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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
174/205

思い出が溢れそう(5)

 思えばナポレオンパイなるものも初めて食べた。

 見た目の通り、構造はミルフィーユに似ている。さくさくしたパイ生地の中に軽めのカスタードクリームが挟まれていて、それを何層にも重ねて作られている。ただナポレオンパイは更にイチゴを中に挟んでいるのが特徴らしい。またパイの上にもイチゴとホイップクリームを載せていて、クリスマスケーキにふさわしい豪勢さだ。ダブルのクリームにパイ生地と、ともすれば飽きやすい甘さをイチゴの酸味で上手くカバーしているのがいい。お蔭で一切れめはお互いぺろりと食べられた。

 欠点は、きれいに食べづらいことかもしれない。


「あ、倒れちゃった……」

 二切れめのパイにフォークを突き刺そうとした伊都が、悔しそうに呻いた。

 見れば彼女の皿の上ではナポレオンパイがものの見事に横倒しになっている。イチゴもごろんと転がり落ちて、伊都が悔しがるのもわかる無残さだ。

「ミルフィーユ系って美味しいけど食べづらいよね」

 こちらの視線に気づいて、彼女は弁解するように言った。

「だから俺が食べさせてやるって言ったのに」

 俺がそう返したら、即座に照れ隠しの顔で睨まれた。

「それはもういいから! 巡くんも食べるのに集中して!」

 しかし食べることだけに集中しているのも難しい話だった。もちろんケーキは美味いし、俺が入れたハーブティーの味も悪くなかったが、隣にほろ酔い加減の伊都がいればどうしても意識がいってしまう。

 長く伸びた髪をポニーテールにしていて、露わになった首筋がほんのり赤みを帯びている。冬場の部屋着はショートパンツにレギンスという着合わせが定番で、伊都の脚はぴったりした黒い布地に覆い隠されている。それでもラインの美しさはしっかりと確認できて、いい眺めだなと思う。

 ケーキを食べる横顔は、幸せそうだ。

 何もかも満ち足りていてこれ以上望むものはない。そんな表情に見えた。

 俺もそんな伊都の顔を見て、同じように思う。これ以上望むものはない。


 伊都がリビングのこのソファに、俺と並んで座っている。

 今ではすっかり見慣れた当たり前の光景だが、去年の今頃はまだ『当たり前』ではなかった。それが同棲を始めてからの八ヶ月ほどで、なくてはならない光景になった。もう伊都のいない生活なんて考えられないし、もう二度と失いたくない。

 同棲を始めたのはどちらかと言えば感情的な理由だった。もう離れていたくなかった、寂しい思いはしたくなかったしさせたくなかった。結婚を控えているからとか、かつてのようなすれ違いを避ける為といったもっともらしい理屈もあるにはあったが、結局はそれらも口実に過ぎなかった。ただ、一緒にいたかった。

