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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
169/205

夜のボーイズトーク(4)

 飲んだ日の翌朝は頭が重い。

 深い眠りから意識が浮上しかけても、なかなか思うように目が開けられない。カーテンを閉め忘れた窓から降り注ぐ日光が辛い。ベッドの中でまどろみながら昨夜の出来事を思い出してみる。

 すっかり酔っ払ってしまった俺は居酒屋を出た後、石田と霧島に押し込まれるようにタクシーに乗せられた。いつもは苦でもないアパートの階段をどうにか上り切り、部屋に入ったのは日付の変わる少し前だった。それから着替えをして、歯を磨いて、スーツをハンガーにかけたところまでは覚えている。それ以降の記憶は一切ないが、どうやらちゃんとベッドまで辿り着けたらしい。

 それにしても、一人きりで眠るベッドの何と冷たいことか。

 十一月の朝は肌寒く、寝返りの度に冷たい空気が布団の中へ忍び込んでくる。そうなると伊都の体温が恋しくなって仕方がなくなる。

 彼女はもう始発に乗った頃だろうか――。


 そんなことをぼんやり思っていると、枕元で電話が鳴った。

 まだ開かない目を抉じ開けつつ、手探りで携帯電話を掴み、

「……もしもし」

 寝ぼけながら応答すれば、くすくす笑う可愛い声が聞こえてきた。

『あ、巡くん。まだ寝てた?』

「伊都……おはよう。ごめん、今起きた」

『いいよ、寝てて。私は駅に着いたとこだよ』

 しまった、もうそんな時間か。

 途端に目がぱちりと覚めて、慌てて今の時刻を確かめた。恐ろしいことに午前十一時を過ぎていた。

「駅まで迎えに行こうか」

 俺はそう口にしてから、昨夜は車を会社に置いてきたのだと思い出す。石田や霧島と飲みに行くから、車はそのままにしてきたのだ。

「ああ、ごめん。車置いてきてた」

 すぐに言い直すと、伊都はまたおかしそうに笑った。

『そうじゃないかと思ってた。それに巡くん、まだお酒抜けてないでしょ』

「そんなことない、はずだけど……」

『無理しなくていいよ。ケーキ買って、タクシーで帰るね』

 一日ぶりに話をしたからだろうか。伊都の声には電話越しにもわかる照れたそぶりが滲んでいた。くすぐったそうに続ける。

『巡くんはまだ寝てて。帰ったら起こしてあげる』

「いや、もう起きるよ。迎えに行けなくてごめんな」

『気にしないで』

 伊都はいつものように明るく笑い飛ばしてくれた。

 だけどその後で、少し言いにくそうにした。

『それにね……』

「ん?」

『えっと、あの』

 言いよどむようなわずかな間があって、それから彼女はまた笑った。

『や、やっぱ、何でもない。帰ったら言うね』

 今度はさっきよりも静かな、大人っぽい笑い方だった。

「何だよ、何かあったのか?」

『あったと言えばあった……かな』

「どうした? 電話じゃ言いにくいことなのか?」

『うん。巡くんもね、電話で聞かない方がいいと思う』

 随分と意味深な物言いをする。

 そんな言われ方ではかえって気になってしまうのが人情というやつだが、伊都はどうしても電話では話したくないようだ。それなら俺も彼女の帰りを待つしかあるまい。

「一つだけ教えといてくれ、いい話なんだよな?」

