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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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夜のボーイズトーク(2)

 誕生日の朝、俺は物憂い気持ちで出社していた。

 伊都は今朝方、いち早く部屋を出ていった。見覚えのあるドラムバッグを荷物でぱんぱんにして、普段と同じスーツ姿で手を振る姿がまだ目に焼きついている。

『私、明日の朝一でケーキ屋さん寄ってくるから』

 だから誕生日パーティも明日やろう、彼女はそう言ってくれたが、裏を返せばそれは明日まで彼女と会えないという事実を改めて突きつけられた格好でもあった。


 思えば同棲して以来初めてのことではないだろうか。

 伊都のいない夜。

 一人ぼっちの夜。

 彼女と暮らし始めるまではごく当たり前だった夜が、今は憂鬱で仕方がない。

 いや、今はまだいい。これからしばらくは仕事に集中していれば、余計なことは考えずに済むだろう。だが仕事を終えて帰宅した後がやばい。しんと静まり返った3DKはお一人様には広すぎるし、十一月の夜の冷え込みを彼女の体温なしで凌ぐのは辛い。彼女との同棲生活はこの上なく楽しかったが、楽し過ぎるあまり一人暮らしの記憶がどこかへ飛んでいってしまった。たった一晩の話ではあるのだが、その一晩がやたら長く思えてしまう。


 そんな俺の気分を反映するように、今朝の天気は土砂降りだった。

 俺はもやもやと湧き起こる物寂しさを自転車で吹き飛ばすことも許されず、アンニュイな気分で車を走らせた。

 そして溜息をつきながらロッカールームのドアを開ければ、

「お、安井か。今日は残念だったな、園田の尻を追っ駆けられなくて」

 先に来てネクタイを結び直していた石田が、俺を見るなりそんなことを言い出した。

 おはようの挨拶より早く、開口一番で言うことがそれか。俺はげんなりしながら応じた。

「どっちにしろ、今日は一人だよ。彼女、出張でいないから」

「へえ、そりゃ寂しいな」

「まあな……」

 寂しいのはもちろんだが、言葉にすると余計に駄目になりそうだ。短く返した後、俺は石田の脇をすり抜けて自分のロッカーへ向かおうとした。

「何だよ、園田がいないからってしょぼくれてんのか」

 そこへ、背後から半笑いの声が追い駆けてきた。

 他人事だと思って――俺は振り返り、まさに他人事で飯が美味いという顔をする石田に言い返した。

「今日、俺、誕生日なんだよ」

「そう言や今月だったな。三十二か、確実におっさんの階段上ってんな」

「同い年だろ!」

「俺は若い嫁さん貰って心身共に若返っちゃったからな。おっさんじゃねえし」

 よく言う。そんな年齢ロンダリングが許されるものか。

 それに、俺だって自分より若い妻をこれから貰う予定だ。石田の理屈が通るなら俺だって若返ることだろう。現に自転車だって乗りこなせるようになったし、日々の楽しみも増えた。

 今回の誕生日も、本当なら楽しく過ごせるはずだったのだが。

「誕生日の夜を一人で過ごすのって空しいと思わないか?」

 俺が訴えると、石田はおかしそうに吹き出した。

「お前は女子か!」

 ぐさっと来た。

「は!? 何だよその言い種!」

「『誕生日に一人じゃ寂しーい』とか三十男が言ってたらどん引きだろ」

「石田に言われたかない、お前が一昨年何と言って小坂さんを口説いたか!」

「俺は何も言ってねえよ。可愛い女の子の方からお誘いを受けたってだけだ」

 いけしゃあしゃあと語りやがる石田だが、確かにあの誕生日の一件を俺は事細かに教えてもらったわけではない。断片的な情報だけを継ぎ合わせれば、あの日誘ったのは小坂さん――現石田夫人の方だというのは事実のようだ。


