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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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ウェディングロードを駆け抜けろ(2)

 その日の定時過ぎ、いきなり石田から電話があった。

『安井、まだ人事にいるか?』

 やぶからぼうの問いかけだった。

 嘘をついても仕方がないし、とりあえず答える。

「ああ。あと三十分くらいで帰るけど」

 今日は端から残業する気もなかった。幸い正月休み明けでさほど忙しくもなかったので、人事課一同にも今日は早く帰ろうと呼びかけた。今は課員達も退勤し、俺もタイムカードを切って帰り支度を始めているところだ。

『いるんだな、よしよし』

 俺の答えに、石田はなぜか満足げにした後、

『じゃ、これから霧島と二人で行くわ』

「これから? いやいいけど、何の用だ?」

『野暮なこと聞くなよ。即行で行くから首洗って待ってろ』

「なんだその脅し文句は」

 脅迫とも思える言葉を寄越しつつ、ろくな説明もしないまま電話を切ってしまった。


 実のところ、奴らの用件は察しがついている。

 証人になってもらった石田と霧島には、当然だが今日が入籍予定日であることも事前に打ち明けていた。恐らくはそれ絡みでお祝いの言葉でもくれる気なのだろう。

 別に気を遣わなくてもいいのに。

 そう思いつつも、あいつらを待ちながら何となくそわそわしてしまう。


 石田と霧島は電話から五分も経たないうちに現れた。

「失礼します!」

 やたら威勢のいい挨拶と共にドアを開けた石田は、人事課を見渡した途端に拍子抜けした顔をする。

「なんだ、安井だけかよ」

「他の皆さんは帰られたんですか?」

 続いて入ってきた霧島が尋ねてきた。

「ああ。早く帰りたかったから、皆にも早く上がってもらった」

「すごい、職権濫用ここに極まれりですね」

「馬鹿言うなよ、部下に無理をさせない最高の上司だろ」

 早く帰れる日には皆で早く上がる。むしろ喜ばしいことだろうに。

「で、お前らは何の用だ」

 俺が聞き返すと、

「お、そうだそうだ。ちょっと用があってな」

「お邪魔しますね、先輩」

 二人は相変わらずの無遠慮さまで踏み込んできた。そして俺の机までやってくると、二人揃って目を瞠る。

「先輩の席、お花畑じゃないですか」

 霧島が声を上げるのも無理はない。

 俺の机には現在いくつかのミニブーケが置かれており、薔薇やカーネーション、ガーベラなどの優雅な花々が咲き乱れていてさながら花園のような雰囲気を醸し出している。

「次はお前がお花の妖精さんでも目指してんのか?」

 石田は会心の笑みでからかってきた。

 禁断のワードが登場したので、俺は奴をきつく睨む。

「お前、そのネタで弄るのやめろ。俺のハートはガラス製なんだぞ」

「マジかよ。安井はとうとう心臓まで可愛いメルヘン仕様になったか」

「メルヘンとか言うな!」

 俺が咎めると石田はげらげら笑い出した。

「お前みたいな男が無駄にロマンチストとか、面白すぎんだろ!」

「一生弄られるネタができてよかったですね、安井先輩」

 霧島まで穏やかな笑顔でとんでもないことを言いやがる。

「お前ら……! 営業課には悪魔しかいないのか!」

 去年の俺の誕生日、酔っ払った挙句に二人の前で醜態を晒した件は、未だに鉄板の弄られネタとして存在していた。

 今では事あるごとにこんな調子で言われてはへこまされている。

 忘れて欲しいことほど一切忘れてくれないのがこの二匹の悪魔である。営業課唯一の良心であった小坂さんが退職してからというもの、こいつらの凶悪さに歯磨きがかかってきたように思う。何もかも酔っ払ってぶちまけた俺が悪い、と言ってしまえばそれまでなのだが。

