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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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あの日から始まった(5)

 あの頃、俺は、園田を幸せにしていると思っていた。

 好きになった子を幸せにしたいなんて、男なら誰でも普通に思うことだ。俺もその普通の感覚を当たり前のように持っていたはずだし、その為にできることを俺なりに果たしてきたつもりだ。俺と一緒にいる時の園田はいつも楽しそうに笑ったり、真っ赤になって拗ねたり、時々幸せそうにはにかんだりしていた。

 俺だって彼女には言葉も、行動も尽くしたはずだ。園田のことを好きだとはっきり告げていたし、それ以外の行動にも疑念を持つ余地はないだろう。まさか園田が俺の心を、完全にではないにせよ信じてくれていなかったとは――。

 だが、考えてみれば四年近く前の話だ。ただでさえ美化しやすい人間の記憶が完璧な正確さで残っているとは言いがたい。俺が園田の為にとしてきたことの数々が、彼女にとってはそうは見えなかったのかもしれない。男の下心ゆえの行動だとでも思いながらそ知らぬふりで付き合ってきたのだとしたら悲しいことだ。

 いや、もっとたちの悪い考え方をしていた可能性だってある。

 ただの同情、優しさからそうしていたと思われるのが、一番辛い。


 皮肉な話だが、そう考えれば腑に落ちることもある。

 会えない日が続いた後に迎えた園田の誕生日。日付が変わってから会いに行った俺の前で泣き崩れた彼女は、しきりに俺に謝り、自らを責めることばかり口にしていた。俺がどんな言葉をかけても泣き止むことはなかった。

 あの日の卑屈さが彼女の疑念にあったとすれば何もかもが納得できた。園田は俺がなぜ自分と付き合っているのかわからなくて、でも朗らかな彼女なりに『それでもいい』と思っていたのだろう。普段はその理由を考えることもなく、俺といる時は本当に心から楽しんでいてくれたのかもしれない。だが会えない時間が続き、彼女が寂しさに蝕まれていくうち、ずっと考えもしなかった当初の疑念がふとよみがえり、頭をもたげた――。

 別れ話をした日、園田は俺を『優しい』と評した。

 俺が優しいから彼女を責めないのだと、そう思っているようだった。

 その言葉を俺は、誕生日に取った行動から来るものだと思っていたが、問題はもっと根深いところにあったのだ。

 途方もない気分だった。

 俺はあの日々の間、一体何をしてきたのだろう。

 園田の為にとあれこれ尽くしたつもりでいたが、今振り返ればそのうちの何割かは、彼女のあずかり知らないところで行われたものだった。合鍵を用意したのも、彼女の新しい服に似合うように腕時計を購入したのも、同居人の弟を追い出す算段をしたのも、森林公園で撮った園田の写真を手帳に挟んで持ち歩いては時々眺めていたことも――全て、園田は知らないことだ。

 そんなことで伝わるわけがない。

 俺達はずっと、始まりだったあの日から既に大きくすれ違っていたのだ。


 後部座席の園田は俯いている。

 エンジン音が消えた車内でも呼吸が聞こえてこないほど、ひっそりと静かにしていた。

 あまりにも深く俯いているから彼女の可愛いつむじが見えるほどだった。さらさらときれいで柔らかい髪に、止めた車の傍に立つ街灯からの光が当たり、つややかに輝いている。俺はその髪を撫でたくてたまらなかった。

 でも同時に、今の彼女の顔を見たいとも思っていた。

 だから静かに名前を呼んだ。

「園田」

 俺の声はかすれもせずはっきりと聞こえたはずだが、園田はわずかに肩を揺らしただけで顔を上げることはなかった。

 密かに息をつき、もう一度声をかける。

「園田。顔上げて」

 それで園田は尚も抵抗を示すように、のろのろと面を上げた。

 その顔は意外にも、真っ赤になっていた。

 外から差し込む街灯の明かりだけでわかるほど、園田は赤面していた。なぜか、というのは表情からわかった。彼女は俺と視線を合わせようとしないし、微かに潤んだその目は落ち着きなく泳いでいる。

