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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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ウェディングロードを駆け抜けろ(3)

 退勤後に伊都とも話し合って、夕飯は家で食べることにした。

「この荷物じゃお店に寄りづらいもんね」

 伊都もすんなり同意してくれて、その後でちょっと得意げにしてみせる。

「お豆腐のストックならあるから大丈夫! 帰ったらご飯炊こう!」

「疲れてるのに作らせて悪いな」

 今日は昼休みも慌ただしかったし、早く上がれたとは言え仕事もあった。これから家に帰って、その後で夕飯の支度を始めるのも大変だろう。俺はそう思ったのだが、伊都はあっさり首を横に振る。

「ううん、全然。仕事の方は割と暇だったし」

 その言葉通り、彼女の表情からは疲れの色なんて一切窺えなかった。それどころか今にも自転車で走り出しそうなくらい元気いっぱいに見える。

 一方、俺の方も今はそれほど疲労を感じていなかった。正月明けで今日の仕事が忙しくなかったというのもあるが、恐らくは一番の理由は気分が高揚しているからだろう。

 今日から、俺達は夫婦だ。

 婚姻届を出してから五時間が過ぎていたが、時が経つにつれじわじわと実感が強くなる。

 それを後押しするみたいに皆が俺達を祝ってくれている。自転車に乗る為に地下駐車場へ下りた俺達は、花束を収めた紙袋を提げている。せっかくきれいな花ばかり貰ったので、傷まないように家まで持って帰りたい。

「時間あるし、自転車押して帰る?」

 伊都も心配そうに紙袋を覗き込んでいる。

「うちの近くならともかく、大きな通りを紙袋提げて走るのは危ないし」

「そうだな、途中まではのんびり歩いていくか」

 たまにはそういうのもいい。そう思って、俺達は愛車を押しながら駐車場を出た。


 昼と変わらず、天気のいい夜だった。

 冬の夜空は澄んでいて、ビル街の明かりの中でも星の瞬きがよく見える。日が落ちてからは気温こそぐっと低くなっていたが、風はほとんどなく、歩いている分にはそれほど寒くなかった。

「何だか、昔を思い出すね」

 並んで自転車を押しながら、伊都が白い息をつく。

 足音と共に、ハンドルにかけた紙袋が揺れる微かな音が響いていた。

「昔ってどのくらい昔?」

 俺が聞き返すと、途端にいたずらっ子みたいな笑みが浮かぶ。

「私と巡くんが初めて付き合った頃の話」

「それは確かに昔だな」

「あの頃、よく一緒に帰ったじゃない。こうやって並んで歩いて」

「そうだったな……」

 付き合いたてのあの頃は周りにも隠していたから、二人でいられる夜の帰り道が一番の楽しみだった。伊都は自転車で通勤していることがほとんどだったが、俺と帰る時には駅までの道を自転車を押して歩いてくれた。会社から辿るさほど長くない道のりを、俺達は惜しむように、楽しむように、なるべくゆっくりと歩いた。

 今では俺まで自転車に乗るようになっていたが、こうして押して歩いてみると、当時の彼女の気持ちが少しわかるような気がした。

「あの頃、付き合ってくれてありがとうな」

 今更礼を言うのも妙な話だが、何だか言いたくなってしまったのだから仕方がない。

 伊都もくすくすと声を立てて笑った。

「それって、どっちの意味の『付き合う』?」

「両方。俺の彼女になってくれたことも、自転車を押して歩いたことも」

 ロードバイクはそれほど重いものではないし、多少の坂でも押して歩くのは辛くない。だが乗って走った方が速いのは当然だし、楽でもある。わざわざ一緒に歩いてくれた彼女の気持ちを、今頃ではあるがとても温かく思う。


 ビル街と街灯の明かりは道沿いに点々と続いていて、遠くには駅舎の眩しい光が見えている。

 今日の俺達は駅には用なんてないが、かつてはあの光が俺達の帰り道の終わりを告げていた。今となってはその切なさすら懐かしい。

「押して歩きたくなる理由がちゃんとあったんだよ」

 なんて、可愛いことを伊都は言う。

 もちろん俺だってそうだ。あの頃はとにかく一緒にいたかった。何を差し置いてでも彼女と過ごしたくて、一緒の帰り道をとても貴いものだと思っていた。

 今になって思えば、俺はもっと伊都の気持ちに、俺と一緒に歩いてくれることに感謝をしておくべきだった。

「私達、結婚しちゃったね」

 夜空を見上げて、伊都がそっと呟く。

「あの頃は、こんな未来までは想像つかなかったな」

「夢だけはあったけどな」

「だよね。この人と結婚できたらいいなあって思ってたけど……」


 お互いにいい歳の大人だったが、今よりは若くて夢見がちだった。

 好きになった子と何の障害もなく結婚できると思っていたほどだ。単純だった。でも、同じくらい真剣だった。

 今の俺だってそれほど成長してはいない。でも真剣なのはあの頃と同じだ。結婚に夢ばかり見ているのもそうで、今は伊都と過ごす新婚生活の楽しさばかりが思い浮かぶ。

 俺達の辿ってきた道が平坦なだけではなかったように、結婚生活にだっていろいろあるのだろう。俺と伊都もいつかはそのいろいろにぶつかって、思い悩む日がやってくるのかもしれない。いくつかの障害が目の前に現れて、二人がすれ違うこともあるのかもしれない。

