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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
18/205

トライアンドエラー(2)

 検定を受けると決めたからには、まずテキストを揃えなければ。

 私は思い立ったが吉日とばかり、その日の帰りに書店に寄ることを決めた。残念ながら梅雨明け前の悪天候の為、本日は電車通勤だ。だから駅前まで出て、そこで適当な本屋さんを見て歩こうと思った。


 だから今日くらいはなるべく早く帰ろうと思ったのに、退勤できたのは午後七時五分前だった。

 目当ての書店は駅前のデパート内にあって、閉店時間は午後八時。走っていけばどうにか間に合いそうだ。

「お先に失礼しまーす!」

 慌しく挨拶をして広報課のあるオフィスを出る。

 それから早足で廊下を歩き出すと、隣のドアが見計らったようなタイミングで開き、

「あれ、園田。今日は上がるの早いな」

 安井さんがびっくりした顔で現われた。

「うん。寄るとこあるから」

 私は彼の前まで辿り着くと、足踏みしながら答える。そうしたところでタイムを短縮できるわけではなく、急いでるんだよというただのアピールだ。

 出てきたドアを閉めてから、安井さんは探る口調で尋ねてきた。

「どこか行くのか」

「本屋さんに寄ってくの。ほら、駅前に入ってる大きい本屋」

 資格関係のガイドブックなんかは大型書店で探すのが一番いい。あれはあるのにこれがない、みたいな隔靴掻痒の苦しみがなくて済む。

「まさか、図書カード買いに行くんじゃないよな」

 疑わしげに問い返されたのがちょっとおかしくて、吹き出しそうになった。

「違う違う、検定受けるのにテキスト見たくて。あの店って八時閉店でしょ?」

 私が事情を明かすと、安井さんは腕時計を見て眉を顰めた。

「今から行ったって間に合うわけないだろ」

「走れば間に合うよ。だから急いでるんだってば」

「仮に間に合っても、じっくり立ち読みする時間もないよ」

 苦笑いを浮かべた安井さんが、私の計画をあっさり否定する。

「それならモールの本屋に行けばいい。あれだって相当大きいし、十時までやってる」

「そうだけどさ。向こうまで行ってたら帰り何時になるかわからないよ」


 郊外にある割と新しめのショッピングモールには、全国チェーンの大型書店が入っている。私も何度か愛車で足を運んだことがある。

 とは言えそれはお休みの日だからこそできることで、会社からは随分遠いし愛車もないし、電車の駅からも離れた立地ではちょっと行きにくい。バスは通っているらしいけどどちらにしても一旦駅前まで出なくてはならないし、向こうまで行く距離を考えると億劫に思えた。そりゃ閉店までの余裕はあるけど、帰りのことを考えるとね。


「今日は自転車じゃないから無理だよ。じゃあもう行くから、お先に」

 言い残して立ち去ろうとする私を遮るように、安井さんが前に出る。

「じゃあ、俺が向こうまで乗せてってやるよ。もちろん帰りも送る」

 いきなりの申し出に、当然だけど私は面食らう。

「いや、そんなの悪いよ。と言うかそこまでしてもらうのも」

 とっさに断ろうとすると、それすら封じるように素早く言われた。

「俺も本屋に寄りたかったんだ。あと十五分待てるか?」

「だからいいってば。本当に悪いし」

「一緒に行きたいんだって。十五分で上がるから、待てるよな?」

「う、うん、そう言ってくれるのはすごくありがたいけど……」

 用件が一致してついでに乗せていってくれる、というのならありがたくついていくところだ。でも、そうじゃないんだろうなという予感がしていたから、私は気が引けていた。

 安井さんは一度廊下を窺うように見回すと、私の手を取り、硬い何かを押し込むように握らせる。

「先に乗って待っててくれ。すぐに行く」

 何かはわかっていたけど、手を開いて見ずにはいられなかった。

 車のキーだ。

 厳密にはキーレスのリモコン。黒くて丸っこい形で、私の手のひらにさえ収まるサイズをしていた。

「早くしまえよ。誰かに見られたらうるさいぞ」

 渡しておいてそんなことを言う。

 私は返す言葉も見つからず、大慌てでそれをポケットに隠す。

「……何か、ベタな手口」

「手口とか言うなよ。一度こういうことしてみたかったんだ」

 声を落とした彼が、ポケットに手を突っ込んだままの私を満足げに見る。

「それじゃ、また後で」

 そして軽い挨拶の後、人事課のオフィスが入っているドアへと踵を返した。

 ドアが完全に閉まった後、私は今更のように廊下へ視線を巡らせた。幸いなことに他の人影はなく、慌てているのを見られずに済んだ。あんな小さな物を受け取っただけなのに、急にポケットが重くなったように感じられる。

