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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
122/205

さよならを越えていく(3)

 その音は、ソファの足元に置かれた園田の鞄の中から響いているようだった。


 俺達はほぼ同時にそちらを振り返り、そして音の発生源がわかった時点で視線を戻す。すると押し倒された園田は真っ赤な顔で俺を睨んでいた。

「ごめん、多分電話だから退いて」

「このまま出ればいいだろ」

 何だったら電話を取ってやるから、この体勢のままで出ればいい。俺は園田が通話している間にもちょっかいをかけるかもしれないが、恥ずかしがり屋の園田のことだ、その辺りは通話相手に気づかれないように上手く堪えてくれることだろう。

大体、俺の部屋に来るのにどうして電源を切っておかないのか。邪魔をされたことにはほんの少しいらっとしていたから、これで大した用じゃなかったらどうしてやろうかと思う。

「って言うか何なのこの姿勢!」

 ソファの上で仰向けに倒れた園田が、今更のように声を上げた。

「安井さんは本っ当に手が早いんだから!」

「早くないよ、これでも長々待ってやった方だろ」

 ここ最近は俺らしくもなくおとなしくしていたつもりだった。それもただの忍耐じゃない。何にも知らない相手ではないからこそ、手を触れることもできなかった頃、部屋までただ送って別れるだけの頃がとても寂しくて辛かった。そろそろ報われていいはずだと思う。

「大体初めてでもないのに」

 ぼそっと言い添えると、園田は俺の下でじたばたもがき始めた。

「わーもう! そういうこと言わない!」

「いいから出ろよ。電源切っとけよ、なんて気持ちは胸にしまっといてやるから」

 しまい切れなくて口から出ていたような気もするが、致し方ないことだろう。

 園田は唇を尖らせながらも俺の身体の下から這い出ると、乱れた髪も直さず、四つん這いの姿勢で自分のバッグに手を伸ばす。

 そして震える携帯電話を取り出すと、耳元に当てて話し始めた。

「も、もしもし。お疲れ様です」

 ソファの下にぺたんと座る園田を、俺はソファの上に寝そべりながら見守った。

 当然ながらあまりいい気分ではなかったが、彼女も気にするようにこちらを振り向いてくれたから、とりあえず悪戯するのはやめておくことにする。どうやら仕事の電話のようだし。

 通話の相手は男のようだ。小野口課長、だろうか。

「大丈夫ですよ。何かあったんですか?」

 園田が勤務中の真面目な顔つきで応対している。

 そういえば以前にもこんなことがあったような――あの時は電話を貰ったのが俺の方だったか。そして仕事の用件でもなかった。

 だが今回はどうだろう。

「本当ですか? ありがとうございます、課長。お手数おかけしました」

 彼女の顔に安堵の色が広がり、やはり通話相手は小野口課長なのだとわかった。

 しかし次の瞬間、安堵の色はすぐに影を潜めて、園田の表情が暗くなる。

「そう、ですか」

 応じながら、園田はちらりと俺を見た。何か言いたそうな目だった。

 俺もその視線が意味するところを察し、思わず眉を顰めた。

 どうやらこれはあまりよくない知らせのようだ。一体何事だと身構えた直後、

「え……ええ!? あ、朝一ってそんな……」

 園田が悲痛な声を上げた。


 その声が大層切なげだったものだから、俺は胸騒ぎを覚えた。

 週明けに朝一で仕事を頼まれたか、朝一で会議やるから資料を作れとでも言われたか――何にせよ会社勤めの悲しい性、上司からの頼みは断れるはずもない。もしそういうことなら、俺も園田を明日の早い時間に帰してやらなくてはなるまい。残念だ。


 俺がいくつかの可能性を考えているうちに園田は通話を終え、電話を切ったようだ。浮かべた表情は憂鬱を通り越して脱力といっていいほどだった。見ている俺の方が心配になる。

