木匙を伊都に手渡す。

 伊都はそれを無邪気に受け取ると、豆腐を底から掬い上げるようにがばっと取った。

 それはもう、木匙の上に豆腐の山ができあがるくらいの盛りっぷりで、居合わせた面々が笑い声を上げるほどだった。

「そんなの入るかな……」

 俺はこっそり懸念を示したが、伊都はあっけらかんと笑っている。

「巡くんならいけるよ!」

 随分と楽しそうに言うものだ。

「安井、男の見せ時だぞ!」

「器の大きいとこ見せてください、先輩!」

 また石田と霧島も勝手なことを。これで男の器のでかさを測られてたまるか。

 さておき、伊都が食べさせてくれるものを零したりはできない。

「よし、来い!」

 俺は覚悟を決めて口を開ける。


 すると俺の妖精さんは、にこにこと屈託なく山盛りの豆腐を差し出してきた。直に豆腐で視界が遮られ、俺は口いっぱいに豆腐を頬張る。ちょっと、鼻にもついた。

 果たしてその味は――ケーキの代わりとして用意されたものだからか、水気は少なくどっしりとした豆腐だった。味はかなり濃厚で、こくがあり、それでいて後味はさっぱりしている。大豆の香りが心地よく、口いっぱいに頬張ってもするりと入っていくクリーミーさが非常に美味い。添えられただし醤油のジュレの量も程よく、もう一口と言いたい衝動に駆られる。

 確かにこれはいい豆腐だ。


「ね、美味しいよね!」

 伊都はそう言いながら、俺の顔をクロスで優しく拭いてくれた。もちろんその辺りも石田達に写真に撮られていたようで、シャッターを切る音が随分長く響き渡っていた。

『ありがとうございました。皆様、席にお戻りください』

 司会者のアナウンスと共に、カメラを手にした一同はぞろぞろと席へ戻っていく。石田も霧島もにやにやしながら振り返ってきたので、あとで写真を見せてもらうことにしよう。

 そして俺と伊都も席に着き、お互いに顔を見合わせた。

「豆腐、もうついてない?」

「うん、素敵な巡くんだよ。私は?」

「可愛いよ、俺の妖精さん」

 周りに人がいなくなったのをいいことに、声を落として囁く。

 すると伊都はベールをさらさら揺らしながら、妖精の名にふさわしい愛らしさで笑った。

「巡くん、上機嫌だね!」

 当たり前じゃないか、こんなきれいな花嫁さんをいただくのだから。


 いつしか外はとっぷり暮れて、ピクチャーウインドウの向こうには星を散りばめたような美しい夜景が広がっていた。街明かりの一つ一つが温かく点された祝福の光のように見えた。

 すると幸福感が胸に満ちてきて、美しいものばかりのこの空間に思わずまた溜息が出た。

 俺は今まさに、史上最高に幸福な花婿に違いない。

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