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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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秋深き、隣は君(2)

 住み慣れた3DKの部屋は一人暮らしなら広すぎるほどだ。

 だが二人で住むなら快適だった。ロードバイクを二台置いておく余裕だってある。

「この部屋の一番いいとこは、会社までの距離だけどね」

 と、伊都は言う。

「自転車通勤にはちょうどいいよ、長すぎず短すぎず」

「ちょうどいいのか」

 未だに自転車通勤に至っていない俺にとっては、ちょうどいいと言われてもぴんと来ないのが正直なところだ。この部屋を選んだ理由は弟と一緒に暮らす羽目になったからで、弟の通学に支障がない立地を探さなければならなかった。俺としては職場に近い方がありがたかったのだが、車を購入する予定もあった為、駐車場さえあればいいと他の条件は弟に譲ってやった。

 マイカー通勤なら苦にもならないが、電車で行く日は少し億劫に感じる程度の距離。それが自転車通勤になるとまた違うのだろうか。


 何にせよ今日は休日だ。

 また自転車を走らせる週末がやってきた。

「今日は試しに通勤ルートを走ってみない?」

 自分の愛車を運び出しながら、伊都が俺を振り返る。

 彼女によく似合うオレンジ色のサイクルウェアと、キャスケット型のヘルメット。長い髪は低い位置にきっちり束ねている。彼女はこの格好の時が一番輝いて見えた。

 俺の方も着替えを済ませ、あとは家を出るだけだった。ロードバイクと一緒に購入したサイクルウェアはサイズだけならぴったりだが、まだ着慣れている気がしない。よくある身体にフィットしたスポーツウェアや気合いの入ったサイクルジャージは初心者の身分では気が引けたから、ポロシャツに膝下丈のカーゴパンツを選んだ。ヘルメットも伊都と同じくキャスケット型だ。お蔭で何とか様になっている。

「片道だけなら何とかなるかな」

 俺の答えに、伊都はおかしそうに笑う。

「それで帰りはどうするの? 押して歩く?」

「そうしようかな。伊都、付き合ってくれる?」

「いいけど……ううん、やっぱ行けるとこまで行こ」

 彼女は笑いながら言い直すと、俺を励ますように明るく付け加えた。

「途中で引き返してもいいんだし、疲れたら休んでもいいからね」

 このアパートから職場までの距離は十キロ超、自転車なら所要時間は約四十分らしい。

 もっともこれは伊都が走る場合の時間である。

「で、もし行けたら会社まで行ってみよう。時間計っときたいし」

 伊都の手首にはあのごついスポーツウォッチが巻きつけられている。自転車に乗る時だけは、俺が贈ったあの腕時計の出番はない。悔しいが、時間を計る機能では全くこちらに勝ち目はなかった。

「わかった、俺も頑張るよ」

 先週の筋肉痛の痛みも和らぎ、今日の俺は気合十分だった。

 十キロなら何とか走れる気がする。問題は帰りだが。

 そんな俺を見越したかのように、伊都が言った。

「でも頑張りすぎないようにね、巡くん」

 そう言うと彼女はロードバイクを担いで、アパートの階段を駆け下りていく。手すりにぶつかることもなく、すいすいと軽快な足取りだった。

 俺はと言えば買ったばかりの愛車をぶつけないよう、おっかなびっくり下りていくのがせいぜいだ。今のところは結婚後も引っ越すつもりはないが、もし転居の予定があれば、次は一階の部屋に住みたいと思っている。

 ようやく地上へ愛車を下ろすと、スポーツウォッチを覗いていた伊都が顔を上げた。俺に向かって、いつものようにあっけらかんと笑いかけてくる。

「じゃ、行こっか」

 この笑顔の為なら頑張れる。

 頑張った結果が先週の体たらくなわけだが、さておき。

「しばらく狭い道続くし、ゆっくり行くからね」

「わかった。道案内、頼むよ」

「了解!」

 走り出した彼女のロードバイクを追い駆けて、俺も自転車を漕ぎ出した。


 スポーツの秋にふさわしい、よく晴れた日だった。

 日差しは強すぎず暖かく、空はどこまでも果てがないほど澄み切っている。アパートを経ってすぐは閑静な住宅街が続いていて、風に乗ってどこからかキンモクセイの香りがした。秋の匂いだった。

 前を行く伊都は例によって軽い足取りだった。束ねた髪は風にたなびき、日の光を浴びてきらきら光っている。ミニスカートから伸びたきれいな脚は一定のリズムでペダルを漕ぎ続けている。毎日眺めても飽きることのない、実にいい脚だった。ラインよし肉づきよし、程よく締まっているがそれでいて女らしいなめらかさもある。剥き出しのふくらはぎは無防備で、スニーカーとそれ用の短い靴下から覗くくるぶしは色っぽく、後ろからの景色はまさに眼福だった。