「顔真っ赤だ」

 俺が思わず指摘すると、園田はすかさず両手で自分の顔を覆った。

「見ないで。恥ずかしさで死ねる」

 その言葉と仕種が彼女らしくて、俺は見られていないのをいいことに少し笑ってしまう。

「そんな死に方は聞いたことない。大丈夫だよ」

 園田が恥ずかしがるところは今までに何度も見たが、その度に彼女は無事だった。心配は要らない。

「でもさあ……そんなに早くから両想いだったなんて知らなかった」

 おずおずと顔を上げた園田が弱々しく嘆いた。

「知ってたらありがとうってちゃんと言ったのに。今更過ぎるよ、その情報」

 彼女はあの日、俺に『ありがとう』をちゃんと言っていた。

 だがそう言ったということは、あの時の礼はそういう意味合いではなかったのだろう。付き合ってくれて、とか、告白を受け入れてくれて、みたいな見当外れのお礼だったのだろう。俺と園田の認識がこんなにも乖離していたなんて考えもしなかった。

 あの日のことなら、礼を言うのは俺の方だった。俺は園田に恋をしただけではなく、すんなりと許してくれた彼女に救われてもいたからだ。

 ただ、もっと自信は持っていて欲しかった。付き合おうなんて、どうでもいい相手に言ったりはしないのに――いや、俺の言葉が足りなかったのか。

 あの時、人目を気にすることなく、もっとわかりやすく言ってしまえばよかったのか。

 でもあの時は急ぐ必要があった。言葉を選んでいる余裕もなかった。

「俺だって、好きになったその日に相手から告白されるとは思ってなかった」

 記憶を手繰り寄せれば、まるでつい昨日の出来事のように蘇る。

 俺の言葉に、園田が目を瞬かせた。

「びっくりした?」

「びっくりした。結構慌てた」

 正直に答えたつもりだったが、彼女は疑わしげに眉を顰め、唇を尖らせた。

「嘘だ。超冷静だったし即答してたよ」

「返事してから慌てたんだよ。別れ際のぎりぎりのところで言われたから」


 次の誘いを断られて、ならどうしようかと考える暇さえなかった。

 不意打ちだった。女の子に告白される状況には慣れていた俺が、虚を突かれて慌てるほどだった。

 しかもあの時の園田は端から諦めているみたいな様子だった。投げやりな、途方もない距離を見つめるような目をしていた。彼女はいつもそういう目をして俺を見ていたが、あの瞬間ほど胸が苦しくなったことはなかった。園田は妙に気が急いているようで、そのまま踵を返して、俺の返事を聞くこともなく、消えていなくなってしまうんじゃないかと思えた。だから俺も急いで彼女に告げた。

 じゃあ付き合おうか。

 不意を打たれて、逃げられそうになって慌てていた俺が、無様に口にした返事がそれだった。

 結果としてそれが園田に疑念を抱かせ、同時に俺を慢心させた。彼女が真っ赤になって喜んでくれたから、俺はすっかり図に乗ったのだ。


「じゃあ寄り道していこうかって言いたくてもお互いサイクリングの後で汗だくだったし、園田は自転車で来てるからってさっさと帰っちゃうし」

 園田があっさりと帰ってしまった後、駅前に取り残された俺は呆気に取られていた。

 今時高校生だってこんなに早く帰らないのに――疑念というほどではなかったが、その時は確かに少し、不安を覚えていた。

「一人になってから急に心細くなって、もしかして俺のぬか喜びなんじゃないかって何度も思った」

 でもその不安は家に帰って、彼女にメールをした後ですぐに消えてしまうようなものだった。園田はいつでも俺を不安にさせなかった。いつでも深く、真剣に俺を想ってくれていた。