 俺がヒントをせがむと、伊都は少し黙ってからこう答えた。

『私にとってはそうだったよ』

 ますます意味深だ。

 気になって仕方がなかったが、伊都はこれ以上は何も教えてくれないまま、

『後でね。すぐ帰るよ、巡くん』

 とだけ言って電話を切った。

 一人ベッドに取り残された俺は、いきなり突きつけられた謎にしばし悶々としていた。だが二日酔いの頭で考えたところで、何がひらめくわけでもない。

 それならせめてパーティの準備はしておこうと、急いでシャワーを浴びることにした。


 バスルームを出た後、俺は洗ったばかりの髪をドライヤーで乾かした。

 それから紅茶を入れようと湯を沸かし始めた辺りで、外の階段を上がってくる足音が響いてきた。程なくして玄関の鍵が開き、迎えに出た俺の前でドアが開く。

「……ただいま」

 真昼の眩しい光を背負い、伊都が顔を覗かせる。

 昨日着ていったスーツ姿で、荷物でぱんぱんのドラムバッグを肩にかけ、手にはケーキの箱を提げ、さすがにくたびれた顔ではにかんでいる。

「お帰り、伊都」

 一日ぶりに見る顔が、何だかすごく嬉しかった。

 俺は靴を脱いですらいない彼女を腕を伸ばして抱き寄せる。彼女も心得たように俺の胸にしがみつき、その後でドアが静かに閉じた。

 途端に薄暗くなった玄関にて、俺達はしばらくの間抱き合っていた。たった一日ぶりの再会で、懐かしいなんて思うのは大げさかもしれない。だが俺の胸を満たしていったのは間違いなく懐かしさだった。

 伊都が戻ってきた。そのことを全身で確かめたくてたまらなくなる。

 抱き締めると頬に触れる彼女の髪は、冷たくひんやりしていた。

「髪、冷たいな。寒かったか?」

 俺が軽く手で撫でると、彼女は顔を上げて幸せそうに目を細める。

「朝は息が白くなったよ」

「今朝は冷え込んでたんだな」

 俺がぐっすり寝こけている間、伊都は随分と寒い思いをしていたようだ。それなら再会を喜び合うより、彼女を温めてやる方が先だろう。

「紅茶を入れよう、ちょうどお湯を沸かしてた」

 ようやく彼女を解放すると、伊都にはどこか得意そうに頷かれた。

「私もケーキ買ってきたよ」

「いいな、食べよう。俺、朝飯もまだなんだ」

 そう口にして初めて、やけに腹が減っていることに気づく。思えば半日近く何も口にしていなかった。

「朝ご飯も食べてないなんて、昨夜はぐっすりだったんだね」

「ああ、かなり飲んだからな」

「そうだろうね、すごく楽しかったんでしょ?」

 伊都がおかしそうに笑った。

 気のせいかもしれないが、なぜだろう、その笑顔がどこか思い出し笑いのように見えて――そこで俺は、電話で彼女が言葉を濁していた件が気になってきた。

 今更だが、彼女は俺に何を話そうとしていたのだろう。

「私、着替えてくるね」

 靴を脱いだ伊都が、一足先に家の中へ入っていく。

 気のせいかそわそわした様子に見える彼女を、俺も釈然としない思いで追い駆けた。


 紅茶の用意ができた頃、伊都も部屋着のワンピースに着替えてリビングに現れた。

 そして買ってきたケーキの箱を開け、テーブルの上に置いてみせる。

 てっきり切ってあるやつを買ってきたのかと思っていたら、白いクリームと赤いいちごの小さいホールケーキだった。チョコレートのプレートも飾られていて、『めぐるくん おたんじょうびおめでとう』などと白いチョコペンで書かれているのを見ると少々気恥ずかしかった。

