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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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至福のバスタイム(2)

 この時期、風呂の温度は三十九度に設定してある。

 人肌より温かい湯の中、背後から手を回して彼女をしっかり抱き締める。浮力のせいなのか、伊都の身体は水の外にいる時よりも柔らかく感じられた。彼女の体温はほとんど感じられず、その肌の感触だけがわかる。


 抱き締めたついでに胸へ手を伸ばしたら、遮るようにその手をぎゅっと握られてしまった。ものの見事に俺の両手が捕まった。

「あ、何するんだ」

「やると思った」

 まるで見透かしたように彼女が言う。

「そうか、伊都のご期待に添えたようでよかったよ」

 俺が言い返すと首を動かし振り向いて、軽く睨まれた。

「期待はしてないよ! 断じて!」

「あれ、そうなのか。俺はものすごく期待してたけど」

 せっかく一緒に風呂に入っているのだからこのくらいは許されると思っていた。むしろ身体を洗わせてくれなかったのだし、ちょっと触るくらいは許可して欲しいものだ。

 だが伊都は俺の手をきつく握って離さない。ぎゅうぎゅうと力を込めてくる。いつもは冷たい彼女の手も、湯の中では温く感じるのが不思議だった。そして身体と同様に、柔らかい、気持ちのいい手だった。

「そんなに握るなよ」

 満更でもない気分で言った俺を、伊都は首を捻るようにして見上げてくる。その顔は少し怪訝そうだ。

「巡くん、なんで嬉しそうなの」

「伊都が強く手を握ってくれてるから」

「そういうつもりで握ってるんじゃないんだけど……」

「いい雰囲気になってきたなと思ってるところだよ」

 手が塞がれてしまったので、やむなく俺は目の前にある彼女のほっそりした首筋に噛みついた。ごく軽く、痕が残らない程度に歯を立てると、伊都は大きく身を捩る。

「わあ! 巡くんってばもー!」

 ちゃぷん、と音を立てて湯が揺れた。

「なんで怒るんだよ、いつもやってることだろ」

「お風呂では声が響くからって言ってるのに!」

「今でも十分響いてるよ」

 それで伊都はあっさり黙り、その代わり俺に噛まれないようにか湯船の中にずぶずぶと潜った。

 俺の胸に彼女のまとめた髪が触れる。少し、ちくちくする。

「怒るなよ、伊都」

 さすがにからかいすぎたかと、俺は彼女を宥めにかかった。

「怒ってないもん」

 こちらを向かない彼女の声は、言葉とは裏腹に拗ねて聞こえる。

「じゃあ、拗ねるなよ」

「拗ねてもないもん」

「単に恥ずかしがってるだけ?」

 答えはなかった。

 その代わり彼女は水面に出した頭を俺の胸に、寄りかかるように押しつけてくる。甘えられているのかと思うが、やっぱりちくちくする。決して不快ではないのだが、黙ってもいられなかった。

「伊都、いたずらしないから手離して」

 俺がお願いすると、彼女は疑いもせず、意外にすんなり手を離した。

 解放された手で俺は、伊都のまとめた髪に触れる。

「ここ、俺の胸に刺さってる」

「嘘、痛かった?」

「いや、くすぐったかった。何か笑いそうになる」

「そんなに?」

 そう言うと伊都は更にぐりぐりと頭を押しつけてきた。さっきまで拗ねていたのはどこへ行ったか、口元にはいやに楽しそうな笑みが浮かんでいる。

「あっ、自分は止めたくせに俺にはいたずらするのか?」

 予想外の反撃を食らい、俺は笑いを堪えながら問い質した。

 伊都も唇をほころばせながら言った。

「違うよ、さっきの仕返し」

「この……じゃあ俺も仕返しだ!」

 言うが早いか俺は、顎まで潜っていた彼女の腰を両手で掴み、湯の外へ思いっきり引っ張り上げてやる。ざばっと盛大な音を立て、伊都の上半身は水面上へ引きずり出された。ついでにいくらかの湯が湯船から流れ出て、バスルームの床を打ち。まるで土砂降りのような派手な音を立てた。

「わわわ、何するの巡くん!」

 伊都は慌てて胸を隠していたが、初めて見るわけでもないのになと俺は思う。

「いたずらっこにはお仕置きだ」

「よく言う! 巡くんだっていたずらするじゃない」

「伊都だってしただろ。そういうことする子だと思わなかったよ」

「巡くんが何もしなかったら私もしなかったよ」

 それこそ子供じみた言い合いを繰り広げた後、伊都は当たり前みたいに俺に背を向け、俺の膝の上に座り直す。

 その後で唐突に肩を震わせ、くすくす笑い出した。

「変なことで喧嘩してる、私達」

「いい大人がな。これもちょっと、他人には聞かせられないな」

 風呂で開放的な気分になりでもしたか、俺達はその後お互いに声を上げて笑った。


 実際には喧嘩というほどでもないじゃれあいだ。俺は伊都の性格をよく知っている。俺が調子に乗って羽目を外しても、その場では怒るがそのうち許してくれる。いつも通り、あっけらかんと笑い飛ばしてくれる。俺も許してくれることを前提にちょっかいをかけたり、からかったりしていることは否めない。それもこれも相手が伊都だからだ。