 俺は同じだけのことを、園田にしてやれなかったのだろう。ようやく、そのことがわかった。

「俺達、最初の段階から全力ですれ違ってるな」

 実感すると溜息しか出ない。肺が空っぽになるような深い息をつき、俺はぼやいた。

「本当だね。ことごとくすれ違ってる」

 園田もくたびれたように肩を竦めている。

 彼女も、いくらかは悔やんでくれているだろうか。俺への疑念から別れを選んだことを。俺の本心がわかっていればあの時別れずに済んだのにという考えが、今でも、あるいはこれからでも、胸をかすめることがあるだろうか。

 そうだとしたら、俺達はやり直すことができるだろう。

「これはもう、やり直すなら本当に一からやり直すしかないな」

 俺は彼女に言い含めるように、彼女にもそう思って欲しいという意思を込めて告げた。

 園田は奥二重の瞳に光を浮かべて俺を見つめていた。唇は重く、次の言葉が出てくるまでにしばらくかかった。

「やり直すって、どの辺から?」

「最初から」

 間髪入れずに俺は答える。

 途中からなんていい加減なことをすればまたすれ違ってしまうかもしれない。俺達は最初からやり直して、お互いの気持ちを疑いようもないほど深く知っておく必要がある。あの頃俺が園田について、どんなことを思い、行動していたか。何もかもを彼女に知ってもらいたい。

 その為にすべきことは――まず、あれだ。

「とりあえず、園田。花火を見るところから始めようか」

 そう切り出した俺を、彼女は怪訝そうな顔で見つめ返してくる。

「何で花火?」

 聞き返す声も実に不思議そうだった。

 無理もない。園田は俺が彼女を花火に誘おうと考えたことなど知る由もないのだ。

 俺だって口にしたこともなかった。あの頃はもっと先の、未来の話だと思っていて、だが俺はその未来が必ずやってくるものだと信じて疑わなかった。

 訪れなかった未来を、俺達は今、まるごとやり直してしまえばいい。

「どうしても」

 俺は強く念を押すように答える。

 園田は納得がいかないようだ。

「やり直すんだったら、してないことまでするのはおかしくない?」

「おかしくない。とにかく俺は、どうしても花火が見たいんだ」

 今ここで理由をぺらぺら説明したところで、やり直したことにはならない。どうせなら花火を見ながら話したかった。その方が、雰囲気もいい。

 あの頃できなかったことを、是が非でもやり直す。

「そう言うけどさ……」

 彼女は、嫌だとは言わなかった。ただ迷っているのか、こちらの顔色を窺うように恐る恐る言ってきた。

「多分、その時期残業あるから。だから無理かもしれないよ」

「無理じゃないだろ、会社で見るんだから」

 俺は彼女の懸念も迷いも笑い飛ばした。

「屋上へ出よう。見られることはもう誰かさんが実証済みだ」

「本気で言ってるの? 屋上とか、大丈夫?」

「大丈夫も何も。園田も五分くらいなら休憩がてら出てこられるだろ」

「そりゃ、まあ……」

 園田はまだ迷っている。表情でわかる。

 だが俺が一歩も引きさがらないと察してか、やがて小さく頷いた。

「五分でいいなら。と言うか、その日休憩取る余裕があったらね」

「わかった、それでいい。約束だ」

「う、うん……できたら、だからね?」

「是非、できるようにしてくれ。仕事熱心な園田なら大丈夫だろ?」

 俺がわざと煽るようなことを言うと、園田は複雑そうに微笑んだ。

「頑張るけど……。やっぱり、わかんないな。どうして花火?」

「どうしてもって言っただろ」

 今はまだ答えるつもりもない。俺が笑って押し切ると、園田は諦めたのか、あるいは困り果てているのか、もう一度肩を竦めてみせた。

「何か、安井さんのことで私が知らないことって、もしかしてたくさんあるのかな……」

 きっと、そうだろう。

 園田はまだ俺のことを全て知っているわけではない。そういうものを少しずつ伝え、教えていくことが、やり直すということなのだと思う。俺があの頃、伝えられなかったこと、伝わらなかったことも含めて、園田に知ってもらえたらいい。


