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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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思い出が溢れそう(2)

 残業を粛々と済ませた後、俺はケーキ屋のリーフレットを部屋へ持ち帰った。

 そしたら、伊都には訳知り顔をされてしまった。

「やっぱり石田さんから買うんだね」

「やっぱりって何だよ」

 きまりの悪い思いで聞き返せば、彼女はそんな俺を面白がる。

「巡くんは石田さんの頼みを断れないって思ってたから」

「違う、あいつが残業の邪魔してきたから仕方なく買ったんだ」

 買うと言わなければ、あいつはいつまでも人事にいるだろう。押し売りのように居座って煙に巻くような話をしながら俺が買うと言うまで帰らないだろう、そんな気がしたからだ。

 とは言え、それこそが石田の策だというのも事実かもしれない。俺が鬱陶しがるのを見越した上で、ああもしつこく絡んできたのかもしれない。こっちは怒っていると訴えたのだが全く聞く耳持たずだった。

「石田さん、喋り上手いもんね」

「上手いと言うか、煙に巻いてるだけのような気もするけどな」

「気づくと乗せられてたりするよね。さすが営業の人って思うよ」

「まあな、俺もあいつには営業成績で勝てたことない」

 俺が言い添えると、伊都は意外そうにきょとんとした。

「そうなの?」

「ああ、昔の話だけど」


 それを複雑に思ったこともあるし、突然の異動辞令が恨めしかったこともある。

 だがそれらも全て昔の話だ。今となってはいい思い出だ――とまではいかないか。今でも若干、ふとした瞬間に蘇っては微妙な気分になる思い出だ。


「ところで伊都、どのケーキにする?」

 俺はリビングのソファに座ると、彼女にも隣に来るよう座面を叩いた。

 伊都もにこにこしながら俺の横に腰を下ろし、額がくっつく距離からリーフレットを覗き込んでくる。

「今年のケーキも美味しそうだね」

 その距離の近さが幸せだった。俺も彼女の髪を撫でながらケーキの写真を眺めた。

「石田のお勧めはこれだって、ナポレオンパイ」

「へえ、美味しそう。ミルフィーユみたいなのかな」

「多分そうだろう。何でも石田夫人が絶賛したらしい」

 そう伝えると伊都も信用できると思ったのか、しばらくの間ナポレオンパイの写真をつぶさに観察していた。その後で何か思い出したようにリーフレットをめくり始める。

「あ、でも、東間さんが頼んでたのも美味しそうって思ったんだよね」

「石田のやつ、広報にも顔出してたのか?」

「うん、来てた。私にはセールスしてかなかったけど」

 伊都がそこではにかんだ。


 広報課に押しかけた石田との間に、俺に絡めた何らかのやり取りがあったのだろう。

 石田が人事と広報のどちらを先に訪ねたのかはわからないが、そういうことは教えていかないのも全く憎々しい奴である。


「東間さんは今年も買うって言ってて、これにしたんだって」

 彼女が探し当てたページにはタルトフリュイが掲載されていた。

 イチゴやブルーベリー、キウイにアプリコットにピンクグレープフルーツといった色とりどりの果物がシロップに浸かったつややかな姿でタルトの上に盛られている。他のタルトは果物を整然と美しく並べているものばかりだが、タルトフリュイだけはまさにこれでもかこれでもかと果物を上乗せしたような大盛り具合で、にもかかわらずとても美味そうに見えた。

