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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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目撃者かく語りき(4)

 通話を終えると、なぜか石田が声を立てて笑い出した。

「そうだ、五年前な。何か引っかかると思ったら」

 飲み屋のざわめきと混ざり合うような、くつくつと低く抑えた笑い声だった。

「……何のことだよ」

 いきなり笑われて気分がいいはずもなく、俺は思わず顔を顰める。ただでさえ石田に好き勝手された後だ、何を言う気かと身構えた。

 だが石田はそんな俺の警戒心さえ笑い飛ばすみたいに明るく言った。

「五年前っつったらあれだろ、合コン開くっつって人集めようとしてた頃だろ」

「覚えてたのか」

 俺は驚いてみせたが、本心は少し違った。


 石田なら忘れているはずがないと思っていた。

 ただ今更蒸し返してやっていい記憶でもないと、あえて触れなかっただけだ。


 今が幸せだからなのか、石田の表情は実に晴れやかだった。

「それでか、園田と付き合ったこと俺に言えなかった理由は」

「別にそれだけじゃない。彼女は秘密にしたいって言ってたし、実質付き合ってた期間も半年だったからな」

 振られた直後の石田に気を遣って、というのは理由のごく一部に過ぎなかった。俺はとっとと言って、広めてしまいたかったのだが、当時は彼女が難色を示していた。そのうちに別れて、結局誰にも言えないままで何年も過ごした。

「あ、もしかすると、例の合コンの女側の幹事ってのが園田だったんだな?」

 石田はなかなかの慧眼を見せた。

「あれだろ、前に話してたやつ。怒らせてお前の奢りでデートしたとかいう話」

 ちょうど遅れてきた揚げ出し豆腐が運ばれてきたので、俺は皿を受け取りながら無言で肯定しておく。

 鮭とばの最後のひとかけらを口に押し込んだ石田が、満足そうな顔をした。

「あれから五年って言われりゃ余計に長く感じるな。よく粘ったな、安井」

 全くだと思う。俺の諦めの悪さもここまでくれば誇ってもいいはずだ。

「自分でもそう思うよ」

 揚げ出し豆腐を食べ始めつつ頷けば、石田がまた笑い声を立てた。

「何だよ安井、園田が来るってなったら急に無口だな」

 ぎくりとした。

「だって、下手なこと言ったらお前さっきみたいに言うだろ、彼女に」

 俺の手から電話をもぎ取ったかと思えばあることないことぺらぺらと――いや、あることばかりだったか。石田の言い方が大袈裟すぎただけだ。


 だから俺は守りに入ることに決めた。

 ちょうどこの揚げ出し豆腐が程よい揚げ具合で美味かったのもあり、伊都が到着するまでは黙って食べ続けようと思っていた。


 しかし相手は石田だ。奴の煽りスキルは一級品だった。

「下手なことって何だよ。愛する彼女のどこが好きか、語り出すのが失言か?」

 小坂さん辺りが聞けば茹で上がりそうなことを恥ずかしげもなく言い放つ。

「他人の口を介せば曲解して伝わっちゃうだろ。お前なんて捻じ曲げる気満々じゃないか」

 俺の指摘にだって全く動じることもなく、さも当然のように笑ってみせた。

「いいから今のうちに語っとけよ。本人が来たら言いにくい話だってあるだろ」

「語るって何をだよ……。お前にわざわざ言質与えたくないよ」

「何でもいいぜ、さっきみたいな彼女自慢でも惚気でも」

「言わないって言ってるだろ」

 突っぱねようとした俺に、石田はしつこく畳みかけてくる。

「でも実は言いたいんだろ? 五年も黙ってたんだ、積もり積もった惚気話があるに違いない」

 的確な指摘に俺は、揚げ出し豆腐を箸で掴み損ねた。

 とろりとした餡の中で横倒しになった豆腐を一瞥してから、ぼそぼそ答える。

「まあ……誰にも黙ってた間は確かに辛かった。それは認める」

「だったら今言っとけよ、俺がどーんと聞いてやる」

 そう言うと石田は二杯目も飲み干しそうな勢いでビールを呷った。

 俺のジョッキはまだ三分の一減ったかどうかというところだから、三杯目は遠慮したいが――。

「今、幸せなんだろ?」

 ジョッキを空にして、石田が問いかけてきた。

 俺は迷わず顎を引く。

「そりゃそうだよ」

「園田、可愛いだろ。俺がそう思うくらいだ、安井から見たら相当だろうな」

 言葉を引き出そうとする石田に、乗せられていると思いつつも同意せざるを得ない。

「もちろん可愛いよ。あの笑顔に敵うものなんて、何もない」

「確かによく笑うよな」

「ああ。笑う時はすごく素直に笑ってくれるんだ。全開の笑顔って言うのかな」

 あのあっけらかんとした笑顔の価値に、俺はずっと気づけなかった。伊都が俺に笑いかけてくれることが、俺にとってどれほど大切なことか、失くしてから気がついて深く悔やんだ。何度も、何年も追い求めてようやく掴み取ったあの笑顔は何物にも代えがたい宝物だ。

