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ナインカウント  作者: 森崎緩
本編
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小さな記憶(1)

 一月十日、私は一つ歳を取る。

 今年で二十八歳だ。その年齢に対する、感慨やら思う節やらは特にない。去年もそうだったし、来年だってきっとそうだろう。


 真冬の朝は布団から抜け出すのも一苦労で、タイマーをかけた暖房がきっちり仕事をしてくれるまでは起きる気にもならない。

 ようやく部屋が暖まったところで毛布ごと布団を離れ、ずるずる引きずりながら窓際まで歩いていく。遮光カーテンをひょいとめくれば、曇った窓ガラスの向こうに雪がうっすら積もった街並みが見えた。ホワイトクリスマスならぬホワイトバースデイ。もちろん全然嬉しくない。

「雪か……ついてないな」

 自転車通勤の身には一面の銀世界なんてありがたくも何ともない。もちろん雨だって嫌いだ。ほどほどに晴れてる日が一番いい。紫外線は怖いけど。

「電車、空いてるといいけど……無理か。この天気じゃ」

 声に出してぼやいても、1DKの部屋に返事をしてくれる人がいるはずもない。

 一人暮らしを始めてからもうじき九年になる。実家にいた頃よりも独り言が多いのはそのせいだ。呻こうが嘆こうが慰めてくれる相手はいないけど、鼻歌が調子外れでも誰にも笑われないのはいい。景気づけに一曲、誕生日の歌でも歌いながら朝ご飯にしよう。

 せっかくの誕生日なんだから、せめて自分くらいは祝ってあげないとね。


 一月十日生まれだから伊都、というのが私の名前だ。

 あまりにも安直というか適当すぎやしないかと思う名づけ方が、そのまま私の性格と人生の象徴と言ってもいい。安直、適当、深く考えない。今までもその場の思いつきと気分だけで何となく生きてきて、それでも不幸だと思ったことはない。短大出てすぐに入った会社で既に勤続八年目だけど、残業が多いことを除けば不満もないし、自己評価では上手くやってきたと思ってる。彼氏はここ三年近くいないけど、まあいなきゃいないで困るってほどでもない。一人暮らしは気楽だし、だらだらできるからいい。誕生日だって一人で祝うつもりでいる――甘い物控えてるところだから、ケーキは食べられないけどね。

 ともあれそんな調子で特に可もなく不可もない私の人生だけど、目下一つだけ大きな変化が起きつつある。

 仕事始めの数日前、新年の挨拶もそこそこに四月からの異動が決まった。

 行き先は総務部広報課。今は秘書課勤務で、同じ総務部だし部署も一続きの部屋をパーテーションで区切ったところにある非常に近距離の異動ではあるんだけど、環境が変わるっていうだけで緊張するものだ。今まで通りの気楽な日々が維持できるかどうかの瀬戸際だから、早いとこ仕事覚えて、新しい上司や同僚とも仲良くやってかないといけない。気楽な独身生活は日々の地道な労働によってのみ支えられているのです。食い扶持を稼がないことには今の幸せだって保てないのです。

 差し当たっては去り行く秘書課へ汚点を残すことのないよう、引き継ぎ業務に勤しみたいところであります。


 出社の為に乗り込んだ電車は案の定混み合っていた。

 誕生日だからといって席を譲られるとかそういうことも当然あるはずはなく、押し合いへし合いしながら会社最寄の駅まで運ばれて、よれよれしながら駅舎を出る。これだから電車通勤は苦手だ。せっかく着てきたコートが既に暑くてたまらない。

 それでも外は未だに雪が降り続いていて、すぐに首筋がひやっとした。路面は無数の足跡が踏み荒らした後できれいでもなんでもなかったけど、歩きやすいのはありがたい。

 履き慣れないブーツで職場までの道をせかせか歩いていると、まだ開店前のケーキ屋がふと目に留まる。ショーウインドウには『一月のケーキフェア』と題していちごのタルトやロールケーキなどのサンプルが飾られていた。何で冬にいちごかと思ったら、一月五日はいちごの日だからだそうだ。私の名前並みに安直で逆に好感が持てた。

 やっぱり食べようかな、ケーキ。

 いやいや、ダイエット中だって言ってるのに。

 私は揺れ動く思いを持て余しながらケーキ屋の前を通り過ぎる。


 お気楽主義者の私は普段ならダイエットなんてしないんだけど、今ばかりは特別だった。

 来月の頭に職場の後輩、長谷さんの結婚式があるからだ。

 結婚式では当然花嫁さんが最も美しくあるべきだけど、招待客としてみっともない格好はしていけない。ちょうど姉が着なくなったサテンのパーティドレスを譲ってくれたので、それがすんなり入るようにと自己鍛錬の真っ最中だった。というわけで甘い物は厳禁、生クリームたっぷりのケーキなんてもってのほかだ。

