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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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彼女に似合うこと(1)

 八月と繁忙期がやってきた。

 例年ならこの時期は憂鬱になる。まず繁忙期だけあって仕事が忙しい。昼の休憩を取る余裕もないし残業だって当たり前だ。外では気温も湿度も容赦なく上昇し、汗だくになって出社する朝のうちからもう帰りたくなっている。

 そうなると覿面に食欲も落ち、毎日のように一味足りない豆腐丼を作りながら、夏なんて早く過ぎ去ればいいのにと呪詛の言葉を唱える。

 社内の各部署には冷房が完備されていたが、他部署に用があって一歩廊下へ出るとたちまち熱気が全身を襲い、シャツが身体にまとわりついてくる。俺ができる抵抗はシャツの袖をまくっておくくらいで、毎年夏には完全敗北を喫している気分だった。

 そんな中で迎える花火大会など気分がいいはずもない。

 いつも花火が上がる音を、残業しながら忌々しい思いで聞いていた。


 だが今年は違う。

 手帳に印をつけておくほど、俺は当日を楽しみにしていた。

 何せ園田と約束をした。俺が入社以来八年以上も縁がなく、後輩や同期がいい思い出を作っていくのを指を咥えて見ているしかなかった花火を、二人で見る約束だ。これが楽しみでなくて何だろう。

 もちろん今は繁忙期、屋上へ上がってもそれほど長居ができるはずもない。二人で休憩がてら夕食を取りながら花火を見る、その間にどれだけの話ができるかはわからない。

 だがどうしても彼女に伝えたいことがあった。

 それもできれば、花火を見ながらがいい。


 仕事が忙しい中、園田とは頻繁にメールのやり取りをするようになっていた。

 初めのうちは俺の方が強引に押していくようなやり方だった。一方的に彼女へメールを送りつけて、意外と気を遣う性格の園田から返信をもぎ取るようにしていた。

 内容はほとんど他愛もないものばかりで、退勤後に『今帰った』だの、『これから夕飯を食べる』だのといった軽い報告から、社内で会った時の話、それに検定の勉強をしている園田に進捗状況を尋ねてみたりと――まあ色気のないやり取りに終始していたが、だからなのか園田からも欠かさず返信があった。

 そうして返信をくれるところに、俺はささやかな変化を感じ取っていた。

 メールの頻度が増えるにつれ、内容もまるで定期報告みたいに代わり映えしないものになっていったが、園田は俺が帰宅すると『お疲れ様』と返信をくれたし、『晩ご飯しっかり食べて明日に備えようね!』などという可愛いメッセージを添えてくれるようにもなっていた。彼女が俺の身体を気遣ってくれていることが嬉しく、まるで昔、付き合っていた頃に戻ったような気分になれた。色気はなかったが。

 だからこそ俺は花火大会に期待を寄せている。

 本当に昔みたいに、甘い言葉を囁きあうようなメールのやり取りをしたい。

 もちろん欲しているのはそれだけではないから、勝負に出るつもりでいた。


 そんな中、花火大会を目前に控えたある日のことだ。

 始業直後、会議室に人事課一同を集めてミーティングを行った。それから皆で人事課へ戻ると、タイミングよく内線が鳴り始めた。当たり前だが全員が出払っていた課内に出てくれる人間はおらず、俺は急いで受話器を取った。

「はい、人事課安井です」

 すると電話の向こうでは不自然な沈黙が数秒続き、まさか内線でいたずら電話か、となると犯人は石田かと思ったところでようやく声が聞こえてきた。

『……お世話になっております。広報の園田です』

 妙に澄まして取り繕った、仕事中の園田の声だった。

 これはこれでいいな、と可愛く思えてしまう。

「ああ、お疲れ様です。お世話になっております」

 俺は笑わないように表情を引き締めながら応じた。

 ちょっと格好つけたかったのもある。園田にも、仕事中の俺を格好いいとか凛々しいとか思ってもらいたい。

 その企みが功を奏したかは定かでないが、園田は呼吸を落ち着けてから切り出した。

『一昨日お願いした、社内報の確認の件なのですが……』


 広報課からお願いされていた件と言えば、退職する社員についての話だろう。

 社内報には入退社の情報も掲載するのが通例だったが、近年では個人情報保護の観点から、対象社員への確認を必ず取るようになっていた。実際に掲載を拒む人はそう多くはないが、だからといって確認が要らないということにもならない。