「これ頼むの恥ずかしくなかったか?」

「全然! せっかくだからつけておきたくて」

 出張帰りの直後だというのに、伊都はやはり屈託がない。

 その明るい笑顔一つで、俺の方もまあいいかという気分になってしまう。

「ロウソクは貰ってこなかったのか?」

「欲しかった? ふーってしたかった?」

「いや、そうでもないけど」

 さすがにロウソク吹き消すのはチョコプレート以上に恥ずかしい。

「巡くんが歌ってくれるなら考えたんだけど、本人は歌わないものだしね」

 伊都はロウソクを貰ってこなかった理由をそんなふうに語った。

「それに、せっかくのケーキに穴開いちゃうの微妙かなと思って」

 そう言いながら、伊都はケーキに包丁を入れる。真ん中に置かれたチョコのプレートは一旦退けて、きれいに六等分してみせる。

 切ったケーキは各々皿の上に載せて、俺達はソファに並んで座り、温かい紅茶のカップを持ち上げる。

「巡くん、お誕生日おめでとう!」

「ありがとう。伊都も、出張お疲れ様」

 昨夜の乾杯の音頭とはまた趣の違う乾杯をした。

 それから、紅茶を飲みつつケーキを食べ始める。スポンジもクリームも軽めに仕上がっていて、美味しかった。

「ご飯代わりに食べるケーキってのも、たまにはいいね」

「俺なんて朝飯の代わりだよ。こんなこと、三十過ぎてやるとは思わなかった」

「三十二なんてまだまだ若いよ、ケーキが朝ご飯でもいいじゃない」

 ケーキを朝食にすることの是非はさておき、三十二歳が若いというのも事実かもしれない。

 むしろ未熟というべきか。愛する彼女の一晩の不在を嘆き、その寂しさを気心の知れた友人との馬鹿騒ぎで紛らわし、挙句の果てが朝寝坊だ。そして伊都が帰ってくれば、昨夜の寂しさもけろりと忘れてケーキなんか食べている。三十二歳の俺も、全くもって成長の気配なしである。

「来年の誕生日までには、もうちょい成長しとかないとな」

 ケーキを食べながら俺は呟く。


 来年には俺も所帯持ちである。もう今までのような未熟さではいけない。これからの人生を伊都と共に歩むと決めたのだから。

 ただ、所帯持ちの先輩であるはずの霧島や石田のことを思うと、そこまで難しく考えることでもないような気がしてくる。あいつらも酒の席では相変わらずだが、家ではちゃんといい夫をやっているようだ。俺も二人を見習って、今まで通りに伊都を大切にすればいい。そして時々は伊都に許可を貰って、今まで通りの友達付き合いもする。それだけのことだろう。


「さすがに昨夜は飲みすぎた。お前がいなくて、寂しかったからな」

 続けた俺の言葉に、伊都はまた思い出し笑いみたいな表情を見せた。

「だから、なのかな。昨夜は本当に酔っ払ってたね」

「まるで見てたみたいに言うんだな」

「見てたというより、見せてもらったんだよ」

 見せてもらった?