 でもこんな時じゃないとケーキなんて食べないし、誕生日くらい、という気持ちもなくはない。誰に祝われる予定があるわけでなし、自分くらいぱーっと祝ってあげないと誕生日らしくない。後輩の結婚式も大事だけど、自分の記念日だって大事じゃないだろうか。

 歩きながら散々考えて――決めた。

 今日のお昼ご飯をケーキにしよう。そしたらカロリーオーバーしないし、食べたいものも食べられて一石二鳥だ。誕生日くらい自分に甘くてもいいよね。いつも激甘かもしれないけど、まあとにかく。


 そうと決まったら善は急げ。職場近くのコンビニを目指して歩みを速めた私の横に、誰かの影が差し込むように並んだ。

 その気配に思わず振り返ったのと、低い声に呼びかけられたのとはほぼ同時だった。

「園田、おはよう」

 聞き慣れた同僚の声に、私もちょっと笑って応じる。

「あ、安井さん! おはよう、偶然だね」

 安井さんは男らしい涼しげな目元を軽く微笑ませてから、私の隣に駆け寄ってきた。

「園田が自転車乗ってないのが珍しいんだよ。今日は電車?」

「うん。こんな天気じゃ危ないからね」

 私が頷くと、安井さんは私に歩調を合わせて横に並ぶ。身長の差は十五センチあるかないかで、顔を見ようとすると少しだけ見上げる格好になる。そして見上げた途端に安井さんもこちらに目を向けて、憂鬱そうな顔をした。

「思ったより降ったからな。おまけに寒いし、出勤するのが億劫だよ」

「そうだね。自転車だったらあっという間だったのに」

 今日は電車だからブーツなんて履いてこなくちゃいけなかったし、帰りも同じように電車で帰ることになる。退勤が何時になるかはわからないけど、億劫だという彼の言葉には心から同意できた。

「にしても、今日は珍しい格好してるな」

 安井さんの目が少し下に降りて、私の服装に留まったようだ。

「そのコート、園田にすごく似合ってる」

 気負った調子もなく、さらりと私を誉めてきた。膝下丈のブーツとファー付きのモッズコート、どちらも自転車通勤の時には使わないものだ。そういう変化を目敏く見つけてくるところが安井さんらしい。

「ありがとう。安井さんも格好いいよ、今日の服装」

 私もお返しとして彼を誉めておく。


 今日の安井さんはスーツの上にグレーのチェスターコートを着て、黒いマフラーを巻いていた。身体の線に寄り添うようなチェスターコートのラインが、きれいに出ていて様になっている。

 それでなくてもこの人は、十人に聞いたら七、八人は確実に『格好いい』と認めるような容姿をしている。人目を引くようなとびきりの美男子というわけではないけど、一つ一つのパーツがよくできているという感じだった。例えば頭の形がいいから潔いベリーショートがとてもよく似合っているし、目鼻立ちがすっきりしているおかげで涼しげな顔立ちに見える。スタイルと姿勢がいいからスーツも素晴らしく似合う上、とても真面目で仕事のできる男という印象が全体から滲み出ている。

 実際、仕事はできる人だと思う。安井さんと私は同期入社だけど、彼は既に人事課長にまで昇進していて、同期の中では指折りの出世頭だ。

 仕事以外の面でも真面目かどうかはともかくとして――私も他人のことを言えた義理ではないけどね。


「園田が普通に誉めてくれるなんて、だから雪がこれだけ降ったのかもな」

 とりあえず口がいいとは言えない。こんな憎まれ口を叩いてくる辺り、もう三十歳のくせにノリが時々男子高校生みたいになる人だった。

 もっとも、二十八歳の私は憎まれ口くらいでいちいち腹を立てたりしない。大人らしい態度で溜息をついた。

「どう考えても雪の方が先に降ってたよ。私のせいじゃありません」

「そのくらい天気の神様はお見通しなんだよ」

「私が安井さんを誉めるかも、って雪降らせたって言うの? あり得ないね」

「雪を降らされたくなかったらいつも誉めとけ、って言ってるんだよ」

 誰が。天気の神様が? と言うか天気の神様って何なんだ。全くああ言えばこう言う人だ。

 私は肩を竦める。

「安井さんなら人から誉められ慣れてるでしょ? わざわざ私が言及するまでもないと思っていつもは言わないんだよ」

 そう言ったら何となく恨めしげな目を向けられた。

「普段から言えよ。減るもんじゃないんだから」

「減るよ。気力と体力が」

「人をちょっと誉めるだけでどれだけ磨り減らしてるんだよ」

 安井さんが笑うと、白くなった息が雪降る中に溶けていく。

 私はそれを横目に見つつ、前方、道の先にようやく見え始めたコンビニの看板に安堵していた。そろそろ切り出そうか、あんまり早いと失礼かな、とタイミングを見計らっていると、安井さんがまた口を開く。

