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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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思い出が溢れそう(1)

 十二月の訪れを、いつもなら車の窓から見流している。

 ちょうど年末進行で仕事の量が増えてきて、勤務時間が長引く時期だった。残業を終えて夜更けに車を走らせていれば、日毎に華やいでいく街の景色が恨めしく思えたものだ。

 クリスマスを楽しく過ごせる人間なんて、年末でも暇な学生さんかサンタになる予定のある奴くらいのものだろう。一般的な社会人にとっては十二月の最終週なんて師走の名の通りに多忙を極める時期だし、まして彼女のいない男にとっては物寂しさが募るだけの日でしかない。俺もまさに物寂しいばかりのクリスマスシーズンを何年間も過ごしてきた。


 だが今年は違う。

 華やいでいく街の景色を、冬の冷たい空気の中で見ている。

「巡くん、見て見て! イルミネーション!」

 信号待ちで愛車を停めた伊都が、声を上げて街角を指差した。

 その方向に目をやれば、見慣れた商店街に美しいイルミネーションが点灯している。ちかちかと目映い光は陳腐な言い回しだが『宝石箱をひっくり返したよう』で、冬木立の寂寥感を払拭するように瞬いていた。

「今年ももうそんな時期か」

「早いよね、どうりで仕事が忙しいと思った」

 俺も伊都も、白い息を吐きながらそんな会話を交わす。

 自転車通勤ではいつも彼女が前を行き、俺が後からついていく。これは行きも帰りも同じだが、イルミネーションが点っているのは帰りだけだ。夜の帰り道では、俺達はクリスマスの訪れを直に眺めることができた。

 もちろん冬の戸外は寒い。朝、家を出る時は気持ちがくじけそうになるほど冷え込んでいる。それでも伊都に励まされて一緒に愛車を漕ぎ出せば、北風が心地よく感じられるくらいに身体が温まってくる。それでも耳だけはどうしても冷たいから、この時期は防寒もできるヘルメットを被っていた。


「わあ、ここもだ」

 大きな通りを抜けて住宅街に差しかかったところで、伊都が自転車を静かに停めた。

 彼女の視線の先にあるのはやや大きめの一軒家だ。広い庭があり、周囲を白い洋風の塀で囲んでいる。その塀一面がトナカイやそりに乗ったサンタの電飾でライトアップされていた。

 夜九時を過ぎ、普段であれば門灯が点いている程度であろう個人宅に、まるで街中のようなイルミネーションが柔らかく光っている。かと思うと門戸の前には白く光るスノーマンが門番よろしく鎮座ましましている。塀の上に見える庭の植木にはモールを絡めたようなイルミネーションが輝き、二階のバルコニーには今まさにはしごを登らんとする、ほんのり光った小さなサンタ達の姿があった。夜の閑静な住宅街において、ここだけは賑やかな街角のように明るい。

「すごいな、ここ個人宅だろ」

 夜も遅いので、俺は声を潜めた。

「何年か前から流行ってるんだって、おうちでイルミネーション」

 伊都も同じように小声で応じる。

「いいよね、こういうのも。全力でクリスマスをお迎えって感じ」

「この季節をめいっぱい楽しんでるよな」

 俺はこういうのを見ると電気代がかさむんだろうなとか、初期投資だけでべらぼうな額になるんだろうなと考えずにはいられない質だが、伊都が目を輝かせているので野暮な発言はやめておいた。


 それに、クリスマスを楽しめるのは悪いことでもない。

 もちろん今年も恐怖の魔王たる年末進行がやってきた。俺も伊都もこんな時間まで残業をしなければならず、近頃は帰って風呂に入ったらあとは寝るばかりの日々だ。クリスマスを純粋に楽しむには時間的余裕が足りない。だがそれでもクリスマスを堪能したいという気持ちは確かにあった。去年は大層いい思いができたから、今年も是非、という強い気持ちがだ。