 そしてその選択が正解だったことを、俺は今夜深く噛み締めている。


「一緒に暮らし始めてよかったよ」

 倒れたナポレオンパイと格闘している伊都に、俺はその思いを口にした。

「お蔭で今年一年、いい思い出ばかりだった」

「さっき、来年の話はまだ早いみたいなこと言ってなかった?」

 伊都はからかうような笑みで応じる。

「巡くんだってもう一年振り返ろうとしてるじゃない」

 諭す言葉もどこか冗談めかしていて、可愛い意趣返しのようだ。

 俺は照れながら答える。

「でも何となく、振り返りたくなったんだ。十二月だしな」

「確かにね。一緒に暮らし始めて、初めての年の瀬だもんね」

「ああ、幸せな一年だった」

「私も。いいことしかなかったよ」

 頷く伊都が、パイのひとかけらを口に運ぶ。

 いつの間にやら二切れめも食べ終えて、空になった皿とフォークをテーブルに置き、代わりにハーブティーのカップを手に取った。

「今年一年はずっと、巡くんと一緒だったね」

 そしてリンデンの香りを楽しむように、睫毛を伏せながら続けた。

「人生で一番、幸せな一年だったかもしれない」

 それは俺にとっても、何より幸福な言葉だった。

「ありがとう、光栄だよ」

 そして俺も、この一年はこれまでの俺の人生で最も幸せだったと言えることだろう。


 一月十日、伊都の誕生日にプロポーズをした。

 彼女はそれを受けてくれて、春からはこの部屋で一緒に暮らすようになった。それによって得られた幸福は言うまでもなく、それ以上に俺達はたくさんの思い出を得てきた。

 俺の実家に伊都を連れて行った。石田の結婚式にも出たし、石田夫妻や霧島夫妻と飲み会もした。自転車に乗るという新しい趣味も得た。毎日のように美味しい豆腐料理を食べ、そして伊都の笑顔を見てきた。

 お互いに仕事が立て込んだ繁忙期も、二人でならどうにか乗り越えられた。現在進行形で進めている結婚式の準備だって、大変ではあるが不思議と楽しめている。俺は伊都がいれば何だって楽しくなれるようだし、伊都もそうであってくれたら嬉しい。


「来年もよろしくな」

 伊都がカップを置くタイミングを見計らい、俺は彼女を抱き寄せた。

「あ……」

 小さな声を上げた彼女の身体が、俺の腕の中にすんなり収まる。微熱でもあるみたいに温かい。

「巡くん、やっぱり手が早い」

 咎めるような物言いをした割に、伊都はくたっと力を抜いて俺に体重を預けてきた。

「今日は一日おりこうさんにしてた。そろそろサンタさんが来てもいい頃だ」

「まだ早いよ」

 彼女に言われて時計を見たが、確かにまだ午後七時過ぎだ。サンタがやってくるには早い時分かもしれない。


 だがこうして伊都を抱き締めていると、胸に次々と浮かんでくる幸せな思い出が、しまいには溢れてきそうだった。

 彼女を取り戻せたこの一年間を、俺はずっと忘れずに生きていきたい。

 どれだけ思い出が増えても、溢れそうになっても、一つとして取りこぼすことなく大切に取っておきたい。


 だから彼女の唇を塞いだ。

 溢れそうな思い出に蓋をするように重ねた。そうして熱を分け合い、身体をくまなく触れ合わせることで、俺の中にある彼女との思い出の数々がこの先どれほど増えても堰き止められる。そう確信している。

「わ……ちょ、ちょっと待って」

 何度かキスを繰り返しながらソファに押し倒すと、伊都は離れた唇の間から声を漏らす。

「巡くん、ここソファだし、居間だし、明かりついてるし――」

「俺は明るい方が好きなんだ」

「聞いてないし知ってるし! ね、せめて向こう行こうよ、恥ずかしいから」

「あとでな」

「あとっていつ!?」

「今じゃないことだけは確かだ」

 もちろん約束したから、ベッドまでは連れていってあげよう。

 ただしその前に――。

「今年も結局、待ち切れなかったな」

 俺がぼやくでもなく呟けば、組み敷かれた格好の伊都が真っ赤な顔で睨んできた。

「巡くんの馬鹿、ばかばか!」

「嬉しいな、伊都にそう言ってもらえて」


 二人でベッドに入ったのは午前一時過ぎのことだった。

「イブ、終わっちゃったね」

「あっという間だったな」

 日付は変わり、二十五日になっている。昨日はパーティの準備で慌ただしかったし、一杯だけ飲んだシャンパンも今頃になって効いてきた。彼女と抱き合いながらシーツの上に寝転べば、次第に瞼が重くなってくる。

 だが、眠るわけにはいかない。

 俺にはまだサンタクロースになるという大役が残っている。

「巡くん、眠そうだね」

 伊都は俺の顔を見てくすくす笑う。俺に腕枕をされて上機嫌だったが、その瞼は俺ほど重そうではない。

「眠くないのか?」

「寝ようと思えば寝れる、かな」

 彼女は俺よりも飲んでいるはずだし、俺よりもくたびれているはずなのだが、今の様子を見る限りまだまだ元気そうだ。

「なら、もうちょっと遊んでもよかったかもな」

 俺は空いている方の手のひらで、彼女のなめらかな腰を撫でた。伊都はぎゅっと目をつむっていたが、俺の手が脚の付け根に辿り着くと素早く制するように握られた。その拍子につむられていた目も開いた。

