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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
175/205

ウェディングロードを駆け抜けろ(1)

 クリスマスに積もった雪も、正月を過ぎる頃には解けていた。

 そして一月十日は朝からよく晴れていた。光る星が微かに見える冬の暁、向こうの空には朝焼けに染まる雲が浮かんでいた。

 天の配剤というやつかもしれない。自転車をアパート前の道路までまで運び出しながら俺は思う。


 頭にはヘルメットを被り、更に伊都から貰ったイヤーマフを身に着けた。

 手袋と靴下もクリスマスにプレゼントしてもらったばかりの新品だ。

 放射冷却のせいで冷え込みの厳しい朝だったが、これらの装備のお蔭で以前ほどは辛くなくなっていた。

「巡くん、お待たせ!」

 先に路上で待機していた俺に、部屋のドアの前から伊都が声をかけてくる。

「ああ」

 俺は手を振ると彼女は微笑み、ドアに鍵をかけた後で自転車を担いで、軽快に階段を下りてくる。

 冬用のサイクリングウェアに身を包んだ伊都は相変わらず可愛い。上着はフードつきの白いウィンドブレーカー、下はスポーツ素材の紫のスカートに、防寒用のレギンスをはいている。今朝もいい脚だ。

「いいお天気。まさに晴れの日って感じだね」

 伊都は路上に自転車を停めると、満足そうに大きく伸びをした。

「そうだな、晴れてよかったよ」

 俺もほっとしながら頷く。今日ばかりは晴れてくれないと困るところだった。

 いや、どんな天候だろうと今日の予定に変更なんてありえないのだが、どうせならいい天気の方が気分もいいし、縁起もいい。

 何よりも、自転車に乗れた方が都合がよかった。

「じゃ、今日の予定は当初の計画通りだね!」

 伊都も白い息とともに声を弾ませている。まだ明けない空の下、彼女の笑顔は朝日に先んじるように眩しかった。

 俺は目を眇めて応じる。

「そうしよう。昼休み近くなったら連絡するから」

 それから俺達は自転車を漕ぎ出し、まずは職場へと向かったのだった。


 今日、一月十日は、伊都の三十歳の誕生日だ。

 そして俺達が晴れて入籍し、夫婦になると決めた日でもある。

 しかしあいにく今年の一月十日は平日だった。もちろん婚姻届は二十四時間、三百六十五日受け付けているという話だが、市役所の開庁時間外に提出すると万が一不備があった場合、平日に呼び出しを受けてしまうことになる。そうなると平日に休みのない俺達には少々面倒なことになるし、何より二度手間だ。だから当日の昼間、出しに行くことにした。

 そこで俺達が立てた計画は、昼休みに二人で会社を抜け出し、その足で婚姻届を提出してくるというものだ。

 幸い市役所は我が社から目と鼻の先の距離にある。受理に手間取らなければ行って出して帰ってくるのは余裕だろう。

 大した距離じゃないから、もし天気がよかったら自転車で出しに行こう。

 そう提案したのは俺だった。

 その方が、より俺達らしい気がしたからだ。


 出勤してからは、まず集中して午前の仕事をどうにか済ませた。

 俺は人事課一同に、伊都は広報課の小野口課長にそれぞれ話を通してある。午後一時半にはお互いに仕事を切り上げ、ほぼ同じタイミングで昼休みに入ることができた。そしてスーツ姿のまま、自転車を停めている地下駐車場へ下りた。さすがに着替える時間まではない。