「これもいいな、果物が美味そうだ」

「でしょ? 私もこれは食べてみたいって思ったんだ」

 俺の同意に伊都も微笑んだ。

「東間さんは去年アイスケーキにしたんだけど、食べきるの大変だったんだって」

「確かにあれ、結構量多かったもんな」

 日持ちがするとの謳い文句に踊らされてしまったが、あれだってシングルの男が一人で食べるには多かった。伊都が来てくれなかったらどうしていただろうな、と今でも思う。

「それで今年は一番美味しそうな、果物いっぱいのタルトにするって言ってた」

「何だかんだでそれが正解だよな」

 一番美味そうで好みのケーキを選ぶ方が消化だってはかどるだろう。

 俺達も今年は普通のケーキにする予定だ。もちろん、端から二人で過ごすとわかっていたからでもある。今年は去年ほど日持ちを気にする必要もない。

「で、どれがいい? 伊都が決めていいよ」

「うーん……」

 選択権を譲ると、彼女は顎に手を当て、きれいな脚を組んでじっくり考え込んだ。

 かと思うと、はっとしたように面を上げる。

「そうだ! クリスマスに必要なもの、もう一つあった!」

「うわ、びっくりした」

 いきなりの大声に俺は笑ったが、伊都は至って真剣に続ける。

「ハーブティーだよ、巡くん!」

 内容もまた唐突だ。

 もちろん、あって困るというものではないが。

「ああ……けど、クリスマスに必要ってほどか?」

「そう。去年、切らしてて飲めなかったでしょ?」


 彼女に言われて思い出す。

 俺の部屋にケーキと出張用の荷物を携え現れた伊都は、十二月の寒空の下を歩いた後で寒そうにしていた。ケーキに添える飲み物を用意する必要もあって、何がいいかと尋ねた俺に彼女は言った。

 ――温かいのがいいな。この間のハーブティー、まだある?

 だがあいにく、リンデンのハーブティーは俺が一人で飲みきってしまっていた。それで結局、彼女には紅茶を出してやった。


「ハーブティーか……」

 去年の記憶が蘇ってくると、くすぐったいような甘さが胸の奥に広がった。

 伊都にとってもあのクリスマスは思い出深い、大切な記憶なのだろう。そう思うと一層幸せだった。

「じゃあ、ツリーと一緒にそれも買いに行くか?」

「うん。小野口課長の奥さんのお店だね」

 買い物メモに一つ項目が増えた。クリスマスツリーとオードブルの材料、そしてハーブティー。ケーキは石田に注文書を出して代金もあいつに渡せばいい。

 こうして支度をすればするほど、楽しいクリスマスが近づいてくる。

「巡くん、すっごいにこにこしてる。そんなに楽しみ?」

 伊都が真横から俺の顔を覗き込んできた。

 そんなに顔に出ていたか。俺はあえて取り繕わず、ほころびきっているであろう表情のままで答えた。

「当たり前だろ」

 去年とは何もかもが違うクリスマスが近づいてくる。

 一番大きな違いは、初めから伊都が一緒だということだ。


 次の週末、俺達はクリスマス用の買い出しに出かけた。

 クリスマスイブは二週間後に迫っていて、ショッピングモールはどこもかしこも賑わっていた。どこのテナントにも大きくて立派なクリスマスツリーが飾られていたし、頭上では常に聴き慣れたクリスマスソングが流れている。ジングルベル、サンタが町にやってくる、もろびとこぞりてにウィンターワンダーランド――毎年飽きるほど聴いているはずなのに、今年はどういうわけか格別の響きだった。

 しかしクリスマスというやつは、どうしてこうも人を浮足立たせるのだろう。モールを行き交う買い物客は誰もが幸せそうな顔をしている。去年はそれを羨んで見ていたこともあったが、今年は違う。

 同じように、俺も幸せな気分でいる。


「巡くん、ツリーはおもちゃ屋さんだって」

 伊都はサンタ姿の店員からチラシを貰ってきたようだ。モールに入っている外資系おもちゃ店のチラシには、確かにツリーの写真もいくつか載っていた。

「おもちゃ屋なのか」

 何となく意外に思った。てっきり電器店あたりで売っているだろうと考えていたのだが、子供の為のものだからだろうか。

「結構いっぱい種類あるみたい、迷うかもね」

 伊都はチラシから顔を上げると、少し恥ずかしそうに首を竦めた。

「わあ、おもちゃ屋さんなんて行くの何年ぶりかな」

「俺も久々だよ」

 下手をすると二十年近くぶり、かもしれない。中学、高校の頃にはもうおもちゃなんかで遊ばなくなっていたし、それきりまるでご縁もなかった。兄貴のところには子供がいたが、おもちゃ屋でプレゼントを買ってあげる機会はあいにくなかったし、霧島夫妻や石田夫妻にもまだ子供はいない。