 だが伊都となら、何でも乗り越えられる確信がある。現に俺達は時間すら解決できないような大きな障害を乗り越えて、こうして再び一緒に歩いている。

 浮かれてばかりもいられないが、悲観的になることもない。


「夢を叶えたんだと思うと、俺達、結構すごいよな」

 実感を込めてそう告げたら、すかさず伊都も頷いた。

「うんうん! 私達、本当に夢叶えちゃったよね!」

 その瞳は星空を映したみたいにきらきらと、美しく輝いている。

 隣を歩きながら、俺はその横顔にしばし見惚れた。あの頃から好きだった彼女が、一度は遠く離れて焼けつくような思いを味わわされた彼女が、今では俺の妻になった。

 俺の妻になって、今日で三十歳になった彼女は、あの頃よりもきれいになっていた。

「嬉しいよ、こんな素敵な奥さんを貰えて」

 俺は真っ白な息と共に呟いた。

 すると伊都のうっとりした表情が、一転して動揺の色に変わった。

「えっ。あ、わ、私も……」

「私も、何? お前は奥さんなんて貰ってないだろ」

「だから、えっと、素敵な……旦那さんを貰えたなって……」

 消え入りそうな声ではあったが、言われてみれば当然いい気分だった。

「旦那さんっていい響きだな、もっとたくさん言ってくれ」

「い、いいよもう! 巡くんは巡くんだよ!」

「なんだそれ、よくわからない理屈だな」

「結婚したって私は巡くんって呼ぶもん。だからいいの!」

 ちょっとからかいすぎただろうか。この寒さの中でも伊都は湯上がりみたいに赤くなって、しまいにはそっぽを向いてしまった。


 つくづく、俺は可愛い嫁さんを貰ったものだと思う。

 言っている傍から早速浮かれているようだが、今夜くらいはいいだろう。俺達は新婚で、今夜は結婚記念日だ。


「……それとも、めぐめぐって呼ぶ?」

 珍しく低い声で、伊都が唐突に言った。

 ちらりと目を向ければ、俺の横で彼女は唇を尖らせている。それでいて瞳は笑っているから、怒っているわけではないのがよくわかる。

「急に何だよ、仕返しのつもりか?」

「うん。巡くんのこと、今日からめぐめぐって呼んじゃおっかな」

「やめろよ、柄でもない」

「だって意地悪ばっかり言うんだもん」

 俺の伊都にする意地悪なんて、はっきり言って意地悪の範疇に含めるのもおこがましいようなからかいだ。そもそも伊都が必要以上に恥ずかしがり屋なだけだと思う。『旦那さん』なんて、『安井夫人』と同じくらいこれから言われ続けるフレーズだろうに、今から慣れておかないでどうする。

