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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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幸せのはじまり(4)

 一月の三連休に入ると、園田は初日の夕方から俺の部屋に来てくれた。

「何かもう、一緒に住んでるみたいだね」

 恥ずかしそうに言いながら、冷蔵庫を開けて中身を確かめている。去年のうちは開ける度にいちいち俺に断わっていたが、断らずに開けてもいいと言ったらその通りにしてくれるようになった。

 お蔭で俺も彼女と同棲を始めたような気分になっている。これから夕飯を作ってもらうことになっていて、彼女の手料理も楽しみだったが、キッチンに立って料理をする彼女を眺めるのもまた楽しみだった。


 もっとも、戸を隔てた向こうの寝室にはいかにも『泊まりに来ました』と言わんばかりに彼女のドラムバッグが置かれているし、彼女が洗面所に並べた化粧品や洗顔料の類もトラベル用の小さなサイズばかりだ。置いていくから幅を取らないものにした、などと園田は言っていたが、その点だけはほんの少し寂しい。まだ一緒に住んでいるわけではないのだと釘を刺された気分になる。

 だとしても園田と一緒にいれば、寂しさなんて感じている暇もない。

 気になるのも今と、明後日になって彼女が帰ると言い出す時だけだろう。


「晩ご飯、何にする? 買い物行くよね?」

 冷蔵庫の扉を閉めた園田がこちらを振り返り、尋ねてきた。

「ああ。園田が作ってくれるものなら何でも」

 リビングのソファに座った俺は、キッチンに目をやりながら答えた。夫婦みたいな会話だと思いかけて、夫婦は名字じゃ呼びあわないよなと思い直す。そろそろ名前で呼んでみてもいい頃か――どうせならそれも明後日、一月十日にしようか。

 着々と計画が組み立てられていく俺の胸中をよそに、園田は屈託のない笑顔で言った。

「じゃあ豆腐料理ってことだね!」

 そういうことだ。俺は頷く。

 本当にこの部屋で二人暮らしを始めるようになったら、毎日こんな会話を交わすんだろう。

 今日の晩ご飯何にする、とか。買い物行くから車出して、とか。仕事のある日はどちらが先に帰れるかわからないから、たまには俺が何か用意しとくってパターンもあるかもしれない。お互い決して暇ではない部署に勤めているから、一緒に暮らすようになったらいろいろ助けあい、支えあっていけたらいい。それはとても幸せな日々だと思うし、それを幸せだと思える時点で、俺は一緒に暮らすべき相手を見つけたのだとも思う。

「早めに買い物行っとこう。夜はのんびりしたい」

 俺はリビングへ戻ってきた彼女にそう告げた。

 ソファの傍までやってきた園田は、立ったまま俺を見下ろすと軽く頭を下げてきた。

「わかった。なら車の運転、よろしくお願いします」

 急に畏まるところが可愛いな。ペーパードライバーとして引け目でもあるのかもしれない。

「任せとけ」

 俺は勢いをつけてソファから立ち上がると、園田の肩を抱き寄せるなりその唇に自分の唇を押し当てた。彼女を抱き締めながら、わざと音が立つように二度、三度と繰り返す。

 不意を突かれて何度も唇を奪われた彼女は、俺を見上げる目を瞬かせた。

「安井さん、浮かれてる?」

「そりゃそうだろ。園田に『一緒に住んでるみたいだね』なんて言われたらな」

 俺もずっと、そうなることを望み、願い続けてきたのだ。ひとまずはこの三日間を本当に同棲でも始めたような気持ちで隅々まで味わい尽くしたい。

「買い物、やっぱり後にしようか」

 彼女のまだ短い髪を撫でながら、そして彼女のこめかみや額にキスしながら、俺はふと持ちかけた。

 何だか急に、彼女をソファに押し倒したくなった。幸い時間ならたっぷりあるし、ちょっとくらい遅くなっても大丈夫だろう――という俺の淡い期待を、園田は苦笑いで打ち崩そうとする。