 だが俺は、この喋りたがり惚気たがりの石田が黙して語らぬ部分にこそ事の真相が潜んでいると睨む。

 つまり、誘ったのは小坂さんの方で間違いないが、百戦錬磨の石田の方がそれを引き出すような誘導的なことを言っただろうという推測だ。

 純粋無垢を地で行くような小坂さんが尊敬する上司をいきなりデートに誘えるとは思えないし、赤ずきんちゃんを待ちわびる狼の如き石田がその鋭い眼光でチャンスを逃すはずもない。恐らくは石田の方の言葉巧みな手引きがあったに違いない。全くとんだ教育係だ。


「なら安井、お前今夜は暇なのか」

 ふつふつと八つ当たりめいた怒りを煮えたぎらせる俺に、ネクタイを締め終えた石田が向き直る。

「ああ、暇だけど? 伊都は明日まで帰ってこないし」

 拗ねながら答えたら、

「しょうがねえな。そこまで言うなら、今夜は俺が付き合ってやるよ」

 得意げな笑みと共に、予想外の言葉がかけられた。

 俺は呆気に取られ、それから慌てて答えた。

「い、いや、そこまでしてもらわなくても」

 さすがに『伊都の代わりに誕生日を祝ってくれ』などと石田に頼む込むほど困窮してはいない。そもそも俺はそこまでして誕生日を祝われたいわけではないのだ。

「いいって、遠慮すんなって」

 石田は軽い調子で手をひらひらさせた。

「どうせ園田がいないからって寂しさで枕を濡らす予定しかねえんだろ」

 必ず要らない一言を付け加えてくるのはこいつなりの気遣いなのか、本当にからかわれているだけなのか。恐らく後者だろう。

「濡らすか! ってかお前、奥さんはいいのか。飲みに出歩いたりして」

「まあ俺、新婚さんだしな。可愛い妻を置いて飲みに出るとかあり得んよな」

 なら無理じゃないか、そう言おうとした俺を制するタイミングで石田は続けた。

「でも来月はもう十二月だろ。皆忙しいし、集まってる暇ねえからな」

「そりゃ年末だからな」

「んで年末年始の休みが明けりゃ、お前は晴れて独身卒業ってわけだ」

 石田は入社当初から変わらない、不遜な笑みを浮かべてみせる。

「だったら独身のうちに俺らだけの飲み会、やっとこうぜ。霧島にも声かけとく」

「……ああ」

 そういうことか。

 納得すると同時に、妙な感慨が込み上げてくる。


 思えば霧島の時も石田の時も、結婚する前には必ず三人で集まっていた。

 近年では霧島夫人や石田夫人、それに伊都が加わるようになっていたが、それでも必ず俺達だけで集まることがあった。別に畏まった席でもなく、惚気混じりの報告会のようなものだったが、そういう夜は必ず無闇に酔っ払ってはしゃいだ。女性が同席していたら言えないような話もした。