 そしておあつらえ向きなことに、今年の十二月二十四日は土曜日なのである。

 俺も伊都も仕事の疲れが溜まっている頃だろうし、遠出はさすがに無理だろう。でも少し足を伸ばしてイルミネーションを見に行くなり、クリスマス商戦に参加するなり、はたまたちょっといい店でクリスマスディナーをいただくくらいは十分可能だ。そう思い、目下二人で計画を立てているところだった。


「ね、うちもあれ飾りたくない?」

 伊都はバルコニーからぶら下がるサンタのライトを羨ましそうに見ている。丸々とした小さなサンタ三人が、袋を背負ってはしごを登る最中の姿は確かになかなか愛らしい。

 だがこういうものは戸建ての個人宅だから飾れるのであって、

「うちはアパートだから無理だよ」

 俺が応じると、伊都もその答えを予期していたみたいに笑った。

「じゃあ、一戸建てに住むようになったら飾ろうよ」

「夢のマイホームか、憧れるな」

 いつかそういう日が来るかもしれない。今の部屋も二人暮らしなら余裕があるくらいだが、家族が増えたりしたらそういう選択をする日がやってくるかもしれない。今の俺達はそんな夢を語り合えるところまで辿り着けている。

 その時が来たらサンタを飾ることにしよう。伊都によく似た子なら、きっと喜んで飾りたがるだろうから。

「そろそろ行こうか」

 しばし立ち止まって見入っていたら、汗を掻いた身体が冷えてきた。俺が促すと、伊都もすぐに頷いた。

「そうだね、もっと見ていたいけど」

 名残惜しそうにしながらも、伊都は愛車にさっと跨った。

 それから少し思案するように間を置いて、同じく愛車に乗ろうとした俺を振り返る。

「サンタは無理だけど、ツリーはあってもよくない?」

 俺の部屋にはツリーなんて上等なものはない。弟との二人暮らしでも、その後にやってきた一人暮らしでも、クリスマスツリーが必要だと思ったことはなかった。そんなものを飾ったところで十二月の忙しさにすさむ心が癒されるはずもない。

 だが今年は、あってもいいかな、なんて思う。

「今度の休みに買いに行こう」

「うん!」

 今年もクリスマスがやってくる。

 必要なものは全て揃えて、去年よりも楽しい過ごし方をしなくてはならない。


 さて、楽しいクリスマスの為に必要な品は、ツリーの他に何があるだろう。

 伊都に聞けば返ってくる答えは決まっていた。

「豆腐!」

「確かにそれも必要だけどな」

 伊都にとってはいつ何時も必要不可欠なものに違いない。あまりクリスマスらしくはないような気もするが。

「今年はイブからばっちりお休みだもんね。オードブルとか作っちゃおうかな」

「豆腐でか?」

「そうだよ。塩豆腐のカプレーゼに、白和えの洋風アレンジに……あ、テリーヌもクリスマスっぽくていいよね!」

 いきいきとした表情でメニュー表を作り始める伊都は実に楽しそうだった。

 前言は撤回しよう。豆腐こそクリスマスのメニューにふさわしい。想像するだけで美味そうで、早くも楽しみになってきた。

 オードブルは伊都に任せておいて大丈夫そうなので、俺は更に必要なものを考えなくてはならない。

 クリスマスと言えばやはり、

「ケーキはどうする?」

 これがなくては始まらない。

 俺も甘いものが特別好きというわけではないが、やはりクリスマスとなるとケーキが食べたくなる。去年のケーキも美味しかった――さすがに二人で二ホールは多かったから、今年は一ホールでいい。