 不幸中の幸いと言うべきか、伊都にはもう知られていて、それほど引かれなかったのはよかった。だが酒には気をつけようと改めて思った出来事だった。

「俺が自前で花なんて飾るわけないだろ、貰ったんだよ」

 言い返せば言い返すほど不利になるのもわかっているので、俺は抗弁を諦めて説明した。

「人事課の部下一同が結婚祝いに、ってな」


 昼休みを終え、人事課へ戻った後のことだ。

 伊都と廊下で別れてドアを開けた瞬間、皆から花束を差し出された。口々にお祝いの言葉もくれた。

 あまりのことに、俺は面食らって戸口で棒立ちになっていた。祝福の言葉くらいはかけてもらえるだろうと思っていたのだが、まさか出迎えてまで貰えるとは予想していなかったのだ。

 こちらとしては結婚式に来てもらうことにもなっていたし、更にこうして祝ってもらうのは申し訳なかった。だがせっかく用意してくれたものだ。皆の気持ちごとありがたくいただくことにした。

 伊都も広報課で同じように祝われているだろうか。小野口課長や東間さんに冷やかされて、照れまくる彼女の姿が目に浮かぶようだった。


「よかったな安井、部下に慕われてるじゃねえか」

 石田が俺の肩を叩いてきた。

 てっきり茶化されるかと思ったので、拍子抜けしつつ応じた。

「ありがたいと思ってるよ。皆も忙しいのに、花まで用意してくれて」

「そうだな、大いに感謝しろよ。何かの折には倍返ししてくれてもいい」

「……なんでお前が貰う側みたいに言うんだよ」

 俺のツッコミに、石田は黙って霧島へ視線を投げる。

「皆、考えることは一緒ですね」

 目配せを受けた霧島はそう言うと、提げていた紙袋から花束を取り出した。

 オレンジ色の小ぶりのユリを束ねた、可憐なブーケだった。

 それから石田の方をちらりと見て、石田も頷いてから語を継ぐ。

「うちの課からもささやかながら結婚祝いだ。厳密には前祝いってとこか」

「先輩、ご結婚おめでとうございます。結婚式も楽しみにしてますね」

 花束を手渡された俺は、先程までの弄られようとのギャップに戸惑った。

「ありがとう。悪いな、気を遣わせて」

 ブーケのユリは大輪のものと比べても香りが強くなく、上品だった。柿の実のようなきれいなオレンジ色の花びらも、一般的なユリより慎ましくこじんまりとしている。また他の品種と違い、花が上向きについているのも特徴的だった。

「これ、ユリだよな?」

「ああ、スカシユリって言ってたな」

 石田がまるで聞いてきたように答える。

 次いで霧島も笑った。

「選んでくれたのは藍子さんなんです。営業課は男所帯で、こういうの明るくないもので」

「あいつも元とは言え営業課員だしな」

 さすがは石田夫人、可愛らしいセンスである。石田や霧島に選ばせたらこうはいかないだろう。

 花がオレンジ色なあたり、伊都をイメージして見立ててもらった花束かもしれない。

「そして安井も元は営業課員だろ」

 ブーケに見入る俺に、石田は更に続ける。

「入籍の日までわかってんのに、何にもしないってのはさすがにな。うちでも祝わせてもらうのが筋だ」

「そうか……ありがとな」

 古巣と言っても、営業課を離れてからもう何年も経つ。今ではすっかり人事に馴染んでしまって『戻りたい』と思うこともなくなってしまったが、それだけの月日を隔ててもなお、こうして昔の仲間に祝ってもらえるというのは。