「めぐめぐなんて呼ばれたとこ、石田や霧島に聞かれてみろ。一生言われるぞ」

 既に『妖精さん』発言で散々に弄られている現状だ。これ以上の弱味をあいつらには握られたくない。

「確かに! あの二人なら大喜びでからかいそうだね」

「だから絶対やめろよ。そんな可愛い呼び名は俺らしくないし」

「可愛いの、巡くんには似合うと思うけどなあ」

「どこがだよ……」

 俺が呆れると、伊都はさっきまでの怒りもあっという間に忘れてにこにこし始める。

「巡くんってロマンチストだし、急に子供っぽいこと言ったりするし、可愛いと思うよ」

「伊都ほどじゃないよ」

「私より可愛いよ! めぐめぐって呼んでも全然変じゃないくらい」

「お前より可愛いわけないだろ、お前は俺にとっては世界で一番可愛いんだから」

 反論しつつ、これではまるでバカップルの会話だなと思う。

 いつものことか。

「もう、何言ってんの」

 ハンドルを握る伊都は俺の言葉をかわした後、今度はこちらの顔を覗き込んできた。照れと悪戯心が混在した表情で言う。

「ね、めぐめぐ」

 彼女にとってはこれが俺を困らせる唯一無二の手段なのだろう。

 そのいたいけな対抗ぶりに、俺もつい微笑んで応じた。

「どうかしたのか、いといと」

「いといとは何か変だよ、めぐめぐだけでいいよ!」

「こういうのはお互い様だろ、俺はめぐめぐならお前はいといとだ」

「ああ言えばこう言うなあ、めぐめぐは」

「いといとこそ。子供みたいで可愛いよ」

「私、今日で三十なんだけど!」

 他愛ない言い合いを繰り広げるうち、たまらなくなって俺が吹き出すと、伊都もおかしそうに声を上げて笑い出す。


 道の向こうに駅舎の明かりが近づいてくるが、今はちっとも寂しくない。

 ここを通り過ぎてもなお、俺は伊都と一緒にいられる。こうして笑いながら帰る道はまだ続く――。


「仲がよくていいねえ、さすが新婚さん」

 全く唐突に。

 背後で、小野口課長の声がした。

 反応したのは直属の部下である伊都の方が速かった。とっさに立ち止まって振り向き、背後に立つトレンチコートの似合う上司を視認した瞬間に狼狽し始める。

「わ、わ、課長……! いつからこちらに……!?」

「駅まで歩いていこうとしたら、君達の後ろ姿を見かけてね」

 小野口課長はいつものように温厚そうな顔つきでいる。

 この人がうろたえることはあるのだろうか、そんな疑問さえ湧いてくる。

「声をかけようかと思ったんだが、君達があんまり楽しそうなものだから。後をつけたみたいになっちゃって、悪かったね」

「いえ……」

 俺はそうとしか答えられなかった。

 頭の中はたった一つの疑問でいっぱいになっている。

 つまり――俺達のバカップル的会話、及び名前の呼び合いもこの人に聞かれていたのだろうかという点についてだ。

「そういえば、安井くんには言ってなかったね。ご結婚おめでとう」

「ありがとうございます」

 祝福の言葉に一礼すると、小野口課長は笑いを堪えるように小さく咳払いをした。

「しかし、安井くんって可愛いんだねえ。園田さんと一緒だと君は歳相応の若者らしくなるな」

 あ、これ、聞かれてたっぽいな。

 俺が軽く眩暈を覚えていれば、小野口課長は伊都にも笑いかける。

「君達を見てたら、僕も妻の顔が見たくなったよ。じゃあまた明日ね、園田さん」

「は、はい。お疲れ様です……」

「勤務時間外では『安井さん』の方がいいかな?」

「えっ、あの、えと、お任せします……」

 伊都が縮こまるように俯いたのを見計らい、課長は楽しそうに俺達を追い抜いていった。

 こつこつと響く革靴の足音が遠ざかり、トレンチコートの後ろ姿が駅舎の光の中へ消えていくまで、俺達はその場で抜け殻のように佇んでいた。


 人間、生きていれば仕方なく恥を掻く。

 そして人生において恥は増えていくばかりのものだ。俺は三十二年と少しの人生でそのことを痛感していた。

「もう開き直って生きてくしかないな……」

 駅舎の前を通り過ぎ、尚も自転車を押して歩きながら俺はぼやく。

 それに伊都が力なく笑った。

「しばらくは何言っても『新婚さんの惚気』って思われそうだね……」

「思われそうじゃなくて、もう思われてるだろうな」

 石田にも、霧島にも、小野口課長にも――きっと社内の誰にもそう思われていることだろう。

「恥ずかしいなあ……」

「まあ、開き直っちゃえばいいんだろうけどな」

 これまで見栄を張り、格好つけて生きてきた俺に、それは難しいことかもしれない。

 しかし俺の内面は決して格好いいものではない。伊都のことは妖精さんだと思っているし、可愛すぎてめろめろになっているのもばれているだろうし、彼女とだったらバカップル的会話も妙に楽しくなってしまう。どこからどう見ても色惚け野郎である。

 仕方がないではないか。可愛い嫁を貰ったのだから。

「このまま、ウェディングロードを駆け抜けるとするか」

 覚悟を決めた俺の呟きに、伊都は不思議そうな顔をする。

「ウェディングロード?」

「そう。結婚式まで、この調子で突っ走ってやろうと思うよ」

 今更格好つけたってどうしようもない。

 それなら俺は新婚さんらしく、愛妻主義を貫いたまま結婚式までの日々を駆け抜けよう。変に澄ましたりするのもやめて、思いっきり奥さん自慢、結婚した自慢をしてやろう。

「これからも、めぐめぐって呼ぶ?」

 伊都が確かめるように聞いてきた。

 もちろんそれにはかぶりを振った。

「俺は、お前にだけは格好いいって思われたい」

 他の人にはされなくなるかもしれないからな。

 それでも伊都にだけは、愛妻家の素敵な夫だと思われたい。見栄を張ってない俺を、伊都だけはそれでも好きでいてくれたらいい。

「いつだって思ってるよ」

 伊都は屈託なく、そう言ってくれた。

「巡くんは私の……世界一の旦那様、だからね」

 後に付け足した言葉だけはかなり、恥ずかしそうにしつつ。

 そして俺は緩む口元を隠しきれず、にやにやしながら自転車を押す。


 走り出したくなるような、胸にじんと染みるような、たまらない幸福感が込み上げてくる。

 伊都の言葉で火がついた。

 俺はこのまま、ウェディングロードを駆け抜けられそうだ。

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