 ちょうど今朝のミーティングで報告があったのだが、件の社員からは掲載を許可する旨の連絡を貰っていた。書類はこちらで預かっているので後で広報へ持っていかなければならない。


「遅くなって申し訳ない。今朝方掲載許可をいただけたので後程書類を持っていきます」

 俺は詫びつつ答えた。

 実際にこちらの不手際で遅れたわけではないが、ミーティング前に朝一で持っていけばこうして連絡を貰う必要もなかったのは事実だ。

『よろしくお願いいたします。あ、こちらから伺いましょうか?』

 園田がそう尋ねてきたので、すかさず俺は申し出た。

「いえ、お待たせしたのはこちらですし、届けますよ」

 もちろん、ついでに園田の顔を見てあわよくば話ができないかと企んでのことだ。繁忙期だからこそ、こういう息抜きがないとやっていけない。

『ありがとうございます』

 彼女は不自然なくらい畏まって応じた。

 そういう園田も確かに新鮮で可愛いのだが、やはりいつもの朗らかな彼女には敵わない。あとで顔を合わせたらいつものように話をしたいと思いつつ、俺も負けじと畏まってみる。

「では後程。お忙しいでしょうが頑張ってください」

 付け足した言葉は激励のつもりでもあり、半分は冗談でもあった。園田が相手でなければこんなことは言わないし、それを彼女にも意識させたいが為に告げた。

 すると園田はまんまと吹き出し、その後で声を震わせながらあたふたと返事をした。

『は、はい。そちらもどうぞ頑張ってください!』

 きっと笑ってしまったことに慌てたのだろう。そう言った時に聞こえたのは、いつもの園田の声だった。

 俺もつられて吹き出しそうになったところで内線が切れた。受話器を置き、込み上げてくる笑いを唇を結んで堪えようと試みていれば、人事課員達に奇妙そうな顔をされてしまった。

「どうしたんです、課長。電話切るなりにやにやして」

「何かいい知らせだったんですか?」

「……いや、ただの問い合わせだよ。もちろん仕事の話だ」

 園田みたいに取り繕って答えたものの、皆からはしばらく不審そうな目で見られてしまった。

 もしかしたら広報でも、吹き出してしまった園田がこんなふうに見られている頃かもしれない。彼女は何と言って弁解したのか、少し気になる。


 実際に書類を広報まで届けに行ったのは、昼過ぎのことだった。

 ドアを開けて広報課へ立ち入ると、中には園田しかいなかった。彼女は自分の机に向かい、椅子に寄りかかりながらDTP検定のテキストを開き、更に口には三角のサンドイッチを咥えていた。俺と目が合ってもまるで悪びれることなく、ひょこっと会釈までしてみせる。

「行儀悪いぞ、園田」

 俺は咎めたが、本気でそう思っていたわけではない。

 ただ食事を取るなら取るで、机を離れて落ち着いて取ればいいのにとは思う。こんな休憩の取り方では休まらないだろうに。見れば机上のデスクトップパソコンも画面が点いたままで、作りかけと思しき社内報の一ページが表示されていた。

