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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
154/205

恋と愛(3)

 受付で渡された席次表によれば、俺と伊都は同じテーブルだった。

 もちろん霧島夫妻もだ。

 と言うより、営業課一同の中に俺と伊都と霧島夫人が交ざっている、とする方が正しいのかもしれない。

 石田の計らいか夫人の気配りかは不明だが、俺と伊都は隣に座らせてもらっていた。それぞれ人事課と広報課とから唯一の出席だから、という表向きの理由もあるだろうが、何にせよ大変ありがたかった。


 ホテル内の披露宴会場にまだ新郎新婦の姿はなく、だが各テーブルはほぼ埋まりつつある。

 会社の上司や同僚、ご親戚一同、新郎新婦のご友人と集まると相当な人数になるのも当然だ。まして今回は新婦の地元での式とあって、会場には石田夫人と同い年であろう若い女性の姿が多く見られた。ご親戚もかなりの人数が出席されているようだ。

 人が多いからというだけではないだろうが、現在この会場は他のどんな場所にもない華やかなざわめきに満ちていた。

 誰もが顔をほころばせて今日の披露宴を喜んでいる。祝いの席には一種独特な高揚感があり、自然と背筋が伸びてくるのが不思議だ。


「何か、どきどきしてきた……」

 席に着いた後、左隣に座った伊都が俺に囁いてきた。

「なんでお前がどきどきするんだよ」

 俺が囁き返すと、伊都は困り果てた顔で溜息をつく。

「だってこれから新郎新婦入場だよ、絶好のシャッターチャンスだよ」

「ああ。小野口課長の為にも、社内報の為にもいい写真を撮れよ」

 発破をかけるつもりで言ったのだが、直後の伊都の顔を見る限り逆効果だったらしい。

「課長にも似たようなこと言われてきたよ。社内報の為にも、新郎新婦の為にもって」

 彼女は急に落ち着かない様子で愛用のデジカメを弄っている。

「きっと一瞬だろうし、上手く撮れるかな……」

 その様子を見て俺も、さすがに悪いことしたかなと思う。

 これがただの思い出スナップというならここまで重圧にはならないだろう。今日の伊都は広報課員としてただ一人出席し、社内報用の写真を撮るという仕事も仰せつかっているのだ。まして雰囲気には呑まれやすい彼女のこと、緊張しても仕方がないのかもしれない。

「霧島みたいに緊張してどうすんだ」

 俺はそう言ってから、霧島夫人を挟んで二つ右隣に座っている霧島に目をやった。

 だがその時霧島は、初陣を控え精神統一に入った若侍のような顔でスピーチ原稿を復習していた。当然俺達の会話なんぞ耳に入っているはずもなく、こちらも下手に触るのはやめておく。

 代わりに、伊都に向かって手を差し出した。

「入場のとこだけ、俺が撮ってやろうか」

 ただの思いつきだが、口にしたら名案のような気がしてきた。

 伊都が瞬きをして俺を見る。ホテルのきらびやかな照明の下、長い睫毛の下の瞳も濡れたように光っていた。

「え……さすがにそれは悪いよ」

 戸惑い気味の返事を聞き、俺はすかさずかぶりを振る。

「いいよ。俺は失敗なんてしないし、こう見えても写真は得意な方だ」

 石田が聞いたら吹き出しそうな発言だろう。俺はあいつみたいにカメラの趣味なんてないし、得意だと言えるほど腕を披露したこともない。でも下手な方ではないという自負はある。それに緊張感も重圧もない。