 こうして彼女の後ろを走るのは楽しい。伊都の揺れる髪やきれいな脚を存分に堪能できるし、彼女も若葉マークの俺を気遣ってかちょくちょく振り返ってくれる。

「巡くん、もうじき街中へ出るよ」

 伊都が振り向きながら声をかけてきた。

「この先を右に曲がったらしばらく直進。車多いから気をつけて」

 住宅街の景色が終わり、大きめの通りに出ると、週末の昼前とあってか交通量が多かった。やや渋滞気味の車道の脇を走り抜け、更に進む。


 車通りの多い辺りでは、伊都はあまり振り返らない。

 もちろん危ないからだろうが、そうやって彼女の背中を追い駆けていると、あの森林公園でタンデム自転車に乗った時のことを思い出してくる。

 あの時も伊都は振り返ってくれなかった。カーブや坂道を教えてくれる時だけほんのちょっとこちらを向きはしたが、ずっと不機嫌そうにしていた。もちろん怒らせたのは俺だ、彼女は何も悪くない。ただあの時は彼女が許してくれないかもしれないという不安に駆られ、笑顔が見たくてしょうがなかった。

 今は違う。振り返る時、彼女は必ず笑ってくれる。

「ペース落とさなくて大丈夫?」

 前方からの問いに俺は頷く。

「意外と行けそうだ」

「本当? すごいよ巡くん、もう半分過ぎたよ!」

 サイクリングコースと違って、景色がころころ変わるからだろうか。それとも休日の気軽さゆえだろうか。

 あるいは、伊都が笑ってくれるからだろうか。

 自分でも不思議なくらい、ここまで難なく漕いでくることができた。残り半分もどうにか頑張れそうな気がする。もっともこれを出勤日に、仕事の前にとなるとまた別の話だろう。

 ともかくも今日は通勤路を完走したい。

「休憩する?」

 通りをいくつか走り抜けた後、道の脇の小さな公園を指差し伊都が尋ねてきた。

 俺は少し迷ったが、かぶりを振った。

「ここで止まると、多分どっと疲れが押し寄せる」

「じゃあ、会社まで行っちゃう?」

「そうしよう」

 下手に休むより一気に走った方がいい。休むのはその後だ。

「確か、うちの会社の近所にも公園あるよね」

 伊都が俺を振り返る。楽しそうに笑っている。

「休憩ポイントはそこにしよっか」

「伊都に任せるよ」

「うん、任せて!」

 彼女はとびきりの笑顔を残し、また前を向いた。

 束ねた髪が風に揺れ、スポーツ素材のミニスカートがはためいている。森林公園のサイクリングコースではなく、見慣れた街並みの中を走る。夏の日差しはもう行き過ぎ、今は秋の匂いがする。俺の中に焼きついた記憶とは、何もかも違う景色が目の前にはある。

 一番は違うのは俺の気持ちだ。今は幸せな思いで、何の不安もなく伊都の背中を見つめている。

 だからかもしれない。片道十キロ超の道程が以前ほど辛く感じなかったのは。


 駅前通りを抜け、オフィス街に入ったところで我が社の社屋が見えてきた。

 駐輪場のある地下駐車場には入らず、社屋の前で一旦自転車を停める。当然ながら入口は閉鎖されているし、ガラス戸越しに見えるエントランスも無人だった。

「……タイム、五十三分十五秒。まずまずじゃないかな」

 伊都がスポーツウォッチを止め、所要時間を読み上げる。

 やはり彼女が一人で走るよりも時間がかかってしまったようだ。俺はヘルメットを脱ぎ、額の汗を拭いながら詫びた。

「ごめん、足引っ張ったか」

「そんなことないよ。今日はお休みで、道混んでたからね」

 そう言うと伊都は会社前の道の向こうを指差して、

「もうちょっとだけ走れる? 公園まで五分もかからないんだけど」

「大丈夫だ」

 俺はヘルメットを被り直すと、頷いて彼女の後に続いた。

 会社周辺は味気ない灰色のビル街だったが、その中にぽっかり開けた公園があるのを俺も知っていた。知っていてもまず来る機会はなく、車で前を通りかかったことがあるくらいだった。


 実際に来てみると木陰あり芝生ありベンチありで、ほっと一息つくには悪くない場所だった。

 街中とは違い、緑の匂いを含んだ風が吹いてくる。俺達は入り口に愛車を停めると、それらが見える位置のベンチに並んで腰かけた。持参した水筒で水分補給をし、タオルで汗を拭く。

「巡くん、頑張ったね。思ってたよりいいペースだったよ」

 ヘルメットを首の後ろにぶら下げて、伊都が俺に笑顔を見せる。汗こそかいてはいるが、疲労の色はほとんど窺えなかった。

 俺はと言えば、さすがに休憩なしで十キロは息が上がっていた。それでもあの夏よりははるかに走れたし、この分だと帰りも何とかなりそうだ。

「もっとかかると思ってたのか?」

 そう聞き返す余裕もあった。

 伊都がきまり悪そうに首を竦める。

「ごめんね。先週は筋肉痛になってたし、片道十キロは厳しいかもなって」

「正直、俺も思ったより行けたと思ってる」

「あ、やっぱり? 秋で、涼しいからかもね」

 夏場の十七キロとはさすがに違う。気温が心地よく、風もいいのが吹いていた。

 気がつけば街路に立つプラタナスの葉も落ち始めており、ここへ来る途中にも車輪で何度か踏みつけた。日差しもすっかり和らいで、いつの間にか蝉の声も聞こえなくなっている。