「今になって思うよ。俺はどうしてあの笑顔なしで平気でいられたんだろうって。失くしたまま日々を送って、仕事して、普通に生きてきたなんて信じられない。伊都がいなかった頃の俺は半分死んでたんじゃないかとさえ思う」

 変なことを言っている自覚もある。と言うより、こんなこと他人に喋って理解されるなんて思う方が間違いだ。でも俺は今、何となく、石田に話しておきたい気分になっていた。

「半分死んでた、か。そんなふうには見えなかったがな」

 唸る石田の口ぶりは、気づかなくて悪かったと思っているように聞こえた。

 だが気づかなくて当然だろう。俺が、誰にも気づかせまいとしてきたからだ。

「でも今はちゃんと生きてる。伊都の笑顔が俺を生かしてくれる。彼女が俺に笑いかけてくれるだけで心臓が動いて、幸せな気持ちでいっぱいになって、俺は本当に生きてるんだって実感できる」

 俺は深く息をつく。

「かけがえのない存在なんだ、伊都は」

 石田はそれに、何とも複雑な面持ちで応じた。

「恋は男を詩人にするな、安井」

「茶化すなよ、今のは結構本気で語ったんだぞ」

「いや茶化してない、マジで実感したんだ」

 そう言い放つと石田は急に手を挙げて、駆け寄ってきた店員にお茶割りと焼き魚を頼んだ。

 それから俺に向かって言うには、

「駄目だ、お前の惚気聞いてたら口ん中が甘ったるい! 酒がないとやってられん!」

「自分から聞いといて何言ってんだ。ってか店員さんの前でそういうこと言うな!」

 注文を取りに来た店員さんにくすくす笑われ、俺は今更気恥ずかしくなる。ちょっと口が滑ったか。

 まだたっぷり残っているビールを自棄気味に呷れば、注文を終えた石田が感心したそぶりで言った。

「しかしまあ、すげえ惚気が出たな。もっと飲ませりゃまだ出るか」

「間違っても言うなよ、彼女には。恥ずかしいから」

「お、何だ。芸人ばりの前振りか? フラグか?」

「違う! 頼むから言うなよ、絶対言うなよ!」

 俺は石田に言い含めたが、確かに前振りのような台詞だと自分でも思った。

 このままいくと石田はまず間違いなく伊都に密告するだろう。俺もさっさと酔っ払っておく方がいっそ楽かもしれないと、残りのビールを一気に飲み干した。


 伊都が店に現れたのは、俺がお茶割りを飲み始めてからのことだった。

「ごめん、お待たせ!」

 家にいた時と同じノースリーブシャツにミニスカート姿の伊都は、俺達を見つけるなりぱっと顔を輝かせた。座敷に上がると迷わず俺の隣に腰を下ろす。もちろんそうするだろうと思っていたが、わかっていても彼女が隣に来てくれたことが嬉しかった。

「急に呼んで悪かったな、伊都」

「ううん。むしろ呼んでもらえて嬉しかったよ」

 俺の言葉に伊都が笑う。

 いつもの朗らかな笑顔だ。見ているだけで幸せになれる。

 すかさず石田が店員を呼んだので、俺は彼女のビールと豆腐サラダ、揚げ出し豆腐を注文した。

 しかし午後七時前の店内はあちこちから店員を呼ぶ声が響く盛況ぶりで、料理が出てくるまでには少しかかりそうだった。そこで伊都には俺達が食べていたつまみを取り分けてやり、彼女はまずそれらを美味しそうに食べ始めた。