「今年は石田さんから何も頼まれてないの?」

 伊都がそう聞き返してきたので、俺はかぶりを振った。

「頼まれたところで買うもんか、あいつからは」

「買ってあげなよ、巡くんだって営業課時代はそういうのあったでしょ?」

 彼女は取り成すようにそう言うが、実際に石田が頼んできたらどうするか、俺は判断を決めかねていた。


 なぜかと言えばそれはもちろん、先月の一件をまだ許してないからだ。

「よう安井、邪魔するぜ」

 にもかかわらず石田は残業中の俺の前に現れ、他に人のいない人事課にずかずか踏み込んできた。

 かと思うと去年も見たようなリーフレットを、机に向かう俺の目の前へ差し出す。

「悪いんだが、今年もケーキ買ってくれ」

「断る」

 俺が即座に拒むと、石田は白々しくも目を瞬かせた。

「なんでだよ」

「なんでって、よくもまあぬけぬけと聞けたもんだな石田」

 先月の俺の誕生日で石田がしでかしたことを、俺はまだ忘れてはいない。

 もちろん俺があれだけ酔っ払ったのも悪かったとは思う。その点だけは俺も反省しなくてはならないだろう。

 だがその酔っ払いぶりをムービーで撮影し、わざと恥ずかしいことを言わせようと誘導的な質問をし、あまつさえその映像を伊都に送るという所業はどうだろうか。全く許しがたい。

「安井、まだ拗ねてんのかよ」

 石田は反省するどころか、大袈裟に肩をすくめてみせる。

「拗ねるって言うな、怒ってるんだ俺は」

 それだとまるで子供がへそを曲げているようではないか。

 違う。俺はあくまで正当な怒りを募らせているのだ。

「間違っちゃねえだろ、前後不覚に酔っぱらったのはお前なんだから」

「だからって俺が悪いのか!」

「そりゃそうだ。俺らが相手だからよかったものの、女が相手だったらお前、酒の勢いでどこぞに連れ込まれてあっという間に食われてたぜ」

 連れ込まれて食われるのは俺の方なのか。

「馬鹿言うな。そんな女が相手なら俺だって酔っ払うまで飲まない」

 反射的に言い返すと、石田はすかさずにんまりとした。

「お、何だそりゃ。つまり俺らが相手だからあんなに酔っ払ったってのか?」

 思いがけないツッコミに、俺は答えに窮してしまう。


 要はそういうことなのだが、当時ならまだしも今となってはそんな心境さえ認めたくない。

 それもこれも全て石田のせいである。あの夜抱いた友情めいた気持ちすら踏みにじった、全くもって許しがたい大罪人である。


 だというのに本人はにやにやして俺を冷やかしてくる。

「まずいだろ安井。そんな迂闊な発言しちゃ、お前の伊都ちゃんが妬くぞ」

「お前こそ俺の彼女を気安く呼ぶな!」

「真っ先に指摘するところがそこかよ」

 当たり前だ。そこは大事だ。

 それに、石田については他にも気に入らない点がある。

「そもそもなんでお前が伊都の連絡先を知ってるんだ」

「俺だって園田と同期だぜ、そりゃ知ってるよ」

 石田はなぜか勝ち誇ってみせた。

 同期とは言え、伊都と石田がこれまで特に親しい付き合いをしていたようなそぶりはない。例えば社員食堂で一緒に飯を食っている姿は見かけていたし、そういう時は妙に話が盛り上がっていて悔しい気分にもなったものだが、プライベートでメールのやり取りをすることもあったとは知らなかった。

 その事実が石田への苛立ちを加速させている、というのも少しはあるかもしれない。

 あくまでも、少しだけだが。

「それに、園田はあの動画すっげえありがたがってただろ」

 奴が続けた言葉は事実だった。伊都はあの動画を見て寂しさを紛らわし、同時に俺の愛を再確認したと言っていた。写っているのがみっともなく酩酊した俺でなければ、俺も『伊都の為にありがとう』と石田に感謝していたことだろう。