「小野口課長からか? 何だって?」

 すぐさま尋ねると、園田は魂ごと抜けていきそうな深い溜息をつく。

「クリスマス終了のお知らせだった……」

「え?」

 彼女の口から飛び出てきた言葉は、俺の予想から大幅に外れていた。

 十一月のうちにクリスマス終了が決まったということは。

 ソファの下に座る園田が俺に向き直り、急に居住まいを正した。

「安井さん、ごめんなさい」

 そしてそんなことを言い出すものだから、俺は戸惑うより他なかった。

「何がだよ。そんな急に畏まって――」

 慌てて起き上がろうとしたがそれを待たずに、園田が深々と頭を下げてくる。

「出張が二十四日に決まってスケジュールがえらいことになるのが目に見えてるので、仕事納めまで待っていただけないでしょうか!」

 つむじが見えそうなほど頭を垂れた彼女が自棄気味にまくし立てるのを、俺もまた呆然と聞く羽目になった。

「イブに、と言うか年末に出張……?」

「そうです」

「か、かわいそうに……」

 もはや同情の言葉しか出てこない。

 面を上げた園田の、絶望的な顔が痛々しかった。

「ごめん、本当にごめん。まさかピンポイントに捻じ込まれるとは思わなくって」

「いや、そんなに謝るなよ。園田が悪いんじゃないんだろ、仕事だし」

 しきりに謝られて、こちらまで胸が痛くなる。


 もしかすると園田にはこうなるという懸念があったのかもしれない。その上でクリスマスには余計な期待を持たないようにしていたから、俺の誘いにもはっきりとは答えなかったのだろう。

 だが今、俺の目の前にいる園田は見るからにしょげ返っている。期待を持たないようにしていても、彼女なりに楽しみにはしてくれていたのだろうか。俺達がようやく辿り着こうとしていた、あの頃はできなかった約束を。


「年内はどうしてもその日じゃないと空いてないって言うの。おまけに朝一だから、前泊だって」

 花が萎れてしまったみたいに項垂れる園田を、俺はソファから下り、隣に座って抱き寄せた。彼女はくたっとこちらに倒れ込んできて、力なく呟く。

「ごめんね」

「謝らなくていいって言ってるだろ」

 俺は彼女をたしなめた。

 もちろん、落胆していないと言えば嘘になる。こっちは彼女以上にクリスマスに期待も希望も抱いていて、ついでに言えば今日だって期待に胸をはち切れんばかりに膨らませて彼女を部屋へ招いていた。それがすっかり水が入った形だ。がっかりもする。

 園田の心はもう来月の出張、及びその周辺で確実に立て込むであろう年末の仕事へと向いてしまっている。その上で酷く意気消沈している。俺が強引に振り向かせて、慰めて、一時忘れさせてやることはできるかもしれない。だとしても年末の予定が変わるわけではなく、彼女はこれからしばらくそのことを思い出す度にこうして落ち込むのだろう。

「顔を上げて、園田」

 俺がねだると、園田はのろのろとこちらを向く。

 その唇に俺は改めて自分の唇を押しつけた。柔らかい感触の間に熱い吐息が漏れて、それから顔を離すと、園田はちょっと不安げな目を俺に向けてきた。

 さっきの言葉は彼女なりの釘刺しということだろうか。

「園田、一応聞いておくけど、『待って』っていうのはやっぱり、そういう意味?」

 俺は半ば笑いながら確かめた。

 すぐに彼女が気まずげな面持ちで顎を引く。

「う、うん……多分、そういう意味」

 どういう意味かは明言したがらない辺り、やはりそういう意味らしい。

「どうして?」

 更に突っ込んで尋ねると、園田はもじもじしながら答えた。

「だ……って、これから会えない時間が続くかもしれないのに」

「続くかもしれないからこそ、だろ。いい思い出があれば、お互いに頑張れる」

「それはさ、頑張れる人はそうかもしれないけど。私は……」

 もう二十八だっていうのに、こういう時の園田は可愛くてあどけない女の子みたいだ。恥ずかしそうに首を竦めて、上目づかいに俺を見る。

「私は、かえって寂しくなると思うから」

 四年前もそうだったのか聞いてみたくなったが、やめておいた。

 聞くまでもない。今の言葉と彼女の態度だけでわかった。

 でも、それにしてもだ。あれから四年も経っているのに園田のこういうところはちっとも変わっていない。ちっとも汚れていない、ひたむきな瞳で俺を見ている。四年前から既にすっかり汚れきっていた俺には、その眼差しが時々痛い。