 何だか、感慨深いな。

「結婚式にも来てもらうのに、よかったのか。ここまでしてもらって」

 俺は尋ねると二人は笑い飛ばすように、

「馬鹿言うな。それはそれ、これはこれだろ」

「遠慮しないでくださいよ、先輩らしくもない」

 そんなふうに言ってくれたので、俺も素直に貰っておくことにする。


 しかし、今日一日で随分いろいろ貰ってしまったな。

 今日は婚姻届の為に自転車で来ていたから、帰りは大変かもしれない。伊都と外食して帰る予定だったのだが――さてどうしようか。


 幸せを噛み締めながらユリの花束を眺めていれば、

「ところで、どうだよ? 新婚さんになった気分は」

 石田がにやつきながら俺に話を振ってきた。

「どうと言われてもな……そりゃ嬉しいけど」

 冷やかそうとしているのかもしれないが、おあいにくさまだ。俺の方は名字が変わるでもなし、伊都ともこれまでずっと一緒に暮らしてきたのだから、さほど大きな変化があるわけではない。

 ただ、彼女が俺の妻になってくれた。それが全てだ。

「特に大きな変化があるわけじゃなし、落ち着いたもんだよ」

 そう答えたら、石田にも霧島にも呆れた顔をされた。

「聞いたか霧島、こいつこの期に及んで見栄張ったこと言ってんぞ」

「奥さん貰っても格好つけなんですね、安井先輩は」

「なんだその言い種は」

 別に格好つけて言ったつもりはないのだが、二人からはこの叩かれようだ。こいつらは俺がでれでれと締まりのない顔を晒している方がいいとでも言うのだろうか。

「俺も今日から所帯持ちだ。だらしない顔ばかりしてられないだろ」

 もちろん石田や霧島が普段からだらしない顔をしていないとは言わない、断じて言うつもりはないが、二人に後れを取った分、よりよい夫でありたいと思うのは自然な願望だろう。

「よく言うよ、こないだはでれっでれの顔で惚気まくってたくせに」

「こないだの話はやめろ」

 石田がまた俺の古傷に触れようとしたので、俺はすかさずそれを制した。

 しかし石田は一切気にするそぶりもなく、尚もにやにやしながら続ける。

「正直に言えよ。可愛い嫁さん貰って、本当は仕事も手につかんほど嬉しいんだろ」

「そりゃまあ、こんな日は誰だって早く帰りたいよな」

 俺は渋々、事実を認めた。

「部下の皆さんを早々に帰してしまうほどですもんね」

 霧島にも生意気なことを言われ、一瞬言葉に詰まってしまう。

「それだって、しょうがないだろ。今日が籍を入れた最初の日なんだぞ」

「だから早く帰って、奥様と水入らずのひとときを過ごそうと考えてるんですね」

「そうか、今夜が新婚初夜だもんな。全くやらしいな安井は」

「俺は何も言ってないだろ!」

「先輩駄目ですよ、職場でそういう話は品がないです」

「そうだぞ安井、いくら新婚で浮かれてるからって」

 言い出したのは石田だろ!