 付き合ってた頃にもしなかったことなのに、今の方がまるで、普通に社内恋愛してるみたいだ。


 私は地下駐車場へ下り、停めてあった安井さんの車に乗り込んだ。

 助手席には抵抗があったし、何だかんだで利用者の多い我が社の駐車場で、自分のじゃない車に乗っているところを見られたら何を言われるかわからない。私は後部座席に潜むように座って、安井さんが来るのを待った。変に後ろめたくて、断るべきだったんじゃないかと思って、こそ泥にでもなった気分だった。


 七月の夜の蒸し暑さに耐えてじっとしていること十五分、宣言通りに現われた安井さんは、運転席のドアを開けるなり不思議そうにしていた。

「暑くなかったか? エアコン入れればよかったのに」

「自慢じゃないけど私、ペーパー歴八年だから。人様の車なんておいそれと弄れないよ」

「確かに自慢にはならないな」

 安井さんが運転席に座る。微かに車が揺れる。

 シートベルトを締めながら振り返り、

「何で後ろに乗ってる? こっち来いよ」

「誰かに見られたら困るよ。結構人来るみたいだし、この時間は」

「助手席に乗せてるくらいで疑われたりしないだろ」

「いいの。乗せてってもらうのに迷惑かけたくない」

 私が言い張ると、安井さんは不服そうにしながらもエンジンをかけた。

「迷惑だと思うくらいなら誘ってない」

 たちまち車が息を吹き返す。

 エアコンからの風が私の前髪を揺らし始め、少しだけ涼しくなる。

 ちょうど車が発進して、すぐに暗い駐車場から外へ出てくれたので、わだかまっていた何とも言えない後ろめたさも和らいだ。

「確かにそうだね。ありがとう、誘ってくれて」

 声をかけてくれて嬉しかったのも、助かったのも事実だ。気分を切り替えてお礼を言ったら、安井さんは何がおかしいのか声を立てて笑う。

「素直でよろしい」

 私の方も、安井さんが楽しそうにしているのは悪い気がしない。


 少し走るとますます爽快な気分になって、後部座席から問いかけてみた。

「安井さんは何買うの?」

 バックミラー越しに一瞬だけ目が合い、安井さんが答えた。

「ちょっと雑誌でも見ようかと思ってた。近頃、なかなか本屋まで行く機会がないから」

「本屋さんは手に取って選べるのがいいよね」

「だな。お前は? 検定受けるって言ってたよな」

「そうだよ。DTPのね」

 私は後部座席の背もたれに寄りかかる。

 この車はクッションが程よい硬さで、座り心地がいい。

 そういえば後部座席に乗せてもらったのは初めてだ。バックミラーに映る安井さんの目元と、運転席にあるすっきりした短髪の後頭部。初めて見る視界が新鮮だった。

「お前、DTPなら持ってなかったか?」

「あるけど、勉強し直すつもりでいるんだ。検定もこの際だからコンプしようかと」

「へえ、勉強熱心だな」

「そうだよ私って勤勉なんだよ。もっと誉めてくれてもいいよ」

「資格取ったらいくらでも誉めてやるよ」

 安井さんが楽しげに笑うと、背もたれの陰に覗くワイシャツを着た肩も軽く揺れた。

「資格って自分の価値の証明だって、東間さんが言ってたんだよね」

 私は先輩からのありがたいお言葉を口にする。

「だから私も自分の価値を高めてみたいなって思って。まあ使わない資格でもないし」

「むしろ使わない資格なんて宝の持ち腐れだろ」

 からかうような言い方で安井さんが混ぜっ返した。

「ペーパー歴八年なんてもったいない。車乗らないのか、園田は」

 そこを突かれると痛い。学生時代、普免あったら就職にも有利だよねなんていう安易な気持ちで取得した運転免許。しかしロードバイク愛好家の私にはまさに宝の持ち腐れとなっていた。

「だって自転車の方が楽しいし、気持ちいいし、一台でどこへでも行けるし、エコだし」

 利点を挙げればいいことずくめだ。私がずらずらと語ると安井さんはまた笑う。

「そうだよな。園田は自転車大好きだもんな」

「まあね。でも確かに、ちょっともったいない気はしてる」

 悪天候にも動じないのが車のいいところだ。自家用車で通勤したいとは思わないけど、あればあったで例えば天気の悪い休日なんか便利に違いない。しかしその為だけに買う気になるほど安価なものでもないし、それほどの余裕があったらまずは愛車――ロードバイクに使いたいという欲求もある。

