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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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白を纏う(4)

 そして今、俺の手元には白いドレスをまとった伊都がいる。

 ミモレ丈のウェディングドレスを着た彼女を、俺は自分の携帯電話にもきっちり保存した。もちろんいつでも持ち歩く為だ。仕事に追われて辛い時、苦しい時でもこの画像を見たら頑張れる。幸せな気分の時に見たら更に幸せになれる。

 携帯電話の画像フォルダを開けば、いつでも俺の妖精さんと会えるというわけだ。


 ――と、月曜の朝から浮かれっ放しで現実に戻ってこられない俺がいる。

 週明けはいつも憂鬱なものだが、今日ばかりはまだ夢から覚めた気がしない。出勤前のひととき、リビングのソファで紅茶を飲みながら、俺は携帯電話の画面を眺めて一人にやついていた。

 あの後、チャペル式用のドレスも同じように試着した。こちらは伊都が着たがっていたスレンダーラインのドレスにした。伊都が地味に見えることを気にしていたので、一番華やかなデザインのものにした。俺としてはこちらももちろんいいのだが、やはりあのミモレ丈のドレスの衝撃には敵わない。

 伊都が最も自然でいられる、俺が惚れ込んだこの笑顔に一番似合うドレスを見つけた。

「巡くん、にやにやしてる」

 携帯電話を眺めているところを当の伊都に見つけられて、怪訝そうにされた。

「昨日の写真を見てた」

 そう答えたら、たちまち彼女は恥ずかしそうに首を竦める。

「また見てる。そんなに気に入った?」

「そりゃ気に入ったよ。今日はもう頭から離れないだろうな」

「確かに可愛いドレスだったけどね」

「ドレスだけが可愛かったわけじゃない。伊都も可愛かった」

 俺が訂正すると、伊都は返答に困ったのかあたふたと弁当の蓋を閉め始めた。

 リビングのテーブルに並んだ弁当箱は二つ。本日のメニューは豆腐の照り焼きらしい。できたてが美味そうで今すぐ食べたくなったが、昼まで我慢しなくてはならない。きっと冷めても美味いだろう。

「でも、ドレスって着てみないと本当にわかんないものだよね」

 伊都は蓋を閉めた弁当箱を包みながら言った。

「自分が着たいのと自分に似合うのって全然違うんだもん、試着って大事だね」

「そうだな、似合う色の話もためになった」

 実際に店まで出向き、試しに着てみるのは大事なことだ。この土日で試行錯誤を繰り返さなければ、俺はあの妖精のお姫様のような伊都とは出会えなかった。そういう意味で俺達はこの土日、よく頑張ったと言えるのではないだろうか。

「次は巡くんの番だね」

 伊都が、昨日ドレスを着た時と同じ笑顔を俺に見せる。

「楽しみだなあ、巡くんの正装。絶対何着ても似合うと思うんだ」

 その顔も今の屈託のない言葉も、どちらも可愛いなと俺は思う。

「それだって着てみないことにはわからないだろ」

 お蔭で返答とは裏腹の、緩み切った表情になっていたことだろう。

「巡くんに一番似合うやつ見つけようね」

「ああ、可愛い花嫁さんの隣で見劣りしたくはないからな」


 俺の衣裳合わせは来月の頭に予約を入れてある。もともと花嫁のドレスを先に決めてから、それに合わせて選ぶつもりだった。

 もっとも花婿の衣裳は花嫁さん方と比べるとそこまで種類豊富でもない。無難にタキシードにしようかと思っているが、伊都のドレスに合わせるならあまり重くない色合いのものがいいかもしれない。

