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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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彼女に似合うこと(6)

 しかし社内恋愛を楽しむと言っても、現状でできることはあまりない。

 俺と園田はまだやり直しを開始したばかりだし、石田のように弁当を作ってきてもらうどころか、廊下ですれ違った時に手を振っても苦笑いを返される程度だ。園田曰く『そういうのはやっぱり恥ずかしい』そうで、やめてくれとは言われなかったもののあまりいい反応もされなかった。

 そもそも石田と小坂さんは同じ営業課で働く上司と部下だから、仕事中でも霧島あたりが呆れるくらいいちゃいちゃできるが、俺と園田の接点と言えば同じ階で働いているということくらいしかない。いちゃいちゃどころか、タイミングを逃せばちらりと見かけることさえない日もあるくらいの接点だ。

 それでも職場が隣同士だけあって、彼女が退勤する時間がわかるという利点はある。だがそれだって毎日追い駆けてって一緒に帰れるわけでもなく、俺が残業地獄から抜け出せずに園田が去っていく足音を空しく聞くだけの日もあるし、仕事に気を取られるあまり園田がいつ帰ったかわからない日もあった。

 そういう日は帰宅後に園田と短い通話を楽しんだ後、彼女の写真を眺めて心を慰めるより他ない。

 俺の社内恋愛はまだまだ道半ば、物足りなさも物寂しさも大いにあった。


 それでも、園田の写真を見れば幸せな気持ちになる。

 俺の手元には彼女の最新の写真がある――名刺についている証明写真ではあるが、今の彼女を写したものには違いあるまい。

 昔、森林公園で撮ったものと違って、俺を見て笑っている写真ではないのが残念だ。だがあの頃から三年以上が過ぎ、変わっていないように見える園田の中にも様々な思いが過ぎり、記憶が重なっていったのだろうと思うと、俺には今の園田が昔よりもきれいで、貴く、そして何よりいとおしく見える。

 夜遅い自室のベッドに一人で寝転がり、彼女の名刺を眺めては微笑んでいる俺は、傍からすると酷く寂しい男に見えるかもしれない。

 だがこれでも一時期よりはずっと、遥かに幸せなのだ。

 そしてこの名刺もまた社内恋愛によって手に入れたものであり、そういう意味では俺もごくささやかにではあるが、社内恋愛を楽しんでいると言えなくもない。

 隣の芝生はいつでも青く見えるものだ。

 そのうちに、こちらの芝生も青いと胸を張ってやることにしよう。


 そんな思いを抱いて迎えた翌日、俺は久々に昼の休憩を昼時に取ることができた。

 当たり前のように一時二時には休憩に入れないのが繁忙期というやつなのである。特に役つきとなると部下を差し置いて休憩なんてもってのほか、皆がきちんと食事を取ったのを確かめてからようやく俺も休憩を取ることができる。お盆休みの余波もようやく落ち着き、人事課員の仕事もそれぞれ一段落ついたようだ。お蔭で俺も午後二時前に休憩に入ることができた。


 カップ麺を携えて社員食堂へ向かうと、この時間でも席は半分ほど埋まっており、そうすると何となく顔見知りの姿を探したくなる。

 ここに園田がいたらすっ飛んでいって相席を申し出るんだが――そんなことを妄想しながらカップ麺に湯を入れ、蓋に割り箸を載せて歩き出す。

 テーブルの間を通り抜けながら、彼女はいないものかと視線を彷徨わせていれば、上手い具合に園田はいた。テーブルに行儀よく座ってサンドイッチを食べていた。

 以前俺が広報課を訪ねた時、昼食くらい机から離れて食えと言ってやったことがある。今日はその通りにしたようだ、なかなかいい心がけだ。隣に座って誉めてやろうと思ったが、あいにく彼女には既に相席している相手がいた。