「夜にのんびりしたいんでしょ? だったら今のうちに行っとこうよ」

「気が変わったんだよ。今は園田を構いたい」

「でも、遅くなるとスーパー閉まっちゃうよ。美味しい豆腐が食べたくない?」

「……しっかりしてるな、園田は」

 いい嫁になるタイプだと思ってた。俺は改めて実感しながら、不承不承彼女を解放した。

 車の鍵と家の鍵を指にぶら下げ、彼女と共に部屋を出る。


 アパートの階段を下りようとした時、偶然にも隣の部屋の住人が上がってくるところだった。

 隣家は小さな子供がいる若い夫婦で、指しゃぶりをする子供を奥さんが抱き、旦那さんは両手に買い物袋を提げていた。近所付き合いを密にするような暇がない俺は、隣人と顔を合わせても挨拶をするだけだった。いつものように頭を下げたら園田も一緒になってお辞儀をして、そのせいか隣家の夫婦は一度目を丸くしてから控えめに微笑んできた。


「――遂に嫁を貰ったか、って思われたかな」

 階段を下りて車に乗り込んでから、俺は助手席に座る園田に言った。

「思われたかもね。ここファミリー向けなんでしょ? 独身で住んでる人って珍しいんじゃない?」

 園田が聞き返してくる。

「恐らくここら一帯じゃ俺だけだと思う。車で判断するならな」

「やっぱり。安井さんはどうして部屋ここにしたの? 狭いの嫌だから?」

「いや……昔、弟と住んでたんだよ。ちょうど四年くらい前に」

 蘇る記憶にうんざりしながら打ち明けると、シートベルトを締め終えた園田が勢いよくこちらを向いた。

「そうだったの? 初めて聞いたよ!」

「言いそびれてたからな。言って楽しい思い出でもないし」

「そうかなあ、きょうだいだけで同居なんて絶対楽しそうだと思うけど」

 相変わらず園田はきょうだいに対する評価が甘い。甘すぎる。彼女自身は歳の離れたお姉さんをとても慕っているようだから無理もない話だろうが。

 俺だって園田みたいに素直に慕ってくれる妹がいたらもう少し優しい兄になっていたことだろう。

「だからあの頃、お前を部屋に呼べなかったんだ。全くいい迷惑だった」

 車を発進させながら俺はぼやき、ついでに今更だが、詫びのつもりで確かめておく。

「俺は園田の部屋に泊めてもらってたのに、部屋には呼ばないって不安に思わなかったか?」

「それはまあ、多少なくはなかったけど」

 園田は素直に認め、だけど今更だというように小さく笑った。

「でも安井さんを疑いはしなかったよ。あの頃は一緒にいられるだけで幸せだったし……今もだけど」


 車は冬の住宅街をのんびりと走る。

 路面は乾いていたが、路肩には溶け残った雪の小さな山がいくつか散見された。今日は時々日が差す程度の曇天だが、果たして一月十日の天候はどうだろう。


「安井さんの弟さんって、どんな人?」

 助手席から彼女が問いかけてくる。

 俺は少し迷ってから、正直に答えた。

「アイドルオタク」

「へえ、意外! ご両親とだけじゃなくて、安井さんとも趣味が違うんだね」

「ああ、それも筋金入りだ。何せ嫁さんも同じ趣味の相手を選んだ」

「すごい、趣味繋がりでご縁があるなんていいね。話合いそうだし、夫婦で趣味を楽しめそうで!」

 園田が羨ましそうな声を上げたので、俺は内心複雑な思いで頷く。

 夫婦で同じ趣味を、か――園田の趣味に合わせるのも確かに楽しいかもしれないが、あれは生半可な気持ちで取り組むものじゃないからな。興味はあるが、口に出すのはまだためらわれた。

 ひとまず、弟の話に戻る。

「そのうち会わせるよ。あいつ、うちの実家の近くに住んでるから」

 どうせ彼女を実家へ連れていくことになるのだし、翔のことだ、俺が嫁候補を連れ帰ると聞けば興味本位ですっ飛んでくるだろう。

「安井さんの弟さんか……あ、お兄さんもいるんだよね? 見てみたいなあ、楽しみ!」

 園田は妙に楽しげに言ってくれた。


 愛想のいい彼女なら、うちの親や兄弟とも上手くやれるだろう。

 その点は心配していないし、俺もそう遠くないであろう帰省の日を楽しみにしている。園田が割とすんなりと俺の実家行きを受け入れてくれたことも、もちろん嬉しかった。

 むしろ心配なのは弟の反応、あいつが何か余計なことを園田に言いはしないかという点だ。あいつには一度、園田の写真を見せてやったことがある。その後で彼女に振られたことも話してしまっていた。写真を持ち歩くほど惚れていた相手に一度は振られ、しかし四年も経ってからよりを戻したと告げたらどれほどからかわれるか。