 いっそ彼女に倣って、俺も白にしてみようか。

 白なんて結婚式以外ではまず着る機会もないからな。


「可愛い花嫁さん、だって……」

 伊都は俺の言葉を繰り返すように呟くと、はにかみながら弁当の包みを差し出してきた。

「はい、巡くん。お弁当用意できたよ」

「ありがとう。これと伊都の可愛い写真で、今日も一日乗り切るよ」

 受け取りながら礼を言う。

 すると彼女は可愛らしくもじもじしながら、

「な、何か巡くん、昨日からすごいね……」

「すごいって何が?」

「たくさん誉めてくれるけど、恥ずかしいこともいっぱい言うなって」

 そうは言いつつも満更ではないらしいのが表情から窺える。そのくせ恥ずかしくて耳まで赤くしているところがまた可愛い。

「伊都が花嫁さんになったのを目の当たりにしたからかな、気分が盛り上がってきた」

「そ、そうなんだ……」

 俺の答えを聞くと、伊都はやはりもじもじしながら尋ねてきた。

「私も、巡くんの正装姿見たらそのくらい言うようになるかな?」

 是非言って欲しいな。俺も誉められたいし惚れ直されたい。

 その為にも、今度は俺に合う衣裳を探さなければならない。結婚式までの道程はまだまだ果てしなく遠いが、伊都と二人なら楽しく乗り越えられそうだ。


 週明けの月曜日はどうしたって気が重くなる。

 土日に楽しい時間を過ごしていたなら尚のことだろう。俺は出社した後もどこか夢から覚めきらないような気分でいた。仕事の合間にふと目をつむると、昨日の可憐なドレス姿が残像のようにちらつく。わざわざ画像フォルダなんて開かなくてもいいほど鮮明に。

 それでも昼休みに入ると、携帯電話の画面を眺めてしまう。

 伊都の可憐なドレス姿はもうすっかり目に焼きついてしまっていて、その記憶を再確認する為に画面を覗いているようなものだ。何度見ても彼女は可愛い。彼女の肌色によく似合うアイボリー、その肌を透かす優美なレースの袖、バレリーナの衣裳のようにふわんと広がったドレスの裾と、そこから覗く彼女のきれいなふくらはぎと足首。結婚式の為に伸ばした髪をシニヨンに結い上げて、伊都は全開の笑顔を見せている。何度眺めても溜息が出る。

 そんな彼女を傍らに置いて、俺は人気のない社員食堂で照り焼き豆腐弁当を食べる。片栗粉の衣をまとわせた豆腐は味がよく絡んで美味く、外側がかりっと焼かれているのも好みだった。可愛いし料理も美味いしおまけに明るく脚がきれい。そんな子をお嫁に貰える俺は世界一の幸せ者だろう。


「安井課長」

 不意に背後で声がした。

 振り向くと、弁当箱を手にした霧島ゆきの夫人が立っていた。目が合うと何だかおかしそうに笑ってみせる。

「お疲れ様です。今、お昼なんですか?」

「お疲れ様、いつもこんなもんだよ。奥さんこそ、今日は随分遅いんだな」

「引き継ぎで手間取っちゃってこんな時間に」

 午後二時を回ってしまうと、社員食堂は潮が引いたように人がいなくなる。俺や石田なんかがこの時間に休憩に入るのはよくあることだったが、霧島夫人と鉢合わせるのは珍しい。秘書課はとかく時間厳守の部署だと聞いていたからだ。