 都合の悪いことに、その相手は彼女の上司、小野口課長だった。

 さすがに同じ課の上司と部下がテーブルを囲んでいるところへ割り込んでいくのは気が引ける。仕事の話をしているかもしれないから尚更だ。まして小野口課長には以前、園田の知らないところで彼女の話をした経緯もある。彼女の前でそれらを匂わせるのも居心地の悪いものだ。ここは会釈だけして通り過ぎることにしよう。


 俺が二人のいるテーブルの傍を通り過ぎようとした時だった。

 タイミングよく、小野口課長が顔を上げた。

「ああ、安井課長。お疲れ様」

 俺の名前が口にされた途端、園田も弾かれたようにこちらを振り向く。目を瞬かせている彼女とは対照的に、小野口課長は妙に真面目な顔つきで俺を見ている。場違いに思えるほど責任感に溢れた表情だった。

 既に嫌な予感を抱きつつ、俺は頭を下げた。

「お疲れ様です」

「よかったらここどうぞ。僕はもう休憩終わりだから」

 小野口課長は早口気味にそう言ったが、終わりだからと言う割にカップの中のコーヒーは半分近く残っていた。だがそれを一気飲みの勢いで呷ると席を立ち、弁当箱と思しききれいな布包みを小脇に抱えた。そして座っていた椅子を俺に対して引いてみせる。

「ほら、座って座って」

 どうやら気を回してくれているようだが、もう少しさりげなくできないものか。

 俺が苦笑いを噛み殺そうと必死になっていると、小野口課長は園田に水を向ける。

「園田さんもいいよね、安井課長となら」

「え? いいんですけど、あの――」

 戸惑いながらも園田が頷いたので、俺はひとまずご厚意にあずかることにした。

「すみません。それでは失礼します」

 引いてもらった椅子に腰を下ろすと、小野口課長はそれでよしと言わんばかりに満足げに頷いた。それからじりじりと後ずさりしつつ、俺達に向かって手を挙げる。

「じゃあ僕はこれで。園田さん、休憩中はゆっくり休むんだよ」

「あ、はい……」

 園田はまだ状況を掴みかねているようだった。寝ぼけているみたいな顔で返事をしている。

「ありがとうございます、小野口課長」

 俺はきちんと礼を述べておく。

 態度の不自然さはさておき、園田と一緒に昼飯が食べられるのはこの人のお蔭だ。感謝してもし足りない。

 すると小野口課長は満面の笑みを浮かべ、俺にだけ見えるようにぐっと親指を立ててみせた。

 それにどう反応すべきか迷う暇すらなく、踵を返して逃げるように社食を飛び出していく。


 その姿が見えなくなってから、俺は思わず呟いた。

「別にああまで慌てなくてもいいのにな」

「と言うか、どういうこと?」

 園田は声を落とし、俺に尋ねてきた。

 彼女からすれば上司の態度は奇妙なのかもしれない。俺達の間には以前見合いの話が持ち上がったこともあったが、あれは既に断りを入れている。それ以降は特にあの人に報告する話もなく、なぜ小野口課長が俺をわざわざここに座らせたのかがわからない――園田の知り得ている情報からは、こんな疑問しか浮かんでこないだろう。

 だが俺はあの人に一度頭を下げたという経緯がある。あれから別段報告などはしていなかったが、数ヶ月経った今でも気にかけてくれているということだろう。ありがたいような、若干気恥ずかしいような。

 あとで口止めしておいた方がいいかもしれない。

「……例の、お見合いの件があったからじゃないのか」

 園田に対しては、俺はそんなふうに答えておいた。

「見合いが中止になっても、小野口課長としては俺達に気を回したいのかもな」

「な、何で?」

「さあな。そういうのが好きなんだろ」

 小野口課長が『そういうの』が好きだというのは事実だ。

 しかし事実の程を全て園田に打ち明けるのはさすがに抵抗がある。裏工作がばれたら、園田がどんな反応をするかわかったものではないからだ。俺だって恥ずかしいし、できれば秘密にしておきたい。