 俺は本当に、最良のパートナーというやつを見つけたものだと思う。


 ひとしきり笑った後、俺に寄りかかりながら伊都が言う。

「お湯、結構逃げちゃったね」

「そうだな」

 さっき伊都を引き上げた際、湯船から結構な量が流れ出てしまった。お蔭で俺は腰くらいまでしか浸かっていないし、俺の上に座る伊都の可愛い膝は、まるで島みたいに水面から突き出している。ここまでじっくり温まったから寒くはなかったが、半身浴のような湯量ではさすがに物足りない。

「少し足そうか?」

「伊都がそうしたいなら。俺はこのままでもいいよ」

 彼女は両腕で胸を隠していたが、上からだとこれはこれでいい眺めが拝めたからだ。

「もうじき上がるし、私もいいかな」

 そう答えた伊都が、思い出したようにもう一度笑った。

「でも知らなかった。巡くんも意外とくすぐったがりなんだね」

「この髪、刷毛みたいだからな」

 俺は再び伊都の髪に手で触れた。

 水分を含んだ彼女の髪は、まるで絹糸で施された刺繍みたいな感触だった。

「にしても髪、随分伸びたな」

 こんなふうにおだんごを作れるようになったのはいつ頃からだっただろう。ほんの一年前までは結べないくらい短い髪をしていたのに。

 俺の呟きを聞いて、伊都がこちらを見上げてきた。きらきらした奥二重の瞳と視線が合う。

「うん、結構伸びたよ」

「伸ばし始めてから九ヶ月くらいか?」

「そうだね。巡くんと一緒にいるようになってからだもんね」

 伊都の髪の長さは、そのまま俺達が過ごしてきた時間の長さでもある。俺達が再び一緒にいるようになってからの、幸せで幸せで仕方がなかった時間を表している。

「どのくらいまで伸ばす予定なんだ」

「もうそろそろいいかなって思ってる。このくらいを維持しようかと」

 新婚旅行の為のトレーニングと並行して、結婚式への準備も始めていた。俺も伊都も結婚式にはさしたる夢や願望を持っていなかったので、式場は手近に市内のホテルを押さえた。近々、ウェディングドレスを見に行く予定だ。俺としてはそれが一番の楽しみだった。

 彼女もドレスに合わせてこれだけ髪を伸ばしたのだ、きっとよく映えることだろう。

「お前のドレス姿が楽しみだよ」

 俺が囁くと、伊都はくすぐったそうにまた笑う。

「私だって、巡くんが何着るのかなって楽しみにしてるよ」

「俺? 男は何着ようと大して変わんないだろ」

 霧島や石田の晴れ姿を思い起こしつつ、俺は答えた。確か霧島はタキシード、石田はフロックコートだった。ああいうのも自分で選んだのだろうか、そういえば聞いておくのを忘れていた。

「そんなことない、変わるよ」

 伊都はどこか不満げに反論する。

「巡くんは今以上に格好いい花婿さんになると思うな」

 彼女はいつも俺を全力で誉めてくれる。昔、髪を切った時からずっと、そうだった。

「ありがとう。でもそれ、惚れた欲目ってやつじゃないか」

 俺は笑ったが、伊都は笑わなかった。きょとんとしている。

「そうかな……巡くんは客観的に見ても格好いいと思うけど」

 それから楽しげに続けた。

「東間さんも長谷さんも藍子ちゃんも、職場の他の子達も――皆、そう言ってるよ」

 自慢ではないが外面だけはいい方だ。俺と職場でしか接点のない人々が、俺のことを誉めそやしているのはわからなくもない。こう言うと自信過剰に聞こえなくもないが、事実なのだから仕方ないだろう。


 だが伊都は素顔の俺を知っている。

 外面だけではなく見栄を張りきれなくなり、遂には張ることすらやめてしまった俺を知っている。

 伊都の前では駄々も捏ねるし無茶も言うし子供じみた態度だって取る。何より彼女に関することでは、いつだって無様なくらい必死だ。

 そんな俺を、それでもなお『格好いい』なんて言ってもらえるのは、幸せなことだ。


「お前にだけは、いつまでもそう言ってもらえる俺でありたいな」

 抱負のように呟けば、伊都も穏やかな声で言ってくれた。

「いつまでも言うよ、私」

「本当か? 俺はこういうの、ずっと覚えてる方だぞ」

「いいよ覚えてても。私、自信あるから」

 伊都は事実、妙に自信ありげだった。両腕で隠したままの胸を張り、背筋を伸ばして語を継いだ。

「巡くんは、いつでも、どんな時でも格好いいよ」

「爺さんになっても?」

「もちろん。格好いいおじいちゃんになるよ」

「自転車でお前に置いてかれて、息が上がってても?」

「うん。頑張ってる姿が格好いいんだよ」

「こんな、見栄っ張りの格好つけでも?」

 そこで伊都が振り向いた。あっけらかんと笑う。

「私の知ってる今の巡くんは、別に見栄っ張りじゃないかなあ」

 その笑顔に、俺はまた救われる。いろんなもやもやが呆気なく吹っ飛んで、たまらなく幸せな気持ちになる。満たされていく感覚に笑みが込み上げてくる一方で、胸は、その奥の心臓は、締めつけられるように痛くなる。