「じゃあ、またね。安井さん」

 どことなく釈然としない様子の園田が、後部座席のドアを開ける。

 結局、花火のことは消極的ながらも了承されたようだ。園田はあれ以上の反論をしてこなかったし、俺もそれをいいことにしつこいくらい約束を強調した。今も言っておく。

「ああ、おやすみ。花火のこと、約束したからな」

 園田は首を傾げたのか、頷いたのか、とにかく少し頭を動かした。

 それからちょっとだけ笑って、言った。

「あと……ありがと。送ってくれて」

「このくらい、いつでもしてやるよ」

 俺の返事をどう思ったか、園田は何も言わずに車から降りた。でもドアを閉めてから身を屈めて、窓ガラス越しにこちらを覗き、小さく手を振ってきた。その時の顔は微笑んでいるように見えた。

 そして、彼女がアパートの階段を上がっていく姿を見送った後、俺は一人で帰宅の途に就いた。


 部屋へ戻るまでずっと、俺の頭の中にはある一つの事柄だけが占めていた。

 それは園田に贈ろうと思っていた腕時計のことだ。

 付き合い始めてから初めて迎える彼女の誕生日だった。どうせならずっと身に着けてもらえる、そして見る度に俺を思い出してもらえるようなものがいいと思った。そこでデート用にと今までの手持ちとは違う服を買い揃え始めた彼女に似合うような、上品な細い革ベルトの腕時計を購入した。結局それを渡す機会は訪れず、その年の一月十日は『付き合いだしてから迎える最後の誕生日』になった。

 園田に関わる、俺の手の中に残されたものの中で、それ以外の品については所在をきちんと確認していた。彼女の写真はあれから何度も見返しているし、失くさないように机の引き出しにしまい込んである。彼女の為に作った合鍵は日の目を見ることこそなかったが、失くしては別の意味で大事だ。こちらもきちんと保管していた。

 だが腕時計だけは、あれから姿を見ていなかった。

 俺はあれを、どこにしまっただろう。


 心当たりはあった。

 と言うより俺は、思い出の品はいつも机の引き出しにしまっている。いい思い出もそうではないものも、何度も見返したいものも二度と見たくないものも全て、俺の部屋の机の引き出しの中にあった。多分そこへ放り込むことが癖になっているのだろう。

 机の引き出しの最下段、一番大きな引き出しを開けると、背表紙を上にしたファイル類に紛れて見覚えのある包みが現れた。四角い箱を包装紙で覆った、購入した時のままの腕時計だ。

 あれから包装を解くこともないままここへ放り込んでいた。

 そして忘れたふりをして、ずっとそのままにしておいた。


 デザインを吟味して購入した腕時計だが、もう三年も前のモデルなら今更贈っても喜ばれないだろう。だが捨てるには惜しい気もしたし、だからといって誰かにくれてやる気はなかった。

 少し迷ったが、今こそ過去と決別し、同じ轍を踏むことのないようにしようと――俺は腕時計の包装紙を剥がした。

 さすがに三年が過ぎれば、腕時計の電池は切れていた。革ベルトは新品らしい硬さで、傷一つ、皺一つなくなめらかなままだ。埃すら落ちていない透明な文字盤を覗けば、時刻は四時を指していた。夕方なら、高校生でもまだ帰らない時間だ。

「止まってるな……」

 思わず声に出して呟いた。

 長針も短針も、秒針もぴくりとも動かない。

 だが、せっかくこうして日の目を見たのだ。近いうちに電池を入れ替えて動くようにしてやろう。

 そしていつか、園田に見せよう。

 あの頃渡せなかったプレゼントとして、お互いのかつての過ちを笑い飛ばすつもりで――古い腕時計は彼女の腕を飾ることはないだろうが、新たな思い出を刻むことはできるだろう。

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