「秋だな……」

 溜息と共に呟けば、伊都が不思議そうに瞬きをする。

「どうしたの巡くん、しみじみしちゃって」

「いや、一年ってあっという間だなと思ってさ」

 この間同棲を始めたかと思ったら、夏と繁忙期が終わり、石田の結婚式が終わり、もう十月になっていた。

 来月には俺の誕生日がある。三十二になることに特段の感慨はないが、伊都に祝ってもらえるのがとても楽しみだった。

「去年の今頃は何してたっけな」

 俺が水を向けると、伊都は一瞬考えてからすぐに答えた。

「あっ、私達お見合いしてたよ!」

「そうだな。小野口課長の奥様のお店へ行った」

「わあ、そう言われると確かに一年早っ!」

 去年の十月、俺達は小野口課長の仲介で見合いをすることになった。

 別にしなくても既にいい感じだったのだが、断りにくい流れだったし、俺としても今一度この関係を見直しておきたかったのもあった。

 結果的には見合いをしたことが功を奏し、よりを戻してからはとんとん拍子にプロポーズ、同棲、両家への挨拶と話が進んでいる。

「あれから、随分いろんなことがあったな」

「そうだね、本当に」

 あの頃、彼女を取り戻せる予感があった。

 だが確信にはまだ至っていなかった。諦めない、必ず取り戻してやるという意思だけはあったが、ようやく確信が持てるようになったのはもう少し後のことだ。

 いや、結構すぐ後だったかな。お見合いの直後くらいにはそう思えていた。

 なぜかと言えば、

「お見合いの日、雨が降ったよな」

 俺がそれに触れようとすると、伊都はわかりやすく頬を赤くした。

「そこは思い出さなくていいです」

「あの時の伊都、可愛かったな。今も可愛いけど」

「思い出さなくていいってば!」

 恥ずかしそうに俯く彼女はやっぱり可愛い。

 いいと言われても俺は余すところなく覚えているし、事あるごとにまざまざと思い出してもしまうのだが――振り返ればこの一年はまさに幸せしかない一年間だった。伊都が俺の隣にいる。俺に笑いかけてくれている。そしてこれからも、生涯一緒にいる約束をした。これが幸福でなくて何だろう。

「お前が隣にいて、俺に向かって笑ってくれたら、何でもできそうな気がする」

 秋の日に、そんな言葉を呟いてみる。

 伊都が顔を上げた。

「私だってそうだよ」

 ひたむきな眼差しで俺を見ている。昔よりもずっと近くに感じる。

「巡くんがいてくれたら、何だって頑張れるよ」

 そんな言葉を彼女の口から聞けるなんて、去年の今頃は想像もしていなかった。

 幸せだった。

「今なら十七キロも走れるんじゃないか」

 俺がそう言った途端、伊都には笑われてしまったが。

「今度、試してみる?」

「……いや、もうちょっと練習してからにしよう」

 さすがに大きく出すぎたかと、俺は慌てて撤回した。

 当面の目標は自転車通勤だ。今日は片道十キロを走り抜けることができたが、それは好条件が重なったからだ。この後に仕事が待っていると思うとまだ少し厳しいかもしれない。

 とは言えもしかしたらそれも、伊都の笑顔一つで乗り切れるかもしれない。

「さて、もうちょっと休憩したら復路だよ」

 伊都がヘルメットを被り直す。

「帰りはもっとゆっくり行こうね。途中、休憩挟んでもいいし」

「ああ。多分、帰りは疲れが出ると思う」

 飛ばしてきたわけではないのだが、脚に少しのだるさを感じていた。彼女が疲れてなければ、またマッサージをお願いしようか。

「帰ったらお風呂、それからお昼だね」

 伊都がそう続けたので、すかさず俺は聞き返す。

「一緒に入る?」

「言うと思った!」

 怒られるかと思いきや、伊都は声を立てて笑った。

「でも巡くん、運動の後はのんびり入った方がいいと思うよ」

「二人でのんびりすればいいだろ」

「できるかなあ……」

 少し疑わしげな目を向けられたので、俺はあえて口を噤んだ。ここで『できる』というと嘘になる可能性がある。と言うか、きっと嘘にしたくなる。

 だから今回も一緒のお風呂はお預けになりそうだ。伊都もそこを頑張ってくれたらいいのに――と言ったら、さすがに怒られるか。


 帰り道は行きよりもさらにペースを落として走った。

 アパートまでのタイムは一時間と三分。さすがにくたびれたが、それほど負担に感じる距離でもなく、自転車通勤がいよいよ実現できそうなところまで近づいていると感じた。

「案外、通勤の方が時間置くからもっと楽かもしれないよ!」

 伊都はそんなふうに言って、俺を鼓舞してくれた。

「思ったよりも早く一緒に通勤できるかもね」

 俺もできるだけそうなりたいと思う。

 彼女の後ろを走るのは楽しい。きっと仕事の前の励みになると思う。

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