「ごめん、検定前だからってことで見逃して」

 思いのほか素直に、園田は自分の口から咥えていたサンドイッチを外した。俺を見る顔がちょっと恥ずかしそうで、それがまた可愛かった。

「駄目。ちゃんと本置いてから食べなさい」

 もっと恥ずかしがらせてやろうと、俺は上司のような口調で彼女を叱る。

 それから座る彼女に歩み寄り、傍らに立って見下ろした。

「昼飯くらい机から離れて食べたらいいだろ。そんなんじゃ休憩にならない」

「そうなんだけどね。食堂まで行く時間も惜しいと申しますか」

 園田もはにかみながら俺を見上げてくる。この繁忙期では社内の誰もが疲れた顔をしていたが、園田もやはり例外ではないようだ。少し目が赤い。

「忙しいからって無理して身体壊すなよ」

 今度は本気で注意を促した後、俺は本来の用件である書類を差し出す。

「これ、さっき話してた書類。遅くなって悪かったな」

 社内報に載せる退職者の個人情報だ。簡単な経歴や入退社年月日などがまとめられている。

 園田は検定のテキストとサンドイッチを机の上へ置くと、まるで表彰状でも貰うみたいに恭しく書類を受け取った。

「締め切りに間に合えばいいんだよ。わざわざありがとね」

「いえいえ」

 俺がかぶりを振ると、園田は早速書類に目を通し始めた。仕事熱心なことだ。


 その間、俺は園田の仕事場を観察する。

 同じ社内で働いているというのに、彼女の机を見るのは初めてだった。デザインを弄るからなのか、支給されているパソコンはどこの部署よりもハイスペックだ。そこから繋いだマウスは随分と小型で、小さな彼女の手に合わせたものだろう。

 メモ帳の横には八色入りのカラフルなペンセットがあり、園田はことオレンジを好んで使っているようだとインクの減り具合からわかった。自転車もあの色だから、好きな色なのだろう。DTP検定のテキストにはユーモラスな動物柄の付箋がたくさん貼られていて、彼女の検定に懸ける熱意が伝わってくるようだった。


「検定の勉強進んでる?」

 俺はそのテキストを見ながら尋ねた。

 園田が顔を上げ、曖昧に笑う。

「試験日が近づくにつれて、勉強法が本当に合ってるのかって不安になってる」

「懐かしい言い回し。学生時代を思い出すよ」

「私も。部屋で勉強してたら急に模様替えしたくなるのとか、久々だよ」

「誘惑に負けるなよ園田。それは死亡フラグだぞ」

 俺も学生時代、テスト前となると急に普段やらないようなことをやりたくなるものだった。勉強中のBGMにしようと一晩かかってマイベストを編集した時は、さすがに朝を迎えた後で死にたくなるほど後悔したものだ。園田には同じ後悔をして欲しくない。

 だからといって、ここで勉強をしながら食事というのもどうかと思う。

 俺は彼女の食べかけのサンドイッチに目をやった。さっきまで園田が咥えていたのはツナサンド、その他に未開封のBLTサンドもある。俺も昼飯がまだだったから、腹が減ってきた。

「お前、弁当作りはもうやめたのか」

 これが弁当だったら、彼女の手料理を一口いただくこともできたのだが。俺の問いに、園田はなぜか勝ち誇って答えた。

「一時中断。真夏だといろいろ怖いし、忙しいしね」

 だがその後で、園田は思い出したように笑ってみせた。

「でも小野口課長は夏場でも毎日お弁当なんだよ。朝だって早いのにすごいよね」

「愛妻弁当だろ? 聞いたことある」

「そう。見られると恥ずかしいから、食堂の隅でこっそり食べるんだって」


 小野口課長が日々持参する愛妻弁当は、社内でも密かに噂となっていた。

 お重のような大きな弁当箱を持ってきているという話だが、誰も真偽の程を確かめられていない。園田の言う通り、小野口課長はその愛妻弁当を人に見られるのがどうも恥ずかしいのだそうだ。女の子の手作り料理に飢えている身としては、羨ましすぎて気が滅入るほどだった。