 俺はかつて、そうやって霧島や石田の結婚を祝ってきた。


「次は俺の番、ってことか」

 思わず呟くと、石田は声を上げて笑った。

「だな。しかしすげえな、俺ら全員所帯持ちだぜ」

「思えば遠くに来たもんだな」

「うわ、おっさんくさいこと言ってんな安井」

「だから同い年だろって。俺がおっさんならお前もそうだよ」

 こんな歳になって、それぞれが結婚するようになって、やはり俺達は遠くまで来たものだ。

 それでもこうして誘い合って飲みに行ける相手がいるって、いいな。

「とりあえず、終業後にな。霧島は俺から誘っとくから」

「ああ、任せるよ。店は俺が探しとく」

「頼むぜ。魚の美味い店にしてくれ」

「豆腐料理があるのが最優先だ」

「お前の都合かよ。ま、今日の主役はお前だし、いいか」

「誕生日だからな」

 そんな軽口を叩き合いつつ、俺は石田がロッカールームを出ていくのを見送った。

 決して言葉にはしなかったが、これからも口にする気はないが――いい友達を持ったのかもしれない、密かにそう思っていた。


 約半日後、俺はその思いをあっさり撤回した。

「安井先輩、誕生日を祝ってもらえなくて拗ねてたって本当ですか?」

 居酒屋前で落ち合った霧島は、笑いを堪えながら俺に尋ねてきた。

 もちろん俺はそれに答えず、にやにやする石田を問い詰めにかかる。

「石田、お前喋ったな」

「誘う過程でどうしても言わざるを得なかった」

「嘘だろ! お前が好きこのんでぺらぺら喋ったに決まってる!」

「何を言う。俺くらい口も義理も堅い男はいないぜ」

 むしろ、どの口が言う。

 そもそも誕生日を祝ってもらえなくて、というのは違う。誕生日に伊都がいなくて寂しかっただけだ。だがそのわずかな差異を説明したところでわかってもらえるとは思わない。どこが違うんだよと笑い飛ばされるのが関の山だろう。

「意外と可愛いところあるんですね、安井先輩」

 霧島が冷やかしてくるので、俺は開き直って言い返してやる。

「そうだよ俺は可愛いんだよ。お前らみたいな悪辣な男どもとは違う」

 すると石田はしれっとした顔で主張する。

「悪辣な男どもが誕生日パーティなんか企画するか? なあ霧島」

 そして霧島は先輩を敬う気ゼロの眼差しを向けてきて、こう言い放つ。

「完全に先輩がたの泥仕合じゃないですか。俺を巻き込まないでください」

 俺達はいくつになってもこんな馬鹿みたいなやり取りをして、じゃれあっているのかもしれない。全く不毛だ。生産性もゼロだ。

 だが今夜もやるだろう。何年も続けてきた不毛なボーイズトークをこれからするのだろう。

「とりあえず、中入ろう」

 俺は二人を促し、居酒屋に入店することにした。


 三人で飲む時はとにかくメニュー豊富な店を選ぶのが決まりだった。

 なぜなら俺達は食の好みがものの見事にばらばらだからだ。今夜は俺が店を見繕い、蕎麦の美味いらしい居酒屋があったのでそこにした。ここは海鮮料理も揃っていたし、豆腐料理もオーソドックスなものが揃っている。

 席に通されてメニューを開くと、俺と石田は早々に注文するものを決める。

 だが霧島は、いつも最後まで悩む。

「どのお蕎麦にしよう……。月見も天ざるも鶏南蛮もあるなんて悩みます」

 麺類が複数あるとどうしても悩んでしまうらしい。最終的にはいくつも食べてしまうのもよくある話だ。

「何でもいいから早くしろよ、こっちは喉乾いてんだよ」

 石田に急かされて、霧島は不承不承メニューを絞り込む。

「じゃあ、最初はたぬきにします」

「わかった、霧島はたぬき蕎麦と生な」

「あっ、あと大根サラダを。妻にお野菜食べるよう言われてるので」

 外食の際も食事指導が入る。全くよくできた奥さんである。

「俺はシシャモ焼としらすおろしと生」

 石田は相変わらずの魚中心メニューだ。

「俺は揚げ出し豆腐と豆腐サラダ、それとビールにしよう」

 続いて俺が食べたいものを挙げると、途端に二人から突っ込まれた。

「先輩、豆腐大好きですよね。そればっかり」

「さぞかし豆腐にいい思い出があるんだろうな」

「好きだから頼んでるんだ。ってかお前らに『ばっかり』って言われたくない」

 霧島はいつだって麺ばかり、石田は魚ばかりだろうに。俺ばかり茶化されるのは納得がいかない。

 いい思い出があるのは事実だが。

「……お前ら、奥さんからはちゃんとお許し貰ったのか?」

 店員を呼んで注文を終えた後、俺は二人を茶化し返してやろうと水を向けた。

 今や所帯持ちの二人は仕事ならともかく、プライベートの飲みにはおいそれと出かけられないご身分だ。霧島夫人も石田夫人も束縛するような鬼嫁ではないが、だからこそ来にくかったというのもあるのではないだろうか。