「巡くん、いたずらっこだね」

 薄闇の中でじっと俺を見据えている目が、うるうると光を湛えて揺れている。

「可愛いだろ?」

「どうかなあ……」

「何でそこで悩むんだよ。もっといたずらしちゃうぞ」

「だーめ。眠いんだったらおとなしく寝ること」

 伊都は俺の手を自分の脚から引き剥がす。その代わりとでもいうように、持ち上げた俺の手に頬ずりをしてくれた。

「疲れたでしょ、今日は頑張ったし」

 そう言われても、寝るわけにはいかない。

 彼女へのプレゼントは鞄の中に隠してある。伊都さえ寝てしまえば、あとはベッドを抜け出しプレゼントの包みを枕元に置くだけという実に簡単なお仕事なのだが。

「ちゃんと寝ないとサンタさんが来ないよ」

 更に脅かすように言われると、それはこちらの台詞だと笑いたくなった。

「伊都こそ早く寝た方がいいんじゃないか、サンタが来ないぞ」

「眠くなったらちゃんと寝るよ。巡くん、先に寝ていいよ」

 それでは困る、こちらの任務が果たせなくなる。

「伊都が起きてるなら起きてるよ」

「無理しなくていいってば」

 言い張る俺に、今度は伊都の方が困ったように苦笑した。

「眠い時に寝られないのって辛いでしょ?」


 確かにそうだ。満ち足りた疲労感とすぐ傍にある心地よい体温が、先程から実に巧みに眠気を駆り立ててくる。めくるめく睡眠への誘惑に抗うには強い意志が必要だった。

 せめて伊都が眠そうにしてくれていたら、もう少しだと自らを励ますこともできるのだが。


「目、閉じさせてあげようか」

 不意に彼女がそう言って、俺の目の前に手のひらをかざしてきた。ふっと落ちてきた小さな影に、俺は目をつむりかけて慌てて首を振る。

「いや、寝ないからな」

「なんでそんなに頑張ってるの?」

 伊都は訝しそうだった。

 当然の疑問だと、俺は次第に鈍くなる思考を必死に働かせて答える。

「起きてないと、サンタが来るのを見られないだろ」

 もちろんこれはただの方便だ。

 なぜなら俺こそが今夜のサンタクロースだから。

「まさか、サンタさんが来るまで起きてるつもりなの?」

「ああ、絶対に見届けて正体を暴いてやる」

「そんな悪い子のところには来てくれないと思うけどな」

 ぼそりと彼女が言うものだから、俺はすかさずからかった。

「伊都こそ悪い子じゃないか、一時過ぎたのにまだ寝てない」

「わ、私はいいの。だってもう大人だもん」

「俺だってそうだよ」

「でも、巡くんにはサンタさん来るかもしれないでしょ?」

 畳みかけてくる伊都に、ふと――違和感を覚えた。


 気のせいだろうか。先程から彼女はやけに必死だ。

 まるで俺を眠らせようと、眠ってもらわなければ困るというように。

 まさか、だよな。


「伊都」

 胸を過ぎったある可能性に、俺は探りを入れてみることにした。

「お前、俺が寝てくれないと困るのか?」

 この探りは会心の一撃だった。

「え、えっと……そういうわけじゃないんだけど……」

 伊都は見るからにうろたえ、奥二重の瞳を泳がせ始める。

 まさか、が当たっていたようだ。だがまだ確定ではない。

「実は、俺もお前が寝てくれないと困るんだ」

 今度はこちらの魂胆を明かしてみた。

 すると彼女は目を瞬かせ、戸惑った様子で唇を動かす。

「巡くん、も……? あの、もしかしてそれって」

「もしかしたら俺達、同じことを考えていたのかもしれない」

 まさに愛し合う者同士、通じ合ってもいるということだろう。

 もっとも、クリスマスに大切な人がいるならほとんどの人間は同じことを考えるだろうが――あえて相手が寝るのを待ってから、などという発想まで被るのはさすがと言わざるを得ない。俺達は結婚しても、いい似た者夫婦になれそうだ。