 だからこの歳になって足を運ぶのは、確かにちょっと照れる。

「きっと混んでるよ、書き入れ時だからね」

「だろうな。そして子供でいっぱいなのも想像つくよ」

「すっごく賑やかだろうね」

 おもちゃ屋へ向かいながら、伊都もすっかり楽しそうにしていた。まるでおもちゃを買ってもらう子供みたいに明るくて、無邪気な顔をしている。スキップでもし始めるんじゃないかというくらい足取りも軽い。

 モール内も混雑していたからよそ見なんてできないのだが、彼女の横顔から目を離せなくて、困った。


 チラシを配っていたおもちゃ屋は、まさにクリスマス商戦の真っ只中だった。

 何台もあるはずのレジにはもれなく行列ができていたし、買い物を済ませて出ていく客は誰もが、それこそサンタが背負うような大きな袋を抱えている。

 シーズン商品だからか、ツリー売場は入ってすぐのところにあるのが幸いだった。店の奥の方は大変な混雑ぶりのようで、あちらこちらから子供達の賑やかな声が響いてくる。店内を駆け回っているやんちゃ坊主もいるようで、後から母親と思しき女性が大慌てで追い駆けていった。


「巡くんもあんな子だった?」

 無事に母親に捕獲された子供を見て、伊都がくすっと笑った。

 俺は正直にかぶりを振る。

「いや、俺はおりこうさんだったよ。うちは弟がやんちゃだったから」

「本当に?」

「本当だって、会ったからわかるだろ」

 家族でこういう店に来ると、翔はいつも勝手にうろちょろしては一人で迷子になっていた。昔から落ち着きのない子だった。

 俺は昔から真面目を装う格好つけだったから、そんな弟を捜しに行って連れ戻す役割だった。そして泣きじゃくる弟を叱れば、翔は兄貴に縋りつき、兄貴はまあまあと俺を宥めてきて――安井三兄弟のいつものパターンに行き着く。

「伊都こそ、こういう店で迷子になったりしなかったか?」

 逆に聞き返すと、彼女は屈託なく答えてくれた。

「私はいつも決まったコーナーにいたからね。捜しやすい子だったって」

「決まったコーナーって、自転車売り場か?」

「そうそう。あとスポーツ用品のとことかね」

 どうやら伊都は小さな頃から活発な女の子だったようだ。想像がつきすぎて困る。

「クリスマスにもね、サンタさんに竹馬をお願いしたんだ」

「相当渋いチョイスだな、伊都……」

「欲しかったんだもん。枕元に置くの大変だったって、サンタさんが言ってた」

 クリスマスの朝に目が覚めて、枕元に竹馬があったら相当驚くな。園田家のサンタさんも大変だったことだろう。


 ところで、今の伊都はプレゼントに何があれば喜ぶだろうか。

 今年も枕元にサンタが来たら、きっと竹馬と同じくらい喜んでくれそうだ。何か考えておこう。


「さて。うちのツリーはどれにしようか」

 俺達はツリー売場に足を踏み入れたが、ずらりと並んだ商品に目移りさせられた。

 一般的なクリスマスツリーとはもみの木を模した緑色のものだと思っていたが、今時は様々なカラーリングのものがあるらしい。針葉が雪のように真っ白だったり、可愛らしいベビーピンクだったり、オーロラのように光るLEDファイバーを使ったものだったり、どれもこれもきれいだった。