 そのタイミングで石田が、テーブル越しに俺達を見てにやにやし始める。

「聞いたぞ園田。お前ら、大分長い付き合いだったらしいな」

 揶揄するように言ったからか、伊都は申し訳なさそうに石田に向かって頭を下げた。

「うん、黙っててごめんね」

「言っただろ、長いって言っても実際付き合ってたのは半年だったし、今だって去年くらいからようやくってとこだよ」

 俺がフォローを入れると、石田はどういうわけか嬉しそうに言い返してきた。

「けど、そのより戻すまでの間中も安井は園田のことを惨めったらしく引きずってたわけだろ?」

「うるさいな。誰だって振られたら引きずるものだろ」

 石田の言うことも事実ではあるが、俺としては今日までの五年間を惨めと評されるのは複雑だった。無様ではあったかもしれないが、足掻いた分だけの結果は得た。胸を張れる結果だと思っている。

「にしたって拗らせすぎなんだよ。元カノとより戻す為に見合いまでするとかな」

 しかし石田は容赦がない。

 そしてその辺りをつつかれると、俺としては少々分が悪いのだった。

「見合いの何が悪い。真っ当なやり方には違いないじゃないか」

「普通に考えて回りくどすぎる。『好きだ、もう一回付き合ってくれ!』で済む話だ」

 いかにも石田らしい物言いで断言され、思わず答えに窮した。

 それができていたら、ああまで足掻きはしなかったかもしれない――いや、世の中正攻法だけで上手くいくとは限らないのだ。俺と伊都の場合はその関係自体がややこしく拗れてしまったから、石田の言う通りにしていたところで望んだ結果を得られたかどうかわからない。だから俺はあのやり方でよかったと思っている。

「普段上から目線で偉そうな安井くんも、惚れた女の前じゃ大したことねえんだな」

 石田が愉快そうに笑うと、ほんの少し腹が立ったものの。

「大したことないって何だよ」

「自分こそめちゃくちゃ骨抜きにされてんじゃん。園田に」

 続く石田の言葉は、意趣返しだった。


 覚えがあった。

 かつて俺が奴に言ったのだ。小坂さんに夢中になってる今のお前に果たして骨があるのかと。

 あの時の言葉がこういう形で帰ってくると、迂闊にも感慨深いと思ってしまうから困る。そこまでしみじみしたくなるような言葉でもないだろうに。


「いいだろ。好きじゃなきゃ付き合わないし、結婚したいとも思わないよ」

 俺は隣に座る伊都をちらりと見つつ、言い切った。

 伊都は届いたばかりのビールを飲み始めている。まだ一口目なのにもう頬が赤い。

「だよな。じゃなきゃ結婚前からラブラブ同棲生活なんてしないよなあ」

 石田は石田でここぞとばかりに冷やかしてくる。別に恥じることはしてないつもりだったが、伊都が来るまでに石田と交わしてきた会話を思い出すと、俺もさすがにそわそわしてきた。

 そんな俺の内心を察したように、石田はふうと息をつく。

「ま、幸せそうなら何よりだ」

 飴と鞭の作戦だろうか、いやに穏やかな声音で続けた。

「園田が見合いするって聞いた時は、安井もうこれ駄目だな、しばらく再起不能だなって思ったからな。幸せになってくれてよかったよ」

 すると伊都が慌てて口を開く。

「ごめんね、あの時は。石田さんはあんなに巡くんのことを心配してたのに」

「気にすんな。どうせ大して心配してねえよ」

 石田は彼女の謝罪を笑ってかわすと、俺には意味ありげな目を向けてきた。

「文句なら安井に散々言ってやった。人が結婚式の準備に追われて彼女といちゃつく暇もないってのに、俺の知らないところで可愛い彼女作っていちゃいちゃしやがってってな」

 そこまで文句を言われた覚えはなかったが、これはまあ、石田なりの照れ隠しというやつだろう。俺も奴の気持ちを酌んで、改めて詫びておくことにする。

「悪かったよ。長い間黙ってたことは謝る」

「俺は別に、お前が黙ってたことをどうこう言ってんじゃないからな」

「じゃあ何だよ、俺達の幸せに対する僻みか? 自分だって幸せなくせに」

「お前なあ。結婚するまで一緒に住むのもお預け状態の俺にそれ言うか?」

 どうも石田は俺達が同棲していることについて強いこだわりがあるようだった。

「俺からすれば、こないだ園田に振られてへこんでたかと思ったら、いつの間にやら付き合ってて同棲なんて羨ましいこと始めちゃってるんだからな。そりゃ僻むよ俺も」

 立て板に水の勢いでまくし立てた後で息をつき、それから俺に向かって、

「やっぱ、いいもんか? 同棲すんのって」

 さっき、伊都が来る前にも尋ねてきたのと同じ質問をぶつけてきた。

 よほど羨ましいのか、伊都の前で何か言わせようという誘導なのか、それとも単に酔っ払っているだけか――石田の意図するところは読み切れなかったが、俺はなるべく正直に答えようと思った。