「うちは、お野菜さえ食べればいいと言われました」

 霧島家の反応はあっさりしたものだった。何となく、あの人らしいと思う。

「うちもな、晩飯要らないっつったら『じゃあ今夜は一人ワッフルパーティします!』って喜んでたぜ」

 石田家はと言えば、これはこれであの子らしいなという反応だった。

「一人ワッフルパーティって、なんです……?」

「自分で焼いていろいろ挟んで食うんだよ。最近ハマっててさ」

「そういえば甘いの好きだもんな、お前の奥さん」

 一人なら一人で楽しめる、というのが石田夫人らしい。


 こういう話を聞くと、伊都ならどうするかなと考える。

 彼女も別段寂しがったり悲しんだりせず、『じゃあ今夜は豆腐丼にしようっと』とでも言う程度ではないだろうか。そして俺がいなくても風呂に入ってストレッチしてちゃんと寝る。健康的な生活をする姿が目に浮かぶようだ。

 しかしそうなると、彼女が一晩いないからと言って拗ねている俺の器の小ささを自覚してしまうが――いや、誕生日だから仕方ない。これは器の大小の問題ではない。誰だってそうだろう。


「安井こそどうなんだよ。留守の間に飲み歩いて、園田に何か言われねえか?」

 石田の問いに、俺は苦笑して答える。

「言われるわけないだろ」

 それどころか、メールで報告したら『仲良しのお友達と誕生日パーティなんて素敵だね!』なんて返信が来た。伊都は向こうでの仕事を一通り済ませ、これから懇親会にお呼ばれするらしい。豆腐料理があるといいけど、と心配している様子がメールから伝わってきて、可愛かった。

 俺もこちらで豆腐を食べる。伊都のことを考えながら、周りをうるさい連中に囲まれながら。

「じゃ、とりあえず乾杯すっか」

 生ビールのジョッキとお通しが運ばれてきたところで、石田が音頭を取ろうとする。

「何に乾杯ですか? やっぱり安井先輩の三十二回目のお誕生日?」

 霧島が可愛くない聞き返し方をする。

「誕生日の話はもういいよ」

 俺は手を振ってそれを拒否すると、笑って言った。

「そのくらいなら俺の結婚祝いってことにしてくれ。一足早いけど」

「了解。では、安井が見事に安井好みの美脚な嫁さんを貰うお祝いに――」

「いや、ちょっと待て。それは事実だけどもうちょい言いようがあるだろ」

 伊都のよさは脚だけではない。それだとまるで脚だけで選んだみたいに聞こえる。

「枕詞はいいから。笑顔が可愛い嫁さんを貰った記念だけでいいから」

「脚が顔に変わっただけじゃねえか。ばりばり枕詞ついてんだろ」

「あの先輩がた、ビール温くなるんで早めに乾杯しましょうよ」

「注文で散々迷いまくってたお前が言うか。とにかく『笑顔が可愛い』は外せない!」

「めんどいし、いっそ『脚がきれいで笑顔が可愛い嫁さん』にしようぜ」

「『お料理上手で豆腐好き』は入れなくていいんですか?」

 乾杯の音頭だけでこのぐだぐだ感、これぞいつもの俺達だ。

 で、結局こうなった。

「では安井くんが、脚がきれいで笑顔が可愛く料理上手で豆腐好きの奥さんを貰ったお祝いに――」

「長っ。長すぎませんかさすがに」

「いいんだよ全部事実なんだから」

「あと安井巡くん三十二歳のお誕生日を、可愛い彼女に代わってお祝いしまーす。はい、かんぱーい」

「かんぱーい」

「……かんぱーい」

 俺達は汗を掻き始めたジョッキを持ち上げ、中途半端な高さでぶつけ合う。

 誕生日祝いはいいと言っておいたのに――俺は笑いを噛み殺しつつ、まだ辛うじて冷たいビールを喉に流し込んだ。

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