「奥様はお店開いてるんだから、きっとお弁当もすごいのだと思うんだけど」

 園田もその弁当が気になるのか、目を輝かせてはしゃいでいる。

「だろうな。ちょっと見てみたいよな」

 俺は相槌を打ったが、俺としては小野口課長の弁当よりも食べたいものが他にある。

 それを知ってか知らずでか、園田が俺を見て瞬きをした。

「お昼ご飯、安井さんは食べた?」

「まだ。今が休憩中なんだけどな」

「えっ、休憩中だったの?」

 正直に答えると彼女は目に見えて慌て始めた。申し訳なさそうに眉尻を下げて言った。

「もう書類貰ったから急いでご飯食べてきなよ。と言うかごめんね、届けさせちゃって」

「どうせ今からじゃ買いに行く時間もないし、晩まで抜くよ」

 首を竦めて答える。

 会社の近くにはコンビニや弁当屋があったが、外へ出て買いに行くのは暑いし億劫だ。

 買い置きのカップラーメンもあるにはあるものの、ああいうものを毎日食べるのが辛いお年頃になっていた。早く、豆腐料理が上手な奥さんを貰わなければなるまい。

「それこそ身体壊すよ。忙しい時こそご飯食べないと駄目でしょ」

 その花嫁候補たる園田は、妙に偉そうに俺を諭した。

 心配してくれているのかと思うと、説教じみたことを言われても嬉しくなるから不思議だ。

「だから園田の顔を見に来たんだ。心の栄養を取りに」

 調子に乗って歯の浮くようなことを言ってみる。

 すると予想以上の効果を発揮したのか、園田は瞬時に茹で上がったみたいに顔を紅潮させて、そのくせ細い眉を吊り上げた。

「変なこと言わないでちゃんとご飯食べなよ」

 そして机の上の、まだ未開封の方のサンドイッチを俺の手に押しつけてくる。

「よかったら食べていいよ。コンビニのでよければだけど」

「え? 園田のだろ、悪いよ」

 園田にとっても貴重な食料に違いないのに、受け取るのは気が引けた。

 だが俺の遠慮をかわすが如く、園田はまだ赤い顔で続ける。

「私、サンドイッチに飽きてきたとこなんだ。やっぱ豆腐じゃないと駄目みたい」

 それは嘘でもなさそうだ。

 俺も腹は減っていたし、貰えるならありがたい。園田が俺を気遣ってくれたことも嬉しい。開けてない方じゃなくて、そっちの食べかけのツナサンドでも全然構わなかったんだが――と言うとさっきの比じゃなく怒られそうなので今回はやめておく。

「それなら貰う。助かった」

 心を込めて礼を告げると、彼女はわずかに表情を解いた。

「いえいえこちらこそ。美味しく食べてね」

 可愛いことを言うなと思う。是非とも後程、美味しくいただきたいものだ。

「そうするよ、二重に栄養をありがとう。やっぱり園田に会うと違うな」

 駄目押しのように言った言葉はさすがに看過されなかったようだった。園田は軽く俺を睨む。

「そろそろ行ったら? 東間さんがもうすぐ休憩から戻ってくるだろうし」

 潮時かと、俺も彼女に軽く手を挙げた。

「じゃあ行くよ。またな、園田」

 園田が黙って頷いたので、俺は踵を返し、廊下へ続くドアを開けようとした。


 そこでタイミングよくドアノブが回り、廊下から誰かがドアを開けた。

 廊下に立っていたのは、噂をすれば東間さんだった。

 俺を見るなり形のいい瞳を瞠り、軽く声を上げた。

「あっ。いらしてたんですか、課長」

「ええ、お邪魔しました」

 俺が控えめに応じると、東間さんは今まで見たこともないほど明るく微笑んだ。

「はい。またいつでもいらしてくださいね」

 まるでこの後、何か楽しいことでも待っているみたいに瞳が輝いていた。

 会釈を返して戸口ですれ違う。俺が廊下へ出てドアを閉めると、しばらくして広報課内から女性二人の賑々しい会話が聞こえてきた。

「ち、違うんですよ今のは。単に人事の方に必要な書類を届けてもらっただけで!」

「私まだ何も言ってないけど。え、まさかここで何かしてたの?」

「してないですっ!」

 中で園田がどんな顔をしているか、ありありと目に浮かぶようだ。

 だが東間さんがどんな顔をしているかはまるで想像もつかないし、正直に言えばあの人が園田をああやってからかっているのが意外だった。

 舞い戻って二人のやり取りを眺めてみたい衝動にも駆られたが、そうもいくまい。

 俺は俺で東間さんに負けないくらい、園田を赤面させてやればいいだけの話だ。


 貰ったサンドイッチ片手に、俺はいい気分でその場を立ち去った。

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