「巡くん、婚姻届持った?」

「ああ、持った」

 婚姻届は事前に記載を全て済ませてある。まだ旧姓の伊都の氏名も、結婚したら俺の姓を名乗ることもちゃんと記されている。

 証人をどうするかは迷ったが、お互い親もきょうだいも遠方にいる。だからこの市内に住む親しい人間に頼むことにした。

 石田と霧島だ。

 伊都も全く異論なしと言っていて、正月休みの間に二人へ相談を持ちかけたところ、揃って快く署名、捺印をしてくれた。

「戸籍謄本は?」

「もちろん持った」

「印鑑もあるよね? 私は持ったけど」

「俺もばっちりだ」

 確認される度に頷くと、伊都は満面の笑みを見せてくれた。

「さすが巡くん!」

「任せてくれ。じゃあ、そろそろ行こうか」

「うん、出発進行!」

 俺達は地下駐車場から自転車を出すと、市役所目指してペダルを漕ぎ始めた。

 朝と同じようによく晴れていて、目が眩むほどの日差しが冬景色に降り注いでいる。それでいて気温は未だに低く、スーツの襟元が肌寒く感じた。


 いつものように、市役所までは伊都が先頭を走っていた。勤務中はタイトスカート派の彼女も今日ばかりはパンツスーツだ。それは致し方ないと思うが、こうして見るとパンツスーツというやつもなかなか悪くない。俺は前方不注意にならない程度に、彼女の後ろ姿を楽しみながら走った。

 初めて二人で自転車に乗った時から、いつも伊都が前を行き、俺はその後ろで漕いでいた。その時の記憶がよほど強く刷り込まれでもしたのだろうか、俺は伊都が先頭を譲ってくれようとしても断り、常に後ろを走らせてもらっている。口さがない石田はそんな俺を『彼女の尻を追い駆けてる』などと形容するが、それもあながち間違いではないのかもしれない。

 彼女を追い駆けながら自転車で走るのは、最高に気持ちのいいことだった。

 冷たい風が次第に心地よくなってくる頃、スーツ姿の背中で揺れる彼女の髪がきらきら光って見えた。上着の裾がたなびき、細身のパンツをはいたラインのきれいな脚がペダルを漕ぐ。曲がり角を曲がる時だけ横顔がちらりと窺えた。微かに笑っているようだった。

 俺がこの時間を楽しんでいるように、伊都もまた、二人で漕ぐ自転車を楽しんでくれているといい。

 昔みたいに『一人で走る方が楽だ』とは言わせたくない。

 だから俺もペダルを漕いで、その後ろ姿に見とれながらも、引き離されないようについていった。


 平日だからだろうか、昼間の市役所は駐輪場も入口周辺も比較的空いていた。

 駐輪スペースに自転車を並べて停めた後、俺達はいそいそと受付窓口を目指した。

 婚姻届の提出先は、市民部市民課戸籍係。こちらの窓口もやはり空いていて、番号札も取らずに受付まで通された。そして婚姻届を提出し、身分証明をして、やけにあっさりと用が済んでしまった。