 伊都は吹き出しこそしなかったが怪訝そうだった。そうだったっけ、と聞き返したがっている表情に俺は答える。

「俺の写真の腕は知ってるだろ。昔、森林公園で撮った」

 あの時の一枚は最高の出来だった。伊都だって見たはずだ、このカメラで撮ったのだから。そしてあとでプリントして、俺にくれた。

「それにそのカメラの使い方も知ってる。だから今日も上手く撮れる」

 そう続けると、彼女は瞬きを止めて見つめてくる。

 瞳が潤んだように見えるのは照明の強さのせいだけではないだろう。

「……でも、いいの?」

「いいから、カメラ貸して」

 俺が差し出した手を軽く振って促すと、伊都はためらいながらカメラを手渡してきた。

「上手く撮れなくてもいいからね、他にも画になる場面あると思うし」

「上手く撮るよ。あの時みたいに」

 目配せしながら軽く応じる。

 すると伊都は一瞬目を逸らした後、ぎくしゃくと俺へ視線を戻した。気恥ずかしそうな上目づかいで俺を見る。

「安井さんは、いつも通りだね」

 何やら感心したような物言いだった。

「当たり前だろ、俺の結婚式じゃないんだから」

「でも、これから歌があるのに……肝が据わっててすごいよ」

「歌うのは楽しいからな」

 楽しむ、というのは大切なことだ。たとえ大舞台であろうとも、楽しむ気持ち一つがあれば意外とあっさり乗り切れたりするものだった。


 思えば俺は霧島の結婚式でも、楽しい気持ちでステージに上がっていた。

 後輩に先を越されて、俺自身には当時彼女もいなくて、それどころか昔の失恋を大いに引きずっていて――そんな状況でも楽しめたのは、直前に伊都がくれた言葉のお蔭だった。

 彼女が『聴いておくよ』と言ってくれたから、俺も可愛い子に聴かせてうっとりされるのもいいかと思ってマイクの前に立つことができた。


 今夜も同じだ。伊都が聴いてくれている。だから失敗の許されない舞台であっても楽しんでやるつもりでいる。

「だから、楽しみにしててくれ」

 受け取ったカメラを手に告げると、伊都がようやく少しだけ笑う。

「うん。ばっちり聴いておくよ」

 霧島の結婚式でも、ちょうど同じように言っていた。

 俺も、あの時と同じように胸が満ちてくるのを感じた。

「頼む」

 そう応じた時、右隣の霧島夫人がくすっと笑ったのが聞こえたような気がした。


 やがて場内の照明がゆっくりと落ちた。

 直後に訪れた新郎新婦の入場を、俺は伊都から任されたカメラを構えて迎えた。

『ただいまより、新郎新婦がご入場いたします。盛大な拍手でお迎えください』

 司会者のアナウンスと共にBGMが流れたかと思うと、会場の両開き扉を強いスポットライトが照らした。そして扉が大きく開け放たれ、目映い光の中に本日の花婿と花嫁が現れた。

 白いフロックコートの石田はいつも通りだ。表情はどこか得意そうでも、楽しそうでもあった。恐らく俺以上に、あいつ自身がこの舞台を楽しんでいるのだろう。この上なく幸せそうな目を、隣の新婦へちらりと向けた。

 花嫁の方は、真面目な子らしくいささか緊張しているように見えた。口元に浮かんでいるのはかろうじて微笑と言えなくもなく、石田を見返す目は真剣そのものだ。白いウェディングドレスを身にまとった彼女はその色にふさわしい初々しさで、新郎の腕に縋るようにがっちりと掴まっている。二人が腕を組む姿は付き合いの長い俺も初めて見るもので、あの子の場合、こんな時でもなければ金輪際できなかっただろうなと感慨深ささえ覚えた。

 二人は目を合わせた後、静かに、慎重に、思ったよりもしっかりした足取りで場内を歩き出す。それを沸き起こる盛大な拍手が出迎える。


 あいにく俺はカメラを持っていたから拍手はできなかった。だが心の中ではしっかり祝福したつもりだ。なるべく近くまで来たところを捉えてやろうと待ち構えていたら、タイミングよく石田がこちらを見た。

 目が合った、と思ったのは俺だけかもしれない。

 だがこちらに気がついたのは確かだ。

 途端、石田がサービスでもするみたいに力強い笑みを浮かべたから、そう思った。

 もしかしたらその笑みは俺宛てではなく、このテーブルに居合わせた営業課一同、あるいは同じ会社の人間に対する笑みだったのかもしれない。どちらにせよ笑い方は誇らしげで、たまらなく幸せそうで、だから俺も遠慮なく記録に残してやろうと写真を撮った。石田史上最高の笑顔になるだろうと確信してシャッターを切った。

 その後は新郎新婦が寄り添って高砂席へ向かうのを、カメラを置いて拍手で見送った。


「……いいのが撮れた」

 あとで、伊都に見せてやった。デジカメの小さなディスプレイにはしっかりカメラ目線の石田と、真っ直ぐ前だけを見ている花嫁さんの清らかな横顔が写っていて、ある意味対照的な夫婦が腕を組み、支えあっているのが印象的な一枚となっていた。

「確かにいい写真。石田さん、こっち向いてくれたんだね」

 伊都は感心した様子で画面に見入り、それから嬉しそうに笑ってくれた。

「ありがとう。これ、採用になるかも」

「ならなくても当人達には見せてやろう」

 俺はそう提案しておく。

 石田ならきっと鼻高々で『俺は本番にも動じない男だ』などと言うだろうし、奥さんは自らの緊張の表情にきっと恥じ入ることだろう。

 今は二人とも高砂にいる。俺達のテーブルからは表情がかろうじて見える、という程度の距離だった。もっとも見えなくても、写真と同じ顔をしているだろうと断言できる。

 幸せそうで何よりだ、と思う。


 散々緊張しまくっていた霧島も、無事スピーチを終えることができた。

 終わるや否やさっきまでの緊張が嘘のように、このくらい当然ですよというどや顔で戻ってきやがったが、まあいい。その後は俺の出番だ。

 新郎新婦に捧げる歌は、『好きにならずにいられない』にした。

 原題は"Can't Help Falling In Love"――『愛さずにはいられない』と訳したものもある。どちらにせよこの曲は石田にこそふさわしいと思ったし、耳にタコができるくらい散々聞かされてきた奴のでれでれめろめろな恋愛っぷりにもふさわしいはずだった。