 とは言えそれも、俺と園田が歩んできた歴史の一部には違いない。せいぜい何を言われても顔色一つ変えずに済むよう、表情筋でも鍛えておくしかなさそうだ。


「もちろん俺も、園田のご両親にちゃんとご挨拶に行くからな」

 俺が言い添えると、彼女はなぜか少しの間黙った。

 信号で車が停まるのを待ってから助手席に目を向けると、今頃になってお互いの家へ行くという意味に気づいたのか、園田は顔を赤くしていた。

 それから俺の視線に気づき、小さく顎を引いてみせた。

「うん」

 その可愛さと言ったらこちらがどぎまぎするほどで、危うく結婚を申し込むところだった。

 こんな調子で俺は、一月十日までプロポーズを我慢できるのか。

 まだ手元に指輪がないのが幸いかもしれない。


 翌日、一月九日は指輪が仕上がる予定日で、俺は店まで受け取りに行くことになっていた。

 だがそれを園田に気取られてはならない。彼女には部屋で留守番をしてもらい、俺が一人で出かけるようにしなくてはならない。もちろんその理由の本当のところも明かしてはならず、彼女が追及してきたら適当に誤魔化さなくてはいけなかった。

 嘘をつくのは心苦しいが――。


「園田、ちょっと買い物に行ってくる」

 昼食を終えた後、俺はコートを羽織りながら彼女に告げた。

 キッチンで洗い終えた食器を拭いていた園田は、俺の言葉を聞くなりぱたぱたと駆け足でリビングへやってきた。

「えっ、一人で行くの? 私もすぐ準備するから一緒に行こうよ」

 上目遣いの園田にねだるように言われて、俺の心がぐらりと揺れた。

 とは言えここで誘惑に負けて『いいよ、一緒に行こう』などと言っては何もかも台無しだ。明日の為にあれこれした準備をしてきたというのに、いよいよ一日前というところでフライングするのはさすがにいただけない。一生残るような思い出になるはずだから、余計にそう思う。

「いや、すぐ済む買い物だから。さっと行ってくるから、園田は留守番しててくれないか」

 誘惑を振り切り、俺は彼女に笑いかける。

 俺が一人で行く気だと察してか、園田は寂しそうに唇を尖らせつつも、口ではこう言った。

「……そっか。安井さんがそうして欲しいなら待ってるけど」

 可愛いな。俺に置いていかれるのがそんなに嫌で寂しいのか。これはすぐにでも指輪を引き取ったら、園田の待つこの部屋へも大急ぎで帰ってこなければなるまい。俺は彼女に軽くキスしてから言った。

「悪いな、好きに過ごしてていいから。もちろんすぐ戻る」

「うん……」

 園田は渋々頷いてから、怪訝そうに続けた。

「でも、一体何を買いに行くの? どこまで?」


 それは聞かれて当然の質問だったが、俺は答えを用意していなかった。無様にも一瞬うろたえてしまった。

 彼女なら『買い物行ってくるから待ってて』で納得してくれるだろうと甘く見ていたのだ。まさかこんなにも寂しがってくれるなんて、嬉しいが喜んでばかりもいられない誤算だった。

 買いに行くものは言うまでもなく、行き先は一応市内のジュエリーショップだ。車でおおよそ十五分くらい、道が混んでいなければ往復三十分で行ける。予約が必要な店だからそう待たされることもないだろうし、一時間ほどで戻ってこられるのではないかと踏んでいる。