「言ってたぜ。ちょうどホームシックになってたから、お前の顔見られて嬉しかったって」

「伊都がか?」

「ああ。お前の声も聞けて本当に嬉しかった、ありがとうってな」

 ビジネスホテルに泊まった夜のこと、だろうか。

 伊都がそこまで石田に言っていたとは知らなかった。確かに嬉しかったとは俺にも語っていたが、本当に喜んでくれていたようだ。あんな動画で――酔っ払って惚気るばかりの俺を見て、そこまで言ってくれるなんて。

「ほら見ろ。俺は恋のキューピッドとして感謝される理由はあれど、恨まれる理由は皆無だ」

 石田がいちいちドヤ顔なのが気に食わないが、奴が伊都の為になることをしてくれたのは事実だ。

 それなら俺も、そろそろ矛を収めるべき頃合いかもしれない。

「もう二度とやるなよ」

 溜息をついてから、俺は石田に譲歩の姿勢を示した。

 一方、石田は訝しそうな顔をする。

「園田が二本目、三本目の動画を期待して心待ちにしてんのにか?」

「次回作も期待してるって伊都が言ったのか?」

「いや、俺が園田の心を読んで察したまでだ」

「俺の彼女の心を勝手に読むな!」

 そして伊都は絶対そこまで思ってないぞ!

「まあ、そうそう上手い具合にネタが転がってるわけでもねえしな」

 石田は微妙な言い回しで、俺の譲歩に乗っかることに決めたようだ。

「覚えてろ……お前の恥ずかしい動画も撮って、藍子ちゃんに送ってやるからな!」

「お前こそうちの嫁を名前で呼ぶなよな」

「もう『小坂さん』とは呼べないんだからしょうがないだろ!」

「んじゃ俺も、来月辺りからは『園田』なんて呼べねえな」

 俺と石田はお互いに、しばらく黙って睨み合った。


 だが夜の人事課で二人、こんなことで張り合い続けても不毛なだけだろう。

 俺だって残業の続きをして早いとこ帰りたいし、石田だってそうに違いない。それに見つめあうならこんなむさ苦しい男とではなく、丸顔で奥二重の可愛い女の子とがいい。


「……とりあえず、ケーキは頼んでやる」

 俺はやがて口を開き、伊都に免じて、と心の中で付け足した。

 たちまち石田は満面の笑みになる。

「ありがとな安井!」

「お前、俺がなんで怒ってたのか本当にわかってるんだろうな」

「わかってるって。で、ケーキはどれにすんだよ」

 本当にわかっているのか怪しいものだったが、石田はもうさっきまでのやり取りを忘れたかのような態度だ。嬉しそうにしながら俺の机の上にリーフレットを広げてみせた。

 そこに掲載されているのは去年と同様に美味そうなケーキの数々だ。苺ショートにガトーショコラ、ブッシュドノエルにチーズケーキ、どれも上手く撮られている。

「俺のお勧めはこれだな、ナポレオンパイ」

 リーフレットを眺める俺の横から、石田が口を挟んでくる。

 奴の手が指差したのは赤々としたイチゴとホイップクリームを載せたミルフィーユだった。

「美味いのか?」

「ああ、うちの嫁が『これはとても美味しいです、最高です!』と絶賛してた」

「なるほど……」

 あの子のお勧めなら信用性もかなり高いだろう。これも候補に入れていいかもしれない。

 だが、俺一人の独断で決めるのは駄目だ。

 今年は、伊都と二人で過ごせるのだから。

「明日お前のとこに持ってくから、今日のところは預かっていいか?」

 俺が尋ねると、石田も心得たというように親指を立てた。

「いいぜ。お前の可愛い伊都ちゃんといちゃいちゃ相談してこいよ!」

「……お前の藍子ちゃんに先月のことバラしてやろうか」

 お互いに相手の嫁、及び後の嫁の名前を呼び合うのも、全くもって不毛な小競り合いである。


 だがいつかは慣れて、石田が伊都を名前で呼ぼうと気にならなくなるのだろう。

 なぜなら奴の言う通り、彼女が『園田伊都』でいるのもあとわずかだ。

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