 営業課の悪魔二匹を相手取るのもすっかり疲れた。俺は溜息をつき、素直に認めることにする。

「わかったよ、正直に言うよ。伊都と結婚できてめちゃくちゃ嬉しい」

「おお!」

「遂にぶっちゃけたか! いいぞもっと言え!」

 霧島が歓声を上げ、石田が馬鹿みたいに囃し立ててきた。

「やっぱ夫婦になるって、同棲してるのとは違うよな。彼女より新妻の方がはるかに色気があるだろ」

 せっかくだから思いきり惚気てやろうと、俺は二人に向かって自慢してやる。

「伊都も同じ名字になるって言ったら恥ずかしがっちゃってさ、これがまた可愛くてぐっと来るんだよ」

「ああ、名字変わった時の反応はいいですよね」

「わかる、わかるぜ。俺もあれはいいと思う」

 既婚者である二人にも大いに同意された。やはりそういうものなのか。

「伊都が『安井さん』とか『安井夫妻』って呼ばれたら照れるだろうって言ってたからさ、二人とも機会があったら呼んでやってくれよ」

 俺がそこまで語って、霧島と石田が頷きかけた――その時だった。


 全く何の予兆もなく、ノックの音すらなく、人事課のドアが再び開いた。

 きいっと軋む音に気づいて俺達が振り向けば、

「あ、あの……お疲れ様でーす……」

 おずおずと伊都が顔を覗かせているのが見えた。

 彼女ははにかんでいるようにも、困っているようにも思える笑みを浮かべている。そして俺と目が合うと落ち着かない様子で逸らされたので、つまり、これは。

「い、伊都……」

 俺は慌てて声をかけた。霧島と石田がまるで他人事のように顔を背けたのも見逃さなかった。

「もしかして、聞こえてた?」

 そう尋ねると、伊都は俯き加減で答える。

「聞こえてたって言うか、廊下まで筒抜けだったって言うか……」

 たちまち霧島と石田が口を開いて曰く、

「だから俺、職場でこういう話は品がないですよって言ったんです」

「そうだぞ安井。可愛い嫁さん貰ったからって浮かれすぎだぞ」

 この手のひら返しっぷりを見よ。やはりこやつらは悪魔である。


 予想通り、伊都も広報課で祝福してもらったらしい。

 既に退勤したという彼女は、紙袋いっぱいの花束やプレゼントを俺に見せてこう言った。

「何かいっぱい貰っちゃって、申し訳なかったけど嬉しかったな」

 そこで俺も、自分の机に置いてあった花束を彼女に見せた。ついでに石田と霧島から手渡された、スカシユリのブーケもだ。

「これは営業課から貰った。選んでくれたの、石田夫人だって」

「藍子ちゃんが! 何かわかるなあ、この可愛さ……!」

 伊都はオレンジ色のブーケを手に取ると、顔をほころばせて眺めていた。やはり彼女にはオレンジ色がよく似合う。

 そして奥さんが誉められると黙っていないのが石田だ。

「まあな! うちの嫁のセンスもなかなかのもんだろ?」

「いつものことながら、我が事みたいに嬉しそうにしますね」

 霧島はそんな上司に苦笑した後、伊都に向き直って一礼する。

「そうだ。遅くなりましたがこの度はご結婚おめでとうございます、『安井さん』」

 その呼びかけに伊都は一度大きく目を瞠って、

「えっ、あ、ありがとうございます」

 慌てふためきながら頭を下げ返した。

 新しい名字にはまだ慣れていないようだが、自分のことだとわからないほどではないようだった。

「安井も『安井夫人』もおめでとう。俺が言うまでもないが、ずっと仲良くしろよ」

 石田もそんなふうに言ってくれて、伊都はあたふたしながら赤くなった。

「『安井さん』とか『安井夫人』とか、言われ慣れてないから恥ずかしいな」

 その恥ずかしそうな顔が可愛くていいのだ。

 と思う俺の横で、石田と霧島が口々に言った。

「そういうところが可愛くてぐっと来るって安井が言ってたんだぜ!」

「なので俺達にも積極的に呼んで欲しいと頼まれまして!」

「わっ馬鹿! あっさりバラすんじゃない!」

「あ、でもそれも、さっき外まで聞こえてたから……」

 俺の裏工作も石田と霧島の裏切りも、伊都は全てご存知だった。彼女は恥ずかしそうに微笑みながら続ける。

「私もね、恥ずかしいけど新しい名前で呼ばれるとすごく嬉しいし……」

 時々、ちらりと俺を見る。そのくすぐったそうな表情もいい。

「だから、あの、ありがとう。これからも巡くんともども、よろしくお願いします」

 そう言って、石田と霧島に向かって改めてお辞儀をする。

 すると礼を言われた二人は顔を見合わせ、やがて揃って溜息をついた。

「何か俺、藍子の顔が見たくてしょうがなくなってきた」

「俺も早く帰りたくなりました。そろそろお暇しましょうか、先輩」

 その方がいいだろうな。俺も今日は早く帰りたい。


 結婚すればわかる。誰だって自分の奥さんが一番可愛い。

 俺にとっては伊都こそが、世界で一番可愛い俺の妻だ。

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