 だがそれを馬鹿正直に答えてはいけないというのも言うまでもなく。


「大したものじゃないよ。一時間くらいで帰る」

 俺はどう答えて園田を納得させようか、彼女を抱き締めながら考える。

 園田は俺の腕の中で、きょとんと不思議そうな顔つきをしている。いつもよりあどけなく見えるその表情がまた可愛かった。

 その顔を見ていたらふとひらめくものがあり、俺はわざと恥じ入るようなそぶりで答えた。

「でもほら、一緒に買いに行くと恥ずかしいだろ? 園田だって」

「……え?」

「彼女連れだといかにもって感じだからな。俺一人で行くよ」

 そこまで語っただけで明確に何を、とは言っていないにもかかわらず、園田は何かを察したのかたちまち耳まで赤くなった。

「え……あ、そう、なんだ。えっと、じゃあ私、留守番でもいいかも……」

 あどけない表情こそするが、彼女は決して子供じゃない。今はそのことが功を奏した形だ。

 俺としても嘘はついていないというのが気分よかった。園田が実に面白い勘違いをしてくれたことも楽しかった。物は言いようとはこのことだろう。

「すぐ済ませて戻ってくるよ。待っててくれ、園田」

 赤くなった頬に自分の頬を寄せてから、俺は彼女に言い残し、部屋を出た。

 玄関まで見送りに出てくれた園田は恥ずかしそうにはしていたが、微塵も疑うそぶりは見せずに俺を送り出してくれた。


 車に乗り込んだ後は急いでジュエリーショップを目指し、予約の時間ちょうどに入店した。

 慶事とあってか大変愛想のいい店員から指輪の仕上がりを見せてもらい、納得の上でそれを受け取り、店を出る。あとでデザインを直すこともできるとのことで、至ってシンプルな指輪にしておいた。彼女の為のマンダリンガーネットは美しいオレンジ色をしていて、渡すのが今から楽しみになってきた。


 園田には思わせぶりなことを言ってしまったので、カモフラージュの為にドラッグストアにも立ち寄った。

 そして軽く買い物を済ませてアパートへ戻ったのは一時間十五分過ぎ。

 慌てて階段を駆け上がり部屋へ飛び込むと、園田はリビングのソファに座って持ってきたらしい自転車雑誌を広げており、急いで帰宅した俺をやはり不思議そうな目で見てきた。

「そんなに急がなくてもいいのに。でも遅かったね、道混んでた?」

「ああ、連休だからな」

 ドラッグストアからの帰り道で軽い渋滞に捕まってしまった。とは言え怪しまれてはいないようだ。ほっとしながら手洗いうがいを済ませ、買ってきたものを所定の位置へしまいに向かう。

 指輪は明日着ていく予定のジャケットのポケットに隠しておく。引き出しの中の方がより安全だろうが、明日になってそれを取り出し移動させているところを目撃されてはやはり台無しだ。こうして準備しておけば安心だろうと思った。


 一緒に暮らす際の課題が一つ浮き彫りになったようだ。

 彼女に隠し事ができなくなる。

 別に知られてまずいことなどそうそうないのだが、プレゼントなどを隠す必要がある場合が困る。

 よその夫婦なんかはこのような場合どうしているのだろう。家の中にそういうものを置いておいたら見つけられる可能性があるだろうし、となると他に考えられるのは車の中くらいしかない。

 机の引き出しだって油断はできまい――俺はふと、ぴったり閉じてある自分の机の引き出し、その最下段に目を留めた。

 あの中には四年前に購入したまま渡せずにいる腕時計がしまい込まれている。

 あれもそろそろ潮時だろう。園田がこの部屋で暮らすようになったら隠してはおけなくなる。彼女に見つかって、他の誰かに渡そうとしていたなどとあらぬ誤解を受けるのもまずい。明日指輪を渡したら、その後で部屋に戻ってきた時にでも――。


「安井さん? 外寒かったでしょ、何か温かいものでも飲む?」

 リビングから園田の声がする。

 とっさに振り向いたが、彼女の姿はなかった。こちらを覗くことはせず、声だけかけてきてくれたようだ。

「いいな、一息つきたかったんだ。頼めるかな」

 俺は一仕事終えた達成感を覚えながら返事をする。

 外は確かに寒かった。車内こそ暖房が効いていて暖かかったが、一歩外へ出ると身を切るような風が吹きつけてきた。改めて温まりたいと思う。

 リビングへ戻ると、ほわんと暖かい空気の中、ソファに座った園田がいい笑顔を見せた。

「待っててね、すぐお湯沸くから」

 キッチンからは火にかけられたやかんが立てる静かな音が聞こえてくる。

 彼女の言葉ではないが、もう一緒に住んでいるみたいだと思ったら無性に幸せだった。俺は彼女の隣に座り、そのままぎゅっと彼女を抱き締めた。温かかった。

「待たせてごめんな」

「ううん」

 園田はかぶりを振ると、でも急に安堵したように溜息をついてみせた。

「だけどちょっとだけ、寂しかった。急いで帰ってきてくれて嬉しいな……」

 そんなふうに言われたら、今後一緒に暮らすようになっても留守番なんて頼めそうにない。

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