 幸せにしよう、彼女を。

 もう二度と失くさないように。

「愛してる、伊都」

「え? 急に何――」

 俺が耳元で告げた言葉に、彼女は戸惑っていたようだ。でも問い返す声は途中で途切れた。顎を掴んで唇を塞いだからだ。

 しばらくそうして、湯船の中で唇を重ねた後、お互いに深い息をつきながら離れる。

「……そろそろ上がろうか」

 俺は何気ないつもりで尋ねた。が、言葉に滲む期待感は隠しきれていなかったはずだ。彼女を抱く腕にも力が入る。

 案の定、伊都は恥ずかしそうに俯いたまま、微かな声で答えた。

「うん、……いいよ」

 お許しが出た以上、のんびりとはしていられなかった。急いでバスルームを出た。


 真夜中にかけるドライヤーの音は、騒音のうちに入るのだろうか。

 音漏れを気にして、俺はリビングのソファに伊都を座らせた。俺は背もたれの後ろに立ち、寝間着を着せた彼女の髪をブラシで梳かしながら乾かしてやる。彼女の髪はまだ水気が残っていて、長いだけに乾かしがいがあった。

「短くしてた頃はあっという間に乾いたんだけどね」

 俺に髪を乾かされて、彼女は嬉しそうだった。『お姫様になったみたいだ』なんてはしゃいでいた。そんな彼女が可愛くて、今夜は徹底的に甘やかしてやろうと俺も思う。

 もっとも、今夜と言ってももう日付が変わっている。ぼちぼち就寝の時刻だった。

「やっぱり、短い方が楽なのか」

 聞いてから、当たり前の質問だったなと俺は思う。自分の髪を見ればわかることだ。風呂から上がった後、伊都の髪よりも数倍速く乾いてしまった。

「そりゃそうだよ」

 伊都も頷いたが、すぐにこうも言った。

「でも仕事中、デスクワークの時は結べる方が楽かも」

「まあ、短くても俯けば髪は垂れてくるもんな」

「そうそう。あとご飯食べる時とかね」


 となると気になるのは、結婚式以降の予定だ。ウェディングドレスの為に髪を伸ばした彼女は、ドレスを着た後はどうするのだろう。

 俺としては短かった頃の伊都も可愛かったし、活発な彼女によく似合っていたと思う。だが伸ばした後の方がぐっと女らしくなったようにも思うし、髪を撫でやすくなったという外せないメリットがある。彼女も以前より撫でてもらえるのが嬉しいようだ。


 ドライヤーを終え、まだ熱を帯びた彼女の髪を手で梳くと、伊都はまどろむように目をつむる。

「式が終わっても長いままでいようかな」

「いいんじゃないか。俺は歓迎するよ」

「巡くんは長い方がよかった?」

「ああ。どっちも捨てがたいけど、今は長い方がいい」

 彼女の髪は短くても長くてもさらさらで、柔らくて、触り心地がいい。ずっと撫でていたくなる。

 もちろん一生撫で続けるつもりでいる。

「長い髪もよく似合うよ、伊都。俺は好きだ」

 ソファに腰を下ろし、隣に座る彼女の肩を抱き寄せた。

「嬉しい……」

 伊都も素直にもたれかかってくる。寝間着越しの体温は風呂の中にいた時よりも温かく感じられた。

「眠くなったか?」

「うん、少し……巡くんは?」

「俺も少し。ベッドに行けばすんなり眠れると思う」

 心地よい疲労感と抗いがたい睡魔がじわじわと忍び寄りつつある。秋の夜長と言っても実際に時間が増えるわけではない。明日の仕事の為にもそろそろ眠りに就くのがいいだろう。

「ベッドまで運んであげようか」

 そう伊都に告げると、彼女ははっとしたように身を起こして頭を振った。

「う、ううん、そこまではいいよ。大丈夫」

「お姫様みたいにしてやろうと思ったのに」

「傍でいてくれたらそれだけでいいよ」

 伊都が俺に腕を回し、ぎゅっと抱き着いてくる。

「それだけで幸せだよ」

 俺もその言葉と温かさに幸せを感じていた。彼女の髪を撫でながら、瞼の重そうな彼女に囁きかける。

「また一緒に入ってくれる?」

 伊都は目をつむったまま、くすっと笑ってみせた。

「恥ずかしいよ、巡くん」

 だが駄目だとも、嫌だとも、彼女は決して言わなかった。

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