「安井さん、あれから何か言われたりした? うちの課長に」

 園田は随分と上司の態度を訝しがっているようだった。不審そうに尋ねてくる。

「いや、何も」

 俺がかぶりを振っても、尚も畳みかけてきた。

「別のお見合いを勧められたりとかも?」

「全然ないよ。何だ、気にしてくれてるのか?」

 からかうつもりで聞き返したら、園田はむっと唇を尖らせた。

「心配してるんだよ、私は。やっぱり我が社にさる筋からのタレコミがあったんじゃないかって」

「さる筋からのタレコミって何だよ。やけに深刻な物言いじゃないか」

 どんなタレコミがあって、小野口課長が俺達に気を遣うようになるっていうんだ。

 俺は笑ったが、彼女は言いにくそうに語を継ぐ。

「だからさ、屋上で花火見てたことを目撃されたんじゃないかと……」

「それが小野口課長の耳に入ったんじゃないかって?」


 ビルの上で抱き合う二人を見かけた者からの密告で、小野口課長はそれが誰と誰であるかを察し、若い二人を応援してやろうと改めて思うようになった――彼女の推理はこうだろうか。

 だがそれなら小野口課長が俺や園田に何も言ってこないのが妙だ。

 それにあの夜、あの距離から他社の人間が、俺達の細かな特徴まで掴めていたとは思えない。


 何より、

「ないない。そんな微妙なタレコミがあったら俺の耳にだって入ってる」

 俺は園田の懸念を一笑に付した。

 もしそういった密告があって、それが俺のことだと判明したなら、よそへ話が行く前にまず俺が呼び出されることだろう。場合によってはお叱りを受ける可能性もなくはないだろうが、どちらにせよもう花火大会から時間が経ち、要らぬ心配となったはずだ。

「そっか、それもそうだね。じゃあ……何だろう」

 園田がまだしっくり来ない顔をしていたから、俺はこの話をさっさと打ち切ってしまうことにした。あまり突っ込まれると例の件まで告白させられそうだ。

「まあ、俺としては気を遣ってもらえて助かったよ。園田と二人で昼飯食べられるし」

 それからぼちぼちいい頃合いだろうと、カップ麺の蓋を剥がしにかかる。湯気が立つラーメンに向かって手を合わせてから、割り箸を割る。

「それに小野口課長の傍でカップ麺食べると、何かと気を遣われるんだよな。早く嫁さん貰った方がいいんじゃない、とか」

 思い出してぼやくと、園田は納得したように顎を引いてみせた。

「ああ、愛妻弁当の人から見たらそう思えちゃうのかもね」


 小野口課長の愛妻弁当は社内でも有名な話だったが、だからなのかあの人は随分前から、俺が昼飯にカップ麺を食べていると心配そうに話しかけてくることがあった。

『そんなお昼ご飯で大丈夫かい。早く素敵なお嫁さんを貰って、食事の管理をお願いした方がいいんじゃないかな』

 これが心からのお節介だというところがまた厄介な話だ。ここで、

『いや結婚したいのはやまやまなんですが、相手が……』

 などと口走ってしまおうものならたちまち食いつかれて、いい話があるんだけどと持ちかけられるわけだ。ターゲットは俺だけではなく独身社員ならもれなくだったが、そういえば近頃は言われなくなっていたように思う。

 小野口課長も、俺が結婚を考えていないわけではないと知ったからだろうか。


「俺だって結婚したくないわけじゃないんだけどな」

 できたての麺に息を吹きかけながら、俺はぼやいた。

 それから園田に視線を向けると、サンドイッチをかじる彼女は何か言いたげな顔で黙り込んでいた。奥二重の瞳が瞬きを繰り返している辺り、反応に困っているというところだろう。

 もっと困らせてやろうと言ってみる。

「むしろ、結婚したいな。なるべく早いうちに」

 園田はまた、何も言わない。

 ただじっと俺を見つめている。瞬きの回数が増えたようだ。

 以前同じようなことを俺が口走った時には、俺なら幸せになれるだの、頑張れば彼女くらいできるだのとまるで他人事のような台詞を散々お見舞いしてくれたはずだ。俺はその言葉に少なからず傷ついたが、だからと言って園田を責める義理ではないことも自覚していた。