「今でも、何にも知らないみたいな顔するよな、園田」

 俺がつい、思ったことを口にすると、彼女は傷ついたような拗ねたような顔をした。

「さすがにそこまでじゃないよ」

「誉めてるんだよ。俺達初めてでもないのにいつまでも慣れてなくて、可愛いなって」

「誉めてないじゃない。女の子は好きな人の前では、いくつになっても純粋なの!」

 顔を赤くして言い返してくる園田は、やっぱりすごく可愛かった。

 本音を言えばクリスマスだのなんだのは関係なく、今夜、帰したくなかった。


 外はいつの間にか日が暮れていた。

 もう十一月だ。日が落ちるのは驚くほど早く、夕焼けはあっという間に夕闇に変わってしまう。俺は物寂しい気分で園田に告げた。

「合鍵、貰って欲しい」

 ソファの下に座ったままの彼女の頭を軽く撫でてから、その手を掴んで開かせた。ポケットにしまっておいた、四年前に作った合鍵をひんやりした手に握らせる。

 ようやく渡せたという達成感よりも、今は彼女を繋ぎ止めたい痛切な欲求の方が強かった。

「いつでも来ていいから」

 俺がそう続けると、園田は手のひらの上の鈍く光る合鍵をしばし無言で見下ろした。

 俺にとっては四年間も隠し持っている羽目になった思い入れの強いアイテムだが、彼女にとっては単に初めて見る品でしかないはずだった。もう真新しさもないそれがどんなふうに映っているのか、想像もつかなかった。

「ありがとう。けど、しばらくは来られないよ」

 しばらくしてから彼女は弱々しい声で言った。

「それでも持っててくれるなら嬉しい」

 俺は素直に告げて、俺を見る園田の頬や下瞼を指の腹でそっと撫でた。あまりに弱い声を出されたから泣いているんじゃないかと不安に駆られたのだ。だが彼女の頬も下瞼も濡れてはいなかった。俺を見上げる瞳だけが、複雑そうな光を湛えて揺れていた。

「持ってるよ。使う時まで大事にしまっとく」

 彼女が言い、俺は少し笑った。

「いざとなると言えなくなるもんだな。忙しくなるとわかってたら、寂しくなるとか、それでも会いたいとか……」


 これが違う理由なら、みっともなく縋るという選択肢もあったのかもしれない。

 だが仕事となると話は別だ。俺は広報課が忙しいことも、年末進行の慌ただしさも、毎年のようにクリスマスなんてないのと同じだということもよく知っている。彼女に無理をさせてまで、とは思わない。