 英語ならラブの一言で済む感情、あるいは衝動なのか欲求なのか現象なのかわからないものを、日本語では恋や愛といった言葉で表現しようとする。そして多くの人は恋と愛を別物として捉え、切り離し、時に優劣をつけようとする。果たしてこの曲で歌われているのは恋なのだろうか、愛なのだろうか。

 三十過ぎの俺から言わせてもらえば、どっちだっていい。

 恋は下心愛は真心なんて言葉もあるが、そんなに簡単に割り切れるようなものではない。恋が時に恐ろしいほど純粋であることも、愛が時に利己的で身勝手なものになり得ることも、俺はよくわかっている。どちらが素晴らしいとか、どちらが貴いとか、どちらが正しいとか、そんなもの決められやしないし決めなくてもいい。

 強いて言うなら、両方あるのが素晴らしい。

 本日の新郎新婦を見るがいい。高砂に座っても時々目を合わせては幸せそうにしている。石田の方がすっかりめろめろで普段の吊り目なんぞ見る影もない。花嫁もそれを見て少しずつ緊張が解け、彼女らしい無垢な笑みが戻りつつあるようだった。あれが恋か、愛かなんて第三者には分類できないだろう。そして、どちらでもあると言っても間違いにはなるまい。

 だから俺はこの歌を歌う。


『――それではここで、お祝いのお歌をちょうだいしたいと存じます』

 司会のアナウンスに促されて、俺は席を立つ。

 隣に座る伊都が明るい笑顔で見送ってくれるのを、既にスピーチを終えた霧島が『俺はちゃんとやったんで先輩もちゃんとやってくださいね』なんて顔をするのを、古巣である営業課の面々が楽しそうに拍手を始めるのを見てからマイクの前へと向かう。

 その道すがら、司会者が俺の紹介を始める。

『安井様は新郎と同じ勤め先で、プライベートでもご友人でいらっしゃいます』

 ご友人と言われると今更だがこそばゆい。そうではないと思っていたわけではないが、はっきり他人に言われてしまうとまるで型に填められてしまったような違和感がある。

 ともあれ俺と石田は入社以来の付き合いで、俺は石田の過去の失恋も、奥様との糖度たっぷりな恋愛模様もよく知っている。逆に石田は俺の過去の失恋、及び同じ相手への長々と続いた恋を知っている――最近、知られてしまった。そういう間柄だから、俺は石田の幸せは素直に嬉しいと思ってやらなくもない。そしてそう思えることを幸せだと感じている。現金な話だが、伊都がいてくれるからだ。


 俺はマイクの前に立つ。

 高砂に座る石田夫妻に向かって、歌の前の軽い挨拶を告げる。

「石田、それに藍子さん。ご結婚おめでとう」

 ここからだと、自分の席よりも二人の顔がよく見えた。石田は俺を見て照れ笑いを浮かべているし、奥さんも何だかくすぐったそうだ。

 そんな二人に、まずは先制パンチを決めておく。

「先程、飲み仲間の霧島からも話がありましたが、結婚前の新郎は大変な惚気癖の持ち主でした。我々は新郎が、いかに藍子さんを愛しているか、いかに藍子さんが素晴らしい女性かをずっと聞かされ続けてきました」

 会場からはどっと笑いが起きた。特に営業課のテーブル一帯からは実におかしそうな笑い声が起きていた。石田が一瞬苦笑したようにも見えたがこれは一切盛ってなどいない、紛れもない事実だ。

「これからはその惚気が奥様自慢となるのだろうと思うと、楽しみでしょうがありません」

 俺は続ける。

 どうせこれからも石田には散々惚気られることだろう。俺から言質を取ったとばかり『楽しみだって言われたからには自重しないぜ』などと言い出すかもしれない。それならそれで、こっちもフィアンセを自慢してやるまでのことだ。

「そんな石田と藍子さんを祝しまして、この曲を贈ります」

 曲のイントロがかかる。


 俺は歌う。"Can't Help Falling In Love"――恋とも、愛とも取れるその単語を、どちらでもあるように歌う。

 どちらだっていい、両方あるのがより素晴らしい。どうせ止めようと思って止められるような代物じゃない。俺達はずっとそういうものに衝き動かされては浮かれたり、落ち込んだり、愚痴ったり惚気たりしてきた。初めて出会った頃はこうして幸せを祝いあえる仲になれるとは思ってもみなかったが、とにかく随分長い付き合いになった。恐らくこれからも長い付き合いになることだろう。

 俺は歌う。高砂で何か言いたそうにしながらも耳を傾けてくれている石田の為に。

 その隣で真剣に聴き入ってくれている花嫁の為に。

 ご清聴くださっている出席者の皆様の為に。

 そしてその中にいる、『聴いておくよ』と約束してくれた、きっと今は約束通りにしてくれている伊都の為に。

 恋と愛、どちらでもあり、どちらもある。その幸せを歌にする。

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