 それが今じゃ、他人事じゃないって顔をしてる。

「前とは違う反応だな。俺ならできるって言わないのか」

 俺が笑うと、園田は悔しそうに俺を睨んだ。拗ねたような顔つきが可愛かった。

「言って欲しかった?」

「いや、全然。結婚相手はまだいないけど、恋愛はしてるしな」


 それも、もう長いことしている。

 俺達の恋愛はお互いに時間がかかりすぎている。園田が積年の片想いを叶えたかと思ったら、今度は俺の方が何年間も片想いに苦しめられる羽目になった。

 かつての彼女の気持ちは十分すぎるくらいよくわかったし、俺はもう片想いには飽き飽きしている。そろそろこの想いが報われて、すれ違いの時間を締めくくってもいい頃だ。近頃ようやくその道筋に光明が差してきた。

 俺は幸せになりたい。

 そして園田を幸せにしたい。


「最近、たまに考えるんだ。俺が嫁を貰ったらどんなふうに生活が変わるだろうって」

 だから俺は、園田に向かって語り聞かせた。

「毎日のように豆腐料理が食べられるなんてまさに最高だし、インテリア代わりに自転車が飾ってある部屋も悪くない。何より隣で明るく笑ってくれる奴がいたら、どんな疲れもすぐに吹っ飛ぶだろうな」

 夢に見る結婚生活の相手は、大分前から既に決まっている。今更変更は利かない。他の子が相手ならこんな結婚生活はできないのだから、園田でなければ駄目だ。

 俺が思う理想の結婚は、彼女なしでは叶わない。

 園田は俺がとつとつと語るのを、いやに神妙な面持ちで聞いていた。コンビニで買ったと思しきサンドイッチは本日もツナとBLTで、彼女の身体はいよいよ豆腐を欲していることだろう。そういう時、俺だったら一緒に豆腐料理を食べてやれる。それも心から喜んで、美味しく食べることができる。

 やがて彼女は俺を真剣に見つめ始めた。奥二重の瞳が何か重大な答えを導き出したのか、はっと瞠られた後で呟く。

「もしかしたら、安井さんってすごく理想的な旦那様になるのかもしれない」

 驚くほど素直な、あどけなさすら感じる呟きだった。

「そうだよ。お前にとってはな」

 俺は即座にそれを肯定した。

 その後で少しだけ、複雑な気持ちにもなったが。

「全く。ようやく気づいたか」

 これだけアピールを続けているんだ、少しは現実的に考えて欲しいものだ。

 この世で一番園田に似合う男は俺だってことを。

 きっと他にはいない。他のどんな男も俺ほどには園田の全てを愛せないだろうし、彼女の大切にしているもの達を全部尊重した上で彼女を幸せにすることなどできやしないだろう。

「園田には俺が似合ってる。そう思わないか?」

 カップ麺の湯気越しに尋ねると、園田は我に返ったように頬を赤くして、ぷいと横を向いてしまった。

「あのねえ。ここで話すことでもないでしょ、それ」

「もし社内報で『我が社のベストカップル』なんて特集記事を組む日が来たら、二人で立候補しよう」

「そんな記事組まないよ! 社内報じゃそういうのはやらないからね、言っとくけど」

 もちろんわかってる。俺はこう見えても、社内報は月ごとの更新の度に熟読しているほどだからだ。

「じゃあ園田が提案してみてくれ。小野口課長に」

「しません! もうっ、何言ってんだか」

 園田は俺を可愛く睨んだ後、赤面しながらも呆れたように笑ってみせた。

 その表情に俺は、昼時に考えるにしては場違いな願望を抱く。


 ――そろそろ園田に、『馬鹿』って言ってもらいたいな。

 もうずっと言ってもらってないからな。聞きたくなってきた。

 でもそれを口にしたら、それこそここで話すことじゃないと言われそうだから、今度、二人きりの時にでもしよう。

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