「安井さんは主に車で通勤してるの? 結構な頻度で電車にも乗ってくるよね?」

「定期買ってるけど、忙しい時期は車にしてる。その方が早く帰れるからな」

「そっか。そういう利点もあるよね」

「あとは天気の悪い日も。小雨程度ならいいけど、土砂降りの日は駅まで行くのも大変だ」

 それももっともだ。私は頷きながら、今も小雨が張りつく窓ガラスに目をやる。

「じゃあ梅雨の時期なんかはいつも車になるんだね」

「そうだな。最近は特に、天気予報を見るようにしてるよ」

 梅雨明けまではあと少しのはずだった。私はその日が待ち遠しくて仕方がない。

 やっぱり自転車に乗っている方が楽しいし、気持ちがいいからだ。


 仕事の後で疲れた目に、ショッピングモールの華やかな照明は眩しかった。

 私達はサマーセールを開催中の各種テナント前には目もくれず、真っ直ぐに大型書店へと向かう。

「じゃあ私、資格本のコーナー見てくるよ。安井さんは雑誌のとこにいる?」

「そうするかな。適当に見てるから、済んだら来てくれ」

「わかった。それじゃ後でね」

 私達は書店に入ってすぐに別れ、私は一人で資格本を探すべく、書店の奥深くへと踏み込んだ。


 資格、検定関連の書籍が並ぶ一帯は書店の中でもやや無機質な印象を受ける。実用本位というか、装丁よりも中身で勝負という潔さがあるというか。おかげで目当ての本も探しやすく、私はすぐにDTP検定のガイドブックと出会うことができた。

 早速それを手に取って、ぱらぱらめくって確かめてから購入を決める。こういうのはじっくり立ち読みするものでもないし、即決でいいはずだ。

 だから駅前の書店でも閉店間際に滑り込みさえすれば、支障はなかったはずなんだけど――せっかくここまで連れてきてもらったんだ。私もたまには雑誌の立ち読みでもしようかな。ボーナスも出たことだし、そろそろ愛車のカスタムもしたいし。


 自転車雑誌を目当てに、そして安井さんを探して雑誌コーナーへ足を向けると、先に安井さんの方が見つかった。

 立ち読みしているだろうと思っていたのに、安井さんは手に何も持っていなかった。

 書店の壁に貼られたポスターを、意外と真剣な目で見ていた。

 ポスターは黒い背景に大輪の花火が浮かぶ、花火大会のお知らせだった。毎年八月になると催される花火大会は、地元企業が挙って協賛するそれなりに規模の大きいものだった。私も短大時代には友人達と港まで見に出かけたことがある。

 ただし就職してからは全くご縁がなかった。夏休み期間のイベントなので、例年平日に開催されているからだ。ここ八年間は帰宅途中にビルの隙間に上がる花火の端っこでも眺めるか、残業中なら社屋の中で、花火が上がっているらしい音に耳を澄ませつつ過ごすのが関の山だった。

 それでもこういったポスターを見ると、夏だなあと実感が湧いてくる。


「花火大会の時期だね」

 私は安井さんに、そう声をかけた。

 安井さんが驚いたように振り返り、私を見てすぐに微笑む。

「ああ。今年も来たなと思って見てた」

「我々には関係ないも同然だけどね。このまま行くと今年も残業だろうし」

「まあな。音だけ聞くことになりそうだ」

 すっかり諦めきった様子の安井さんが、その後で思い出したように続ける。

「でも、見ようと思えば見られる。屋上からだと結構きれいに見えるって話だ」

「そうなんだ。会社の屋上かあ」

 入社して九年目だけど、屋上なんてそうそう出たことない。花火の穴場だったとは意外だ。

「でもその口ぶりだと、安井さんは見たことないんじゃないの? 屋上から」

 私が尋ねると安井さんはあっさり認めた。

「俺はないよ。でも見た奴がいるんだ」

「ふうん」

「それも可愛い女の子と一緒に。むかつくだろ?」

 安井さんは、まるでこの場にいない人を揶揄するみたいな笑みを浮かべる。

 私はそれを微笑ましい思いで眺めた。よく見る顔だ。主に、仲良しの相手について話す時の顔。

「何となくわかったかも。それって私の知ってる人じゃない?」

「よくわかるな。その通りだ」

 自称模範的社員のあの人。絶対そう。

 となると一緒に見た可愛い女の子って、噂になってた去年の新人さんなんだろうな。

「ちょっとロマンチックでいいね。一緒に花火見るのとか」

 私が素直に感想を述べると、安井さんは意外そうに、涼しげな目を瞠って私を見た。

 それから珍しくそわそわした様子で言った。

「俺達も見る? 屋上で花火」

「無理じゃないかな。賭けてもいいけどその日も残業だと思うから」

「お前……断るにしてももうちょっとロマンのある返答できないのか」

 そもそも残業にロマンなんてあるはずがない。

 八月は繁忙期だし、検定もあるし、きっと慌しい中で花火の音だけ聞くことになるだろう。今から既に確信している。

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