 とっさに意味がわからず、俺はぽかんとする。

 一方の伊都はケーキの皿を置くと、テーブルの隅に置いてあった携帯電話を取り上げる。それから俺を窺い見て、もじもじしながら語を継いだ。

「昨夜遅くに、石田さんから連絡があってね」

「昨夜だって?」

 遅くというと、飲みに行った後のことだろうか。俺が帰ったのが十一時半過ぎだったから――石田め。他人の彼女に、なんて時間に連絡寄越してんだ。

「あいつ、そんな時間に何だって?」

 大方、俺についての密告だろう。察しつつも尋ねると、伊都は口ごもった。

「えっと……動画をね、送ってきてくれて」

「動画って、何の?」

「巡くんの」

 俺の動画とは何のことだろう。

 一向に理解が追い着かない俺に、彼女は言いにくそうに教えてくれた。

「巡くん、昨夜石田さん達に……私のこと話したでしょ?」

「ああ。それはいつものことだけど」

「そうなの!?」

「普通だろ。あいつらだってよく惚気るから、俺も惚気返すまでのことだ」

 俺は至って平然と答えたつもりだった。

 でもそれを聞くと、伊都は真っ赤な顔になって動揺を見せた。

「そ、そうなんだ……。じゃあ、いつもこんな感じなの?」

 そして携帯電話を操作すると、俺へ画面を向けてきた。

 四角い画面の中には、どういうわけか俺の顔がある。

 見覚えのある店内で、ビールのジョッキや料理の皿でごちゃついた卓上に頬杖をついている俺、だった。

 よく見れば着ているスーツも昨日会社に着ていったものだった。昨夜、酩酊して帰った俺がかろうじて保った意識でハンガーにかけた、あれだ。

「これ、動画なのか? 昨夜のだよな……」

 言いかけて、はたと気づいた。


 昨夜の俺はとても酔っ払っていて、石田や霧島の前で随分と惚気た記憶が、おぼろげにある。

 その時、石田と霧島はどうしていたか。

 なぜ石田はスーツのポケットから携帯電話を取り出していたのか。

 それをなぜ、俺の方へ向けていたのか――。


「……もしかして」

 恐ろしい予感に俺が声を震わせると、伊都はためらいがちに再生の操作をした。

 画面の中で時間を止められていた酔っ払いが、途端にぺらぺらと喋り始める。

『やめろよ、酔っ払いの顔を写真に撮るな』

『写真にはしねえから。ドレスを着た園田が何に見えたって?』

 これは石田の声だ。自分はちゃっかり画面外にいて、誘導的な台詞を吐いている。

『それはさっき言っただろ』

『いいからもっかい言ってみ』

 すると酔っ払いは見慣れた顔をでれでれと緩ませ、幸せそうに語り出した。

『……だから、妖精のお姫様だよ』

 素面の俺なら断じて口にはしないような惚気を。

『本当に、人間じゃないんじゃないかってくらい可愛くてさ、可憐でさ』

「――ちょ、ちょっと止めてくれ」

 正視に堪えず俺が手を挙げると、伊都も素直に再生を止めてくれた。

「撮ってやがったのか、石田め……!」

 振り返ってみれば怪しい動きではあったが、あの時は全く気づかなかった。てっきり写真に残すつもりなのかと思っていた。しかし現実はもっと質が悪かった。

 思わず頭を抱える俺に、優しい声が降ってくる。

「巡くん、いつもこんなふうに私の話してるの?」

「いや、昨夜はつい箍が外れただけで……普段はもっとましなんだ。信じてくれ」

「私は、すごく嬉しかったな」

 伊都が恥じらうように言ったので、俺は恐る恐る面を上げて彼女を窺う。

「けど、引いただろ。妖精さん、とか……」

「ううん、ちょっと恥ずかしかったけど」

 かぶりを振った彼女が携帯電話の画面に目をやる。再び時を止められた酔っ払いを、いとおしげに見つめていた。

「昨夜は懇親会の後、一人でビジホに泊まってたから。ほら、ビジホって妙に静かで寂しいじゃない。でも夜遅いし、巡くんがもう寝てたら悪いしなって思ってたところに――」

 石田がこの動画を送りつけたというわけか。

 昨夜寂しい思いをしていたのも、俺だけではなかったらしい。そんな当たり前のことにどうして気づけなかったのだろう。

「巡くんがどんなふうにお誕生日を過ごしたか、見られて嬉しかったんだよ」

 伊都は笑っている。

「それにすごく、愛されてるって感じしたなあ……」

 照れながら膝を抱えて、幸せでたまらないというように笑っている。

 その姿を見たら、俺も醜態を晒した恥ずかしさがほんの少し和らいだ。

 あくまでもほんの少しだ。石田を許したわけではない。と言うかあいつ、覚えてろよ。いつか絶対復讐してやる。

 だが今日のところは、伊都が喜んでくれたので――俺も石田の暴挙をダシに、いい思いをしてやろうと切り替えた。

「当たり前だろ、いつだって愛してるよ」

 俺はケーキの皿を置き、隣に座る伊都の肩を抱き寄せる。

 それから顔を覗き込むと、彼女は困ったようにはにかんでいた。

「知ってたけど、外でもあんなに語ってるとは思わなかったよ」

「だから、昨夜のは度を越しただけだ。いつもはもっと上品に、紳士的に語ってる」

「巡くんも、寂しかった?」

 伊都はあっさりと俺の本心を看破した。

 俺はその問いに短いキスで応じる。

 一日ぶりに触れた唇は記憶以上に柔らかくて、温かかった。

「あんなに酔っ払ってた時点でわかるだろ」

「うん……やっぱり、離れていたくないね」

「来年の誕生日こそは一緒に、二人きりで過ごそう」

 俺はそう告げたが、それはそれで何かのフラグのような気もして複雑だった。

 そして伊都は、そんな俺の懸念をいつもの全開の笑顔で吹き飛ばす。

「その前にクリスマスがあるよ、巡くん!」

「ああ、そうだったな。クリスマスは……」

 それで俺は去年のことを思い出す。

 誕生日にはとんだ邪魔が入ったが、そういうものもクリスマスの一夜だけで全て取り返すことができた。

「クリスマスは、去年みたいな過ごし方しようか」

 俺の提案に、同じ記憶を思い出しているはずの伊都は、照れ隠しの苦笑いで答える。

「今年も石田さんからケーキ買う?」

「買わない。今年はもう、あいつには協力なんてしてやらない」

「でも昨夜のお礼もあるし、素敵なもの見せてくれてありがとうって」

 伊都は昨夜のボーイズトーク動画が大変お気に入りのようだ。

 俺としては伊都に喜んでもらえてよかったと思うべきか、やはり石田許すまじと思うべきか――。


 まあ、彼女が笑っているから、いいか。

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