「終わったね……」

 市役所の建物を後にしながら、伊都が呆然と呟く。

 あまりにもあっさり用が済んだので拍子抜けしたのだろうか。俺は思わず苦笑した。

「終わったって言われると何か、違う届出をしてきたみたいに聞こえる」

「あっ、そっか。どっちかって言うと『始まったね』だね」

 彼女も気づいたか、少し慌てて言い直す。

「だけど急いできた割に、すっごく早く片づいちゃったなと思って」

「それだけ俺達の結婚に文句のつけようがなかったということだよ」

 我ながらオーバーな物言いだとは思うが、せっかくなのでそう言っておく。

 俺としてもあまりのスムーズな受理に実感がまだ湧いてこない。だが俺達はちゃんと夫婦になれたし、今日が俺達の結婚記念日になったことは間違いない。

 そして伊都は今日から、

「遂に『安井伊都』だな」

 俺が言うと、彼女は頬に手を当ててもじもじし始めた。

「そ、そうだね。何かちょっと、めちゃくちゃ恥ずかしいな……」

 いつものことながら、伊都の恥ずかしがる様子は何度見てもぐっと来る。

 お蔭で俺は今日、有給を取らなかったことを悔やんだ。天気もいいし結婚記念日だし、これから仕事になんて戻りたくない。

 だがこれから先、有給を使うべき機会は他にあるので――今日のところは終業まで我慢しよう。その代わり今日は絶対早く帰る。残業とかしない。

「恥ずかしがるなよ。今日からは『安井さん』って呼ばれるようになるんだぞ」

 俺はからかい半分でたしなめた。

 社内では旧姓を使う女性社員の方が多いらしく、伊都も旧姓の『園田さん』で通すつもりのようだ。だがそれ以外の場所ではもう『園田さん』ではなくなる。

「病院や銀行じゃ『安井さん』でコールされるんだからな」

「わあ、どうしよう。うっかり聞き逃しちゃいそう!」

 あながち冗談でもない口調で伊都は笑い、それから何か思い出した様子で続けた。

「そうだ、銀行に免許証も書き換えしてこなきゃいけないんだ」

「ああ。それと社内の各種届出もある」

「住民票貰ってきたし、暇見つけてやっとかないとね」

「これからはますます忙しくなりそうだな」

 そう、婚姻届を出して全て解決というわけではない。

 むしろ俺達の結婚は、まさにここから始まるのだ。二ヶ月後の結婚式に向けて、あるいは五月に予定している新婚旅行に向けて、そしてこれからずっと続いていく結婚生活に向けて、今まさに走り出そうとしているところだ。

「これからもよろしくな、伊都」

 駐輪場まで戻ってきてから、俺は握手を求めるつもりで彼女に手を差し出した。

 伊都は照れながらもその手を握り返してきて、こくんと頷く。

「うん、私も……よろしくね、巡くん」

「こちらこそ。いい夫婦になろうな」

 握り締めた伊都の手はいつものように小さくて、柔らかくて、今日も少しだけ冷たかった。スーツの袖から手首に巻いた革の腕時計が覗いて、今日は着けてくれていたんだ、と嬉しくなる。

「あと、ありがとね」

 唐突な感謝が後に続き、俺は目を瞬いた。

「ん? 何が?」

 すると伊都は実に言いにくそうに、耳まで赤くなって、上目遣いで俺を見ながら答える。

「わ、私をお嫁さんにしてくれて、あ、ありがと……」

「な……」

 それはそれで唐突な、予想外の言葉だった。俺は初め絶句したが、すぐに笑い飛ばした。

「何言ってんだ、当たり前だろ」

 するに決まっているし、今更反故にする気なんて微塵もない。せっかくこの手に取り戻せたのにまた失ってたまるものか。

 だが伊都は笑わず、懸命になって続く言葉を紡ごうとする。

「私、嬉しいよ。恥ずかしいけど、『安井さん』になれて……」

 そこまでが彼女の限界だったようだ。表情が見えないくらい俯いたかと思うと、急に俺の手をぱっと放した。

「って言うかそろそろ戻んないと! お昼食べる時間なくなっちゃうよ早く!」

「あ、ああ」

 勢いに押されるように、俺は自転車の鍵を外す。

 だが内心、やっぱり思った。

 今日は有給取っておくんだったな。こんな可愛い新妻を目の前にして仕事しろとか何の拷問だ。帰りたい。


 俺達は慌ただしく会社へ戻り、そのまま社員食堂で弁当を食べた。

「今日はあんまり食べる時間ないと思って、おにぎりだけにしたんだ」

 そう語る伊都の弁当箱には、数種類の可愛いおにぎりが詰められていた。おかかチーズ、高菜、たぬきおにぎり、ゆかりというラインナップで、俺はどれも美味しくいただいた。

 だが伊都自身はいささか不満そうだ。

「豆腐が足りないよね」

「それはしょうがないだろ。豆腐おにぎりはさすがに聞いたことがない」

 もしかしたら俺が聞いたことないだけで、実際はそういうメニューもあるのかもしれない。だが伊都から反論がなかったということは、さしもの万能食豆腐もおにぎりにはなれないようだ。