 またオーナメントも思いのほか種類豊富だ。クリスマスカラーの赤、華やかなゴールド、冬らしいシルバーなどなど、こだわりだしたらキリがないくらいに揃っている。

「本当に迷うね、こんなにあるんだ……」

「どれがいいだろうな。できれば、長く使えるやつがいいけど」

 毎年買い替えるようなものでもないだろうし、飽きないデザインの、オーソドックスなツリーがいいかもしれない。

「家具との兼ね合いもあるよね。雰囲気似てるのがよくないかな?」

 伊都の意見も頷けたので、結局俺達が選んだのはもみの木そっくりの緑色のツリーだった。てっぺんの梢に飾る星も、リボンやクーゲルもくすんだゴールドで、これなら子供のいない部屋にも上手く調和するだろうと思ったからだ。

「なかなか大人っぽいツリーだね、格好いい!」

 彼女も満足そうにしている。

「ああ。将来のことも考えたら、とりあえず基本形がベストかと思って」

 ツリーの箱を抱えて俺が言うと、伊都は怪訝そうな顔をした。

「将来?」

「子供が生まれたら、その子の為のツリーにしなきゃいけないだろ。ピンクじゃ嫌だって言うかもしれないし」

 もちろん、これは先の話だ。

 だが俺達にとってはもう架空の想像ではない。これからは十分あり得る可能性で、幸せな未来像の一つでもある。

「……あ、そっか」

 伊都は今更気づいたのか、ほんのちょっと赤くなった。

「まだ実感湧かないなあ。私達、結婚するんだよね」

「そろそろ湧かしといてくれ、もう来月だ」

「だよね、よくよく考えると夢みたいな気もするけど……」

 だが夢ではない。

 俺達はもうじき、夫婦になる。

 今年のクリスマスはそういう意味でも特別だった。結婚前、恋人同士として過ごす最後のクリスマスだ。

「恋人同士のうちにやっておきたいこと、あったら済ましておかないとな」

「それもそうだね!」

 俺の言葉に伊都は考え始めたが、まるまる一分間ほど考えても何も思い浮かばなかったらしい。

「思いつかないなあ……」

 首をひねりながらそう言って、照れ笑いを浮かべた。

「巡くんと結婚するんだって思ったら、幸せすぎて。結婚した後の方が楽しみすぎるよ」

 その瞬間、心臓をぎゅっと握られた。そんな甘い感覚が身体に走った。

「……そっか。そうだよな」

 俺はたどたどしく応じるのが精一杯だ。

 そこまで素直に言われたらこっちがどぎまぎしてしまう。存外に照れた俺は、それを隠すようにツリーの箱を抱え直した。

 ここがおもちゃ屋でなければよかったのに。


 ツリーを購入した後、俺達はモールを出て車を走らせた。

 次の行き先は小野口課長の奥様のお店だ。ハーブティーを買うついでに、ちょっとお茶でもしていくつもりでいた。モールは人が多いせいか、あるいは伊都の言動のせいか妙に蒸し暑く、俺はすっかり喉が渇いていた。

「小野口課長、今日もお店にいるって言ってたよ」

 コインパーキングに車を停め、店まで十五分の道を歩きながら伊都は言う。

「お店行くのも久々だよね、おもちゃ屋さんほどじゃないけど」

「そうだな。またケーキを食べよう」

「うん!」

 十二月中旬、薄曇りの午後だった。風は身を切るように冷たく、車を降りた直後はコートを着ていても震えが来るほど寒かった。

 だが二人で手を繋いで歩いていれば、次第に身体が温まっていくのがわかる。

「お店に着く頃はぽかぽかだね」

「そうかもな。いっそ冷たいハーブティーにしようか」

「それはお店を出る時に後悔するパターンだよ!」

 他愛ない話をしながら住宅街を歩いていけば、道の先にあの店が見えてきた。薔薇の生け垣は冬らしく葉が落ちていたが、きれいに揃った枝と縦格子の鋳物のフェンスが調和して、小さなお城のような雰囲気を醸し出している。

 入り口前に置かれた黒板には『本日のお勧めはさくさくのスコーンです』と書かれていた。

 ステンドグラスの飾り窓がついたドアを開けると、ハーブのいい香りがふわっと漂ってきた。

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