「お昼、相席してもいいですか?」

 これまた珍しいことに、霧島夫人がそう持ちかけてきた。

「どうぞどうぞ。あとで旦那に自慢してやるから」

「じゃあ私は園田さんに自慢できちゃいますね」

 俺の軽口に同じくらい軽く返した後、彼女はテーブルを挟んで向かい側の席に着いた。

 それから身を乗り出すようにして尋ねてきた。

「もしかして昨日、ドレスを見てきたんですか?」

 以前から見に行くという話はしていたし、この人にはドレス選びと花嫁の先輩としていろいろアドバイスも貰っていた。いい機会だからお礼がてら報告しておくかと俺は頷く。

「土日で行ってきたんだ。よかったら写真見る?」

「いいんですか? 是非!」

 霧島夫人は俺が差し出した携帯電話を受け取ると、画面を嬉々として覗いた。

 そして一目見るなりぱっと顔を輝かせる。

「ミモレ丈! 素敵なドレスですね、園田さんにぴったりです!」

「だろ? すごくよく似合ってた」

 誉められると自分のことのように口元が緩むから困る。

「いいなあ、可愛いドレス……! 結構たくさん試着しました?」

「二日間で七着くらい着たかな。でも俺は、これが一番いいと思う」

「確かによくお似合いです。とってもキュートな花嫁さんですね」

「俺もそう思うよ」

 こういう時は多少謙遜するのがマナーなのかもしれないが、できなかった。むしろ自慢したくて仕方がなかった。


 こんなに可愛い花嫁を貰うのだということが、誇らしくて、幸せでたまらなかった。

 どうせならいろんな人達に祝福されたい。今日まで俺達を見守り、案じ、時にちょっかいをかけたり弄ってきたり手を差し伸べてくれた全ての人達に伝えていきたい。

 俺達は、この通り幸せになります。

 一足先に花嫁姿を披露した伊都を見た今、その思いはことさらに募りつつある。


「じゃあ、このドレスで決まりなんですね?」

 まだ画面を見ている霧島夫人の問いに、俺はまた頷いた。

「ああ。一目見た時から、これしかないって思ったよ」

「そうですね、園田さんにすごくよく似合ってます。本番も楽しみです」

 霧島夫人も目を細めて同意してくれた。

「俺もだよ。試着でこんなに可愛いんだから、ちゃんと着たらもっと可愛いはずだ」

 ついつい惚気てしまう俺を、夫人は冷やかすような、楽しそうな顔で見てくる。

「ふふ、結婚式で拝見できるのを心待ちにしてます。夫婦で伺いますね」

 そして弁当箱の蓋を開けながら、

「でも一番楽しみにしてるのは安井さんですよね」

 と言った。

 霧島家の本日の弁当はトマトソースのパスタのようだ。麺とソースが別々の容器に入っており、どちらも温めてあるのか蓋を開けるとほのかな湯気が立ち上った。さすがは霧島の奥さん、弁当も麺だとは徹底している。

 その予想通りなようで意外性もある弁当に気を取られていると、霧島夫人は尚も続けた。

「今日くらい幸せそうな安井さん、これまで見たことなかったですよ」

「え? そうかな」

「ええ。私、ここに入ってくる時、最初に電子レンジでお弁当温めたんですけど」

 霧島夫人は社員食堂の片隅にある電子レンジを指差し、

「その時から、安井さんがにこにこしながら携帯電話の画面眺めてるの見かけてました」

「そんなににこにこしてたかな」

「してました。きっといいことあったんだろうな、って私が思うくらいには」

 もしかして、それでドレスの試着をしてきたと感づいたのだろうか。

「そしたら傍を通った時、ちらっと白いドレスが見えて、そういえばそろそろ試着に行くって言ってたなって」

 プラスチックのフォークにパスタをくるくる巻きつけながら、霧島夫人はくすっと笑った。

「園田さん、嬉しいでしょうね。ドレスを着たところをこんなにも幸せそうに眺めてもらえるなんて」

 もちろん伊都だってそう思っているだろう。

 今朝も恥ずかしがりつつ、俺の言葉に満更でもないようだった。

 俺達はお互いに理想の結婚相手とめぐり会えた、ということなのだろう――それを第三者に言われると、さすがに面映くはなるが。

「まあ、彼女にめろめろであることは認めるよ」

 俺が素直にそう応じると、向こうはたまらずといった調子で吹き出した。

「それは見ててもわかります」

「何で笑うかな、いちいち」

「だって新鮮なんです、こういう安井さんを見るの」

 そう言われるくらいには、霧島夫人ともすっかり長い付き合いだった。

 その付き合いの間に霧島夫妻を結婚式まで見届け、石田の結婚式にも一緒に出た。俺は伊都と再び一緒にいるようになり、今では離れていた頃のことが自分でも信じがたいと思うほどだった。


 次は、俺達の番だ。

 これまで霧島を、そして石田を散々冷やかしてきたのだ。そのお返しを食らうくらいは致し方あるまい。


「君の旦那さんに見つかってたら、もっといろいろ言われてただろうな」

 俺が苦笑気味にぼやくと、霧島夫人はいたずらっぽく小首を傾げた。

「映さんに話しちゃってもいいですか?」

「……え、言うの?」

「夫婦の間に秘密は作らない主義なんです」

 そう言った後、パスタをぱくっと頬張って、飲み込んでから言い添えてきた。

「安井さんの結婚式、映さんも楽しみにしてるみたいです」

 果たしてそれは、どういう意味合いでだろう。

 俺は霧島の、そして石田の結婚式を思い出して、これから自分の身に起こり得る『祝福』を想像せずにはいられなかった。


 食事を終えた俺は、まだ弁当を食べている霧島夫人と社員食堂で別れた。

 勤務に戻る前にロッカールームに立ち寄って、弁当箱をしまうついでにロッカーの鏡で表情をチェックする。

 これは指摘されても仕方ない。緩みきってだらしのない顔つきをしていた。

「もうちょい男前になっとかないとな……」

 白をまとったあの可憐な花嫁さんに、釣り合わないと言われては困る。

 だが見栄を張って格好つけていた頃に比べれば、幸せにほころぶ今の顔も悪くはない気がした。

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