 だがそんなことを考える一方で、いくらか迷いもなくはなかった。

 この気持ちは、あの頃の園田と同じなんじゃないだろうか。


「ごめん」

 何度目かの謝罪を彼女が口にする。

 それで俺は迷うのをやめ、肩を竦めた。

「責めてるわけじゃない。それに言ってなかったけど、俺も今月から忙しくなる」

「そうだろうね。時期が時期だし」

「ああ。来月は企業説明会もある。今からいろいろと準備があるんだ」

 それは事実ではあったが、どちらかと言うと彼女へのフォロー、そして自分への言い訳だった。

 お互い忙しいのだから仕方がない。そう言い聞かせて、この時期を乗り切ろうと決めた。全部が終わったら、改めて――俺達の関係にはっきりした答えを出す。それでいい。

「安井さん」

 園田が俺を呼んでくれた。

 俺は彼女に目を向けて、なるべく優しく応えた。

「何?」

 途端に園田が眉尻を下げ、なぜか悲しそうな顔をする。

「仕事納めまで全部終わったら、私――」

 そしてそう言いかけたところで、これまたなぜかはっとしたように口を噤んだ。

 その反応に俺は目を瞬かせた。

「どうした? 言いかけてやめるなよ」

「でも、映画とかだとこういうのってフラグでしょ。この戦争が終わったら結婚するんだ、とか」

 確かにそれはよく聞く類のお約束だ。生き残ったらあれをするこれをやると口走る人間ほど、映画の中では悲惨な目に遭うものだった。

 だがそういうのを気にして言葉を選ぶ園田は、やっぱり可愛いなと思う。

「だから言わないって?」

 俺が尋ね返すと、彼女は黙ってこくんと頷いた。

「意外と縁起を担ぐんだな、園田は」

「変かな。失敗したくないって思うの」

 そう思ってくれているのなら、俺も嬉しい。

 失敗したくはない。もう二度と。それは俺も同じ気持ちだ。ただ、そういう不安を抱く時期はとっくに通り過ぎたものだと思っていた。

 園田の中ではまだまだ、なんだろうか。

「変じゃないよ。ただ、もう恐れることでもないと俺は思ってたんだけど」

 俺は彼女の意思を確かめようと、その顔を改めて見つめた。

 ひたむきに見つめ返してくる彼女は、今でもどこか不安げだった。一歩間違えばまた取り返しのつかないことになる――そんな懸念を、今でも拭いきれないのかもしれない。だから柄にもなく縁起を担ぎたがるし、フラグになる台詞を口にするまいとしている。その気持ちだけで、今は十分だ。

「じゃあ俺も、今は下手なことを言わないでおくか。クリスマスは一人でやり過ごすよ」

 テーブルの上のカップに手を伸ばし、俺は胸に残っていた期待やその他諸々の感情を、冷めたハーブティーと共に一息に飲み干した。


 考えてみればクリスマスが中止になったところでどうということもない。

 その先には正月休みがあるし、一月十日、彼女の誕生日だってある。さすがに今年度は俺も園田も異動の話なんてないだろうし、クリスマスが中止になった分だけそちらに注力すればいい話だ。

 たとえ世間がクリスマスに浮かれて、はしゃいで、楽しそうにしていたって、寂しがる必要なんてない。

 俺達の楽しみはそれが過ぎてしまった先にある。

 そう思って、気持ちを切り替えた方がいい。


「よかったらお替わりを入れるよ」

 空になったカップを手に、俺は立ち上がる。

「ありがとう。お願いしようかな」

 すぐに園田も頷いて、テーブルの上の自分のカップに手を伸ばす。ぐいぐいと盃を傾けるみたいにハーブティーを飲みきる彼女を見ていると、俺も何だか馬鹿みたいなことを言いたくなった。

「いくらでも飲んでけよ。自棄酒ならぬ、自棄ハーブティーだ」

「同じ自棄でもこっちはすごく健康的な感じがするね」

 園田が疲れた顔で苦笑する。

 それから俺達はもう一杯ずつハーブティーを味わい、年末に向けての英気をじっくりと養った。リンデンの甘い香りは心地よく、穏やかな時間を過ごすのにはちょうどよかった。穏やかすぎて、あとで一人になった時に寂しくなりそうだと思うほどだった。


 結局その日は、園田を部屋まで送り届けた。

 午後十時には彼女はアパートの前にいて、意に反して紳士的な振る舞いをせざるを得ない車内の俺に、寂しそうに手を振ってくれた。

「じゃあ安井さん、またね」

「ああ、また。合鍵、いつでも使ってくれていいから」

 俺は念を押すつもりで言ったが、園田は否定も肯定もしないで曖昧に笑った。

「ありがとう、大切にするよ」

 それから彼女に見送られて、俺は一人で自分の部屋へ戻った。


 一人きりの部屋は相変わらず静かで、俺一人には広すぎて、明かりを点け直しながら室内へ歩を進めると、何だか無性に寂しくなった。

 あの頃、園田もこんな気持ちだったのだろうか。座り込んだソファはすっかり冷たくなっていて、園田がいた痕跡なんて何一つなくなっていて、先程園田といる時に浮かんだ疑問が再び胸を過ぎった。

 仕事に追われてよれよれだった俺に何も要求できなくて、一人の部屋で立ち尽くしたまま寂しいなんて思っていたのだろうか。

 もう二度と失敗したくはない。その気持ちが園田に歯止めをかけているのだろう。それはわかる。

 だが、俺の気持ちはどうだろう。あの頃の園田と同じように『寂しい』と思うようになって、それを胸に秘めたままでこれからの年末進行を乗り切れるのだろうか。乗り切れないと思ったとして、それをこれから忙しくなる彼女に正直に告げられるだろうか。そのくらいなら黙っている方が彼女の為かもしれない。

 だが、かつて彼女もそう思って、ぎりぎりまで黙っていて、それがあのメールに繋がったのかもしれない――。

 一人きりでいくら考えても、正しい答えは導き出せそうになかった。


 だからしばらく考えた後は、直感に従うことにした。

 寂しくなったら、やっぱり、会いに行くしかない。

 俺はあの頃できなかったことをする。それしかないと思った。

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