「今日のお夕飯は、何か美味しい豆腐料理にしようかな」

 伊都はここにない豆腐を求めるように、うっとりと思いを馳せながら続けた。

「巡くんは何食べたい? せっかくだからごちそうにしようよ」

「今日か? せっかくなんだし、外食でもいいと俺は思ってたけど」

 俺達が入籍した晴れの日だ。そして伊都の誕生日でもある。そんな日に、それも仕事で疲れた彼女に夕飯を作らせるなんてさすがにどうかと思う。

「どうせ今日は早く帰るだろ? 俺はそのつもりだったよ」

「そうだね、私も残業はしたくないかな」

 この辺りの気持ちは当然ながら一致した。誰だってこんないい日に居残ってまで仕事なんてしたくはないだろう。

「じゃあ、どこか寄って食べて帰る?」

「そうしよう。豆腐の美味い店、当たりつけとくから」

「うん、お願いするね」

 俺の返事に伊都はすぐさま頷いた。

 それからふと、その口元にはにかみ笑いが浮かんだ。

「な、何かさ、結婚しても変わんないね、私達」

「そうか? まあ、結婚する前から一緒にいたしな」


 戸籍や肩書上の変化はともかく、俺達自身の変化は同棲を始めた時と比べれば微々たるものだろう。こう言っては何だが、紙切れ一枚を提出したくらいで見違えるように何かが変わるなんてこともあるまい。心構えの程は別としてもだ。

 でも、そんなに焦って変わる必要だってないはずだ。

 これからの長い人生もずっと一緒にいると決めた以上は、必要があればおのずと変わる。そのうちに。


「もっと夫婦っぽい会話するようになるかなって思ってたんだ」

 伊都がそう言うので、俺は聞き返さずにはいられなかった。

「夫婦っぽい会話って、例えばどんなの?」

「えっと、ほら、霧島さんと長谷さんのとことか」

 ああ、あの二人は確かに夫婦っぽい会話をする。

 実際夫婦だから当たり前なのだろうが、二人の会話にはどことなく生活感と言うか、独特の世界と言うか、二人で築いている日々の暮らしがそこかしこに窺えるようだった。俺達と一緒に飲んで、解散して帰った後にどんな会話を交わしているか、何となく想像がつくなと思える夫婦だ。

「それから、石田さんと藍子ちゃんとか」

 あの二人は、結婚前からそうだったが、夫婦になってもいつでも楽しそうだ。

 何をするにも全力投球という印象があるし、石田が言うちょっとした冗談をすぐ本気に受け取る石田夫人という構図は結婚前とあまり変わらない。きっと俺達が見ていないところでもさぞかし明るい家庭なんだろうな、と思う。

「あと、小野口課長ご夫妻とか」

 あのお二人に関しては、やはり新婚さんや若夫婦とは違う落ち着きがあると言わざるを得ない。

 長く連れ添ってきた分、多くの言葉を交わさなくても通じ合っているのがわかる、そんな夫婦だ。一体どれほど共にいればああいうふうになれるのだろう。俺と伊都にもそれが、わかる日が来るだろうか。

「もしくはうちの両親とか、巡くんのご両親でもいいけど……」

 伊都は次々と周りにいる夫婦の例を挙げてから、何かに気づいたように目を見開いた。

「そっか。夫婦ってひとくちに言っても、いろんな人達がいるよね」

「そうだな。『夫婦っぽい』なんて括れないくらいたくさんいるよ」


 だから、俺達の会話だって他の誰かから見たら、とうに『夫婦っぽい』のかもしれない。

 俺達が霧島夫妻みたいになるか、石田夫妻のようになるか、あるいは小野口夫妻の域にまで達することができるか、あるいは――他の人達から『これぞ安井夫妻』という夫婦像を、これから築き上げていくのか。

 そんなことはまだ、今のうちからではわからないが。


「そのうち、何気ない会話が『安井夫妻っぽい』って言われるようになるのかもな」

 おにぎりを口に放り込みながら俺は言った。

 伊都は納得したのかどうか、しばらく睫毛をぱちぱち言わせていた。だがふと困ったように唇を尖らせ、小さな声で呟いた。

「『安井夫妻』なんて……恥ずかしいよ」

 そうは言っても、これから散々、皆に口にされるに決まっている呼称なのだが――恥じらう妻はやはり可愛いので、もうしばらくは好きなだけ照れさせておこう。

 あと、今日は早く帰ろう。

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