「じゃ、じゃあさ、巡くん」

 伊都は躊躇の色を見せながらも、俺を見つめて切り出した。

「ここは『せーの』でお互いの考えてること、言っちゃう……?」

「わかった、いいよ」

 俺が頷くと、彼女は一度深呼吸をする。それから改めて俺の目を覗き込んできて、ゆっくりと口を開いた。

「行くよ、せーの――」

 合図に合わせて俺も口を開く。

「伊都にプレゼントを用意してた」

「巡くんのサンタさんになろうと思って、プレゼントを……」

 俺達の言葉は重ならなかったが、内容は全く同じだった。

 それがわかった瞬間、お互いに吹き出していた。

「何だ、伊都もか」

「巡くんもなの? 私達、同じこと考えてたんだね!」

「お前が寝てる間に枕元に置いてやろうと思ってたのに」

「私も! やっぱ難しいね、サプライズって!」

 伊都は声を上げ、お腹を抱えて笑い始める。

 午前一時の寝室、見るもしどけない姿で、俺に腕枕をされながら、それでも無邪気に、あっけらかんと笑っている。

 俺は彼女のそういうところが、そしてこの笑顔こそが好きだったから、ああ幸せだ、と思った。


 結局、俺達はお互いにサプライズの機会を逸してしまった。

 それで翌朝、改めてプレゼント交換会と相成った。

「はい、巡くん。昨日も言ったけどメリークリスマス!」

 伊都がいい笑顔で差し出してくれた包みには、イヤーマフに手袋、そして靴下が詰め合わされていた。どれも見るからにスポーツウェアのデザインをしていて、でも温かそうな素材でできている。

「こんな形のイヤーマフもあるのか」

 驚いたのはそのイヤーマフの形状だ。子供達や若い女の子がしているものは耳当て同士を繋ぐバンドが頭の上を通っているが、これは頭の後ろを通すように作られている。

「自転車乗る時用にね。巡くん、防寒用ヘルメット一つしかなかったでしょ?」

 いつもの得意げな顔で伊都が言う。

「これなら他のヘルメットと併用できるし、耳冷たくないよ」

 手袋と靴下ももちろん自転車乗り仕様だった。

「せっかく自転車通勤に付き合ってもらってるから、少しでも辛くないようにと思って」

「ありがとう、伊都。大事に使わせてもらうよ」

 この手の品の見立てはさすがだ。それに俺が耳の冷たさに苛まれていたことも気づいてくれてて、その心遣いがとても嬉しかった。

 一方の俺は、ある意味ではよく似た、ある意味では正反対のプレゼントを贈った。

「わあ、すごくきれいな色……! これ、マフラーと手袋?」

 伊都が手に取っているのは、パステルオレンジの毛糸で編まれたマフラーと手袋だ。

「ああ。持ってなかっただろ?」

 彼女は冬のコートこそ持っているが、自転車通勤をしない時用のマフラーや手袋は持っていない。特にマフラーは自転車乗りには危険物になり得るので買っていなかったそうだ。

 だが雪が積もって自転車に乗れなくなると、伊都はいつも寒そうにしている。剥き出しの首筋が無防備に思えて、小さな手を握る度に冷たく感じられて、この時期に贈るなら防寒具にしようと決めた。

「温かそうで嬉しいな。それにこの色、パステルオレンジだね」

 もちろんそれも踏まえてのことだ。俺が頷くと、伊都は嬉しそうにはにかんだ。

「ありがとう、巡くん」

「こちらこそ。だけど困ったな、見事に雪が積もってる」

 クリスマスの朝は一面雪景色だった。さすがに雪下ろしが必要なほどではないが、危なくて自転車には乗れそうにない。

「せっかくいい物貰ったのに、月曜は自転車に乗れなさそうだ」

「私は乗れない方がいいかなあ、早く着けてみたいし」

 俺と伊都は正反対の意見を言い合って、それからお互い笑い合った。


 クリスマスにまた一つ、幸せな思い出ができて、このままだと本当に溢れていきそうだった。

 それを一つとして取りこぼさない為にも、もう二度と彼女を離さない。

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