 そして正直に答えようとするとどうしても、口元が緩んだ。

「まあ、悪くはないよ。やっぱり安心感はあるし」

 言葉では割と控えめに答えたつもりだったのだが、顔に出ているのでは仕方ない。直後、石田に睨まれてしまったのも当然のことだ。

「くっそ、何だよでれでれしやがってこの野郎! そんなにいいのか同棲は!」

「そりゃあ、いいもんじゃなかったらしないよ」

 今はもう、一言では語り尽くせないくらい幸せだ。あれだけ辛い思いをしたのだ、今の俺達には幸せを堪能する権利がある。

「だらしねえ顔して言われると三倍むかつくな……!」

 石田がわざとらしく舌打ちをする。

「やっぱお前なんか痛い目見ろ!」

 あまつさえそんな言葉までぶつけてきたので、俺は笑顔でそれを拒んだ。

「嫌だよ。あれだけ苦労したんだ、あとは彼女と幸せになりたい」

 そして同意を求めるように伊都を見やると、目が合った途端に彼女はうろたえ、あたふたと再びビールを飲み出した。そのちょっと慌てた様子がすごく可愛かった。

 しばらく黙って彼女を見ていたら、

「本当、園田の前じゃ誰だよってくらい別人の顔すんだな、お前」

 頬杖をついた石田がふと呟いた。


 自分の顔なんて鏡を覗かない限りは見えないものだ、石田の言葉を今確かめることはできない。

 だが長い付き合いの石田がそう言うのだから、きっとその通りなのだろう。今の俺は誰が見ても疑いようのないくらい幸せな顔をしているに違いない。


「せっかくやり直せたんだ、二度と離すなよ、安井」

 少ししてから、石田は俺に告げてきた。

「しっかり捕まえとけ」

 念を押すような口調と共に、やや吊り上がった、だが真っ直ぐな目が俺へと向けられる。

 その視線を真っ向から受け止めて、俺は深く頷いた。

「わかってる。絶対に離さない」

 あんなふうに半ば死んだような日々を過ごすのはもう二度とごめんだ。俺に何かあれば心配してくれる奴がいるのもわかっている。だから俺は伊都の手を離さない。離してはいけないのだと思う。

 俺達が頷きあう傍で、伊都は黙ってぐいぐいとビールを飲んでいる。いつになく速いペースだった。料理も何も届いていないのにもうジョッキが空きそうだ。

「伊都、今日は随分ペース速いな。喉渇いてたのか?」

 あまりのピッチに俺が声をかけると、伊都ははにかみながら曖昧に答える。

「うん、まあ……。お替わり頼もうかな」

 そして赤くなった頬に自らの手を当てていた。きっと酷く熱く感じたことだろう。

「ってか園田、ほっぺた真っ赤だぞ。もう酔っ払ってんのか?」

 石田も口を挟んできた。からかい半分どころか、からかい成分しかないような言い方だった。

 すかさず伊都が唇を尖らせる。

「わざと言ってるでしょ、石田さん。目の前でこんな会話されたら赤くもなるよ」

 それで石田はこれ以上ないくらいの会心の笑みを浮かべた。

「この日を待ちに待ってたんだ。安井に彼女ができたら冷やかし倒してやろうと思ってたんだよ」

 このはしゃぎよう、全く手がつけられない。

「巡くん……!」

 伊都が途方に暮れた目で俺を見た。

 でもその顔が縋るようで可愛かったので、俺も思いきり羽目を外してやることにする。何分こっちも、ぼちぼち酔いが回り始める頃合いだった。

「仕方ない。こうなったら石田がうんざりするくらい見せつけてやろう」

「どっちにしても私が恥ずかしいんだけど!」

 彼女が困ったように声を上げれば、石田は石田で便乗するように気炎を上げた。

「見せつけてみろよ。俺は二対一でも怯まないぜ、お前らを冷やかしまくって身悶えさせてやる!」

「いやいいよ、そんなこと張り切らなくても!」

 奴の宣言に、伊都はとうとう両手で顔を覆ってしまった。

 もちろん石田にそんな抗議が届くはずもないことは彼女だってわかっているだろう。


 熟れたように赤い彼女の耳を見ながら、俺はしみじみこの夜の幸福を噛み締めていた。

 今夜はまだ時間がある。積もりに積もった惚気話を打ち明ける、いい機会だ。

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