「霧島と長谷さんの結婚式、園田も出るんだろ?」

「うちの課は全員招待されてるからね。もちろん出席するよ」

「いいな、人事からは俺一人だけだよ」

 寂しいとでも言いたいのか、安井さんは妙に拗ねた口調で言った。

「でも営業の人達も全員出席なんじゃないの?」

 私が切り返したら、そうだけど、と笑いながら目を逸らしていたものの。

「俺なんてもう営業の人間じゃないからな。疎外感が半端ない」

「何言ってんの。石田さんと未だにマーベラス仲良しだって社内で噂になってるよ」

「噂って何だよ……。そのちょっと意味深な言い方やめろよ」

「気のせい気のせい。と言うか、疎外感っていうのもそうだよ、多分」


 今でこそ人事の安井さんも、何年か前までは営業課にいた。入社してすぐに配属されたのが営業だったから、私としても安井さんは営業の人ってイメージがまだ根強く残っている。

 そして今回結婚する長谷さんの旦那さんになる人が、営業課の霧島さんという人で――私が新婦の先輩であるように、安井さんは新郎の先輩に当たるというわけだ。安井さんと霧島さんはプライベートでも親交があるらしく、今回結婚式への招待をしたのだと長谷さんが言っていた。つまり疎外感なんてあるはずがない。

 ちなみに話に出てきた石田さんというのも、私とそれから安井さんの同期で、現在の営業課主任だ。安井さんとはものすごーく仲がよくて、入社当初からお笑いコンビの相方的な扱いをされていた。石田さんと一緒にいる時の安井さんは男子高校生のノリが加速して大変なことになる。

 昔は安井さん、それから石田さんとも、同期のよしみで飲み会をすることがよくあった。でも今や安井さんも石田さんも私も、そして他の同期入社の面々もそれぞれに忙しくなってしまって、そういうふうに集まることはすっかりなくなってしまった。

 そういう集まりの時、幹事をするのはいつも私と安井さんだった。


 ぼんやりと思う私をよそに、安井さんは話を続ける。

「式の話聞いたか? レストランウェディングだそうだ」

「うん、お料理はかなりいいって聞いたよ。楽しみだね」

「まあな。でも俺は、新郎の緊張ぶりの方が楽しみだよ」

「緊張しちゃう人なの? 霧島さんって」

「最近はそうでもないけどな。何せ人生の晴れ舞台だから、どうだか」

「ふうん……。でも長谷さんはしっかりしてるから、大丈夫じゃない?」

 そんな会話を続けるうち、安井さんがふと尋ねてきた。

「式場遠いけど、何で行く?」

「うちの課の皆でタクシー乗り合い。安井さんは?」

 私が聞き返すと、安井さんはマフラーを巻いた首を竦めた。

「石田と一緒に行くことになってる。あいつ、カメラ係やるから少し早めに行くって言ってたな」

 やっぱり仲良しじゃんというツッコミを堪え、私はこのタイミングで切り出した。

「ごめん。私、コンビニ寄ってくからここで」

 ちょうどコンビニの高い看板と手狭な駐車場がすぐ目の前にあった。

 安井さんには唐突なタイミングだったのか、その時少し驚かれたようだ。でもコンビニの存在をちらっと確かめてから、すぐに頷いてきた。

「ああ。じゃ、また後で」

「うん、またね」

 私も軽く手を挙げて、それからコンビニの入り口へと歩き出す。

 お店の自動ドアがすうっと空いて、冬期間らしい暖かい空気とおでんの匂いが溢れ出てきた時、私は一瞬だけ振り返った。

 そして遠ざかっていく安井さんの、チェスターコートを着た背中を盗み見た。

 すっかり普通に世間話する仲になっちゃったなあ、なんてしみじみ思う。


 あの人が私と昔付き合っていたなんて、多分、誰もが思うまい。

 誰にも言わない約束だったから、知っている人もいないだろう。なかったことになったと言っても過言ではないのかもしれない。

 そして安直かつ適当な私は、その状態をありがたく受け入れることにしている。


 上手くいく社内恋愛もあればそうでないものもある。

 それだけの話だった。

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